第93話「頭取のいない四十二階――久世副頭取が預かった銀行」
第93話です。
今回は、璟瑶が入院した翌日の青嶺中央銀行。
普段なら頭取がいるはずの42階が空席となり、久世副頭取や各担当役員、そして役員秘書たちが一斉に動き始めます。
頭取案件をA・B・Cに分類し、「本当に璟瑶本人の判断が必要な仕事」だけを残す秘書たち。
一方、創は妻の入院を隠しながら普段通り出勤し、東央精密製作所の正式審査にも向き合います。
そして今回、桐生にもついに「双子妊娠」と「入院」の事実が明かされます。
月曜日。
午前五時十八分。
東京都世田谷区、成城の新居。
『……』
宮嶋創・二十一歳は、目を覚ました。
いつもなら隣にいるはずの女性がいない。
ベッドの反対側は、昨夜から綺麗に整ったまま。
数秒、天井を見つめる。
そして思い出す。
妻の欧陽璟瑶は、昨日から病院にいる。
双子を守るため、突然始まった入院生活。
今日は、創が一人で迎える最初の朝だった。
『……起きるか』
小さく呟き、ベッドを出る。
◇◇◇
午前五時三十七分。
キッチン。
創はエプロンをつけ、昼の弁当を作り始めた。
白米。
鶏肉。
卵。
ほうれん草。
人参。
昨夜のうちに、ある程度の下ごしらえは済ませてある。
『塩は……少し』
卵へ出汁と砂糖を加え、フライパンで巻いていく。
一回… 二回… 三回。
最後に少しだけ形が崩れた。
『璟瑶なら、もっと綺麗に――』
そこまで言って、止まる。
『いや、あの人も料理はそこまで得意じゃないか』
思い直し、一人で笑う。
鶏肉の照り焼き。
ほうれん草の胡麻和え。
人参のきんぴら。
最後にミニトマトを二つ詰める。
『よし』
弁当箱の蓋を閉め、冷蔵庫へ入れた。
いつもと同じ朝を作ろうとしている。
それでも、キッチンから聞こえるのは自分の立てる音だけだった。
◇◇◇
午前六時十二分。
ダイニング。
白米。
味噌汁。
納豆。
焼き鮭。
ヨーグルト。
テレビでは朝の情報番組が流れている。
「東京市場では、先週末の海外市場を受け――」
為替に株価。金利と海外市場。
創は朝食を取りながら画面を見る。
スポーツニュースに続いて、芸能ニュースへ移った。
「人気俳優の――さんと、女優の――さんが結婚を発表しました」
創の箸が止まる。
『結婚発表……』
自分たちも法的には夫婦だ。
けれど、その事実を広く公表することはできない。
芸能人の結婚ニュースを見ただけなのに、遠い世界の出来事のように感じた。
創はスマートフォンを取り、璟瑶へメッセージを送る。
『おはよう。起きてる?』
数十秒後、既読がついた。
「起きてる」
『体調は?』
「夜、少し張ったけど、看護師さんに見てもらった」
『今は?』
「落ち着いてる」
『本当に?』
「本当に」
『朝ご飯は?』
「もう少し後。創は?」
『今食べてる』
「白飯、味噌汁、鮭、納豆、ヨーグルト」
『……見てる?』
「いつも同じだから」
『全部当たってる。怖い』
「妻だから」
創が少し笑う。
『今日は病院に行けない』
「知ってる。仕事して」
『終わったら電話する』
「うん」
『朝のニュースで、芸能人が結婚発表してた』
「へえ」
『普通にニュースになるんだな』
「何、今さら」
『俺たちは絶対無理だなって思った』
「今は公表しない」
『うん』
短い沈黙のあと、璟瑶から続けて届く。
「ちゃんと食べてね」
『食べてる』
「気をつけて」
『うん』
「いってらっしゃい」
創の指が止まる。
いつもなら玄関で聞く言葉。
今日はスマートフォンの画面にある。
それでも、確かに妻から送られた言葉だった。
『行ってきます』
◇◇◇
午前六時五十四分。
玄関。
創はスーツに着替え、弁当と社員証をバッグへ入れた。
勤務日だから、左手の結婚指輪を外す。
小さなケースを開く。
いつもなら二本の指輪が並ぶ。
だが、今日は創の一本だけ。
璟瑶の指輪は、病院にいる妻の左手にある。
『行ってきます』
誰もいない玄関へ言い、扉を閉めた。
