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第93話「頭取のいない四十二階――久世副頭取が預かった銀行」


第93話です。


今回は、璟瑶が入院した翌日の青嶺中央銀行。


普段なら頭取がいるはずの42階が空席となり、久世副頭取や各担当役員、そして役員秘書たちが一斉に動き始めます。


頭取案件をA・B・Cに分類し、「本当に璟瑶本人の判断が必要な仕事」だけを残す秘書たち。


一方、創は妻の入院を隠しながら普段通り出勤し、東央精密製作所の正式審査にも向き合います。


そして今回、桐生にもついに「双子妊娠」と「入院」の事実が明かされます。



 月曜日。


 午前五時十八分。


 東京都世田谷区、成城の新居。


『……』


 宮嶋創・二十一歳は、目を覚ました。


 いつもなら隣にいるはずの女性がいない。


 ベッドの反対側は、昨夜から綺麗に整ったまま。


 数秒、天井を見つめる。


 そして思い出す。


 妻の欧陽璟瑶は、昨日から病院にいる。


 双子を守るため、突然始まった入院生活。


 今日は、創が一人で迎える最初の朝だった。


『……起きるか』


 小さく呟き、ベッドを出る。


 ◇◇◇


 午前五時三十七分。


 キッチン。


 創はエプロンをつけ、昼の弁当を作り始めた。


 白米。


 鶏肉。


 卵。


 ほうれん草。


 人参。


 昨夜のうちに、ある程度の下ごしらえは済ませてある。


『塩は……少し』


 卵へ出汁と砂糖を加え、フライパンで巻いていく。


 一回… 二回… 三回。


 最後に少しだけ形が崩れた。


『璟瑶なら、もっと綺麗に――』


 そこまで言って、止まる。


『いや、あの人も料理はそこまで得意じゃないか』


 思い直し、一人で笑う。


 鶏肉の照り焼き。


 ほうれん草の胡麻和え。


 人参のきんぴら。


 最後にミニトマトを二つ詰める。


『よし』


 弁当箱の蓋を閉め、冷蔵庫へ入れた。


 いつもと同じ朝を作ろうとしている。


 それでも、キッチンから聞こえるのは自分の立てる音だけだった。


 ◇◇◇


 午前六時十二分。


 ダイニング。


 白米。


 味噌汁。


 納豆。


 焼き鮭。


 ヨーグルト。


 テレビでは朝の情報番組が流れている。


「東京市場では、先週末の海外市場を受け――」


 為替に株価。金利と海外市場。


 創は朝食を取りながら画面を見る。


 スポーツニュースに続いて、芸能ニュースへ移った。


「人気俳優の――さんと、女優の――さんが結婚を発表しました」


 創の箸が止まる。


『結婚発表……』


 自分たちも法的には夫婦だ。


 けれど、その事実を広く公表することはできない。


 芸能人の結婚ニュースを見ただけなのに、遠い世界の出来事のように感じた。


 創はスマートフォンを取り、璟瑶へメッセージを送る。


『おはよう。起きてる?』


 数十秒後、既読がついた。


「起きてる」


『体調は?』


「夜、少し張ったけど、看護師さんに見てもらった」


『今は?』


「落ち着いてる」


『本当に?』


「本当に」


『朝ご飯は?』


「もう少し後。創は?」


『今食べてる』


「白飯、味噌汁、鮭、納豆、ヨーグルト」


『……見てる?』


「いつも同じだから」


『全部当たってる。怖い』


「妻だから」


 創が少し笑う。


『今日は病院に行けない』


「知ってる。仕事して」


『終わったら電話する』


「うん」


『朝のニュースで、芸能人が結婚発表してた』


「へえ」


『普通にニュースになるんだな』


「何、今さら」


『俺たちは絶対無理だなって思った』


「今は公表しない」


『うん』


 短い沈黙のあと、璟瑶から続けて届く。


「ちゃんと食べてね」


『食べてる』


「気をつけて」


『うん』


「いってらっしゃい」


 創の指が止まる。


 いつもなら玄関で聞く言葉。


 今日はスマートフォンの画面にある。


 それでも、確かに妻から送られた言葉だった。


『行ってきます』


 ◇◇◇


 午前六時五十四分。


 玄関。


 創はスーツに着替え、弁当と社員証をバッグへ入れた。


 勤務日だから、左手の結婚指輪を外す。


 小さなケースを開く。


 いつもなら二本の指輪が並ぶ。


 だが、今日は創の一本だけ。


