第94話「仮免試験――父親になる前に、まず道路へ出る資格を」
第94話です。
今回は、創の仮免試験をかなり濃く描きます。
みきわけから技能検定、学科試験まで進み、ついに仮運転免許を取得。
一方、黒瀬と琴葉は同年代の若手行員たちとリアル脱出ゲーム、カラオケ、居酒屋へ。
そして夜、創は入院中の璟瑶の病室へ向かい、双子にも仮免合格を報告します。
少しずつ父親になる準備も進んでいきます。
土曜日。
午前五時四十八分。
東京都世田谷区、成城の新居。
『……』
宮嶋創・二十一歳は、静かな寝室で目を覚ました。
妻の欧陽璟瑶・四十五歳が入院してから、六日目。
平日は銀行へ出勤し、夜はビデオ通話をする。面会できる日は病院へ行く。
少しずつ慣れようとしていた。
それでも、隣が空いた朝だけは慣れない。
そして今日は、いつもの休日とも違った。
成城中央自動車学校。
第一段階のみきわめ。
それを通過すれば、仮免許技能検定。
さらに学科試験にも合格すれば、仮運転免許を取得できる。
創はスマートフォンを取り、妻へメッセージを送った。
『おはよう』
『今日、行ってくる』
午前五時四十九分。
病院ではまだ早い。
返事が来ないことを確認し、創はベッドを出た。
◇◇◇
午前六時二十一分。
キッチン。
朝食は、トースト、スクランブルエッグ、サラダ、ヨーグルト。
今日はコーヒーを少しだけ飲む。
テーブルには教本と問題集を開いていた。
一時停止。徐行。
優先道路。横断歩道。
駐停車。安全地帯。
踏切。標識と標示。
『これは○』
答えを確認する。
正解。
『これは×』
また正解。
『学科は大丈夫』
少し考え、付け加える。
『……多分』
そして、自分で首を振った。
『多分禁止』
璟瑶に言われる前に、自分で言う。
その時、スマートフォンが振動した。
「おはよう」
「起きてる」
創はすぐに返す。
『体調は?』
「大丈夫」
「少し張りはあるけど、朝の確認は問題なし」
『今日も無理しないで』
「創も」
「確認しすぎて止まらないでね」
『まだ何も言ってない』
「分かる」
『今日、みきわめを通ったら、そのまま仮免試験』
「緊張してる?」
『かなり』
「それでいい」
『また崇岳さんと長瀬さんと同じこと言ってる』
「みんな、創の扱いを分かってる」
『酷い』
「受かったら、一番に教えて」
『うん』
創は少し迷ってから続ける。
『今日の夜、病院へ行く』
「分かった」
『入院してから、ちゃんと病室へ行くの初めてだから』
「待ってる」
創はスマートフォンを伏せた。
今、考えることは一つ。
まず、仮免試験へ進み… そして合格する。
◇◇◇
午前七時四十八分。
成城中央自動車学校。
土曜日のロビーは、平日より混み合っていた。
創が受付を済ませると、見慣れた顔が集まってくる。
河合悠斗・二十二歳。一ノ瀬結菜・十九歳。
佐原海斗・二十五歳。安西美咲・三十二歳。
西野蓮・十八歳。
「宮嶋さん、今日みきわめ?」
河合が尋ねる。
『うん』
「通ったら、そのまま仮免?」
『その予定』
一ノ瀬が創の顔を見る。
「緊張してる?」
『かなり』
西野も覗き込む。
「いつもより顔、固いです」
『そんなに?』
「銀行員って、試験には強そうですけどね」
佐原の言葉に、創は首を振る。
『運転と銀行は関係ないです』
「運転は点数だけじゃないからね」
安西が言う。
『それが怖いんです』
その時、背後から声がした。
「怖いなら、きちんと確認する」
長瀬孝弘・四十六歳。
創の担当教官だった。
「ただし、確認したら止まらない」
『おはようございます』
「おはようございます」
長瀬は創の教習原簿を見る。
「今日が第一段階最後のみきわめです」
『はい』
「試験を意識して、急に違う運転をしないでください」
『はい』
「いつも通り、確認して、判断して、動く」
『はい』
何度も言われてきた言葉。
だが今日ほど、その言葉が必要な日はなかった。
◇◇◇
午前八時十二分。
第一段階、みきわめ。
