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第99話「おかえり、二人とも――双子が初めて帰る成城の家」


第99話です。


双子の誕生から数日。


母子ともに経過は良好で、いよいよ退院の日を迎えます。


その一方で創は、銀行での仕事と第二段階の教習を続け、ついに卒業検定、本免学科試験へ。


そして成城の新居には、思わぬ来客も。


夫婦二人の家が、ついに四人家族の家へ変わっていきます。



 双子の誕生から四日後。


 東京都内。


 高峰レディースクリニックの病棟の個室。


「……よいしょ」


 欧陽璟瑶・四十五歳は、ベッドに手をつき、ゆっくりと身体を起こした。


 帝王切開直後に比べれば、顔色はかなり戻っている。


 しかし、傷の痛みや疲労、睡眠不足、産後の身体の変化は残っていた。


 さらに、双子の育児も始まっている。


 一人が眠った直後に、もう一人が目を覚ます。


 二人同時に泣くこともある。


 それでも璟瑶は、隣に並ぶ二つの小さな顔を見るたび、穏やかな表情になった。


 先に生まれた男の子。


 三分後に生まれた女の子。


 まだ名前は決まっていないため、夫婦は二人を「息子」「娘」と呼んでいた。


 診察を終えた高峰澪奈・四十九歳が、記録を確認する。


「傷口は問題ありません。血圧も安定していますし、出血や採血結果にも大きな異常はありません」


「はい」


「赤ちゃん二人も、体重、哺乳量、体温、黄疸、排泄を確認しています。今のところ順調です」


 璟瑶は安心したように息を吐いた。


「じゃあ、帰れる?」


「もう少し待ってください」


「まだ?」


「四十五歳で、双胎妊娠後の帝王切開です。退院競争ではありませんから」


「競争してない」


「顔が、早く帰りたいと言っています」


 璟瑶は少し笑った。


「帰りたい。創と、四人で」


「そのためにも、今は身体を休ませてください」


「はい」


「それから、退院した直後に頭取へ戻らないこと」


「……聞いてます」


「返事は?」


「はい」


「仕事を始めるとしても、医師の許可を得てから。最初は短時間のリモート勤務。体調最優先です」


「はい」


「水城さんと劉川さんにも伝えておきます」


「先生。二人を味方にしないで」


「最初から私の味方です」


「……知ってる」


 ◇◇◇


 同じ頃。


 午前九時十二分。


 青嶺中央銀行本店の十八階にある法人営業第一部。


『おはようございます』


「おはよう」


 宮嶋創・二十一歳は、すでに通常勤務へ戻っていた。


 出産当日と翌日は休暇を取った。


 その後は、妻と双子を医療スタッフに任せ、何かあればすぐに連絡を受けられる状態で仕事を続けている。


 桐生雅人・四十二歳が創を呼ぶ。


「宮嶋。少し来い」


『はい』


 二人は小会議室へ入り、扉を閉めた。


「奥さんは?」


『順調です』


「赤ちゃんは?」


『二人とも順調です』


「そうか」


『桐生さん。改めて報告していませんでした』


「何を?」


『無事に生まれました。先に男の子、その三分後に女の子です』


「頭取も?」


『大丈夫です』


 桐生の表情が緩む。


「よかった。宮嶋、おめでとう」


『ありがとうございます』


「二十一歳で二児の父親か」


『俺も、まだ信じられません』


「仕事中、何回写真を見た?」


『……昨日は十三回です』


「多い」


『一昨日は二十一回』


「もっと多いじゃないか」


 創が笑うと、桐生は仕事の表情へ戻った。


「ただし、仕事は仕事だ」


『はい』


「東央精密は、まだ正式審査中だ。父親になったからといって、数字を甘く見るな」


『分かっています』


「金の向こうには、人の生活がある。返済できない融資を通すことが、本当に相手のためになるのか。最後まで考えろ」


『はい』


「今日も追加確認を続けるぞ」


『お願いします』


 ◇◇◇


 午前十時三十六分。


 創は桐生、相沢拓也とともに、東央精密製作所の資料を再確認していた。


 設備導入が三か月遅れる。


 売上の立ち上がりが四か月遅れる。


 安定稼働まで、さらに一か月かかる。


 その厳しい条件に、既存借入と新規借入の返済、設備メーカーへの支払い、最低手元資金を重ねる。


 据置期間を延ばせば、短期的な資金繰りは楽になる。