 璟瑶の指輪は、病院にいる妻の左手にある。


『行ってきます』


 誰もいない玄関へ言い、扉を閉めた。


 ◇◇◇


 午前七時二十一分。


 通勤電車。


 創は座席の端に座り、AirPodsで音楽を聴いていた。


 窓の外を、朝の街が流れていく。


 やがて頭を、今日の仕事へ切り替える。


 東央精密製作所。


 正式審査中の設備資金融資。


 設備導入が三か月遅れた場合。


 売上の立ち上がりは四か月遅延。


 さらに安定稼働まで一か月を置く。


 既存借入と新規借入の返済。


 据置期間。


 キャッシュフロー。


 創は音楽を止め、スマートフォンへメモを残した。


『設備メーカーの支払条件を再確認』


『ストレスケースの返済開始月』


『審査部の追加質問』


 再び音楽を流す。


 妻のことが心配でないわけではない。


 それでも、今の自分にできることを一つずつ進める。


 それが今日、璟瑶と話して決めたことだった。


 ◇◇◇


 午前八時十一分。


 東京都千代田区、大手町。


 青嶺中央銀行本店の四十二階。


 いつもの朝と、空気が違っていた。


 頭取室の扉は閉じていて… その中に、欧陽璟瑶はいない。


 第一秘書の劉川景仁・三十八歳と、第二秘書の水城絢乃・三十一歳は、早朝から予定と資料を振り分けていた。


 ホワイトボードには、大きく三つの分類が書かれている。


 A――頭取本人の判断が必要。


 B――久世副頭取または担当役員で処理可能。


 C――部門長の権限で処理可能。


「午前九時の国内戦略案件は?」


 水城が尋ねる。


「一部、頭取判断が必要です。ただし、前段階の整理は久世副頭取で可能です」


「では、現時点ではB」


「香港拠点の四半期報告は、早乙女常務と陳取締役で処理できます」


「Bです」


「国内法人の大口案件は、黒崎常務と水谷常務の管轄内です」


「それもB」


 頭取がいないからといって、すべてを頭取へ送ればいいわけではない。


 むしろ、逆だった。


 本人以外でも判断できるものを、頭取の前で止める。


 それも秘書の仕事だった。


「Aは、本当に必要なものだけにしましょう」


「はい。病院へ仕事を運ぶための分類ではありません」


「頭取を仕事から守るための分類です」


 午前八時二十分。


 四十一階と四十二階の役員秘書たちが、短時間の情報共有のため集まった。


 久世副頭取秘書、高城沙也香・三十六歳。


 黒崎常務秘書、桜庭亮介・三十七歳。


 早乙女常務秘書、如月絵里・三十五歳。


 そのほか、御子柴、榊原、長谷部、水谷、秋元、陳、相馬、武藤、神崎、西園寺を担当する秘書たちも顔を揃える。


 高城が予定を共有する。


「午前八時半から、久世副頭取主催の臨時役員打合せです」


 水城が続ける。


「頭取は、本日出社しません」


 数人の視線が動いた。


「体調不良ですか?」


「健康管理上、休養が必要な状態です。詳細は必要な範囲に限って共有します」


「復帰時期は?」


「未定です」


 部屋の空気が少し変わる。


 だが、誰もそれ以上は踏み込まなかった。


 個人の健康情報を憶測で聞き出すことは、役員秘書の仕事ではない。


 劉川がホワイトボードを指す。


「本日から案件をA、B、Cの三段階に分類します。海外案件は一度こちらで整理し、早乙女常務と陳取締役で判断できるものはBへ回します」


「欧州と米州は?」


 如月が尋ねる。


「原則として文書か録画報告です。時差を理由に、頭取の休養時間へ会議を入れないでください」


「承知しました」


「人事案件は?」


「御子柴専務、長谷部役員、神崎常務の権限内で処理できるものはBです」


「リスク案件は?」


「水谷常務と審査部で対応できるものはBかC」


「地方銀行との連携案件は?」


「西園寺常務と担当部門で処理します」


 頭取一人がいないだけで、多くの予定が動く。


 だからこそ、その仕事を再び頭取一人へ戻してはいけない。


「今日、秘書室は忙しくなります」


「少しですか?」


 桜庭が言う。


 如月も苦笑する。


「かなり、でしょうね」


 水城は頷いた。


「それでも、組織で処理します」


 ◇◇◇


 午前八時三十三分。


 四十階の役員会議室。


 中央に座るのは、久世宗一郎・五十七歳。


 その先にある頭取席は、空いていた。


 黒崎忠彦。早乙女慶一。御子柴泰成。


