↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
97/102

第96話「初めての路上――そして、双子の性別が分かった日」


第96話です。


今回は、仮免を取得した創が本格的な路上教習へ。


場内とは違い、歩行者、自転車、バス、駐車車両、対向車など、実際の交通の中で「確認したら、判断して、動く」ことを学んでいきます。


そして病院では、ついに双子の性別が判明。


男の子と女の子――。


創と璟瑶が初めて「息子」「娘」と呼び、名前について考え始める、大きな節目の一話です。



 土曜日。


 午前七時十二分。


 東京都世田谷区、成城。新居。


『仮免許証……ある』


 宮嶋創・二十一歳は、玄関で持ち物を確認していた。


『財布、ある。スマートフォン、ある。教習原簿、ある。家の鍵、ある』


 一つずつ確認し、最後に仮運転免許証の入ったケースをもう一度見る。


『……ある』


 今日は第二段階に入ってから、最初の本格的な路上教習。


 前回は教習所周辺を短時間走っただけだった。


 今日は一般道路を、もっと長く走る。


『……怖い』


 一人で呟いた時、スマートフォンが震えた。


「おはよう」


 入院中の妻、欧陽璟瑶・四十五歳からだった。


『おはよう』


『今日、本格的な路上』


「知ってる」


『怖い』


「前回も言ってた」


『今日は前回より怖い』


「大丈夫」


「確認したら、判断して、動く」


『長瀬さんみたい』


「最近、みんな同じことを言うね」


『俺に必要だからだろ』


「分かってる」


『行ってくる』


「気をつけて」


『うん』


「創」


『何?』


「帰り、病院へ来る?」


『行く』


「待ってる」


 創は少し笑った。


『行ってきます』


「いってらっしゃい」


 画面越しに朝の挨拶を交わし、新居を出た。


 ◇◇◇


 午前八時四分。


 成城中央自動車学校。


 受付で教習原簿と仮運転免許証の確認を受ける。


 今日の担当も、長瀬孝弘・四十六歳だった。


「おはようございます」


『おはようございます』


「宮嶋さん。今日は本格的に一般道路を走ります」


『前回より緊張してます』


「前回は、教習所周辺を短く走っただけでしたからね」


『今日は?』


「交通量のある道路も走ります」


『余計に怖くなりました』


 長瀬が少し笑う。


「路上では、周囲の車は宮嶋さんが教習中だからといって待ってくれません」


『はい』


「歩行者、自転車、バイク、バス、駐車車両、信号、工事、車線変更、右折待ち」


 一つずつ挙げていく。


「全部が実際に動いています」


『はい』


「場内では、教習所側が条件を用意してくれます。でも、路上では違います」


『自分で周りを見る』


「そして、周りの動きに合わせる」


『はい』


「怖さは持っていていいです。ただし、怖さで判断を止めないこと」


『分かりました』


「では、行きましょう」


 ◇◇◇


 午前八時二十一分。


 教習車。


 創は運転席へ座った。


 座席。


 背もたれ。


 ヘッドレスト。


 ルームミラー。


 ドアミラー。


 シートベルト。


 ブレーキをしっかり踏める位置。


 一つずつ調整する。


「準備できましたか?」


『はい』


「出口を右折して、一般道路へ入ります」


『……はい』


 エンジンを始動。


 セレクターをDへ。


 合図。ミラー。目視。


 歩行者なし。自転車なし。


 右から来た車が一台、通過する。


 その後は空いている。


 創は、もう一度確認しそうになった。


「宮嶋さん、今なら行けます」


『はい』


 ブレーキを緩め、アクセルを軽く踏む。


 教習車が一般道路へ出た。


 すぐ前方に、自転車が見える。


『自転車』


「見えています。まず距離を取りましょう」


 創は速度を落とす。


 追い越したいが、対向車が来ている。


 焦らず待つ… 対向車が通過。


 後方と右側を確認し、自転車との側方間隔を十分に取って追い越す。


「いいです」


『……』


「息を止めないでください」


『止まってました?』


「少し」


『運転で呼吸が止まると思わなかった』


「判断にも影響します。普通に呼吸してください」


『はい』


 次はバス停。


 路線バスが停車している。


 創が速度を落とした時、バスの右ウインカーが点滅した。


『出ようとしてる』


「どうしますか?」


『譲ります』


「はい」


 創は減速し、バスの発進を妨げない。


 その後ろへ入る。


「路線バスの発進を妨げないことも大切です」


『はい』


 青信号の交差点。


 横断歩道の手前に高齢者が立っている。