◇◇◇
午前七時二十一分。
通勤電車。
創は座席の端に座り、AirPodsで音楽を聴いていた。
窓の外を、朝の街が流れていく。
やがて頭を、今日の仕事へ切り替える。
東央精密製作所。
正式審査中の設備資金融資。
設備導入が三か月遅れた場合。
売上の立ち上がりは四か月遅延。
さらに安定稼働まで一か月を置く。
既存借入と新規借入の返済。
据置期間。
キャッシュフロー。
創は音楽を止め、スマートフォンへメモを残した。
『設備メーカーの支払条件を再確認』
『ストレスケースの返済開始月』
『審査部の追加質問』
再び音楽を流す。
妻のことが心配でないわけではない。
それでも、今の自分にできることを一つずつ進める。
それが今日、璟瑶と話して決めたことだった。
◇◇◇
午前八時十一分。
東京都千代田区、大手町。
青嶺中央銀行本店の四十二階。
いつもの朝と、空気が違っていた。
頭取室の扉は閉じていて… その中に、欧陽璟瑶はいない。
第一秘書の劉川景仁・三十八歳と、第二秘書の水城絢乃・三十一歳は、早朝から予定と資料を振り分けていた。
ホワイトボードには、大きく三つの分類が書かれている。
A――頭取本人の判断が必要。
B――久世副頭取または担当役員で処理可能。
C――部門長の権限で処理可能。
「午前九時の国内戦略案件は?」
水城が尋ねる。
「一部、頭取判断が必要です。ただし、前段階の整理は久世副頭取で可能です」
「では、現時点ではB」
「香港拠点の四半期報告は、早乙女常務と陳取締役で処理できます」
「Bです」
「国内法人の大口案件は、黒崎常務と水谷常務の管轄内です」
「それもB」
頭取がいないからといって、すべてを頭取へ送ればいいわけではない。
むしろ、逆だった。
本人以外でも判断できるものを、頭取の前で止める。
それも秘書の仕事だった。
「Aは、本当に必要なものだけにしましょう」
「はい。病院へ仕事を運ぶための分類ではありません」
「頭取を仕事から守るための分類です」
午前八時二十分。
四十一階と四十二階の役員秘書たちが、短時間の情報共有のため集まった。
久世副頭取秘書、高城沙也香・三十六歳。
黒崎常務秘書、桜庭亮介・三十七歳。
早乙女常務秘書、如月絵里・三十五歳。
そのほか、御子柴、榊原、長谷部、水谷、秋元、陳、相馬、武藤、神崎、西園寺を担当する秘書たちも顔を揃える。
高城が予定を共有する。
「午前八時半から、久世副頭取主催の臨時役員打合せです」
水城が続ける。
「頭取は、本日出社しません」
数人の視線が動いた。
「体調不良ですか?」
「健康管理上、休養が必要な状態です。詳細は必要な範囲に限って共有します」
「復帰時期は?」
「未定です」
部屋の空気が少し変わる。
だが、誰もそれ以上は踏み込まなかった。
個人の健康情報を憶測で聞き出すことは、役員秘書の仕事ではない。
劉川がホワイトボードを指す。
「本日から案件をA、B、Cの三段階に分類します。海外案件は一度こちらで整理し、早乙女常務と陳取締役で判断できるものはBへ回します」
「欧州と米州は?」
如月が尋ねる。
「原則として文書か録画報告です。時差を理由に、頭取の休養時間へ会議を入れないでください」
「承知しました」
「人事案件は?」
「御子柴専務、長谷部役員、神崎常務の権限内で処理できるものはBです」
「リスク案件は?」
「水谷常務と審査部で対応できるものはBかC」
「地方銀行との連携案件は?」
「西園寺常務と担当部門で処理します」
頭取一人がいないだけで、多くの予定が動く。
だからこそ、その仕事を再び頭取一人へ戻してはいけない。
「今日、秘書室は忙しくなります」
「少しですか?」
桜庭が言う。
如月も苦笑する。
「かなり、でしょうね」
水城は頷いた。
「それでも、組織で処理します」
◇◇◇
午前八時三十三分。
四十階の役員会議室。
中央に座るのは、久世宗一郎・五十七歳。
その先にある頭取席は、空いていた。
黒崎忠彦。早乙女慶一。御子柴泰成。
