第98話「二人、生まれた――四人家族になった日」
第98話です。
今回は、ついに出産回。
予定帝王切開の日が決まり、前夜から創も璟瑶も緊張した時間を過ごします。
そして当日。
条件付きで帝王切開への立ち会いを許された創は、璟瑶のそばでその瞬間を迎えることに。
息子と娘、二人分の産声。
長く秘密を守りながら歩いてきた二人が、ついに「四人家族」になります。
月曜日。
午後三時十二分。
東京都内。
高峰レディースクリニック。
病棟、個室。
「……」
欧陽璟瑶・四十五歳は、ベッドの上で二人分の心拍を聞いていた。
腹部には、胎児心拍と張りを確認するためのセンサーが装着されている。
一つは息子… もう一つは娘。
規則正しい二つの音が、病室に響く。
しかし、お腹の張りは、ここ数日で少しずつ増えていた。
高峰澪奈・四十九歳は、モニターの記録と検査結果を一つずつ確認する。
血圧。
採血結果。
浮腫。
張りの頻度。
二人の心拍。
超音波で確認した成長と胎位。
「欧陽さん」
「はい」
「お二人とも、現時点では安定しています」
璟瑶が小さく息を吐く。
「よかった」
「ただし、ここからは待ち続けることだけが安全とは言えなくなってきました」
璟瑶の表情が変わる。
「予定帝王切開の日程を決めましょう」
「……いつですか?」
「明後日の午前です」
数秒、言葉が出なかった。
「明後日……」
「はい。今の状態なら、予定手術として準備するのが最も安全だと判断しました」
「分かりました」
「ただし、今夜や明日に状態が変化した場合は、予定を待たずに前倒しします」
「はい」
璟瑶は自分のお腹へ視線を落とした。
この中に二人がいる時間は、あと二日かもしれない。
ずっと待っていた日。
それなのに、日付が決まった瞬間、喜びより先に緊張が込み上げた。
「ご主人にも、今日改めて説明します」
「お願いします」
◇◇◇
午後六時三十八分。
病室。
『来た』
「おかえり」
『ただいま』
宮嶋創・二十一歳は椅子へ座り、妻の顔を見た。
いつもと少し違う空気を感じる。
『何かあった?』
璟瑶は数秒、創を見つめた。
「決まった」
『何が?』
「帝王切開」
「明後日」
創の動きが止まる。
『明後日?』
「うん」
『二日後?』
「そう」
分かっていたはずだった。
出産が近づいていることも。
いつ前倒しになっても不思議ではないことも。
それでも、具体的な日が決まると重みがまるで違う。
『急に近くなった』
「ずっと近かったよ」
『分かってた。でも、日にちが決まると全然違う』
「私も」
その時、ノックのあとに澪奈が入ってきた。
「宮嶋さん。ちょうどよかったです」
『先生』
澪奈は二人の前へ座り、改めて説明する。
「現時点で、母体にも赤ちゃん二人にも大きな異常はありません」
『はい』
「ただ、お腹の張り、母体への負担、双胎妊娠、二人の胎位、欧陽さんの年齢を総合すると、これ以上長く待ちすぎない方がよいと判断しました」
「はい」
「明後日の午前、予定帝王切開として準備します」
『分かりました』
「今夜でも明日でも、陣痛、破水、出血、胎児心拍や母体状態の変化があれば、予定を前倒しします」
『はい』
「宮嶋さんは、いつでも連絡が取れる状態を保ってください」
『もちろんです』
創は一度息を吸い、以前から聞こうと思っていたことを口にする。
『先生。一つお願いがあります』
「何でしょう?」
『帝王切開に、俺も立ち会えませんか』
「創……」
『難しいのは分かってます。手術室へ家族が入れない病院も多いって聞きました』
それでも、創は澪奈をまっすぐ見る。
『できるなら、そばにいたいです』
澪奈はすぐに答えず、少し考えた。
「当院では、すべての帝王切開で認めているわけではありません」
『はい』
「ですが、予定帝王切開で、母体と赤ちゃんの状態が安定している場合に限り、ご家族一名へ頭側からの立ち会いを認めることがあります」