創は教習車の運転席へ座った。
シートと背もたれ。
ヘッドレストにミラー。
シートベルトとブレーキを確実に踏める位置。
一つずつ調整する。
「準備できたら始めましょう」
『はい』
エンジンを始動する。
セレクターをDへ。
ミラー。合図。目視。
周囲の安全を確認する。
『……』
「宮嶋さん」
『はい』
「もう確認できています」
『……はい』
「発進してください」
創はブレーキを緩めた。
教習車が、ゆっくり動き始める。
最初の交差点は右折。
対向車と歩行者なし。
安全は確認できている。
それでも創は、一瞬止まりすぎた。
「今、行けました」
『はい』
「確認はできています。その次は?」
『判断して、動く』
「はい」
次の左折。
左ミラー。
目視。
巻き込み確認。
十分に減速し、左側へ寄せて曲がる。
「今のはいいです」
『ありがとうございます』
一時停止では、停止線の直前で完全に止まる。
左右を確認。
見通しの悪い場所では少し前へ出て、徐行しながら再確認する。
坂道発進。
以前ほどの緊張はない。
後退せず、滑らかに発進できた。
「問題ありません」
続いてS字。
最初に挑戦した時、後輪が縁石へ乗りそうになった場所だった。
速度を十分に落とす。
近い場所だけを見ず、少し先へ視線を置く。
前輪と後輪が通る位置を意識しながら、ハンドルを切る。
一つ目のカーブ… 二つ目のカーブ。
縁石へ触れず、出口を抜けた。
「今日は、銀行で言えば差し戻しなしです」
『覚えてたんですか』
「宮嶋さんが言ったんでしょう」
『今日はS字に勝ちました』
「勝負ではありません」
長瀬の声にも、わずかに笑いが混じっていた。
次はクランク。
一つ目の角は通過… 二つ目で、右後輪が内側へ近づく。
創は無理に進まず、一度停止した。
周囲を確認し、落ち着いて切り返す。
「それでいいです」
『一発で通れなかった』
「検定は、切り返しただけで不合格になるわけではありません。無理に進んで接触する方が問題です」
『はい』
障害物回避。
後方確認。合図。
対向車を待つ。
十分な間隔を取って通過し、左側へ戻る。
最後は指示速度。
「この区間で、時速四十キロまで出してください」
『はい』
三十。三十五。三十八… 四十。
場内で出す四十キロは、今でも速く感じる。
それでも前方へ視線を置き、速度を安定させる。
指定区間を終え、早めにアクセルを戻す。
滑らかに減速。
「今のはいいです」
『ありがとうございます』
発着点へ戻る。
左側へ寄せて停止。
パーキングブレーキ。
セレクターをPへ。
エンジン停止。
『……終わりました?』
「終わりです」
創は大きく息を吐いた。
「自分ではどうでした?」
『最初、何度か止まりすぎました』
「後半は直っていました」
『S字は?』
「問題ありません」
『クランクは?』
「切り返しはありましたが、安全に処理できています」
長瀬は教習原簿へ記入する。
「みきわめ、良好です」
『……本当に?』
「本当です。技能検定を受けられます」
『よかった』
「まだ合格ではありません」
『そうだった』
「気を抜かないでください」
『はい』
◇◇◇
午前九時二十七分。
仮免許技能検定。
待合室には、創を含めて数人の受検者がいた。
説明が始まる。
検定は減点方式。安全確認。
法令に従った運転。正確な操作。
重大な危険行為があれば、その場で中止になる。
創の手に、少し汗がにじむ。
今日の検定員は長瀬ではない。
真田修一・五十三歳。
「宮嶋創さん」
『はい』
「準備してください」
『はい』
創は教習車へ向かった。
車外から周囲を確認。
後方へ注意しながらドアを開け、乗車する。
シート、ミラーにヘッドレスト。
シートベルトとペダルへ届く足の位置。
一つずつ整える。
「準備ができたら、発進してください」
『はい』
エンジンを始動する。
ミラー。合図。目視… 後方確認。
一瞬、また止まりそうになる。
その時、長瀬の言葉が頭に浮かんだ。