「信号は青です。でも?」


『歩行者を見ます』


 高齢者は渡らない。


 周囲の安全を確かめ、創はそのまま進んだ。


 次の交差点を左折する。


 左ミラー。


 目視。


 後方から自転車が近づいていた。


 創は早めに速度を落とし、自転車を先に行かせる。


「それでいいです」


『巻き込みが怖い』


「左折時の重要な危険の一つです。見つけた時点で、先に判断できたのは良かったですよ」


『はい』


 ◇◇◇


 午前八時四十一分。


 少しずつ交通量が増えてくる。


 前方の路肩に、駐車車両が一台。


 創はすぐ右ウインカーを出そうとした。


「その前に、後方です」


『はい』


 ミラーを見る。


 後ろから一台、近づいている。


『待ちます』


「はい」


 後続車が通過する。


 改めて合図をし、ミラーまたは目視。


 右側へ進路を変え、駐車車両を避ける。


 その後、左側へ戻った。


「今の流れは良かったです」


『ありがとうございます』


「ただし、駐車車両だけを見ないこと」


『人が降りてくる可能性?』


「はい。ドアが突然開くこともあります」


『車の中まで考える』


「そこまで予測できればいいです」


 続いて、片側二車線の道路へ入る。


「次の交差点に備えて、右車線へ移ってください」


 創はミラーを確認し、合図を出す。


 右後方の車が少し近い。


 その車を先に通し… 改めて確認し、右車線へ入った。


「確認はできています」


『でも?』


「最初の時点でも、入れる余裕はありました」


『やっぱり待ちすぎた』


「危険でなければ、行く。路上では、その判断も必要です」


『確認したら、判断して、動く』


「はい」


 場内で何度も聞いた言葉。


 路上へ出た今、その意味が以前よりはっきり分かる。


 止まりすぎれば、後続車の流れに影響する。


 急げば、事故につながる。


 安全を確かめたうえで、周囲に合わせて動かなければならない。


 ◇◇◇


 午前八時五十六分。


 交差点にて創は右折車線の先頭で待っていた。


 対向車が途切れない。


 一台… 二台… 三台。


 後ろにも車がいる。


 待たせていることが気になり、創の指に力が入る。


「後ろを気にしすぎないでください」


『はい』


「安全が最優先です」


 やがて対向車が途切れ… 横断歩道に歩行者はいない。


 創は確認し、右折したその直後、信号が黄色へ変わる。


「今のでいいです」


『後ろの車を待たせました』


「待たせても、危険な右折をするよりずっといいです」


『はい』


 次は住宅街。


 見通しの悪い交差点が近づく。


 創は早めに速度を落とした。


 その直後、脇道から自転車が出てくる。


『っ……』


 創はブレーキを踏み、手前で停止した。


 自転車はそのまま通過する。


「今、止まれて良かったです」


『怖い』


「だから事前に速度を落としていた。その準備が生きました」


『はい』


「怖さを消す必要はありません」


『消さなくていい?』


「安全のために使えばいいんです」


『怖さを、安全に使う』


「そうです」


 創は、その言葉を頭に刻んだ。


 ◇◇◇


 午前九時二十二分。


 教習所へ戻る。


 指定位置で停止。


 パーキングブレーキ。


 P。


 エンジン停止。


 創は背もたれへ身体を預けた。


「お疲れさまでした」


『疲れました』


「どうでした?」


『場内が簡単に思えました』


「今さらですか?」


『すごく簡単でした』


「路上へ出ると、そう感じます」


『歩行者、自転車、バス、駐車車両。全部が同時に動く』


「それが一般道路です」


『頭が忙しい』


「少しずつ慣れます。ただし、慣れすぎて雑になってはいけません」


『はい』


 長瀬は教習記録へ記入する。


「今日良かったのは、怖くても止まりすぎる場面が減ったことです」


『本当に?』


「確認したあとの判断が、前より早くなっています」


『少しだけ』


「十分な進歩です」


『次は何をします?』


「もう少し交通量の多い道路を走ります」


『……』


「その顔をしない」


『はい』


 ◇◇◇


 午前十時十七分。


 高峰レディースクリニックの病棟。


 看護師の朝比奈麻衣・三十二歳が、診察へ向かう璟瑶を迎えに来る。


「欧陽さん、体調はいかがですか?」


「今は大丈夫です」


「張りや痛みがあれば、診察中でもすぐに言ってくださいね」


「はい」


 診察室では、高峰澪奈・四十九歳が待っていた。


「今日は超音波に少し時間を取ります」


「二人とも?」


「はい。成長と心拍、それから前回まで確認しにくかった部分も見ましょう」