 榊原征司。長谷部章一。水谷征吾。


 秋元康成。陳高明。相馬玲二。


 武藤英明。神崎美玲。西園寺香織。


 主要な重役が揃う。


 久世が口を開いた。


「頭取は健康管理上、しばらく出社を控える」


「しばらく?」


 榊原が聞き返す。


「具体的な期間は未定だ」


「緊急性はありますか?」


 神崎の問いに、久世は慎重に答える。


「銀行運営上、直ちに危機対応が必要な状態ではない。ただし、本人の休養と治療を最優先する」


 結婚を知る御子柴も、妊娠までは知らない。


 何か事情があるとは感じても、黙って聞いていた。


 久世は全員を見渡す。


「頭取に何でも回すな。我々で判断できるものは、こちらで処理する」


 そして、役割を一つずつ割り振った。


「黒崎。法人金融、大企業営業、国内法人を頼む」


「承知しました」


「早乙女。市場、国際、海外部門を受けてくれ」


「承知しました」


「陳。中国と東アジア案件は、早乙女と連携してほしい」


「分かりました」


「水谷。審査とリスク管理は通常通りだ。頭取不在を理由に遅らせるな」


「承知しました」


「御子柴。人事は権限内で処理してくれ」


「はい」


「神崎。職場環境と人材対応を頼む」


「承知しました」


「西園寺。地方銀行との連携を止めるな」


「はい」


 久世は最後に、空いている頭取席を見る。


「頭取がいなくても、銀行は止まらない」


 全員の視線が集まる。


「止めない。それが我々の仕事だ」


 ◇◇◇


 午前九時を過ぎると、頭取が珍しく休んでいるという情報は、少しずつ行内へ広がった。


 一階の受付。


 七階の融資審査部。二十三階の個人営業企画部。


 二十九階の広報部。三十一階の国際金融部。


 三十八階の四十七都道府県事業推進室。


 それぞれの部署で、短い話題になる。


「頭取、今日はお休みなんだって」


「出張じゃないの?」


「体調かな」


「分からない。変な噂は広げない方がいいよ」


 人事部では、労務担当者が言う。


「個人の健康情報です。必要以上に知ろうとするものではありません」


 広報部では、外部から問い合わせがあった場合の対応が確認された。


「頭取の勤務状況や健康状態については回答しません。予定変更が必要な相手にだけ連絡してください」


 国際金融部では、早乙女と陳を中心に上海、香港、シンガポールの案件を振り分ける。


 地方創生金融部では、西園寺が頭取の代わりに会議へ出ることになった。


 頭取が休んでも、顧客は来る。


 市場は動き…融資審査は続く。


 国内外の拠点から報告も届く。


 だから、行員たちは噂話を切り上げ、それぞれの仕事へ戻っていった。


 ◇◇◇


 午前九時五十二分。


 十八階の法人営業第一部。


『おはようございます』


「おはよう」


「おはようございます」


 創は、いつも通り自席へ着く。


 相沢拓也・三十三歳が声をかけた。


「宮嶋。東央精密の件、審査部から追加質問が来てる」


『はい』


「午前中、一緒に見よう」


『お願いします』


 少し離れたところから、桐生雅人・四十二歳が創を見ていた。


「宮嶋」


『はい』


「九時五十五分、小会議室」


『分かりました』


 相沢が創を見る。


「何した?」


『してません』


「即答だな」


『本当に何もしてません』


 ◇◇◇


 午前九時五十五分。


 小会議室。


 扉が閉まる。


「座れ」


『はい』


 向かいに座った桐生は、創の顔を見た。


「仕事の話じゃない」


『はい』


「今朝、少し疲れて見える。家で何かあったか?」


 創は黙った。


 桐生は、創の妻が欧陽璟瑶であることを知っている。


 しかし、妊娠も双子も知らない。


 昨日までなら、話せなかった。


 だが頭取の休養が銀行運営に影響し始めた今、直属の上司である桐生には伝える必要がある。


『妻が入院しました』


 桐生の表情が変わる。


「欧陽頭取が?」


『はい』


「今朝、頭取が休養すると聞いた。それが理由か」


『はい』


「何があった?」


 創は、一度息を吸った。


『妊娠しています』


「……」


『双子です』


 桐生が完全に止まった。


「……双子?」


『はい』


「頭取が?」


『妻が、です』


「……」


 桐生は額へ手を当てた。


「宮嶋。お前、結婚だけでも十分驚いたのに」