創の目が少し大きくなる。
『本当ですか?』
「ただし、条件があります」
『守ります』
「麻酔、消毒、そのほかの準備がすべて整い、欧陽さんの状態が安定してから入室していただきます」
『はい』
「手術野へ近づかない。立ち上がらない。指定された位置から動かない。写真や動画は撮影しない。医療スタッフの指示へ必ず従う」
『はい』
「母体か赤ちゃんに緊急対応が必要になった場合は、直ちに退室していただきます」
『分かりました』
「当日の状況や感染管理上の判断で、直前に立ち会い不可へ変更する可能性もあります」
『それでも、お願いします』
澪奈が璟瑶を見る。
「欧陽さんは、どうされたいですか?」
璟瑶は創を見つめた。
「いてほしい」
短い一言。
創は少し下を向く。
目の奥が熱くなった。
「では、明日の最終確認で問題がなければ、ご主人が立ち会える方向で準備します」
『ありがとうございます』
◇◇◇
火曜日。
午後九時四十三分。
出産前夜。
創が帰る時間が近づいていた。
『今夜、ちゃんと寝て』
「創こそ」
『家へ帰っても、寝られないと思う』
「寝て」
『努力する』
「努力じゃなくて、寝るの」
『分かった』
創は妻の手を握る。
『明日、四人になるんだな』
「うん」
『本当に』
「まだ不思議」
『俺も』
璟瑶は大きなお腹を撫でた。
「二人とも、もう少しここにいてね」
『明日の朝まで』
「うん」
『そのあと、外へ来い』
「命令?」
『お願い』
璟瑶が少し笑う。
◇◇◇
午後十一時五十八分。
成城の新居。
創はベッドへ入った。
目を閉じる。
しかし、すぐに開く。
午前零時七分。
零時二十九分。
午前一時十二分。
何度も時計を見る。
『全然寝られない』
璟瑶へ連絡したい。
しかし、眠っているかもしれない妻を起こしたくない。
創は共有メモを開いた。
息子の名前候補… 娘の名前候補。
まだ、どちらも空欄。
『生まれて、顔を見てからでもいいか』
スマートフォンを閉じる。
その後、創はようやく短い眠りへ落ちた。
◇◇◇
水曜日。
午前五時二十六分。
出産当日の高峰レディースクリニック。
璟瑶も、ほとんど眠れなかった。
それでも意識ははっきりしている。
今日、息子と娘に会う。
病室へ二人の看護師が入ってきた。
手術室看護師の片桐真奈美・三十九歳。
手術室勤務の経験が長く、落ち着いた女性。
もう一人は、助産師資格を持つ病棟看護師、森岡千尋・三十六歳。
高リスク妊娠や双胎、産後管理の経験も豊富だった。
二人とも、璟瑶の社会的な立場は把握している。
しかし、医療上必要な情報以外は共有されていない。
患者の情報を外へ漏らさないことは、相手が頭取であってもなくても変わらなかった。
「欧陽さん、おはようございます」
「おはようございます」
「いよいよ今日ですね」
「はい」
森岡が穏やかに尋ねる。
「昨夜は眠れましたか?」
「ほとんど眠れませんでした」
「緊張しますよね」
「はい」
「一つずつ準備していきましょう」
点滴。
絶食の確認。
血圧。
体温。
脈拍。
採血。
胎児心拍。
手術前に必要な確認が進む。
そして、結婚指輪を外す時間が来た。
「指輪は、ご主人へお渡ししますか?」
森岡に尋ねられ、璟瑶は左手の薬指を見る。
「創にお願いします」
プラチナのリングを外し、専用ケースへ入れる。
一瞬、左手が寂しく感じた。
それでも、安全のために必要なことだった。
◇◇◇
午前六時四十九分。
創が病院へ到着する。
受付を終えて病棟へ上がると、森岡が待っていた。
「宮嶋さん、おはようございます」
『おはようございます』
「こちらをお預かりください」
渡された小さなケースを開く。
中には、妻の結婚指輪が入っていた。
『……』
「手術中は外していただきます」
『はい』
今日は銀行へ行かないため、創自身は指輪をつけている。
創は妻の指輪が入ったケースを、胸元の安全なポケットへしまった。