確認したら。
判断して。
動く。
創はブレーキを緩めた。
教習車が発進する。
最初の左折。
巻き込みを確認し、十分に減速する。
一時停止では、停止線の直前で完全に止まる。
見通しの悪い交差点は徐行。
少しずつ前へ出て、左右を確認してから進む。
坂道発進。
問題なく通過。
S字へ入る。
『……』
呼吸を止めない。
速度を落とし、少し先を見る。
ハンドルを切り、戻す。
後輪の位置を意識する。
縁石に乗らず、出口を抜けた。
次はクランク。
一つ目の角を通る。
二つ目で、右後輪が内側へ近づいた。
創は迷う。
検定だから、一度で通りたい。
けれど、無理に進めば接触するかもしれない。
創は止まった。
周囲を確認し、一度だけ切り返す。
真田は何も言わない… 検定中に助言はない。
自分で確認し、自分で判断し、自分で動くしかない。
創はクランクを抜けた。
障害物を避ける。
対向車を待つ。
必要な間隔を確保して通過する。
指示速度の区間では、時速四十キロまで上げた。
三十。三十五。三十九。四十。
怖さはある。
それでも急にアクセルを戻さず、指定区間を走り切る。
終盤の右折。
対向車を待つ。
次の車までは距離がある。
横断歩道にも歩行者はいない。
もう一度確認したくなる。
しかし、安全は確認できている。
創は進んだ。
発着点へ戻り、左側へ寄せて停止する。
パーキングブレーキ。
P。
エンジン停止。
『……終わりました』
「はい。安全を確認して降車してください」
後方を確認してからドアを開ける。
検定は終わった。
点数は分からない。
合格か、不合格かも分からない。
大きな失敗をした感覚はない。
それでも結果が出るまで、不安は消えなかった。
◇◇◇
午前十時四十八分。
技能検定の結果が掲示される。
創は、自分の受検番号を探した。
『……』
あった。
『受かった』
小さく呟く。
近くにいた河合が振り向いた。
「本当?」
『技能、通った』
「おめでとう!」
一ノ瀬も駆け寄る。
「次は学科?」
『うん』
「頑張って」
『ありがとう』
創は笑った。
だが、すぐに気持ちを切り替える。
技能検定だけでは、仮免許を取得できない。
次は学科試験だった。
◇◇◇
午前十一時十二分。
仮免許学科試験。
問題が配られ、説明が終わる。
試験開始。
一問目は標識。
二問目は一時停止。
三問目は優先関係。
四問目は横断歩道。
五問目は安全地帯。
短い文章でも、一つの言葉で答えが変わる。
創は焦らず、一問ずつ読んだ。
『これは、“必ず”が違う』
×。
『これは歩行者優先』
○。
『駐車禁止でも、短時間の停車まで全部禁止ではない』
×。
迷った問題には印をつけ、最後に戻る。
残り時間は十分。
全問を見直す。
一問だけ、答えを変えたくなる。
創は問題文をもう一度読んだ。
『……最初の判断で合ってる』
答えは変えなかった。
確認する。
判断する。
そして提出する。
運転中だけでなく、学科試験でも同じだった。
◇◇◇
午後零時四分。
結果発表。
創は掲示された番号を追う。
一列目… 二列目… 三列目。
『……あった』
技能検定、合格。学科試験、合格。
必要な説明と手続きを終え、仮運転免許証を受け取る。
創はしばらく、それを見つめた。
『これが、仮免……』
まだ本免許ではない。
一人で自由に運転できるわけでもない。
次から始まるのは、第二段階。
初めての路上教習…それでも、確実に一歩進んだ。
創は真っ先に璟瑶へメッセージを送る。
『受かった』
『技能も学科も、両方』
数秒で既読がついた。
「仮免?」
『うん』
「おめでとう」
「本当に、おめでとう」
創の口元が緩む。
『夜、持っていく』
「見せて」
『うん』
続いて、黒瀬颯真と水無瀬琴葉のグループチャットへ送る。
『仮免、取った』
黒瀬から即座に返事が届く。
「おおおお!」
琴葉も続く。
「えっ、本当に?」
『本当に』
「おめでとう!」
「これで次から路上?」
『うん』