『すみません』


「謝るな」


 数秒、沈黙が続く。


「妊娠は、いつから分かっていた?」


『かなり前からです』


「俺には言わなかった」


『すみません』


「責めてない。頭取の立場を考えれば当然だ」


 桐生の声が、少し低くなる。


「今、危険なのか?」


『双子は元気です。璟瑶も、今すぐ危険という状態ではありません』


「そうか」


『ただ、四十五歳の双胎妊娠で、張りが増えて、子宮頸管にも変化があって……先生が入院管理した方がいいと』


 桐生は深く頷いた。


「分かった。今日は病院へ行くのか?」


『今日は行きません』


「なぜ?」


『仕事があります』


 桐生の目が細くなる。


「家族を優先しても、誰も文句は言わないぞ」


『分かっています。でも今日は璟瑶とも話して、行かないと決めました。夜にビデオ通話します』


「無理はしてないか?」


『してません』


「本当に?」


『はい』


 桐生は少し考え、質問を変えた。


「この話は、誰まで知っている?」


『妊娠と双子を知っているのは、水城さん、劉川さん、久世副頭取、早乙女常務、黒崎常務。それと、今の桐生さんです』


「御子柴専務は?」


『結婚は知っています。でも、妊娠はまだです』


「分かった。俺も口外しない」


『お願いします』


「当然だ」


 桐生は創をまっすぐ見る。


「宮嶋」


『はい』


「仕事は今まで通り見る」


『はい』


「妻が頭取だからといって、甘くはしない」


『お願いします』


「ただし、夫として時間が必要になった時は言え」


『はい』


「それと仕事を混同するな」


『分かりました』


「戻るぞ」


『はい』


 二人は立ち上がる。


 扉を開ければ、また上司と部下。


 いつもの仕事の顔へ戻った。


 ◇◇◇


 午前十時三十七分。


 東央精密製作所の審査資料を、創、相沢、桐生の三人で確認する。


「設備導入が三か月遅れる」


「はい」


「売上の立ち上がりが四か月遅れる」


『はい』


「さらに、安定稼働まで一か月余計に置く」


『はい』


 桐生が資料を指す。


「既存借入の返済は?」


『反映しています』


「新規融資一億円の返済は?」


『入っています』


「季節要因で仕入れが増える月は?」


『反映済みです』


「設備メーカーへの支払条件は?」


『契約時二十パーセント、納入時六十パーセント、検収後二十パーセントです。証憑は本日届く予定です』


「よし」


 相沢が続ける。


「据置期間を延ばせば、金利負担が増える。返済開始を早めれば、資金繰りを圧迫する。どちらが有利だ?」


 創は資料を見る。


『単純には決められません』


「理由は?」


『設備稼働、売上化、実際の入金時期まで見ないと判断できません。据置期間だけ長くすれば安全とは言えないです』


 桐生が頷く。


「その通り。承認を取りに行くな」


『はい』


「最後まで、返済できる条件かどうかを見ろ」


『はい』


 正式審査は、まだ続いている。


 ◇◇◇


 正午十二時二十九分。


 創は社員食堂へ行かず、休憩スペースで朝作った弁当を開いた。


 白飯。


 鶏の照り焼き。


 卵焼き。


 ほうれん草の胡麻和え。


 きんぴら。


 ミニトマト。


 通りかかった相沢が足を止める。


「宮嶋、弁当?」


『はい』


「自分で作ったのか?」


『はい』


「彼女じゃなく?」


『自分です』


「一人暮らしが長いと違うな」


『まあ』


 創は、それ以上言わない。


 一人暮らしではない。


 妻が入院しているだけだ。


 卵焼きを一口食べる。


『……しょっぱい』


「失敗?」


『少し』


「でも食べる?」


『作ったので』


 相沢が笑い、その場を離れ、創は一人で、弁当を最後まで食べた。


 ◇◇◇


 午後一時四十分。


 四十二階。


 頭取秘書室。


「Aは現在四件です」


 水城の報告に、劉川が首を振る。


「多いですね」


「減らします」


 高城が一件を指す。


「これは久世副頭取の判断で処理可能です。Bへ」


 桜庭も資料を確認する。


「こちらの大型法人案件は、黒崎常務の決裁権限内です」


「B」


 如月が海外案件を示す。


「こちらも早乙女常務と陳取締役で処理できます」


「Bです」


 水城が一覧を見る。