『俺が預かります』
◇◇◇
午前七時十七分。
病室。
『おはよう』
「おはよう」
『寝られた?』
「ほとんど寝てない」
『俺も』
「寝てって言ったのに」
『努力した』
「だから、努力じゃなくて……」
二人は少しだけ笑う。
しかし、すぐに静かになった。
創はベッドの横へ座り、妻の手を握る。
『本当に今日なんだな』
「うん」
『もう今日』
「うん」
璟瑶は目を閉じる。
「怖い」
創が、妻の口からはっきりその言葉を聞いたのは初めてだった。
握る手に、少し力を込める。
『俺も怖い』
「創が産むわけじゃない」
『知ってる』
「だったら、私より怖がらないで」
『無理。三人とも心配だから』
「三人?」
『璟瑶と、息子と、娘』
璟瑶が少し笑う。
「ちゃんと数えられた」
『失礼だな』
◇◇◇
午前八時二十二分。
澪奈が病室へ入る。
「おはようございます」
「おはようございます」
『おはようございます』
朝のモニターと検査結果を確認する。
「二人の心拍は安定しています。欧陽さんの血圧や全身状態にも、手術を延期するような変化はありません」
「はい」
「予定通り手術を行います」
『立ち会いは?』
「現時点では許可します」
創が大きく息を吐く。
『ありがとうございます』
「ただし、昨日説明した条件はすべて守ってください」
『はい』
「赤ちゃんが生まれても、こちらから許可するまで立たないこと」
『はい』
「手術野を見ようとしないこと」
『はい』
「緊急対応が必要になれば、すぐに退室していただきます」
『分かりました』
「欧陽さんの頭側で、手を握っていてください」
『はい』
澪奈が璟瑶を見る。
「では、行きましょう」
◇◇◇
午前八時四十八分。
病室の前。
璟瑶はストレッチャーへ移る。
創は横に立ち、妻の手を握った。
手術室の前で、一度離れる。
創は専用のガウン、キャップ、マスクを着用し、衛生上の注意を受ける。
璟瑶は先に手術室へ入る。
『璟瑶』
妻が振り返る。
『行ってらっしゃい』
「行ってきます」
『三人で戻ってきて』
「四人で」
『……そうだった』
「緊張しすぎ」
『仕方ないだろ』
「待ってて」
『うん』
扉が閉まる。
◇◇◇
午前九時二分。
手術室。
璟瑶は区域麻酔の処置を受ける。
麻酔の効果。
血圧。
呼吸。
意識状態。
一つずつ確認される。
消毒。
滅菌ドレープ。
本人確認。
術式の確認。
双胎妊娠であることの確認。
医療チームが声を合わせる。
中央には、執刀を担当する高峰澪奈。
麻酔科医。
新生児の処置を担当するスタッフ。
手術室看護師の片桐。
母体の頭側には森岡がいる。
「欧陽さん、気分は悪くありませんか?」
「大丈夫です」
「吐き気は?」
「ありません」
「寒くないですか?」
「少し」
「掛け物を調整しますね」
璟瑶は天井を見つめる。
「創は?」
「もう少しです。準備が整ったらお呼びします」
◇◇◇
午前九時十一分。
手術室の外。
創は一人で待っていた。
一分が長い。
時計を見る。
午前九時十二分。
まだ一分しか経っていない。
『……』
手に汗がにじむ。
自分の左手にある結婚指輪へ触れる。
胸元には、妻の指輪を入れたケースがある。
やがて扉が開き、片桐が現れた。
「宮嶋さん。入れます」
『はい』
「もう一度申し上げます。私たちの指示どおりに動いてください」
『はい』
創は手術室へ入った。
◇◇◇
午前九時十四分。
明るい照明。
並ぶ医療機器。
スタッフの声にモニターの電子音。
初めて見る手術室に、創の緊張がさらに強くなる。
「こちらです」
森岡に案内され、璟瑶の頭側に置かれた椅子へ座る。
手術部位は見えない。
妻の顔だけが見える。
『璟瑶』
「創」
『いるから』
「うん」
創は妻の手を握った。
『手、冷たい』
「緊張してるから」
『俺も』
「創、顔が白い」
『マスクしてるのに分かる?』
「分かる」
『見るなよ』
「創が先に見てる」
森岡が小さく笑う。