「怖そう」
『かなり』
「確認しすぎて、交差点で止まりそう」
『先生にも言われた』
黒瀬から一枚の写真が届く。
「俺たちは今日、こっち」
創は写真を開いた。
『……多い』
黒瀬と琴葉を含め、十六人。
謎解きイベントの会場前で、若手行員たちが並んでいる。
「同年代を集めた」
『誰がいるの?』
「今から紹介する」
◇◇◇
午後零時四十二分。
成城の新居。
創は一人で焼きそばと味噌汁を作り、昼食を取りながら送られてきた写真を見る。
男子は七人。
法人営業第二部の盛り上げ役、朝倉航平・二十七歳。
中小企業金融部で謎解きが得意な榊原悠斗・二十六歳。
不動産金融部の落ち着いた兄貴分、杉本蓮司・二十八歳。
ゲーム好きの水上拓海・二十五歳は、デジタル金融推進部。
経営企画部の分析型、三枝直人・二十七歳。
四十七都道府県事業推進室で旅行好きの高城陸人・二十六歳。
海外法人営業部で英語が得意な藤堂海斗・二十五歳。
女子も七人。
営業企画部でイベント好きの桜庭美月・二十六歳。
人事部の社交的な白石奈々・二十五歳。
総務部のしっかり者、藤沢彩花・二十七歳。
広報部で写真好きの小日向紗良・二十六歳。
海外旅行好きで国際金融部の松岡美咲・二十八歳。
琴葉と同じ個人営業企画部の成瀬結衣・二十五歳。
地方創生金融部で食べ歩き好きの橘川玲奈・二十七歳。
創は写真を拡大した。
『高城さんと白石さん、知ってる』
黒瀬から返事が来る。
「どこで?」
『高城さんはエレベーターで何回か。白石さんは研修の書類を受け取った時』
やがて、白石本人からもメッセージが来た。
「宮嶋君って、二十一歳のキャリア採用の人?」
『そうです』
「覚えてる! 若いキャリア採用の人!」
『覚え方、それなんですね』
「だって目立ってたから」
創は少し笑った。
◇◇◇
同じ頃。
都内のリアル脱出ゲーム会場。
十六人は二チームに分かれていた。
「絶対勝つぞ」
黒瀬が言う。
「脱出ゲームに勝ち負けある?」
琴葉が首をかしげる。
「タイムを競えるならある」
榊原が答える。
「まず役割を決めよう」
白石が全員を見て三枝がすぐに整理する。
「探索、記録、暗号、組み立て。この四つに分けた方が早い」
「経営企画、休日まで経営企画だな」
「合理的って言って」
全員が笑う。
「宮嶋君、こういうの得意そう」
琴葉が言う。
「確認しすぎて制限時間が終わるだろ」
黒瀬の一言で、また笑いが起きる。
「宮嶋君って、そんな感じなの?」
白石が尋ねる。
「すごく慎重」
「銀行でも教習所でも、確認、確認、確認」
高城が少し考える。
「でも、それなら融資業務に向いてそうだな」
「実際、今は法人営業をやってる」
開始の合図が鳴る。
室内には、数字、鍵、暗号、地図、ライト、箱、壁のポスター。
散らばる手掛かりを、十六人が探し始めた。
「四桁の鍵がある!」
「壁に色が四つ!」
「赤、青、黄、緑!」
「こっちは方角だ。North、East、South、West」
「方角?」
「地図!」
全員が一斉に動く。
銀行の仕事を離れ、同年代の仲間として休日を楽しんでいた。
午後二時二十五分。
両チームとも脱出成功。
一方は残り三分四十二秒。
もう一方は残り一分十一秒。
「危なかった!」
「でも、楽しかった!」
「次、カラオケでいい?」
「予約してあるよ」
「さすが営業企画」
「予約したのは人事の私」
笑いながら、十六人は次の場所へ向かった。
◇◇◇
午後三時十二分。
カラオケの大部屋。
黒瀬が最初にマイクを持つ。
「一曲目、誰が歌う?」
「言い出した黒瀬さん」
「俺?」
「責任取って」
「分かった。行くぞ」
テンポの速い曲が流れ、全員が手拍子を始める。
次は琴葉。
白石がデュエットへ加わり、高城がタンバリンを鳴らす。
水上が動画を撮ろうとすると、小日向が止めた。
「SNSへ載せるなら、全員に確認してね」
「広報、休日まで広報」
「大事だから」
その頃、創は自宅で第二段階の教本を開いていた。