「これで、Aは一件」


「それも今日、急ぐ必要はありません」


 残ったのは、資本政策と中期計画の修正案。


 頭取本人の考えを聞く必要はある。


 しかし、今日でなければならない案件ではない。


「明日の診察後、体調が安定していた場合に限り、十五分だけ」


 劉川が言う。


「まず病院側の指示と、頭取の状態を確認してからです」


「はい。会議ありきで進めません」


 ほかの秘書たちも、担当案件を次々とBやCへ振り分けていく。


 海外拠点の再編は、早乙女と陳。


 女性管理職の登用計画は、神崎と長谷部。


 地方銀行三行との合同会議は、西園寺と担当室長。


 頭取同席予定だった外部会議は、延期か担当役員への変更。


 頭取がいないから、仕事を止めるのではない。


 頭取がいないからこそ、組織の権限で動かす。


 ◇◇◇


 午後三時十分。


 副頭取室。


「Aは一件まで減りました」


 高城の報告に、久世は尋ねる。


「本当に頭取本人の判断が必要か?」


「資本政策と中期計画の修正案です」


「今日、決める必要は?」


「ありません」


「なら、明日。体調を確認してからだ」


「承知しました」


「病院へ、こちらから会議を押し込むな」


「はい。頭取ご本人が、やりたいとおっしゃった場合は?」


 久世は高城を見る。


「断れ」


「副頭取からの指示として?」


「そうだ」


 高城がわずかに笑う。


「水城さんが喜びそうですね」


「私も水城さん側だ」


 久世は机上の資料へ視線を落とす。


 頭取が安心して母親になれるよう、銀行はこちらで支える。


 昨日した約束を、今日から実行していた。


 ◇◇◇


 午後五時四十五分。


 十八階。


 創が東央精密の資料修正を終える。


 桐生が時計を見る。


「宮嶋。今日はもう上がれ」


『でも、まだ――』


「定時も近い。残りは相沢が見られる」


「見られる」


 相沢も答える。


『……はい』


「病院へ行かない予定でも、家へ帰れ。今日は十分だ」


『ありがとうございます』


「仕事だ」


 言葉はいつも通り。


 けれど、その声は少しだけ柔らかかった。


 ◇◇◇


 午後六時二十二分。


 帰りの電車にて創は朝と同じプレイリストを流していた。


 同じ曲なのに、帰りは少し違って聞こえる。


 妻からメッセージが届く。


「夕飯、終わった」


『何だった?』


「魚、野菜、スープ」


『全部食べた?』


「全部」


『偉い』


「子ども扱い」


『患者扱い』


「創の夕飯は?」


『帰ってから作る』


「弁当、どうだった?」


『卵焼きがしょっぱかった』


「やっぱり」


『何で分かる』


「朝、塩を入れすぎる人を知ってる」


『誰?』


「夫」


『……』


「今、電車?」


『うん』


「音楽?」


『うん』


「何を聴いてる?」


『落ち着くやつ』


「答えが雑」


『あとで送る』


「うん」


 短いやり取りだけで、朝より少し気持ちが軽くなる。


 ◇◇◇


 午後七時三十四分。


 成城の新居。


『ただいま』


 返事はない。


 分かっていても、少し寂しい。


 創は弁当箱を洗い、残っていた鶏肉と野菜で簡単な夕食を作った。


 一人で食べ、一人で片づける。


 そして午後八時十二分。


 スマートフォンでビデオ通話を始める。


 画面に、病室の璟瑶が映った。


「創」


『お疲れ』


「お疲れ様」


『今日はどうだった?』


「診察、モニター、採血。それ以外は休んでた」


『仕事は?』


「してない」


『本当に?』


「水城さんから報告は来た」


『それは仕事じゃない?』


「聞いただけ」


『何て?』


「案件をA、B、Cに分けたって」


『A?』


「私の判断が必要なもの」


『Bは?』


「久世さんか担当役員で処理できるもの」


『Cは?』


「部門長で処理できるもの」


『それで?』


「Aは一件まで減った」


『すごいな』


「私、いらない?」


『そういうこと言うな』


「冗談」


『銀行は回ってる?』


「回ってる」


『じゃあ、今は休める』


「うん」


 今度は璟瑶が聞く。


「創は?」


『普通に仕事』


「東央精密?」


『正式審査中。まだ承認されてない』


「分かってる」


『そこは絶対間違えないで』