榊原征司。長谷部章一。水谷征吾。
秋元康成。陳高明。相馬玲二。
武藤英明。神崎美玲。西園寺香織。
主要な重役が揃う。
久世が口を開いた。
「頭取は健康管理上、しばらく出社を控える」
「しばらく?」
榊原が聞き返す。
「具体的な期間は未定だ」
「緊急性はありますか?」
神崎の問いに、久世は慎重に答える。
「銀行運営上、直ちに危機対応が必要な状態ではない。ただし、本人の休養と治療を最優先する」
結婚を知る御子柴も、妊娠までは知らない。
何か事情があるとは感じても、黙って聞いていた。
久世は全員を見渡す。
「頭取に何でも回すな。我々で判断できるものは、こちらで処理する」
そして、役割を一つずつ割り振った。
「黒崎。法人金融、大企業営業、国内法人を頼む」
「承知しました」
「早乙女。市場、国際、海外部門を受けてくれ」
「承知しました」
「陳。中国と東アジア案件は、早乙女と連携してほしい」
「分かりました」
「水谷。審査とリスク管理は通常通りだ。頭取不在を理由に遅らせるな」
「承知しました」
「御子柴。人事は権限内で処理してくれ」
「はい」
「神崎。職場環境と人材対応を頼む」
「承知しました」
「西園寺。地方銀行との連携を止めるな」
「はい」
久世は最後に、空いている頭取席を見る。
「頭取がいなくても、銀行は止まらない」
全員の視線が集まる。
「止めない。それが我々の仕事だ」
◇◇◇
午前九時を過ぎると、頭取が珍しく休んでいるという情報は、少しずつ行内へ広がった。
一階の受付。
七階の融資審査部。二十三階の個人営業企画部。
二十九階の広報部。三十一階の国際金融部。
三十八階の四十七都道府県事業推進室。
それぞれの部署で、短い話題になる。
「頭取、今日はお休みなんだって」
「出張じゃないの?」
「体調かな」
「分からない。変な噂は広げない方がいいよ」
人事部では、労務担当者が言う。
「個人の健康情報です。必要以上に知ろうとするものではありません」
広報部では、外部から問い合わせがあった場合の対応が確認された。
「頭取の勤務状況や健康状態については回答しません。予定変更が必要な相手にだけ連絡してください」
国際金融部では、早乙女と陳を中心に上海、香港、シンガポールの案件を振り分ける。
地方創生金融部では、西園寺が頭取の代わりに会議へ出ることになった。
頭取が休んでも、顧客は来る。
市場は動き…融資審査は続く。
国内外の拠点から報告も届く。
だから、行員たちは噂話を切り上げ、それぞれの仕事へ戻っていった。
◇◇◇
午前九時五十二分。
十八階の法人営業第一部。
『おはようございます』
「おはよう」
「おはようございます」
創は、いつも通り自席へ着く。
相沢拓也・三十三歳が声をかけた。
「宮嶋。東央精密の件、審査部から追加質問が来てる」
『はい』
「午前中、一緒に見よう」
『お願いします』
少し離れたところから、桐生雅人・四十二歳が創を見ていた。
「宮嶋」
『はい』
「九時五十五分、小会議室」
『分かりました』
相沢が創を見る。
「何した?」
『してません』
「即答だな」
『本当に何もしてません』
◇◇◇
午前九時五十五分。
小会議室。
扉が閉まる。
「座れ」
『はい』
向かいに座った桐生は、創の顔を見た。
「仕事の話じゃない」
『はい』
「今朝、少し疲れて見える。家で何かあったか?」
創は黙った。
桐生は、創の妻が欧陽璟瑶であることを知っている。
しかし、妊娠も双子も知らない。
昨日までなら、話せなかった。
だが頭取の休養が銀行運営に影響し始めた今、直属の上司である桐生には伝える必要がある。
『妻が入院しました』
桐生の表情が変わる。
「欧陽頭取が?」
『はい』
「今朝、頭取が休養すると聞いた。それが理由か」
『はい』
「何があった?」
創は、一度息を吸った。
『妊娠しています』
「……」
『双子です』
桐生が完全に止まった。
「……双子?」
『はい』
「頭取が?」
