第96話「初めての路上――そして、双子の性別が分かった日」
第96話です。
今回は、仮免を取得した創が本格的な路上教習へ。
場内とは違い、歩行者、自転車、バス、駐車車両、対向車など、実際の交通の中で「確認したら、判断して、動く」ことを学んでいきます。
そして病院では、ついに双子の性別が判明。
男の子と女の子――。
創と璟瑶が初めて「息子」「娘」と呼び、名前について考え始める、大きな節目の一話です。
土曜日。
午前七時十二分。
東京都世田谷区、成城。新居。
『仮免許証……ある』
宮嶋創・二十一歳は、玄関で持ち物を確認していた。
『財布、ある。スマートフォン、ある。教習原簿、ある。家の鍵、ある』
一つずつ確認し、最後に仮運転免許証の入ったケースをもう一度見る。
『……ある』
今日は第二段階に入ってから、最初の本格的な路上教習。
前回は教習所周辺を短時間走っただけだった。
今日は一般道路を、もっと長く走る。
『……怖い』
一人で呟いた時、スマートフォンが震えた。
「おはよう」
入院中の妻、欧陽璟瑶・四十五歳からだった。
『おはよう』
『今日、本格的な路上』
「知ってる」
『怖い』
「前回も言ってた」
『今日は前回より怖い』
「大丈夫」
「確認したら、判断して、動く」
『長瀬さんみたい』
「最近、みんな同じことを言うね」
『俺に必要だからだろ』
「分かってる」
『行ってくる』
「気をつけて」
『うん』
「創」
『何?』
「帰り、病院へ来る?」
『行く』
「待ってる」
創は少し笑った。
『行ってきます』
「いってらっしゃい」
画面越しに朝の挨拶を交わし、新居を出た。
◇◇◇
午前八時四分。
成城中央自動車学校。
受付で教習原簿と仮運転免許証の確認を受ける。
今日の担当も、長瀬孝弘・四十六歳だった。
「おはようございます」
『おはようございます』
「宮嶋さん。今日は本格的に一般道路を走ります」
『前回より緊張してます』
「前回は、教習所周辺を短く走っただけでしたからね」
『今日は?』
「交通量のある道路も走ります」
『余計に怖くなりました』
長瀬が少し笑う。
「路上では、周囲の車は宮嶋さんが教習中だからといって待ってくれません」
『はい』
「歩行者、自転車、バイク、バス、駐車車両、信号、工事、車線変更、右折待ち」
一つずつ挙げていく。
「全部が実際に動いています」
『はい』
「場内では、教習所側が条件を用意してくれます。でも、路上では違います」
『自分で周りを見る』
「そして、周りの動きに合わせる」
『はい』
「怖さは持っていていいです。ただし、怖さで判断を止めないこと」
『分かりました』
「では、行きましょう」
◇◇◇
午前八時二十一分。
教習車。
創は運転席へ座った。
座席。
背もたれ。
ヘッドレスト。
ルームミラー。
ドアミラー。
シートベルト。
ブレーキをしっかり踏める位置。
一つずつ調整する。
「準備できましたか?」
『はい』
「出口を右折して、一般道路へ入ります」
『……はい』
エンジンを始動。
セレクターをDへ。
合図。ミラー。目視。
歩行者なし。自転車なし。
右から来た車が一台、通過する。
その後は空いている。
創は、もう一度確認しそうになった。
「宮嶋さん、今なら行けます」
『はい』
ブレーキを緩め、アクセルを軽く踏む。
教習車が一般道路へ出た。
すぐ前方に、自転車が見える。
『自転車』
「見えています。まず距離を取りましょう」
創は速度を落とす。
追い越したいが、対向車が来ている。
焦らず待つ… 対向車が通過。
後方と右側を確認し、自転車との側方間隔を十分に取って追い越す。
「いいです」
『……』
「息を止めないでください」
『止まってました?』
「少し」
『運転で呼吸が止まると思わなかった』
「判断にも影響します。普通に呼吸してください」