「お二人とも、このままお話ししていて大丈夫ですよ」
少し離れた位置から、澪奈の声がする。
「始めます」
創は妻の手を握ったまま、動かなかった。
『痛くない?』
「痛くはない」
『気分は?』
「大丈夫」
森岡がモニターを確認する。
「血圧も安定しています」
創は少しだけ息を吐く。
それでも、まだ二人は生まれていない。
◇◇◇
午前九時二十七分。
「もうすぐ、一人目です」
澪奈の声に、創の呼吸が止まりそうになる。
璟瑶が目を大きく開く。
「一人目、出ます」
時間が一瞬、止まったように感じた。
そして。
小さな声。
次の瞬間には、力強い産声へ変わった。
「オギャア――!」
「オギャア――!」
創の目が一気に潤む。
『泣いた……』
「うん」
『すごい……』
「うん……」
森岡が笑う。
「午前九時二十七分。男の子です」
『息子……』
声が震える。
先に生まれた男の子。
けれど、まだ終わりではない。
「続いて、二人目です」
澪奈の声がする。
創は妻の手を握り直す。
『次、娘』
「うん」
二人目の娩出へ向けて、医療チームが動く。
帝王切開での双子の出産では、状態が安定していれば、通常は長く時間を空けずに二人目を娩出する。
三十分後でも、一時間後でもない。
一人目から数分後。
午前九時三十分。
「二人目、出ます」
もう一つの声が上がった。
「オギャア――!」
一人目より少し高い。
それでも、はっきりと力強い産声。
「オギャア――!」
創の頬を涙が伝う。
『娘……』
璟瑶の目からも涙が流れた。
「午前九時三十分。女の子です」
森岡が優しく告げる。
「元気に泣いています」
『二人……』
「うん」
『本当に二人、生まれた』
「うん」
午前九時二十七分。
兄となる男の子。
午前九時三十分。
妹となる女の子。
三分違いの双子が、この日、誕生した。
◇◇◇
二人の新生児は、それぞれ別のスタッフによって確認を受ける。
呼吸。
心拍。
皮膚の色。
体温。
全身状態。
必要な処置。
創は指示された椅子から動かず、少し離れた場所を見つめていた。
『小さい……』
「赤ちゃんですから」
『二人とも、本当に小さい』
「でも、しっかり泣いていますよ」
新生児スタッフが状態を確認したあと、二人の顔を順番に両親へ見せる。
まず、息子。
『……』
次に、娘。
『……』
創は何も言えなかった。
璟瑶は涙を流したまま、二人を見る。
「創」
『うん』
「見えた?」
『見えた』
「私、ちゃんと二人を産んだ?」
創は妻の顔を見る。
『うん』
『二人とも、ちゃんと来た』
璟瑶は目を閉じ、少し笑った。
新生児二人は、このあと詳しい観察を受けるため、スタッフとともに移動する。
創は追いかけない。今はまだ、妻のそばにいる。
◇◇◇
午前九時四十二分。
片桐が創へ声をかける。
「宮嶋さん。ここから、お母さんの手術と処置を続けます。一度、外でお待ちください」
『はい』
創は妻の手を、最後にもう一度握る。
『外にいるから』
「うん」
『待ってる』
「うん」
創は指示に従い、手術室を出た。
◇◇◇
午前九時五十二分。
待機スペース。
創は一人で座っていた。
息子の産声… 娘の産声。
二つの声が、まだ耳に残っている。
しかし、妻は手術室の中。
完全には安心できない。
午前九時五十三分。
午前九時五十八分。
午前十時五分… 時計を何度も見る。
何も異常がなくても、待つ時間は長い。
『まだかな……』
午前十時十一分。
扉が開き、澪奈が出てきた。
創はすぐに立ち上がる。
『先生』
「宮嶋さん」
『はい』
澪奈が少し笑った。
「二人とも無事に生まれました」
『……はい』
「お母さんも大丈夫です。予定どおり手術を終えました」
創は何か言おうとする。
しかし、言葉が出ない。
涙だけが一滴、もう一滴と落ちた。
『よかった……』
「はい」
『三人とも?』
「三人とも大丈夫です」
創は両手で顔を覆った。