『妻が、です』
「……」
桐生は額へ手を当てた。
「宮嶋。お前、結婚だけでも十分驚いたのに」
『すみません』
「謝るな」
数秒、沈黙が続く。
「妊娠は、いつから分かっていた?」
『かなり前からです』
「俺には言わなかった」
『すみません』
「責めてない。頭取の立場を考えれば当然だ」
桐生の声が、少し低くなる。
「今、危険なのか?」
『双子は元気です。璟瑶も、今すぐ危険という状態ではありません』
「そうか」
『ただ、四十五歳の双胎妊娠で、張りが増えて、子宮頸管にも変化があって……先生が入院管理した方がいいと』
桐生は深く頷いた。
「分かった。今日は病院へ行くのか?」
『今日は行きません』
「なぜ?」
『仕事があります』
桐生の目が細くなる。
「家族を優先しても、誰も文句は言わないぞ」
『分かっています。でも今日は璟瑶とも話して、行かないと決めました。夜にビデオ通話します』
「無理はしてないか?」
『してません』
「本当に?」
『はい』
桐生は少し考え、質問を変えた。
「この話は、誰まで知っている?」
『妊娠と双子を知っているのは、水城さん、劉川さん、久世副頭取、早乙女常務、黒崎常務。それと、今の桐生さんです』
「御子柴専務は?」
『結婚は知っています。でも、妊娠はまだです』
「分かった。俺も口外しない」
『お願いします』
「当然だ」
桐生は創をまっすぐ見る。
「宮嶋」
『はい』
「仕事は今まで通り見る」
『はい』
「妻が頭取だからといって、甘くはしない」
『お願いします』
「ただし、夫として時間が必要になった時は言え」
『はい』
「それと仕事を混同するな」
『分かりました』
「戻るぞ」
『はい』
二人は立ち上がる。
扉を開ければ、また上司と部下。
いつもの仕事の顔へ戻った。
◇◇◇
午前十時三十七分。
東央精密製作所の審査資料を、創、相沢、桐生の三人で確認する。
「設備導入が三か月遅れる」
「はい」
「売上の立ち上がりが四か月遅れる」
『はい』
「さらに、安定稼働まで一か月余計に置く」
『はい』
桐生が資料を指す。
「既存借入の返済は?」
『反映しています』
「新規融資一億円の返済は?」
『入っています』
「季節要因で仕入れが増える月は?」
『反映済みです』
「設備メーカーへの支払条件は?」
『契約時二十パーセント、納入時六十パーセント、検収後二十パーセントです。証憑は本日届く予定です』
「よし」
相沢が続ける。
「据置期間を延ばせば、金利負担が増える。返済開始を早めれば、資金繰りを圧迫する。どちらが有利だ?」
創は資料を見る。
『単純には決められません』
「理由は?」
『設備稼働、売上化、実際の入金時期まで見ないと判断できません。据置期間だけ長くすれば安全とは言えないです』
桐生が頷く。
「その通り。承認を取りに行くな」
『はい』
「最後まで、返済できる条件かどうかを見ろ」
『はい』
正式審査は、まだ続いている。
◇◇◇
正午十二時二十九分。
創は社員食堂へ行かず、休憩スペースで朝作った弁当を開いた。
白飯。
鶏の照り焼き。
卵焼き。
ほうれん草の胡麻和え。
きんぴら。
ミニトマト。
通りかかった相沢が足を止める。
「宮嶋、弁当?」
『はい』
「自分で作ったのか?」
『はい』
「彼女じゃなく?」
『自分です』
「一人暮らしが長いと違うな」
『まあ』
創は、それ以上言わない。
一人暮らしではない。
妻が入院しているだけだ。
卵焼きを一口食べる。
『……しょっぱい』
「失敗?」
『少し』
「でも食べる?」
『作ったので』
相沢が笑い、その場を離れ、創は一人で、弁当を最後まで食べた。
◇◇◇
午後一時四十分。
四十二階。
頭取秘書室。
「Aは現在四件です」
水城の報告に、劉川が首を振る。
「多いですね」
「減らします」
高城が一件を指す。
「これは久世副頭取の判断で処理可能です。Bへ」
桜庭も資料を確認する。
「こちらの大型法人案件は、黒崎常務の決裁権限内です」
「B」