『はい』
次はバス停。
路線バスが停車している。
創が速度を落とした時、バスの右ウインカーが点滅した。
『出ようとしてる』
「どうしますか?」
『譲ります』
「はい」
創は減速し、バスの発進を妨げない。
その後ろへ入る。
「路線バスの発進を妨げないことも大切です」
『はい』
青信号の交差点。
横断歩道の手前に高齢者が立っている。
「信号は青です。でも?」
『歩行者を見ます』
高齢者は渡らない。
周囲の安全を確かめ、創はそのまま進んだ。
次の交差点を左折する。
左ミラー。
目視。
後方から自転車が近づいていた。
創は早めに速度を落とし、自転車を先に行かせる。
「それでいいです」
『巻き込みが怖い』
「左折時の重要な危険の一つです。見つけた時点で、先に判断できたのは良かったですよ」
『はい』
◇◇◇
午前八時四十一分。
少しずつ交通量が増えてくる。
前方の路肩に、駐車車両が一台。
創はすぐ右ウインカーを出そうとした。
「その前に、後方です」
『はい』
ミラーを見る。
後ろから一台、近づいている。
『待ちます』
「はい」
後続車が通過する。
改めて合図をし、ミラーまたは目視。
右側へ進路を変え、駐車車両を避ける。
その後、左側へ戻った。
「今の流れは良かったです」
『ありがとうございます』
「ただし、駐車車両だけを見ないこと」
『人が降りてくる可能性?』
「はい。ドアが突然開くこともあります」
『車の中まで考える』
「そこまで予測できればいいです」
続いて、片側二車線の道路へ入る。
「次の交差点に備えて、右車線へ移ってください」
創はミラーを確認し、合図を出す。
右後方の車が少し近い。
その車を先に通し… 改めて確認し、右車線へ入った。
「確認はできています」
『でも?』
「最初の時点でも、入れる余裕はありました」
『やっぱり待ちすぎた』
「危険でなければ、行く。路上では、その判断も必要です」
『確認したら、判断して、動く』
「はい」
場内で何度も聞いた言葉。
路上へ出た今、その意味が以前よりはっきり分かる。
止まりすぎれば、後続車の流れに影響する。
急げば、事故につながる。
安全を確かめたうえで、周囲に合わせて動かなければならない。
◇◇◇
午前八時五十六分。
交差点にて創は右折車線の先頭で待っていた。
対向車が途切れない。
一台… 二台… 三台。
後ろにも車がいる。
待たせていることが気になり、創の指に力が入る。
「後ろを気にしすぎないでください」
『はい』
「安全が最優先です」
やがて対向車が途切れ… 横断歩道に歩行者はいない。
創は確認し、右折したその直後、信号が黄色へ変わる。
「今のでいいです」
『後ろの車を待たせました』
「待たせても、危険な右折をするよりずっといいです」
『はい』
次は住宅街。
見通しの悪い交差点が近づく。
創は早めに速度を落とした。
その直後、脇道から自転車が出てくる。
『っ……』
創はブレーキを踏み、手前で停止した。
自転車はそのまま通過する。
「今、止まれて良かったです」
『怖い』
「だから事前に速度を落としていた。その準備が生きました」
『はい』
「怖さを消す必要はありません」
『消さなくていい?』
「安全のために使えばいいんです」
『怖さを、安全に使う』
「そうです」
創は、その言葉を頭に刻んだ。
◇◇◇
午前九時二十二分。
教習所へ戻る。
指定位置で停止。
パーキングブレーキ。
P。
エンジン停止。
創は背もたれへ身体を預けた。
「お疲れさまでした」
『疲れました』
「どうでした?」
『場内が簡単に思えました』
「今さらですか?」
『すごく簡単でした』
「路上へ出ると、そう感じます」
『歩行者、自転車、バス、駐車車両。全部が同時に動く』
「それが一般道路です」
『頭が忙しい』