 しかし、利息負担は増え、元本返済が後ろへ集中する。


 桐生が創を見る。


「据置を延ばせば安全か?」


『いいえ。設備稼働、顧客承認、売上回収まで確認しないと判断できません』


「そうだ。承認を取るための資料を作るな」


『はい』


「会社が本当に返済できる形を作れるか。それを見ろ」


『はい』


 東央精密製作所への融資は、まだ承認されていない。


 正式審査は続いていた。


 ◇◇◇


 創は仕事を続けながら、出産前から進めていた第二段階の教習にも通った。


 ある日の午後六時四十二分。


 成城中央自動車学校。


 長瀬孝弘・四十六歳が尋ねる。


「今日も仕事帰りですか?」


『はい』


「子どもが生まれたんですよね?」


『はい。双子です』


「仕事をして、病院へ行って、教習所にも来ている?」


『はい』


「睡眠は?」


『五時間半くらいです』


「宮嶋さん。睡眠不足は、運転判断に直接影響します」


『はい』


「父親になったなら、なおさら覚えてください。眠い時や疲れている時は、無理に運転しない」


『分かりました』


 運転しないと決めることも、安全運転の一つだった。


 ◇◇◇


 その後も創は、歩行者、自転車、路線バス、右左折、車線変更、駐車車両、住宅街、幹線道路を経験した。


 方向変換では、慎重になりすぎて後退が遅くなった。


「確認しましたか?」


『はい』


「なら、動く」


『はい』


「慎重なのは良いことです。ただ、後続車を必要以上に待たせ続けることが安全とは限りません」


『はい』


 縦列駐車では、最初の位置がずれた。


『入らない』


「やり直してください」


『検定でも?』


「危険なまま無理に入れる方が駄目です。修正できることも運転技術です」


 創は周囲を確認し、切り返して枠の中へ収めた。


「今の方が良いです」


『ありがとうございます』


 応急救護では、胸骨圧迫とAEDの使用方法を学んだ。


 危険予測では、駐車車両の陰から飛び出す子ども、自転車の急な進路変更、大型車の死角、雨や夜間の視界を確認した。


「宮嶋さんは、危険を全部見つけようとしますね」


『はい』


「銀行では強みかもしれません。でも、運転中に全部へ同じ強さで反応したら、前へ進めません」


『……』


「危険を見つける。優先順位をつける。判断して動く」


『確認したら』


「判断して」


『動く』


「そうです」


 ◇◇◇


 高速教習。


 創は加速車線で速度を上げた。


『速い』


「高速道路ですから」


『分かってます』


「ミラーと目視。入れる場所を判断してください。ここで止まってはいけません」


『はい』


 創はアクセルを踏み、流れに合わせて合流した。


『入った……』


「入ります」


『怖いです』


「怖いなら、車間距離を取る。周囲を見る。急操作をしない」


『はい』


 いつか、妻と息子と娘を乗せる。


 そう思うからこそ、創は慎重に学び続けた。


 ◇◇◇


 卒業前のみきわめ。


 創の運転は、最初の頃から大きく変わっていた。


 確認のたびに止まらない。


 ミラー、目視、判断、操作を連続して行う。


 右折では対向車の間を判断し、左折では歩行者と巻き込みを確認する。


 住宅街では速度を落とし、子どもや自転車の動きを予測する。


 教習所へ戻ると、長瀬が記録を記入した。


「宮嶋さん」


『はい』


「みきわめ、良好です」


『……本当ですか』


「卒業検定へ進めます」


『ありがとうございます』


 ◇◇◇


 卒業検定当日。


 創は、長瀬とは別の検定員を助手席に乗せて路上へ出た。


 発進。


 進路変更。


 交差点。


 横断歩道。


 駐車車両。


 自主経路。


 そして、場内へ戻ってからの方向変換。


 右折の途中、一度タイミングに迷った。


 後続車はいる。


 しかし、無理に進む必要はない。


 創は安全な間隔ができるまで待った。


 確認したら、判断して、動く。


 検定を終え、結果を待つ。


「宮嶋創さん」


『はい』


「合格です」


『……本当ですか』


「はい」


『ありがとうございます』


 長瀬が歩み寄る。


「おめでとうございます」


『ありがとうございました』


「ただし、まだ免許取得ではありません。本免学科試験が残っています」


『分かっています』