『本当に、よかった……』
澪奈は急かさず、しばらく待つ。
『先生』
「はい」
『ありがとうございます』
「おめでとうございます」
創は深く頭を下げた。
『ありがとうございます』
◇◇◇
午前十時二十九分。
創は最初に、母の宮嶋恵美子・五十歳へ電話をかけた。
「もしもし?」
『母さん』
「創?」
『生まれた』
数秒、沈黙があった。
「……本当に?」
『うん。男の子と女の子。二人とも無事』
「璟瑶さんは?」
『大丈夫。先生が大丈夫だって』
電話の向こうで、恵美子が泣き始める。
「よかった……本当によかった……」
『父さんは?』
「いるよ」
電話の相手が、宮嶋和久・五十二歳へ代わる。
「創」
『父さん』
「おめでとう」
『うん』
「お前も父親だな」
『まだ実感ない』
「そのうち嫌でも出てくる」
『嫌でもって』
和久が小さく笑う。
「璟瑶さんへ、よく頑張ったと伝えてくれ」
『うん』
「こちらから勝手に誰かへ広げない。家族の中だけでいいんだな?」
『うん。ありがとう』
続いて、欧陽家へ連絡する。
電話へ出たのは、母の欧陽美智子・六十八歳。
「創君?」
『お義母さん』
声だけで、美智子は察した。
「生まれた?」
『はい。二人とも無事です』
「璟瑶は?」
『大丈夫です』
美智子の呼吸が震える。
「よかった……本当に、よかった……」
近くにいた欧陽崇岳・七十二歳へ電話が代わる。
「創君」
『お義父さん』
「ありがとう」
創は止まる。
『俺、何もしてないです』
「そばにいた。それでいい」
『……はい』
「璟瑶と話すのは、もう少し待った方がいいか?」
『まだ術後の確認中です。少し待ってください』
「もちろんだ。美智子から雪瑶、玲瑶、由美子、奈緒子まで伝える」
『お願いします』
「それ以上には広げない」
『はい』
その後、美智子から家族へ連絡が回る。
次女の欧陽雪瑶・四十二歳。三女の欧陽玲瑶・三十九歳。
妹の由美子。奈緒子。
「璟瑶の双子、生まれたよ」
「男の子と女の子」
「母子ともに無事」
全員が声を詰まらせ、安堵したけれど、知らせるのは関係を知る親族まで。
銀行にも、報道機関にも、外部にも出ない。
秘密は守られた。
◇◇◇
午前十一時二分。
創は青嶺中央銀行の第二秘書、水城絢乃・三十一歳へ電話をかける。
「はい、水城です」
『宮嶋です』
「宮嶋さん?」
『今、生まれました』
一瞬、水城が黙る。
「……二人とも?」
『はい。男の子と女の子です。二人とも無事です』
「頭取は?」
『大丈夫です』
「……よかった」
いつも冷静な水城の声が、少し震える。
「本当に、よかったです」
『ありがとうございます』
「宮嶋さん。今日は仕事のことを一切考えないでください」
『はい』
「頭取にも、同じように伝えてください」
『分かりました』
「久世副頭取、早乙女常務、黒崎常務には、私から必要最小限で報告します」
『お願いします』
「それと」
水城が少し間を置く。
「御子柴専務にも、今回はお伝えしてよいと思います」
御子柴泰成は、創と璟瑶が結婚していることを知っている。
しかし、妊娠も双子も知らなかった。
『妊娠も双子も、ですか?』
「はい。今後、頭取の休職、復帰、人事上の手続きや情報管理に関わる可能性があります」
『璟瑶にも確認します』
「お願いします。ご本人の同意を得てから、私と久世副頭取で伝えます」
『分かりました』
「改めて、おめでとうございます」
『ありがとうございます』
続いて、第一秘書の劉川景仁・三十八歳へ電話する。
「劉川です」
『宮嶋です。生まれました』
「……」
『二人とも無事です。璟瑶も大丈夫です』
「本当に、よかった」
『男の子と女の子です』
「昨日まで、頭取の予定を止めることばかり考えていました」
劉川が静かに息を吐く。
「今日ほど、止め続けていてよかったと思った日はありません」
『水城さんにも言われました』
「しばらくは二人で、頭取を仕事から遠ざけます」