「少しずつ慣れます。ただし、慣れすぎて雑になってはいけません」
『はい』
長瀬は教習記録へ記入する。
「今日良かったのは、怖くても止まりすぎる場面が減ったことです」
『本当に?』
「確認したあとの判断が、前より早くなっています」
『少しだけ』
「十分な進歩です」
『次は何をします?』
「もう少し交通量の多い道路を走ります」
『……』
「その顔をしない」
『はい』
◇◇◇
午前十時十七分。
高峰レディースクリニックの病棟。
看護師の朝比奈麻衣・三十二歳が、診察へ向かう璟瑶を迎えに来る。
「欧陽さん、体調はいかがですか?」
「今は大丈夫です」
「張りや痛みがあれば、診察中でもすぐに言ってくださいね」
「はい」
診察室では、高峰澪奈・四十九歳が待っていた。
「今日は超音波に少し時間を取ります」
「二人とも?」
「はい。成長と心拍、それから前回まで確認しにくかった部分も見ましょう」
璟瑶は少し笑う。
「創が気にしてるところ?」
「多分、そうです」
「多分禁止って言われます」
「では、きっとそうです」
澪奈も笑う。
「宮嶋さんは?」
「教習所が終わって、今は電話を待っています」
「つなぎますか?」
「お願いします」
璟瑶はスマートフォンでビデオ通話を始める。
『もしもし』
「創」
『病院?』
「うん」
画面に澪奈も映る。
『先生、おはようございます』
「おはようございます。路上教習はどうでした?」
『怖かったです』
「そのお話はあとで聞きましょう。まず二人を見ます」
『はい』
◇◇◇
午前十時二十九分。
超音波室にて、璟瑶が診察台へ横になる。
澪奈が慎重にプローブを当てると、画面に一人目の姿が映った。
「まず、一人目です」
頭… 身体。腕と脚… そして、小さく動く心臓。
「心拍は問題ありません」
画面越しの創は、黙って見つめている。
「推定体重も順調です。羊水量にも、現時点で大きな問題はありません」
続いて、もう一人。
「二人目です」
角度を変えると、もう一つの身体が映る。
「こちらも心拍は問題ありません。成長しています」
「よかった」
『よかった』
夫婦の声が重なる。
澪奈はさらに時間をかけて、画面の角度を変えていく。
「今日は……」
途中で言葉が止まる。
「先生?」
「今日は、お伝えしてよさそうです」
創が画面へ近づく。
『何ですか?』
「性別です」
璟瑶が息を止める。
『分かるんですか?』
「はい。今回は二人とも、かなり確認しやすい角度です」
澪奈は一人目の画面を示した。
「こちらは、男の子です」
創が止まる。
『……男の子』
「はい」
次に、もう一人へ画面を切り替える。
「そして、こちらは女の子です」
数秒、誰も言葉を発しなかった。
『男の子と、女の子……』
「うん」
『一人ずつ』
「うん」
璟瑶の目が潤む。
画面の向こうで、創がゆっくり笑った。
『息子と、娘』
初めて、その言葉が出た。
「息子……娘……」
『うん』
「本当に、四人になるんだね」
『うん』
璟瑶の目尻から、涙が一つこぼれる。
澪奈は急かさず、二人を見守った。
「二人とも、現在のところ順調に成長しています」
「はい」
「ただし、性別が分かったことと、入院管理が必要なことは別です。入院は継続します」
「分かっています」
『先生』
「はい」
『本当にありがとうございます』
「そのお礼は、二人が無事に生まれてから、たくさん聞きます」
『はい』
男の子… 女の子。
それは単なる検査結果ではなかった。
創と璟瑶にとって、まだ見ぬ二人が初めて「息子」と「娘」になった瞬間だった。
◇◇◇
午前十一時三十八分。
教習所近くのベンチ。
創はスマートフォンを持ったまま、しばらく動けずにいた。
息子… 娘。男の子と女の子。
何度も頭の中で繰り返す。