 璟瑶は少し笑う。


「創が気にしてるところ?」


「多分、そうです」


「多分禁止って言われます」


「では、きっとそうです」


 澪奈も笑う。


「宮嶋さんは?」


「教習所が終わって、今は電話を待っています」


「つなぎますか?」


「お願いします」


 璟瑶はスマートフォンでビデオ通話を始める。


『もしもし』


「創」


『病院?』


「うん」


 画面に澪奈も映る。


『先生、おはようございます』


「おはようございます。路上教習はどうでした?」


『怖かったです』


「そのお話はあとで聞きましょう。まず二人を見ます」


『はい』


 ◇◇◇


 午前十時二十九分。


 超音波室にて、璟瑶が診察台へ横になる。


 澪奈が慎重にプローブを当てると、画面に一人目の姿が映った。


「まず、一人目です」


 頭… 身体。腕と脚… そして、小さく動く心臓。


「心拍は問題ありません」


 画面越しの創は、黙って見つめている。


「推定体重も順調です。羊水量にも、現時点で大きな問題はありません」


 続いて、もう一人。


「二人目です」


 角度を変えると、もう一つの身体が映る。


「こちらも心拍は問題ありません。成長しています」


「よかった」


『よかった』


 夫婦の声が重なる。


 澪奈はさらに時間をかけて、画面の角度を変えていく。


「今日は……」


 途中で言葉が止まる。


「先生?」


「今日は、お伝えしてよさそうです」


 創が画面へ近づく。


『何ですか?』


「性別です」


 璟瑶が息を止める。


『分かるんですか?』


「はい。今回は二人とも、かなり確認しやすい角度です」


 澪奈は一人目の画面を示した。


「こちらは、男の子です」


 創が止まる。


『……男の子』


「はい」


 次に、もう一人へ画面を切り替える。


「そして、こちらは女の子です」


 数秒、誰も言葉を発しなかった。


『男の子と、女の子……』


「うん」


『一人ずつ』


「うん」


 璟瑶の目が潤む。


 画面の向こうで、創がゆっくり笑った。


『息子と、娘』


 初めて、その言葉が出た。


「息子……娘……」


『うん』


「本当に、四人になるんだね」


『うん』


 璟瑶の目尻から、涙が一つこぼれる。


 澪奈は急かさず、二人を見守った。


「二人とも、現在のところ順調に成長しています」


「はい」


「ただし、性別が分かったことと、入院管理が必要なことは別です。入院は継続します」


「分かっています」


『先生』


「はい」


『本当にありがとうございます』


「そのお礼は、二人が無事に生まれてから、たくさん聞きます」


『はい』


 男の子… 女の子。


 それは単なる検査結果ではなかった。


 創と璟瑶にとって、まだ見ぬ二人が初めて「息子」と「娘」になった瞬間だった。


 ◇◇◇


 午前十一時三十八分。


 教習所近くのベンチ。


 創はスマートフォンを持ったまま、しばらく動けずにいた。


 息子… 娘。男の子と女の子。


 何度も頭の中で繰り返す。


 まず、父の宮嶋和久・五十二歳と、母の宮嶋恵美子・五十歳がいる家族のグループへ送る。


『分かった』


 恵美子から、すぐに返事が来る。


「何が?」


『双子の性別』


『男の子と女の子』


『一人ずつ』


 数秒後。


「本当に!?」


 続いて和久。


「男女の双子か」


『うん』


「おめでとう!」


「璟瑶さんにも伝えて」


 和久は、すぐに状態を確認する。


「二人とも元気なんだな?」


『うん。今のところ順調』


「よかった」


「本当によかった」


 恵美子から、次のメッセージが届く。


「名前も考えないとね」


 創の指が止まる。


『名前……』


 これまでは、ずっと「二人」と呼んでいた。


 今日からは息子と娘。


 名前を考える段階へ来た。


 創は璟瑶へ送る。


『名前、考えよう』


「うん」


「退院してからじゃなく、今から考えよう」


『候補、いっぱい出そう』


「創、変なのを出しそう」


『失礼』


 ◇◇◇


 正午十二時十六分。


 高嶺レディースクリニック。


 創は面会のため、病院へ到着した。


 ロビーを通りかかった時、見覚えのある男女に気づく。


『……』


 男性は、神谷直人・二十八歳。


 青嶺中央銀行営業企画部の行員。


 研修や社内説明会で、創も何度か話したことがある。


 その隣を歩く妊婦は、妻の神谷美沙・二十七歳。


 旧姓は今井。


 同じ青嶺中央銀行の財務企画部に所属している。


 現在は妊娠に伴い、入院管理を受けているようだった。


 直人が妻の身体を支えながら、ゆっくり歩いている。


 創は足を止めた。

 