『お願いします』
「宮嶋さんも、今日は銀行員ではなく、お父さんでいてください」
『……はい』
「おめでとうございます」
『ありがとうございます』
◇◇◇
午前十一時二十三分。
青嶺中央銀行本店の四十二階。
水城と久世は、璟瑶本人の同意を得たうえで、御子柴泰成・五十五歳を頭取室へ呼んだ。
「失礼します」
「御子柴、座ってくれ」
久世に促され、御子柴が対面へ座る。
「頭取について、追加で共有することがある」
「健康上の件ですか?」
「ああ」
水城が静かに伝える。
「頭取は、妊娠されていました」
御子柴の表情が止まる。
「……妊娠?」
「はい。双胎妊娠です」
「双子……」
「そして本日、帝王切開で出産されました」
御子柴は、さらに言葉を失った。
「母子ともに無事です。男の子と女の子です」
「……」
数秒後。
「宮嶋君との子ども、ということですね」
「はい」
御子柴はゆっくり息を吐いた。
「結婚を聞いた時も驚きましたが……」
「情報量が多いだろう」
久世の言葉に、御子柴が苦笑する。
「多すぎます」
しかし、すぐに人事担当専務の顔へ戻る。
「現在、この事実を知る範囲は?」
水城が答える。
「妊娠と双子を把握しているのは、久世副頭取、早乙女常務、黒崎常務、劉川第一秘書、私、桐生部長。そして本日から御子柴専務です」
「ほかの役員、人事部、広報部には?」
「伝えていません」
「承知しました。必要な範囲を超えて共有しません」
御子柴は少し考える。
「頭取の休職、復帰、権限代行、福利厚生、人事上の手続きは、表向きの健康情報だけで処理できるよう整えます」
「頼む」
「宮嶋君の人事処遇も、これまでどおり通常の経路から外しません」
「お願いします」
水城が頭を下げる。
御子柴は、少しだけ表情を緩めた。
「頭取と宮嶋君へ、おめでとうと伝えてください」
「必ず」
「それから、頭取へ仕事を戻さないように」
久世がわずかに笑う。
「御子柴も、こちら側か」
「当然です」
◇◇◇
午後零時十八分。
手術後の観察を終えた璟瑶が、病室へ戻る。
麻酔の影響はまだ残っている。
顔色も少し青白い、それでも意識ははっきりしていた。
創が病室へ入る。
『璟瑶』
妻がゆっくり目を開ける。
「創」
『うん』
創はベッドの横へ座り、妻の手を握った。
「二人は?」
『元気』
「見た?」
『見た』
「泣いてた?」
『二人とも、すごく泣いてた』
璟瑶が少し笑う。
「私も聞いた」
『うん』
短い沈黙。
それから、璟瑶が小さく言った。
「創」
『うん』
「四人になった」
創の目が、また熱くなる。
『うん』
「本当に四人」
『……うん』
璟瑶の視線が、創の左手へ向かう。
「私の指輪は?」
『預かってる』
「ちゃんと?」
『ちゃんと』
創は胸元から専用ケースを出し、開いて見せる。
中には妻の結婚指輪がある。
「よかった」
『今は無理につけなくていいから』
「分かってる」
術後は浮腫が出ることもある。
安全のため、指輪はケースへ戻す。
創の左手にある指輪。
ケースの中にある璟瑶の指輪。
二人の始まりを示す二つのリング。
そして今日。そこへ、新しい二つの命が加わった。
◇◇◇
午後一時十一分。
森岡が病室へ来る。
「お二人とも、赤ちゃんに少し会えますよ」
創は勢いよく立ち上がりかけた。
『本当ですか?』
「宮嶋さん、まず落ち着いてください」
『はい』
璟瑶が弱く笑う。
「創、今日ずっと落ち着いてない」
『無理だろ』
しばらくして、状態の確認を終えた二人の赤ちゃんが病室へ来る。
一人は男の子、もう一人は女の子。
まだ名前はない… 今は、息子と娘… 兄と妹。
創が息を止める。
『……小さい』
「また同じことを言いましたね」
『だって、本当に小さい』
璟瑶も横になったまま、二人を見つめる。
目が潤む。
「この二人、私のお腹にいたんだね」
『うん』
「不思議」
『俺の方がもっと不思議』