如月が海外案件を示す。
「こちらも早乙女常務と陳取締役で処理できます」
「Bです」
水城が一覧を見る。
「これで、Aは一件」
「それも今日、急ぐ必要はありません」
残ったのは、資本政策と中期計画の修正案。
頭取本人の考えを聞く必要はある。
しかし、今日でなければならない案件ではない。
「明日の診察後、体調が安定していた場合に限り、十五分だけ」
劉川が言う。
「まず病院側の指示と、頭取の状態を確認してからです」
「はい。会議ありきで進めません」
ほかの秘書たちも、担当案件を次々とBやCへ振り分けていく。
海外拠点の再編は、早乙女と陳。
女性管理職の登用計画は、神崎と長谷部。
地方銀行三行との合同会議は、西園寺と担当室長。
頭取同席予定だった外部会議は、延期か担当役員への変更。
頭取がいないから、仕事を止めるのではない。
頭取がいないからこそ、組織の権限で動かす。
◇◇◇
午後三時十分。
副頭取室。
「Aは一件まで減りました」
高城の報告に、久世は尋ねる。
「本当に頭取本人の判断が必要か?」
「資本政策と中期計画の修正案です」
「今日、決める必要は?」
「ありません」
「なら、明日。体調を確認してからだ」
「承知しました」
「病院へ、こちらから会議を押し込むな」
「はい。頭取ご本人が、やりたいとおっしゃった場合は?」
久世は高城を見る。
「断れ」
「副頭取からの指示として?」
「そうだ」
高城がわずかに笑う。
「水城さんが喜びそうですね」
「私も水城さん側だ」
久世は机上の資料へ視線を落とす。
頭取が安心して母親になれるよう、銀行はこちらで支える。
昨日した約束を、今日から実行していた。
◇◇◇
午後五時四十五分。
十八階。
創が東央精密の資料修正を終える。
桐生が時計を見る。
「宮嶋。今日はもう上がれ」
『でも、まだ――』
「定時も近い。残りは相沢が見られる」
「見られる」
相沢も答える。
『……はい』
「病院へ行かない予定でも、家へ帰れ。今日は十分だ」
『ありがとうございます』
「仕事だ」
言葉はいつも通り。
けれど、その声は少しだけ柔らかかった。
◇◇◇
午後六時二十二分。
帰りの電車にて創は朝と同じプレイリストを流していた。
同じ曲なのに、帰りは少し違って聞こえる。
妻からメッセージが届く。
「夕飯、終わった」
『何だった?』
「魚、野菜、スープ」
『全部食べた?』
「全部」
『偉い』
「子ども扱い」
『患者扱い』
「創の夕飯は?」
『帰ってから作る』
「弁当、どうだった?」
『卵焼きがしょっぱかった』
「やっぱり」
『何で分かる』
「朝、塩を入れすぎる人を知ってる」
『誰?』
「夫」
『……』
「今、電車?」
『うん』
「音楽?」
『うん』
「何を聴いてる?」
『落ち着くやつ』
「答えが雑」
『あとで送る』
「うん」
短いやり取りだけで、朝より少し気持ちが軽くなる。
◇◇◇
午後七時三十四分。
成城の新居。
『ただいま』
返事はない。
分かっていても、少し寂しい。
創は弁当箱を洗い、残っていた鶏肉と野菜で簡単な夕食を作った。
一人で食べ、一人で片づける。
そして午後八時十二分。
スマートフォンでビデオ通話を始める。
画面に、病室の璟瑶が映った。
「創」
『お疲れ』
「お疲れ様」
『今日はどうだった?』
「診察、モニター、採血。それ以外は休んでた」
『仕事は?』
「してない」
『本当に?』
「水城さんから報告は来た」
『それは仕事じゃない?』
「聞いただけ」
『何て?』
「案件をA、B、Cに分けたって」
『A?』
「私の判断が必要なもの」
『Bは?』
「久世さんか担当役員で処理できるもの」
『Cは?』
「部門長で処理できるもの」
『それで?』
「Aは一件まで減った」
『すごいな』
「私、いらない?」
『そういうこと言うな』
「冗談」
『銀行は回ってる?』
「回ってる」
『じゃあ、今は休める』
「うん」
今度は璟瑶が聞く。
「創は?」
『普通に仕事』
「東央精密?」