 同じ銀行の夫婦が産婦人科にいる。


 それ自体は何も不思議ではない。


 問題は、創がなぜここにいるのか聞かれた場合だった。


『……まずい』


 創は二人に気づかれないよう、少し離れた通路へ向かう。


「宮嶋君?」


『……』


 呼び止められた。


 しかし、神谷の声ではない。


 振り返った創は、さらに驚いた。


『篠崎さん』


「やっぱり宮嶋君か。久しぶりだな」


 篠崎雅臣・四十三歳。


 東都共栄銀行本店、人材開発部の主任調査役。


 創が十八歳で入行した時、新人研修を担当し、仕事だけでなく生活面でも気にかけてくれた先輩だった。


『お久しぶりです』


「青嶺中央銀行へ移ったとは聞いてた。元気そうだな」


『はい』


「それで……」


 篠崎は周囲を見る。


「ここ、レディースクリニックだけど」


『……』


 逃げられない。


 しかし、妻の名前まで伝える必要はない。


 創は覚悟を決めた。


『実は、結婚しました』


「……え?」


『入籍してます』


「お前、まだ二十一歳だろ?」


『はい』


「本当に?」


 今日は休日… 創の左手には結婚指輪がある。


 その手を少し上げた。


『本当です』


 篠崎は目を見開く。


「……マジか」


『マジです』


「相手は?」


『それは、まだ言えません』


 篠崎は創の顔を見たが、それ以上は追及しなかった。


「そうか」


『それと、妻が妊娠しています』


「……」


『双子です』


「え?」


『今日、男の子と女の子だと分かりました』


 篠崎の口が少し開く。


「宮嶋君。情報量が多すぎる」


『最近、よく言われます』


 篠崎は思わず笑った。


 しかし、すぐに真面目な顔へ戻る。


「奥さんは大丈夫なのか?」


『今は入院しています』


「そうか」


『妻も双子も、今は元気です』


「なら、よかった」


 創は少し間を置く。


『篠崎さん。お願いがあります』


「何だ?」


『城東支店には、まだ言わないでください』


 神崎支店長。牧野副支店長。


 倉持課長。岸本課長。後輩の松岡。


 前の職場では、まだ誰も知らない。


「分かった」


『篠崎さん、城東支店にも知り合いがいますよね』


「ああ。昔からの知り合いが何人かいる」


『だから、お願いします』


「言わない。宮嶋君が自分で話すまで黙っている」


『ありがとうございます』


 創は名刺入れを取り出した。


 青嶺中央銀行の法人営業第一部… 宮嶋創。


『今は、ここにいます』


 篠崎は名刺を受け取る。


「本当に法人営業をやってるんだな」


『はい』


「東都共栄では、窓口も後方事務もやってた宮嶋君が」


『今は融資案件も担当させてもらってます』


 篠崎も自分の名刺を渡す。


「俺は今も人材開発部だ。少し役職は変わったけどな」


『新人を育てる仕事、続けてるんですね』


「意外と好きなんだ」


 創が少し笑う。


『篠崎さんは、どうしてここに?』


「従姉妹が妊娠して入院してる。今日は叔母の代わりに付き添いだ」


『そうだったんですね』


「俺が妊娠してるわけじゃない」


『分かってます』


「言ってみただけだ」


 二人で笑う。


「そういえば、花乃家にはまだ行ってるか?」


『千鶴さんの店?』


「ああ」


『最近は少し行けてないです』


「女将さん、俺も覚えてる。前に本店の取引先会合のあとで行ったから」


『千鶴さんは、俺が結婚したことだけ知ってます』


「相手は?」


『知りません』


「なるほど」


 篠崎は頷いた。


「落ち着いたら、今度は花乃家で飯を食おう。俺が奢る」


『前も奢ってもらいました』


「あの時は新人だったから。次は結婚祝いだ」


『まだ秘密です』


「なら、秘密の結婚祝い」


『何ですか、それ』


 再び二人で笑う。


「奥さん、大事にしろよ」


『はい』


「双子も」


『はい』


「城東支店には言わない。約束する」


『ありがとうございます』


 創は深く頭を下げた。

 