「そして、免許を取った日が完成ではありません。その日から初心者です」


『忘れません』


「奥さんと双子を乗せる時は、特に」


『はい』


「確認したら」


『判断して』


「動く」


『はい』


 ◇◇◇


 数日後。


 運転免許試験場で創は本免学科試験を受けた。


 標識。


 優先関係。


 歩行者保護。


 駐停車。


 高速道路。


 事故対応。


 危険予測。


 一問ずつ慎重に読み、最後に見直す。


 ただし、同じ問題へ何度も戻らない。


『確認したら、判断して、動く』


 答案を提出した。


 結果発表。


 電光掲示板に、自分の受験番号がある。


『……あった』


 合格。


 手続きと写真撮影を終え、創は初めて正式な運転免許証を受け取った。


 普通自動車第一種運転免許。


 AT限定。


『取った……』


 二十一歳。


 転職。


 結婚。


 妻の妊娠。


 双子の誕生。


 そして、運転免許。


 家族のためにできることが、また一つ増えた。


 ◇◇◇


 双子の誕生から十二日後。


 高峰レディースクリニック。


 澪奈は、璟瑶と双子の最終診察を終えた。


「欧陽さん。お母さんも赤ちゃん二人も、退院して大丈夫です」


「……帰れる?」


「帰れます」


「四人で?」


「四人で」


「本当に?」


「何回確認するんですか」


「創がうつった」


 澪奈が笑う。


「ただし、退院は完全に回復したという意味ではありません」


「はい」


「痛み、出血の増加、発熱、傷口の異常、息苦しさなどがあれば、すぐに連絡してください」


「はい」


「赤ちゃんも、哺乳量、体温、黄疸、排泄、呼吸に変化があれば相談を」


「はい」


「仕事は?」


「短時間のリモートから」


「よろしいです」


 澪奈は穏やかに微笑んだ。


「退院、おめでとうございます」


 璟瑶の目が少し潤む。


「ありがとうございました」


 ◇◇◇


 退院日。


 午前十時二十二分。


 創は休暇を取り、病室を訪れた。


 左手の薬指には、結婚指輪がある。


『おはよう』


「おはよう」


『帰れるな』


「帰れる」


『四人で』


「四人で」


 創は退院書類、母子手帳、薬、着替え、双子の荷物を一つずつ確認する。


 その横へ、新しい運転免許証を置いた。


 璟瑶が気づく。


「それ」


『取った』


「見せて」


 免許証を受け取った璟瑶は、しばらく眺めた。


「本当に取ったんだ」


『うん』


「おめでとう」


『ありがとう』


「じゃあ、今日、運転する?」


 創が固まる。


『……』


「私と新生児二人を乗せて」


『免許を取ったばかりだから、怖い』


「でしょうね」


『予定通り、送迎車にお願いする』


「正解」


『俺も最初から、そのつもりだった』


「じゃあ、何で免許証を見せたの?」


『褒めてほしかった』


 璟瑶が笑う。


「よくできました」


『子ども扱い』


「二十一歳」


『成人』


「私から見たら――」


『その先は言わなくていい』


 二人は笑った。


 帰宅には、乳児用チャイルドシートを二台固定した送迎車を利用する。


 免許を取ったからといって、すぐに運転する必要はない。


 できることと、今やるべきことは違う。


 それも、安全のための判断だった。


 ◇◇◇


 午前十一時十二分。


 高峰レディースクリニックの玄関。


 創は荷物を持ち、璟瑶はゆっくり歩く。


 息子と娘が、初めて病院の外へ出る。


 創はチャイルドシートを何度も確認した。


『寒くない?』


「大丈夫」


『ベルトは?』


「大丈夫」


『首は?』


「大丈夫」


『固定は?』


「創」


『何?』


「確認しすぎ」


『……』


「長瀬先生に言われたでしょ?」


『確認したら』


「判断して」


『動く』


「はい」


 創はドアを閉めた。


 送迎車が、成城へ向かってゆっくり動き出す。


 ◇◇◇


 正午十二時三分。


 成城の新居。


 創が先に車を降り、玄関を見る。


 この家を購入した時、双子はまだ生まれていなかった。


 同じ広さの子ども部屋を二つ作った。


 今はまだ使わない。


 寝室の近くに、二台のベビーベッドを並べてある。


 哺乳瓶。