グループチャットへ次々と届く写真を見る。
タンバリンを持つ黒瀬。
マイクを持つ琴葉。
十六人で肩を寄せた集合写真。
『楽しそう』
「来ればよかったのに」
『今日は仮免だったから』
「次は誘う」
『本免取ったら行く』
「宮嶋君も来よう!」
白石からも送られてくる。
高城も続けた。
「俺、一回エレベーターで宮嶋君と話したよな?」
『はい。四十七都道府県事業推進室ですよね』
「覚えてた!」
『部署名が特徴的なので』
「そっちか」
創は一人の部屋で笑った。
◇◇◇
午後六時十二分。
居酒屋の個室。
枝豆。
焼き鳥。
刺身。
唐揚げ。
だし巻き卵。
焼き魚。
サラダ。
鍋。
料理と飲み物が並ぶ。
「「乾杯!」」
十六人のグラスが合わさる。
「今日、久しぶりに仕事を忘れた」
琴葉が言う。
「来週には思い出すよ」
「やめて」
「採用の繁忙期も近いし」
「地方出張も増える」
「国際部門も忙しい」
黒瀬が周囲を見回す。
「今日は仕事の話、禁止」
「さっきから部署の話ばかりだろ」
また笑いが起きる。
「そういえば、宮嶋君が仮免を取ったよ」
琴葉が伝える。
「宮嶋君?」
「二十一歳のキャリア採用」
白石が説明し、高城も思い出す。
「東央精密の案件をやってる人?」
「知ってるの?」
「法人系で少し聞いた。まだ審査中だよな」
「そう。本人、ものすごく慎重だから」
「彼女がいるんだっけ?」
「いるって言ってる」
「結婚しそう?」
「まだ二十一歳だぞ」
「でも、落ち着いてるよな」
白石が楽しそうに言う。
「相手、年上だったりして」
「それはありそう」
「確かに」
誰も知らない。
彼女ではなく、妻で…その妻が四十五歳であること。
青嶺中央銀行の頭取であること。
そして今、双子を妊娠し、病院に入院していることも。
◇◇◇
午後八時三十六分。
病院。
創は面会手続きを終え、病室の扉をノックした。
「どうぞ」
扉を開ける。
『来た』
ベッドの上で身体を起こしていた璟瑶が、創を見る。
「おかえり」
創は一瞬、止まった。
ここは新居ではない。
それでも、この言葉を聞けば帰ってきたと思える。
『ただいま』
椅子へ座り、バッグから仮運転免許証を取り出す。
『受かった』
「仮免?」
『うん』
「おめでとう」
創が少し笑う。
『まだ半分だけど』
「それでも、私たちのために進んでる」
璟瑶は仮運転免許証を受け取り、じっくり見る。
「本当に仮免許」
『疑ってた?』
「少し」
『酷い』
「冗談」
『技能は最初、確認しすぎそうになった』
「やっぱり」
『でも、長瀬さんの言葉を思い出した』
「確認したら?」
『判断して』
「動く」
『そう』
「S字は?」
『通った』
「クランクは?」
『一回切り返した』
「減点?」
『多少は』
「でも合格?」
『うん』
「学科も?」
『合格』
「じゃあ、完璧」
『完璧ではない』
「創らしい」
創は笑い、それから妻のお腹を見る。
『触っていい?』
「どうぞ」
服の上から、そっと手を置く。
温かい。大きい。
その内側に、二人がいる。
創は少し身体を屈めた。
『父ちゃん、仮免取ったぞ』
「……」
『まだ二人を乗せられないけど、本免までちゃんと取るからな』
璟瑶が吹き出す。
「父ちゃんって、急に父親らしくなるね」
『父親だから』
「まだ生まれてない」
『もう父親だと思ってる』
璟瑶の表情が柔らかくなる。
「……そっか」
『うん』
その瞬間。
創の手の下で、小さな動きがあった。
『今、動いた』
「分かった?」
『うん。どっち?』
「分からない」
『二人とも?』
「仮免のお祝いかも」
『本当に?』
「多分」
『多分禁止』
「今日は使っていい」
二人で笑う。
◇◇◇
午後八時五十三分。
創は、黒瀬たちから届いた写真を璟瑶へ見せた。
「多いね」
『十六人』
「黒瀬さんと琴葉さん以外は?」
『同年代の行員。男子七人、女子七人』
「何をしてたの?」
『リアル脱出ゲーム。そのあとカラオケと居酒屋』
「若い」