 篠崎と別れたあと、創は先ほどの通路を見る。


 神谷直人と美沙は、まだロビーにいた。


 今度こそ気づかれないよう、別の通路を使う。


『危なかった……』


 小さく呟き、病棟へ向かった。


 ◇◇◇


 午後一時二十八分。


 病室。


「おかえり」


『ただいま』


 創はベッド横の椅子へ座った。


「今日、色々あった顔してる」


『分かる?』


「妻だから」


『路上も怖かったけど、病院でも驚いた』


「何があったの?」


『東都共栄銀行の篠崎さんに会った』


「前の銀行の人?」


『うん』


「どうしてここに?」


『妊娠して入院してる従姉妹の付き添い』


「すごい偶然」


『結婚と妊娠と双子まで話した』


「私が妻だってことは?」


『言ってない』


「よかった」


『城東支店にも、まだ言わないでってお願いした』


「分かった」


『指輪も見せた』


 璟瑶が創の左手を見る。


「本当に結婚してるって証明したんだ」


『そうなる』


「何て言われた?」


『マジか、って』


「そりゃ言うよ」


 璟瑶が笑う。


『あと、青嶺中央銀行の顔見知り夫婦もいた』


「誰?」


『営業企画部の神谷直人さん。奥さんは財務企画部の神谷美沙さん』


「知ってるの?」


『顔と名前は』


「向こうも創を知ってる?」


『多分』


「気づかれた?」


『多分、気づかれてない』


「多分禁止」


『今日は使わせて』


 二人で笑ったけれど、創には分かっている。


 これまで自宅だけにあった秘密が、少しずつ外の世界へ触れ始めている。


 偶然会った元職場の先輩に同じ銀行で働く夫婦。


 病院へ通う以上、これからも誰かに会う可能性はある。


 秘密を完全に守り続けることは、少しずつ難しくなっていた。


 ◇◇◇


 午後一時四十四分。


 創は妻のお腹を見つめる。


『息子』


「うん」


『娘』


「うん」


 まだ呼び慣れない… それでも、その響きが嬉しい。


 創は許可を得てから、服の上へそっと手を置いた。


『息子。父ちゃん、今日初めて本格的に路上を走ったぞ』


「また父ちゃん」


『父ちゃんだから』


「はいはい」


 少し手の位置を変える。


『娘。お父さん、すごく怖かった』


 璟瑶が創を見る。


「息子には父ちゃんで、娘にはお父さん?」


『何となく』


「最初から差をつけないで」


『分かった』


 創は笑う。


『二人とも、父ちゃんでいい?』


「本人たちが選ぶまで、それでいいんじゃない?」


『じゃあ、父ちゃんで』


「気が早い」


『もう父親だから』


 少しの沈黙。


 創が尋ねる。


『名前、どうする?』


「今日はまだ決めない」


『候補だけ出す?』


「出す」


『日本でも中国でも読みやすい名前がいい』


「私も、それがいい」


『苗字や戸籍も、ちゃんと整理しないとな』


「それは家庭のことだから、私たちで考える」


『御子柴さんに相談する話じゃない?』


「銀行人事は関係ありません」


『そうだった』


 璟瑶が少し笑う。


「今日は、一人五個ずつ候補を出す?」


『男女五個ずつ?』


「十個ずつ」


『多い』


「双子だから」


『関係ある?』


「ある」


『じゃあ、やる』


 創はスマートフォンの共有メモを開いた。


 見出しを二つ作る。


 息子と娘の名前候補。


 まだ、その下は空欄。