 消毒用品。


 ミルク。


 おむつ。


 ガーゼ。


 着替え。


 体温計。


 双子用ベビーカー。


 必要なものは、すでに揃えていた。


 創は息子を抱き、璟瑶のそばで娘も迎える。


 四人が初めて、同時に玄関を越えた。


 創は足を止め、二人の顔を見る。


『おかえり』


 璟瑶の目が潤む。


「おかえり」


 創は妻を見る。


『璟瑶も、おかえり』


「ただいま」


『俺は?』


「ずっとここにいたでしょ」


『そうだった』


 四人の家になった瞬間だった。


 ◇◇◇


 午後零時四十一分。


 二十九畳のLDK。


 璟瑶がソファへゆっくり腰を下ろす。


「やっぱり、家は落ち着く」


『病院、長かった?』


「長かった」


『俺も、一人の家は広すぎた』


「今日から狭くなる」


『二十九畳あるけど』


「赤ちゃんが二人いたら、物も増えるから」


 創は周囲を見る。


 哺乳瓶も、おむつも、着替えも二人分。


 今までなかったものが、家の中に並んでいる。


『本当に変わったな』


「うん」


『四人の家だ』


「うん」


 ◇◇◇


 午後一時四十七分。


 インターホンが鳴った。


 創がモニターを見る。


『……え?』


「誰?」


『水城さんと劉川さん。それから、久世副頭取、御子柴専務、黒崎常務』


「うん」


『何で?』


「私が許可した」


『聞いてない』


「言ってない」


『銀行の上の人が三人も家に来てるんだけど』


「私も上の人」


『それ、忘れてた』


 ◇◇◇


 玄関の扉を開ける。


「失礼します」


 水城絢乃と劉川景仁に続き、久世宗一郎、黒崎忠彦、御子柴泰成が入る。


 久世が創を見る。


「宮嶋君。今日は銀行ではない」


『でも、副頭取は副頭取です』


「まあ、そうだな」


 黒崎が笑う。


「相変わらず固いな」


『すみません』


 御子柴は、出産当日に久世と水城から双子の誕生を知らされていた。


 しかし、実際に双子と会うのは今日が初めてだった。


「宮嶋君」


『はい』


「結婚を知った時も驚きましたが、その次が双子とは思いませんでした」


『すみません』


「謝らなくていい。ただ、情報量が多すぎます」


『最近、よく言われます』


「ともかく、三人とも無事で本当によかった」


『ありがとうございます』


 創が頭を下げる。


『どうぞ』


 玄関へ入った三人は、広い室内を見て足を止めた。


「ここ、本当に自宅か?」


『はい』


「頭取公邸ではなく?」


『違います』


 黒崎が尋ねる。


「二人で住んでいたのか?」


『今日から四人です』


 三人は、少し黙った。


 LDKへ入ると、また足が止まる。


「広いな」


「庭もある」


「プールまであるんだが」


『小さい温水プールです』


「それを小さいと言うのか?」


 創は少し困った顔をする。


『俺だけの家ではないので』


 黒崎が一度だけ頷く。


「なるほど」


 それ以上、所有や資金の事情には踏み込まなかった。


 ここは銀行ではなく、夫婦の自宅だから。


 ◇◇◇


 リビング。


 久世たちが璟瑶へ頭を下げる。


「頭取。ご退院、おめでとうございます」


「ご出産も、おめでとうございます」


「ありがとう」


 御子柴が口を開く。


「頭取。一つ申し上げても?」


「何?」


「私は婚姻を知っていました」


「うん」


「妊娠は知りませんでした」


「うん」


「双子も知りませんでした」


「うん」


「出産当日に、初めて知らされました」


「うん」


「『うん』だけですか?」


 水城が口元を緩め、劉川は視線をそらす。


 久世は咳払いをし、黒崎は笑いを堪えた。


「必要な人に、必要な時、必要な範囲で伝えた」


「銀行員としては満点の回答です」


「でしょ?」


「個人的には、もう少し早く知りたかったです」


「ごめんなさい」


「なら、いいです」


 ◇◇◇


 同じ頃。


 青嶺中央銀行本店。


 四十一階の役員秘書共用スペース。


 水城と劉川。


 さらに久世、御子柴、黒崎が外出している。


 それぞれの秘書は、戻り時間に合わせて予定を調整していた。


 高城沙也香が時計を見る。


「久世副頭取の午後三時の打ち合わせは、十五分後ろへずらします」