まず、父の宮嶋和久・五十二歳と、母の宮嶋恵美子・五十歳がいる家族のグループへ送る。
『分かった』
恵美子から、すぐに返事が来る。
「何が?」
『双子の性別』
『男の子と女の子』
『一人ずつ』
数秒後。
「本当に!?」
続いて和久。
「男女の双子か」
『うん』
「おめでとう!」
「璟瑶さんにも伝えて」
和久は、すぐに状態を確認する。
「二人とも元気なんだな?」
『うん。今のところ順調』
「よかった」
「本当によかった」
恵美子から、次のメッセージが届く。
「名前も考えないとね」
創の指が止まる。
『名前……』
これまでは、ずっと「二人」と呼んでいた。
今日からは息子と娘。
名前を考える段階へ来た。
創は璟瑶へ送る。
『名前、考えよう』
「うん」
「退院してからじゃなく、今から考えよう」
『候補、いっぱい出そう』
「創、変なのを出しそう」
『失礼』
◇◇◇
正午十二時十六分。
高嶺レディースクリニック。
創は面会のため、病院へ到着した。
ロビーを通りかかった時、見覚えのある男女に気づく。
『……』
男性は、神谷直人・二十八歳。
青嶺中央銀行営業企画部の行員。
研修や社内説明会で、創も何度か話したことがある。
その隣を歩く妊婦は、妻の神谷美沙・二十七歳。
旧姓は今井。
同じ青嶺中央銀行の財務企画部に所属している。
現在は妊娠に伴い、入院管理を受けているようだった。
直人が妻の身体を支えながら、ゆっくり歩いている。
創は足を止めた。
同じ銀行の夫婦が産婦人科にいる。
それ自体は何も不思議ではない。
問題は、創がなぜここにいるのか聞かれた場合だった。
『……まずい』
創は二人に気づかれないよう、少し離れた通路へ向かう。
「宮嶋君?」
『……』
呼び止められた。
しかし、神谷の声ではない。
振り返った創は、さらに驚いた。
『篠崎さん』
「やっぱり宮嶋君か。久しぶりだな」
篠崎雅臣・四十三歳。
東都共栄銀行本店、人材開発部の主任調査役。
創が十八歳で入行した時、新人研修を担当し、仕事だけでなく生活面でも気にかけてくれた先輩だった。
『お久しぶりです』
「青嶺中央銀行へ移ったとは聞いてた。元気そうだな」
『はい』
「それで……」
篠崎は周囲を見る。
「ここ、レディースクリニックだけど」
『……』
逃げられない。
しかし、妻の名前まで伝える必要はない。
創は覚悟を決めた。
『実は、結婚しました』
「……え?」
『入籍してます』
「お前、まだ二十一歳だろ?」
『はい』
「本当に?」
今日は休日… 創の左手には結婚指輪がある。
その手を少し上げた。
『本当です』
篠崎は目を見開く。
「……マジか」
『マジです』
「相手は?」
『それは、まだ言えません』
篠崎は創の顔を見たが、それ以上は追及しなかった。
「そうか」
『それと、妻が妊娠しています』
「……」
『双子です』
「え?」
『今日、男の子と女の子だと分かりました』
篠崎の口が少し開く。
「宮嶋君。情報量が多すぎる」
『最近、よく言われます』
篠崎は思わず笑った。
しかし、すぐに真面目な顔へ戻る。
「奥さんは大丈夫なのか?」
『今は入院しています』
「そうか」
『妻も双子も、今は元気です』
「なら、よかった」
創は少し間を置く。
『篠崎さん。お願いがあります』
「何だ?」
『城東支店には、まだ言わないでください』
神崎支店長。牧野副支店長。
倉持課長。岸本課長。後輩の松岡。
前の職場では、まだ誰も知らない。
「分かった」
『篠崎さん、城東支店にも知り合いがいますよね』
「ああ。昔からの知り合いが何人かいる」
『だから、お願いします』
「言わない。宮嶋君が自分で話すまで黙っている」
『ありがとうございます』
創は名刺入れを取り出した。
青嶺中央銀行の法人営業第一部… 宮嶋創。
『今は、ここにいます』
篠崎は名刺を受け取る。