「創は、お腹に入ってなかったから」
『当たり前だろ』
息子が小さく声を出す。
「ふぇ……」
『今、泣く?』
続いて娘も声を上げる。
「ふ……」
『二人とも泣く?』
「赤ちゃんですから」
『どうする?』
「まず、お父さんが落ち着いてください」
『無理です』
璟瑶が笑う。
「昨日、育児動画を見たんでしょう?」
『見た』
「役立てて」
『首と頭を支えることしか覚えてない』
森岡が笑う。
「最初は、それがとても大切です」
◇◇◇
創は森岡に支えてもらいながら、先に息子を抱く。
「頭と首を、ここで支えてください」
『はい』
「腕を、もう少しこちらへ」
『はい』
創の身体が固まる… 腕の中に、息子がいる。
『……』
言葉が出ない。
「創」
『うん』
「父親だね」
創は小さな顔を見つめる。
『俺、父親になったんだな』
「うん」
次は娘。
創は先ほどより慎重に抱き上げる。
『娘……』
「うん」
小さな顔を見た瞬間、また涙がこぼれた。
「今日、何回泣くの?」
『知らない』
「確認できない?」
『無理』
今度は璟瑶が、声を立てずに笑った。
◇◇◇
午後二時三十八分。
二人の赤ちゃんは、新生児管理のため一度戻っていった。
病室には、夫婦だけが残る。
しかし、もう本当の意味で二人きりではない。
創は共有メモを開く。
息子の名前候補… 娘の名前候補。
「顔を見たら、何か浮かんだ?」
『全然』
「私も」
『まだ、息子と娘でいいか』
「うん。急がなくていい」
『二人で決めよう』
「うん」
空欄は、空欄のまま。
それでも今日から、その欄には二人の顔が浮かぶようになった。
◇◇◇
午後四時五分。
美智子から、創へメッセージが届く。
「雪瑶、玲瑶、由美子、奈緒子」
「全員、泣いてた」
創は璟瑶へ見せる。
「みんな?」
『うん』
「恥ずかしい」
『何が?』
「みんな、私より先に泣いてる」
『璟瑶も泣いた』
「創の方が泣いた」
『否定できない』
二人は、また小さく笑った。
◇◇◇
午後六時二十二分。
窓の外が、少しずつ橙色へ変わる。
創はベッドの横へ座っていた。
璟瑶のまぶたが重くなる。
『寝ていいよ』
「創、帰る?」
『もう少しいる』
「明日は仕事?」
『休みを取った』
「いつ?」
『昨日』
「聞いてない」
『言ってないから』
「どうして?」
『今日、一緒にいたかった』
璟瑶はゆっくり目を閉じる。
「ありがとう」
『うん』
「創」
『何?』
「四人」
『うん』
「本当に四人」
『何回目?』
「確認」
『大事だな』
「入口?」
『そう』
璟瑶が弱く笑う… 創は妻の手を握った。
左手には、自分の結婚指輪。
胸元のケースには、妻の結婚指輪。
そして、この病院の別室には息子と娘がいる。
宮嶋創・二十一歳… 青嶺中央銀行の若手行員。
欧陽璟瑶・四十五歳… 青嶺中央銀行の頭取。
秘密の結婚から始まった二人は、今日、父親と母親になった。
誰にも公には言えない家族。それでも、確かに四人いる。
先に生まれた男の子… 三分後に生まれた女の子。
二人分の産声は、この日、夫婦の人生で一番大きく、忘れられない音になった。
次に待っているのは、母体の回復と二人の新生児管理。
そして、四人そろって成城の新居へ帰る日だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ついに、男の子と女の子の双子が無事に誕生しました。
創は帝王切開に立ち会い、二人分の産声を聞き、璟瑶も無事に手術を終えることができました。
両家の家族、由美子・奈緒子、雪瑶・玲瑶、そして水城・劉川にも秘密を守ったまま出産を報告。
名前はまだ決めません。
今はただ「息子」と「娘」として、二人でゆっくり考えていきます。
そして二十一歳の創と四十五歳の璟瑶は、この日から夫婦だけではなく、父と母になりました。
次回、第99話。
退院の日。
双子が初めて、成城の新居へ帰ります。