 榊真由美が続く。


「御子柴専務も、戻りが少し遅れると連絡がありました」


 桜庭亮介も頷く。


「黒崎常務も同じです」


「三人とも?」


「同じ外出先でしょうか」


 高城は首を横に振る。


「詳細は聞いていません」


「私も、必要な戻り時間だけ共有されています」


「なら、それ以上は聞かなくていいですね」


「秘書だからといって、全てを知る必要はありません」


「知らない方が守れる情報もあります」


 秘書たちは、三人が成城の頭取宅へ向かったことを知らない。


 頭取が退院したことも、双子が生まれたことも知らない。


 榊も、自分が担当する御子柴が婚姻と双子の存在を知っているとは知らなかった。


 必要な情報だけを、必要な範囲で扱う。


 それも、機密を守る方法だった。


 ◇◇◇


 成城の新居。


 午後二時十二分。


「ふぇ……」


 息子が小さな声を出した。


 久世。


 黒崎。


 御子柴。


 三人が同時に止まる。


 何万人もの行員を率いる役員たちが、新生児の一声で固まった。


「泣きましたね」


「泣きました」


『泣きました』


「創。見れば分かる」


 息子の声が大きくなる。


「ふぇぇ……」


 続いて、娘も泣き始めた。


「ふぇ……」


『二人とも来た』


 創がすぐに息子を抱く。


 璟瑶も娘を抱こうとするが、創が止めた。


『待って。無理しないで』


「大丈夫」


『傷があるだろ』


 劉川が口を挟む。


「頭取。宮嶋さんに一票です」


「私もです」


 水城に続き、久世、黒崎、御子柴も賛成する。


 璟瑶は周囲を見回した。


「ここ、私の家」


『でも、多数決は負け』


「銀行じゃない」


 そう言いながらも、璟瑶は笑っていた。


 ◇◇◇


 双子が落ち着いた後、久世が一枚だけ資料を出した。


「頭取。銀行について、最低限の報告をします」


『仕事するんですか?』


 水城が答える。


「五分です」


「最大でも十分です」


 久世が説明を始める。


「頭取決裁が必要な案件のうち、急ぎではないものは全て止めています」


「法人側は?」


 黒崎が答える。


「私が見ています。大きな問題はありません」


「市場と国際は?」


「早乙女と陳が処理しています」


「人事は?」


 御子柴が答える。


「私がいます。通常通りです」


「国内全体は、私が預かっています」


 久世は資料を閉じた。


「以上です」


「もう?」


「以上です」


「五分も経ってない」


 水城が頷く。


「理想的です」


 劉川が言う。


「頭取。今は私たちの方が強いです」


「何が?」


「人数です」


 久世、黒崎、御子柴、水城、劉川。


 さらに創。


 六対一。


「……分かりました」


 ◇◇◇


 午後三時前。


 久世たちは帰ることになった。


「頭取。本店へ戻る時は、医師、水城さん、劉川さん、全員の許可を取ってください」


「頭取なのに?」


「今は産後の患者であり、母親でもあります」


「分かった」


 黒崎が続く。


「法人側は心配いりません」


「人事も同じです」


 御子柴は創を見る。


「宮嶋君」


『はい』


「今日、私がここへ来たことは職場で言わなくていいからね」


『言いません』


「双子のことも」


『はい』


「私の秘書も知りません」


『分かりました』


「仕事では、今まで通りです」


『お願いします』


 御子柴が知った秘密も、そこで止まる。


 ◇◇◇


 銀行へ戻った三人を、それぞれの秘書が迎えた。


「副頭取、午後三時の会議は十五分後ろへ変更しています」


「ありがとう。外出先の記録は?」


「私用扱いで、詳細なしです」


「それでいい」


「御子柴専務、採用関連会議は予定通り進められます」


「変更は?」


「ありません」


「では、行こう」


「黒崎常務、法人営業第二部が待機しています」


「すぐ行く」


 三人は再び銀行役員の顔へ戻った。


 数十分前まで、双子の泣き声を聞いていたことは、誰も口にしなかった。


 ◇◇◇


 四人の生活が始まった… 創は通常勤務を続ける。


 朝、双子の顔を見て出勤する。


 昼休みには写真を見て… 夜、帰宅すれば育児をする。


 午前一時に息子が泣く。


『俺がやる』


「創、明日仕事でしょ」