『璟瑶も若い』
「今、病院で双子を妊娠している四十五歳」
『若い』
「強いね」
創は写真を拡大する。
『この人、高城陸人さん。四十七都道府県事業推進室』
「知ってるの?」
『何度かエレベーターで会った』
「この女性は?」
『白石奈々さん。人事部。研修の時に一度話した』
「覚えてるんだ」
『名前と部署は、なるべく覚えるようにしてる』
「銀行員」
『銀行員』
璟瑶は写真に写る黒瀬と琴葉を見る。
「楽しそう」
『かなり』
「二人には、まだ言ってないんだよね」
創の表情が少し真面目になる。
『うん』
「結婚も?」
『言ってない』
「双子も?」
『言ってない』
「何て言ってるの?」
『彼女がいるって』
「私、四十五歳の彼女?」
『今は四十五歳の妻』
「そう」
『黒瀬さんと琴葉さんを信用してないわけじゃない』
「分かってる」
『でも、一人に言ったら、そこからどこまで広がるか分からない』
「うん」
『銀行で知ってる人は増えたけど、全員、今必要な人だけだから』
「黒瀬さんと琴葉さんは、今は知らなくていい」
『俺もそう思う』
「いつか言えるかな」
創は少し考える。
『言える日が来ると思う』
「本当に?」
『ずっと隠すのは無理だろ』
璟瑶は自分の大きなお腹へ目を落とす。
「見た目は、もう完全に妊婦だからね」
『しかも双子』
「うん」
『でも今は、ここを優先』
「うん」
創が見つめているのは秘密ではない。
その秘密の中で育っている、二人の命だった。
◇◇◇
午後九時十一分。
看護師が病室へ入る。
「欧陽さん。そろそろ夜のモニターを準備しますね」
「はい」
創は時計を確認し、立ち上がった。
『じゃあ、帰る』
「もう?」
『検査もあるし、休んだ方がいい』
「うん」
妻の手を握る。
『次から路上』
「怖い?」
『かなり』
「でも今日、確認したあと動けたんでしょう?」
『うん』
「だったら路上でも同じ」
『簡単に言うなよ』
「銀行の頭取なので」
『運転は関係ない』
二人で笑う。
創が扉へ向かう。
「創」
『何?』
「仮免、本当におめでとう」
『ありがとう』
「次は本免」
『うん』
「私と二人を乗せるんでしょう?」
『乗せる』
「だったら急がなくていい」
『え?』
「ちゃんと上手になって、安全に取って」
創は少し笑った。
『それ、長瀬さんと同じ』
「じゃあ正しい」
『はい』
扉が閉まる。
◇◇◇
午後九時三十八分。
病室。
モニターから、二人分の心拍が聞こえる。
一つ…もう一つ。
規則的に響いている。
璟瑶はベッドへ横になり、先ほどの創の言葉を思い出した。
『父ちゃん、仮免取ったぞ』
「……ふふ」
二十一歳。
仮免許を取ったばかり。
それでも創は、父親になるための準備を一つずつ進めている。
一方、帰りの電車に乗った創も、仮運転免許証をしまったケースを何度も確認していた。
まだ一人では運転できない。
まだ公道を走ったこともない。
本免許までは、これからだ。
それでも今日、道路へ出る資格を手にした。
銀行員。夫。そして父親。
そして教習生。
全部を同時に抱えながら、また一歩前へ進んだ。
次はいよいよ、第二段階。
本当の道路での教習が始まる。
そして病院では、次の診察が近づいていた。
これまで角度が合わず、確定できなかったこと。
二人の性別が、ついに分かろうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、創がついに仮運転免許を取得しました。
まだ本免許までは半分ですが、「確認したら、判断して、動く」を意識しながら一歩前進。
黒瀬と琴葉にも合格を報告し、二人の休日の様子も描きました。
そして夜は、入院後初めて璟瑶の病室へ。
『父ちゃん、仮免取ったぞ』
そんな創の報告に、双子もお腹の中から応えてくれたようです。
次回、第95話。
病室から始まる頭取業務。
璟瑶を働かせすぎないため、水城・劉川・久世たちがさらに本格的に動き始めます。