 それでも二人は、しばらくその二行を眺めていた。


 ◇◇◇


 午後二時十一分。


 高峰澪奈が病室へ入る。


「名前を考えているんですか?」


『はい』


「まだ時間はありますよ」


「でも、息子と娘だと分かったら、考えたくなって」


「それでいいと思います」


 澪奈は微笑む。


「ただし、お母さんの休む時間を削らないこと」


「はい」


『名前を考えるのも仕事扱いですか?』


「場合によっては」


『厳しい』


「四十五歳、双胎妊娠、入院中ですから」


『はい』


 澪奈は状態を確認し、二人分の心拍記録を見る。


「息子さんも、娘さんも、今日も元気です」


 璟瑶の目が、また少し潤む。


「先生、その呼び方……まだ慣れない」


「そのうち慣れます」


『俺はもう、かなり好きです』


「何がですか?」


『息子と娘って呼ぶこと』


 璟瑶が笑う。


「本当に気が早い」


『早くない』


「まだ名前も空欄」


『今夜から考える』


「私を寝かせてね」


『はい』


 ◇◇◇


 午後五時五十二分。


 成城の新居。


 創は一人で帰宅した。


『ただいま』


 今日も返事はない。


 それでも、以前ほど家が空っぽには感じられなかった。


 本格的な路上教習に双子の性別判明。


 前職の先輩との再会し、また同じ銀行の夫婦との遭遇。


 一日の出来事が多すぎて、まだ頭の中で整理できていない。


 創はソファへ座り、共有メモを開いた。


 息子と娘の名前候補。


 その下は、まだ空欄。


『一人で決めるものじゃない』


 創は何も入力せず、画面を閉じた。


 同じ頃… 病室の璟瑶も、その共有メモを開いていた。


 まだ名前はない。


 けれど、空欄になった二つの欄を見ているだけで嬉しい。


 これまでは、二人とも「双子」と呼ばれていた。


 今日からは、少し違う。


 息子。


 娘。


 父親。


 母親。


 四人家族の形が、前よりはっきり見え始めた。


 創の路上教習も始まった。


 道路は、まだ怖い。


 それでも、怖さで止まり続けることはしない。


 確認する。また判断する。そして動く。


 それは運転だけでなく、仕事にも、夫としての生活にも、父親になる準備にもつながっていた。


 妻と息子と娘を守るために。


 創はまた一つ、前へ進んだ。


 しかし病院では、次の診察が近づいていた。


 二人の性別が分かった喜びの一方で、母体への負担は確実に増している。


 そして次回。


 璟瑶の入院生活と働き方を、さらに大きく変える判断が下されようとしていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、創にとって二つの大きな前進がありました。


一つは、仮免取得後の本格的な路上教習。


もう一つは、双子が「男の子と女の子」だと正式に分かったことです。


これまで「二人」と呼んでいた存在が、今日から少しずつ「息子」と「娘」に変わっていきます。


また病院では、青嶺中央銀行の顔見知りの行員夫婦、さらに前職・東都共栄銀行時代に世話になった篠崎との偶然の再会も。


創は結婚と双子の妊娠を明かしましたが、妻が欧陽璟瑶であることはまだ秘密のままです。


次回、第97話。


出産の日が少しずつ近づく中、創は銀行員として通常勤務を続け、璟瑶は病室でその時を待つことになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。