「本当に法人営業をやってるんだな」
『はい』
「東都共栄では、窓口も後方事務もやってた宮嶋君が」
『今は融資案件も担当させてもらってます』
篠崎も自分の名刺を渡す。
「俺は今も人材開発部だ。少し役職は変わったけどな」
『新人を育てる仕事、続けてるんですね』
「意外と好きなんだ」
創が少し笑う。
『篠崎さんは、どうしてここに?』
「従姉妹が妊娠して入院してる。今日は叔母の代わりに付き添いだ」
『そうだったんですね』
「俺が妊娠してるわけじゃない」
『分かってます』
「言ってみただけだ」
二人で笑う。
「そういえば、花乃家にはまだ行ってるか?」
『千鶴さんの店?』
「ああ」
『最近は少し行けてないです』
「女将さん、俺も覚えてる。前に本店の取引先会合のあとで行ったから」
『千鶴さんは、俺が結婚したことだけ知ってます』
「相手は?」
『知りません』
「なるほど」
篠崎は頷いた。
「落ち着いたら、今度は花乃家で飯を食おう。俺が奢る」
『前も奢ってもらいました』
「あの時は新人だったから。次は結婚祝いだ」
『まだ秘密です』
「なら、秘密の結婚祝い」
『何ですか、それ』
再び二人で笑う。
「奥さん、大事にしろよ」
『はい』
「双子も」
『はい』
「城東支店には言わない。約束する」
『ありがとうございます』
創は深く頭を下げた。
篠崎と別れたあと、創は先ほどの通路を見る。
神谷直人と美沙は、まだロビーにいた。
今度こそ気づかれないよう、別の通路を使う。
『危なかった……』
小さく呟き、病棟へ向かった。
◇◇◇
午後一時二十八分。
病室。
「おかえり」
『ただいま』
創はベッド横の椅子へ座った。
「今日、色々あった顔してる」
『分かる?』
「妻だから」
『路上も怖かったけど、病院でも驚いた』
「何があったの?」
『東都共栄銀行の篠崎さんに会った』
「前の銀行の人?」
『うん』
「どうしてここに?」
『妊娠して入院してる従姉妹の付き添い』
「すごい偶然」
『結婚と妊娠と双子まで話した』
「私が妻だってことは?」
『言ってない』
「よかった」
『城東支店にも、まだ言わないでってお願いした』
「分かった」
『指輪も見せた』
璟瑶が創の左手を見る。
「本当に結婚してるって証明したんだ」
『そうなる』
「何て言われた?」
『マジか、って』
「そりゃ言うよ」
璟瑶が笑う。
『あと、青嶺中央銀行の顔見知り夫婦もいた』
「誰?」
『営業企画部の神谷直人さん。奥さんは財務企画部の神谷美沙さん』
「知ってるの?」
『顔と名前は』
「向こうも創を知ってる?」
『多分』
「気づかれた?」
『多分、気づかれてない』
「多分禁止」
『今日は使わせて』
二人で笑ったけれど、創には分かっている。
これまで自宅だけにあった秘密が、少しずつ外の世界へ触れ始めている。
偶然会った元職場の先輩に同じ銀行で働く夫婦。
病院へ通う以上、これからも誰かに会う可能性はある。
秘密を完全に守り続けることは、少しずつ難しくなっていた。
◇◇◇
午後一時四十四分。
創は妻のお腹を見つめる。
『息子』
「うん」
『娘』
「うん」
まだ呼び慣れない… それでも、その響きが嬉しい。
創は許可を得てから、服の上へそっと手を置いた。
『息子。父ちゃん、今日初めて本格的に路上を走ったぞ』
「また父ちゃん」
『父ちゃんだから』
「はいはい」
少し手の位置を変える。
『娘。お父さん、すごく怖かった』
璟瑶が創を見る。
「息子には父ちゃんで、娘にはお父さん?」
『何となく』
「最初から差をつけないで」
『分かった』
創は笑う。
『二人とも、父ちゃんでいい?』
「本人たちが選ぶまで、それでいいんじゃない?」
『じゃあ、父ちゃんで』
「気が早い」
『もう父親だから』
少しの沈黙。
創が尋ねる。
『名前、どうする?』