「はいはい」


 創が笑う。


「桐生さん、何か言ってた?」


『今日、話した』


「何を?」


『妊娠と入院。それから双子のこと』


 璟瑶の目が少し大きくなる。


「桐生さんに?」


『うん』


「どうだった?」


『止まった』


「また?」


『みんな止まる』


 璟瑶が笑う。


『でも、口外しないって。仕事は今まで通り厳しく見るとも言われた』


「桐生さんらしい」


『家族のために時間が必要になったら言えって』


「よかった」


『うん』


 少し、間が空く。


「今日、銀行で噂になってるかな」


『頭取が珍しく休んだから、多少は』


「やっぱり」


『でも、理由は誰も知らない』


「それでいい」


『うん』


 創は画面の中の妻を見る。


 病室のベッドの白い壁。


 昨日と同じ背景。


『今日、行けなくてごめん』


「謝らない」


『でも』


「仕事へ行って、ちゃんと帰って、ご飯を食べて、私に電話してる」


『うん』


「それで十分」


『会いたい』


 璟瑶が一瞬、黙る。


「私も」


『……』


「でも、明日も仕事」


『うん』


「教習所もある」


『うん』


「私はここにいる。二人もいる」


 璟瑶がスマートフォンの角度を少し下げる。


 大きくなったお腹が画面に映った。


『大きい』


「また?」


『今日は画面越し』


「それでも?」


『大きい』


「知ってる」


『二人、元気?』


「元気」


『今日は多分じゃない?』


「先生が二人とも心拍は大丈夫だって」


『じゃあ、元気だ』


「うん」


 少しの沈黙。


 それでも嫌な沈黙ではない。


 離れている夫婦が、同じ時間を過ごすための静けさだった。


「創。家、静か?」


『かなり』


「寂しい?」


『かなり』


「……」


『でも、大丈夫』


「本当に?」


『本当に』


「私がよく言う」


『真似した』


「夫婦だから?」


『そう』


 璟瑶が笑う。


「このあと何する?」


『洗濯』


「私は本を読む」


『仕事の本?』


「小説」


『ならいい』


「誰目線?」


『夫』


「頭取より偉い?」


『家では』


「分かった」


 通話を切る前。


 璟瑶が画面越しに言う。


「創」


『何?』


「おかえり」


 創は一瞬、息を止める。


 誰もいない玄関では聞けなかった言葉。


 今、画面の向こうから届いた。


 創はゆっくり笑った。


『ただいま』


 ◇◇◇


 同じ頃。


 青嶺中央銀行本店、四十二階。


 夜…頭取室の明かりは消えている。


 机は整えられ、椅子は空いていた。


 今日一日、頭取は銀行にいなかった。


 それでも、銀行は止まらなかった。


 久世が全体を預かる。


 黒崎が国内法人を支え、早乙女と陳が海外を支える。


 御子柴、神崎、西園寺、水谷。


 各役員が、それぞれの権限で判断する。


 秘書たちは案件をA、B、Cへ分け、頭取本人が行うべき仕事だけを残した。


 部門長も、行員も、自分の仕事を続けた。


 四十二階に頭取はいないけれど、そこに生まれたのは空白ではなかった。


 空席を守るように、銀行全体が動いていた。


 そして病院のベッドで、欧陽璟瑶も少しずつ理解し始めていた。


 自分がいなくても、銀行は動く。


 だから今、自分がすべきことは一つ。


 双子を守り、自分の身体を守る。


 そのために必要な時間を、久世宗一郎が銀行ごと預かってくれている。


 明日。


 診察の結果を確認したうえで、病室から十五分だけ参加する頭取協議が検討される。


 頭取として働き続ける事と母親として二人を守る事。


 その両方を続けるための、新しい働き方が始まろうとしていた。



第93話です。


今回は、璟瑶が入院した翌日の青嶺中央銀行。


普段なら頭取がいるはずの42階が空席となり、久世副頭取や各担当役員、そして役員秘書たちが一斉に動き始めます。


頭取案件をA・B・Cに分類し、「本当に璟瑶本人の判断が必要な仕事」だけを残す秘書たち。


一方、創は妻の入院を隠しながら普段通り出勤し、東央精密製作所の正式審査にも向き合います。


そして今回、桐生にもついに「双子妊娠」と「入院」の事実が明かされます。


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