『璟瑶は帝王切開したばかりだろ』


 午前三時… 今度は娘が泣く。


「今度は私」


『一緒にやる』


「少し寝て」


『泣いてると起きる』


 二人とも眠い… それでも、一人だけに任せない。


 家族や医療スタッフの助けも借りながら、四人の暮らしを作っていく。


 ◇◇◇


 璟瑶も、少しずつ仕事へ戻った。


 ただし、本店には出勤しない。


 新居の書斎から、短時間だけオンライン会議へ参加する。


「頭取。本日は二十分、一件だけです」


「前は二十五分だった」


「産後です」


「減ってる」


「当然です」


 劉川が説明する。


「中国側は早乙女常務と陳取締役、法人側は黒崎常務、国内全体は久世副頭取、人事は御子柴専務、審査は水谷常務、地域銀行は西園寺取締役が担当しています」


「私、必要?」


「必要です」


 水城が即答し、劉川が続ける。


「ただし、全てを頭取が行う必要はありません。最終判断だけお願いします」


「……分かった」


 銀行は、一人で動かすものではない。


 副頭取、専務、常務。


 取締役、部長、課長、行員。


 秘書。一人一人が自分の仕事をする。


 だからこそ、璟瑶は母親として過ごす時間を持てる。


 ◇◇◇


 夕方… 創が玄関を開ける。


『ただいま』


「おかえり」


 奥から、璟瑶の声が返る。


 さらに、二つの小さな声が続いた。


「ふぇ……」


「ん……」


 創は笑う。


『ただいま、二人とも』


 手を洗い、着替える。


 勤務中に外していた結婚指輪をケースから出す。


 璟瑶が創の左手を取り、薬指へ戻した。


「おかえり」


『ただいま』


 今度は創が、浮腫の落ち着いた妻の左手を取る。


 痛みや違和感がないことを確認してから、指輪をそっと戻した。


『おかえり』


「ただいま」


 その直後。


 息子が泣く。


「ふぇぇ……!」


 娘も続く。


「ふぇぇ……!」


 二人は顔を見合わせた。


『二人とも同時』


「行くよ」


『うん』


 創は息子を抱き、璟瑶は娘を抱く。


 以前は広く感じた二十九畳のLDK。


 今は、二つの泣き声で満たされている。


 創は腕の中の息子を見る。


『なあ』


「何?」


『この家、最初は二人の家だったよな』


「そうだね」


『今は、本当に四人の家だ』


 璟瑶は腕の中の娘を見る。


「退院して、玄関へ入った瞬間からね」


『細かい』


「銀行員の妻なので」


『頭取だろ』


「今は、お母さん」


 創は笑う。


『俺は?』


「お父さん」


『銀行員は?』


「明日」


『教習生は?』


「卒業」


『免許は?』


「取った」


『夫は?』


「ずっと」


『そっか』


「うん」


 息子が落ち着き、娘も目を閉じる。


 創が小さく言う。


『おかえり』


 璟瑶も続ける。


「おかえり」


 男の子、女の子。


 まだ、名前は決まっていない。


 それでも、この家には二人の居場所がある。


 銀行では、二人の存在を知る者は限られている。


 黒瀬も、琴葉も、多くの行員や役員、秘書も知らない。


 だが、この成城の家では、秘密にする必要はない。


 ここでの欧陽璟瑶は、頭取だけではない。


 妻であり、母親。


 宮嶋創も、銀行員だけではない。


 夫であり、父親。


 この家はもう、二人が帰るだけの場所ではない。


 四人が帰る場所になった。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、退院と運転免許取得、そして四人で始める新生活のお話でした。


創は正式に普通自動車第一種免許(AT限定)を取得しましたが、退院日にいきなり双子を乗せて運転することはせず、安全を優先して送迎を選択。


そして璟瑶も、産後の回復を最優先しながら、少しずつリモート中心で仕事へ戻り始めました。


新居には久世副頭取、御子柴専務、黒崎常務、水城、劉川も訪れ、これまで以上に秘密を共有する人たちの支えも増えていきます。


何より大きいのは、夫婦二人だった成城の家に、息子と娘が帰ってきたこと。


ついに、この家は四人の家になりました。


次回、第100話。


二人がもう一度「結婚」する、小さな結婚式です。


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