「今日はまだ決めない」
『候補だけ出す?』
「出す」
『日本でも中国でも読みやすい名前がいい』
「私も、それがいい」
『苗字や戸籍も、ちゃんと整理しないとな』
「それは家庭のことだから、私たちで考える」
『御子柴さんに相談する話じゃない?』
「銀行人事は関係ありません」
『そうだった』
璟瑶が少し笑う。
「今日は、一人五個ずつ候補を出す?」
『男女五個ずつ?』
「十個ずつ」
『多い』
「双子だから」
『関係ある?』
「ある」
『じゃあ、やる』
創はスマートフォンの共有メモを開いた。
見出しを二つ作る。
息子と娘の名前候補。
まだ、その下は空欄。
それでも二人は、しばらくその二行を眺めていた。
◇◇◇
午後二時十一分。
高峰澪奈が病室へ入る。
「名前を考えているんですか?」
『はい』
「まだ時間はありますよ」
「でも、息子と娘だと分かったら、考えたくなって」
「それでいいと思います」
澪奈は微笑む。
「ただし、お母さんの休む時間を削らないこと」
「はい」
『名前を考えるのも仕事扱いですか?』
「場合によっては」
『厳しい』
「四十五歳、双胎妊娠、入院中ですから」
『はい』
澪奈は状態を確認し、二人分の心拍記録を見る。
「息子さんも、娘さんも、今日も元気です」
璟瑶の目が、また少し潤む。
「先生、その呼び方……まだ慣れない」
「そのうち慣れます」
『俺はもう、かなり好きです』
「何がですか?」
『息子と娘って呼ぶこと』
璟瑶が笑う。
「本当に気が早い」
『早くない』
「まだ名前も空欄」
『今夜から考える』
「私を寝かせてね」
『はい』
◇◇◇
午後五時五十二分。
成城の新居。
創は一人で帰宅した。
『ただいま』
今日も返事はない。
それでも、以前ほど家が空っぽには感じられなかった。
本格的な路上教習に双子の性別判明。
前職の先輩との再会し、また同じ銀行の夫婦との遭遇。
一日の出来事が多すぎて、まだ頭の中で整理できていない。
創はソファへ座り、共有メモを開いた。
息子と娘の名前候補。
その下は、まだ空欄。
『一人で決めるものじゃない』
創は何も入力せず、画面を閉じた。
同じ頃… 病室の璟瑶も、その共有メモを開いていた。
まだ名前はない。
けれど、空欄になった二つの欄を見ているだけで嬉しい。
これまでは、二人とも「双子」と呼ばれていた。
今日からは、少し違う。
息子。
娘。
父親。
母親。
四人家族の形が、前よりはっきり見え始めた。
創の路上教習も始まった。
道路は、まだ怖い。
それでも、怖さで止まり続けることはしない。
確認する。また判断する。そして動く。
それは運転だけでなく、仕事にも、夫としての生活にも、父親になる準備にもつながっていた。
妻と息子と娘を守るために。
創はまた一つ、前へ進んだ。
しかし病院では、次の診察が近づいていた。
二人の性別が分かった喜びの一方で、母体への負担は確実に増している。
そして次回。
璟瑶の入院生活と働き方を、さらに大きく変える判断が下されようとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、創にとって二つの大きな前進がありました。
一つは、仮免取得後の本格的な路上教習。
もう一つは、双子が「男の子と女の子」だと正式に分かったことです。
これまで「二人」と呼んでいた存在が、今日から少しずつ「息子」と「娘」に変わっていきます。
また病院では、青嶺中央銀行の顔見知りの行員夫婦、さらに前職・東都共栄銀行時代に世話になった篠崎との偶然の再会も。
創は結婚と双子の妊娠を明かしましたが、妻が欧陽璟瑶であることはまだ秘密のままです。
次回、第97話。
出産の日が少しずつ近づく中、創は銀行員として通常勤務を続け、璟瑶は病室でその時を待つことになります。




