第一話 さしずめ、安定の崩壊
私は、運命という言葉を信用していない。そこには根拠がないからである。
例えば、大学の同じ研究室に配属された二人が交際を始めれば、周囲は「運命の出会いだったんだね」と囃し立てる。
けれど実際には、同じ大学を受験し、同じ学科を選び、同じ研究室を希望した結果である。さらに、二人の間には、他人には知れない、赤い糸を繋ぐための努力があったかもしれない。そこには無数の選択と、条件がある。
それらをすべて省略して運命の一言で片づけるのは、いささか雑であって、また、後のための学びにも繋がらないと、私は考えるのだ。
四月から働く会社についても、同じことが言える。
磐葉技研。
医療・環境分野を中心に、研究機器や分析装置を開発する中堅企業である。業界最大手ではない。一般的な知名度も、それほど高くない。
それでも私は、会社説明会へ足を運び、公開されている業績を調べ、研究開発費の比率を比較し、勤務地と給与と福利厚生を表にした。その結果、最終的に磐葉技研を選んだ。
内定者懇親会で、人事担当者からはこう言われた。
「数ある会社のなかで当社と出会えたことも、何かのご縁ですね」
私は笑って頷いた。社会人になるにあたり、こんなところで個人の思想をぶつける必要がないことくらいは、理屈屋の私でもわかるのである。
「感じの良い新人の女」を演じることが、ここでの最善の選択である。
なんにしても。
人生は、選択の積み重ねだ。
少なくとも、自分に選べる範囲では、なるべく条件のよい方を選ぶ。そのために情報を集め、考え、準備する。
そうすれば幸福になれる、とは限らない。ただ、不幸になる確率はおそらく下げられる。人生で大事なのは、まず、守りである。
大学を卒業して数日後。
私は一人暮らしをしていた部屋を引き払い、実家へ戻っていた。
入社式までは、あと五日。
自室には封をした段ボール箱が積まれ、その一番上に磐葉技研の社名が入った封筒が置いてある。提出書類に不足がないことは、すでに三度も確認済みだ。
「義亜乃、買い物に行くけど、何かいる?」
一階から、私の名を呼ぶ母の声がした。
「特にないでーす」
「そうだわ、通勤経路。神社の前を通るなら、御挨拶のお参りしてきたら? 就職がうまくいきますようにって」
「今更、会社の中身が良くても悪くても、もう手遅れじゃない?」
「意外と、そういう行動が、最後の自信とか、拠り所になったりするものよ」
なるほど。マインドセットが目的ということなら、一理あるかもしれない。
私は机の上に広げていた入社案内を閉じ、立ち上がった。
「では、私自身の心構えのため。実利を求めて神頼みに行ってきます」
「はいはい。神様にもよろしくね」
神様と面識はない。
そう答える代わりに、薄手の上着を羽織った。
実家の近くにある、小さな神社。
住宅地の端、低い山の麓に、鎮守の森だけが取り残されるようにして建っている。名のある観光地でもなければ、特別な御利益があるわけでもない。私にとっては、子供の頃、夏祭りで綿菓子を買ってもらった記憶がある程度の場所だ。
その日は厚く曇っていた。
今年の桜はすでに盛りを過ぎ、風が吹くたび、淡い花びらが道の端を転がっていく。
私は石段を上り、鳥居をくぐった。参拝客は誰もいない。
手水舎の水面に木々の緑が映っている。本殿の鈴緒が、風もないのにかすかに揺れた。
からん。
鈴が鳴る。
私は足を止めた。
音は小さかった。 鳥が触れたのかもしれない。鈴緒には動いた名残があるが、屋根の上にも枝にも、それらしい姿は見当たらない。
偶然だろう。そう判断して、本殿の前まで進む。
母に言われたからには、一応、参拝しておくことにした。賽銭を入れ、鈴緒に手を掛ける。
その瞬間。
ぞくりと、指先が冷えた。
「……え?」
三月の終わりにしても冷たすぎる。
金属製の手すりを真冬に素手で握ったような冷気。
反射的に手を離した私の前で、もう一度、鈴が鳴った。
からん。
今度は頭上ではない。
ひどく遠くから聞こえた気がした。
私は周囲を見回す。
境内に変化はない。苔むした石灯籠も、散りかけた桜も、古びた木造の社殿も、そのまま。
けれど、先ほどまで聞こえていたはずの音が、消えていた。
車の走る音。住宅地から聞こえる子供の声。電線に止まっていた鳥の鳴き声。風が木の葉を揺らす音さえない。
完全な無音ではなかった。
聞こえるものが、一つだけある。
水だ。
どこかで、大量の水が流れている。
この神社の近くに川はない。
私はスマートフォンを取り出した。画面は表示される。時刻は午後三時十二分。圏外になっていた。
「通信障害……?」
口にしてみたものの、それは周囲から生活音が消えた理由にはならない。
状況を確認しようと、本殿へ背を向けた。
石段の先にあるはずの住宅地が、消えていた。
代わりに広がっていたのは、薄闇に沈む森だった。
私は動けなかった。
驚きすぎると、人間は叫ぶこともできないらしい。
鳥居はある。石段もある。
しかし、その向こうに街はない。電柱も、道路も、家々の屋根も見えない。鬱蒼とした木々の奥を、白く光る水が流れている。
水音の正体は、あれだろう。
分かったのは、それだけだった。
私はスマートフォンのカメラを起動し、森へ向けた。画面にも同じ景色が映る。
錯視ではない。少なくとも、私の視覚情報と機械が記録する情報は一致している。
次に、本殿の裏へ回ることを考えた、が。
やめた。
不用意に移動すれば、現在地を見失う。元の場所に戻れる可能性があるとすれば、この鳥居か、本殿か、先ほど鳴った鈴だ。
私はもう一度、鈴緒へ手を伸ばした。
指が触れる直前、黒い染みのようなものが、その表面を走った。
生き物ではない。
液体にも見えたが、下へ落ちずに鈴緒を這い上がっていく。墨汁に似た黒が、重力を無視して細い縄を伝い、鈴へ吸い込まれた。
三度目の音が鳴る。
からん。
景色が傾いた。
足元の石畳が、水面のように波打つ。
私はとっさに鳥居の柱へ手を伸ばした。指先が触れたはずなのに、何も掴めない。赤い柱を手がすり抜け、そのまま身体が前へ倒れる。
落下する。
そう理解した時には、足元に地面がなかった。