『正式審査中。まだ承認されてない』
「分かってる」
『そこは絶対間違えないで』
「はいはい」
創が笑う。
「桐生さん、何か言ってた?」
『今日、話した』
「何を?」
『妊娠と入院。それから双子のこと』
璟瑶の目が少し大きくなる。
「桐生さんに?」
『うん』
「どうだった?」
『止まった』
「また?」
『みんな止まる』
璟瑶が笑う。
『でも、口外しないって。仕事は今まで通り厳しく見るとも言われた』
「桐生さんらしい」
『家族のために時間が必要になったら言えって』
「よかった」
『うん』
少し、間が空く。
「今日、銀行で噂になってるかな」
『頭取が珍しく休んだから、多少は』
「やっぱり」
『でも、理由は誰も知らない』
「それでいい」
『うん』
創は画面の中の妻を見る。
病室のベッドの白い壁。
昨日と同じ背景。
『今日、行けなくてごめん』
「謝らない」
『でも』
「仕事へ行って、ちゃんと帰って、ご飯を食べて、私に電話してる」
『うん』
「それで十分」
『会いたい』
璟瑶が一瞬、黙る。
「私も」
『……』
「でも、明日も仕事」
『うん』
「教習所もある」
『うん』
「私はここにいる。二人もいる」
璟瑶がスマートフォンの角度を少し下げる。
大きくなったお腹が画面に映った。
『大きい』
「また?」
『今日は画面越し』
「それでも?」
『大きい』
「知ってる」
『二人、元気?』
「元気」
『今日は多分じゃない?』
「先生が二人とも心拍は大丈夫だって」
『じゃあ、元気だ』
「うん」
少しの沈黙。
それでも嫌な沈黙ではない。
離れている夫婦が、同じ時間を過ごすための静けさだった。
「創。家、静か?」
『かなり』
「寂しい?」
『かなり』
「……」
『でも、大丈夫』
「本当に?」
『本当に』
「私がよく言う」
『真似した』
「夫婦だから?」
『そう』
璟瑶が笑う。
「このあと何する?」
『洗濯』
「私は本を読む」
『仕事の本?』
「小説」
『ならいい』
「誰目線?」
『夫』
「頭取より偉い?」
『家では』
「分かった」
通話を切る前。
璟瑶が画面越しに言う。
「創」
『何?』
「おかえり」
創は一瞬、息を止める。
誰もいない玄関では聞けなかった言葉。
今、画面の向こうから届いた。
創はゆっくり笑った。
『ただいま』
◇◇◇
同じ頃。
青嶺中央銀行本店、四十二階。
夜…頭取室の明かりは消えている。
机は整えられ、椅子は空いていた。
今日一日、頭取は銀行にいなかった。
それでも、銀行は止まらなかった。
久世が全体を預かる。
黒崎が国内法人を支え、早乙女と陳が海外を支える。
御子柴、神崎、西園寺、水谷。
各役員が、それぞれの権限で判断する。
秘書たちは案件をA、B、Cへ分け、頭取本人が行うべき仕事だけを残した。
部門長も、行員も、自分の仕事を続けた。
四十二階に頭取はいないけれど、そこに生まれたのは空白ではなかった。
空席を守るように、銀行全体が動いていた。
そして病院のベッドで、欧陽璟瑶も少しずつ理解し始めていた。
自分がいなくても、銀行は動く。
だから今、自分がすべきことは一つ。
双子を守り、自分の身体を守る。
そのために必要な時間を、久世宗一郎が銀行ごと預かってくれている。
明日。
診察の結果を確認したうえで、病室から十五分だけ参加する頭取協議が検討される。
頭取として働き続ける事と母親として二人を守る事。
その両方を続けるための、新しい働き方が始まろうとしていた。
第93話です。
今回は、璟瑶が入院した翌日の青嶺中央銀行。
普段なら頭取がいるはずの42階が空席となり、久世副頭取や各担当役員、そして役員秘書たちが一斉に動き始めます。
頭取案件をA・B・Cに分類し、「本当に璟瑶本人の判断が必要な仕事」だけを残す秘書たち。
一方、創は妻の入院を隠しながら普段通り出勤し、東央精密製作所の正式審査にも向き合います。
そして今回、桐生にもついに「双子妊娠」と「入院」の事実が明かされます。




