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第92話「もう、自宅だけでは守れない――双子妊娠、突然の入院指示」


第92話です。


今回は妊娠後期の再診。


双子は順調に育っている一方で、璟瑶の身体には少しずつ負担が現れ始めます。


そして高峰澪奈から告げられたのは、まさかの「今日から入院」。


銀行を心配する璟瑶を創が支え、さらに恵美子、由美子、奈緒子も動き始めます。


ここから、出産へ向けた本格的な入院生活が始まります。



 土曜日。


 午前六時二十八分。


 東京都世田谷区、成城の新居。


「……よいしょ」


『言った』


「……」


『今日は完全に言った』


 欧陽璟瑶はベッドの上で、動きを止める。


「何が?」


『よいしょ』


「言ってない」


『言った』


「証拠は?」


『俺』


「証拠にならない」


『じゃあ、明日から録音する?』


「やめて」


 隣では、宮嶋創・二十一歳がすでに起きている。


 笑いながらも、すぐに妻の背へ手を添えた。


『ゆっくりでいい』


「分かってる」


『立つ?』


「まだ」


『張ってる?』


「……少し」


 創の表情が変わる。


『少しって、どのくらい?』


「痛いほどじゃない。ただ、起きた時から少し硬い感じ」


『今日、全部先生に言うから』


「分かってる」


 以前なら、何も考えずに起き上がれた。


 今は一度横を向き、腕で身体を支え、ゆっくり上半身を起こす。


 双子を宿した腹部は、薄手の部屋着の上からでもはっきり分かるほど大きくなっていた。


 創が、またそこを見る。


「今ので何回目?」


『何が?』


「お腹を見るの」


『数えてない』


「私は数えてる」


『何回?』


「四回」


『まだ起きて数分だろ』


「だから言ってるの」


 璟瑶はお腹へ手を添え、ベッドの端に座った。


 少し呼吸を整える。


 創は急かさず、その横で待つ。


「そんなに見張らなくても逃げないよ」


『見張ってない』


「じゃあ?」


『璟瑶が大丈夫って言えるまで待ってる』


「……大丈夫」


『本当に?』


「うん」


『じゃあ、立とう』


 差し出された手を、璟瑶が握る。


 ゆっくり立ち上がる。


 それだけの動作にも、以前より時間が必要になっていた。


 ◇◇◇


 午前七時十四分。


 ダイニング。


 朝食は軽めだった。


 トースト。


 スープ。


 ヨーグルト。


 バナナ。


 温野菜。


 一度に多く食べると苦しくなるため、璟瑶の分は少量ずつにしてある。


『昨日、何時に寝た?』


「十一時」


『本当に?』


「十一時十二分」


『細かい』


「銀行員だから」


『俺も銀行員』


「知ってる」


 創はスープを口へ運びながら、妻の顔色を確かめる。


『昨日、久世さんたちに話しておいてよかったな』


「何かある前提?」


『違う。何かあった時の準備』


「教習所で覚えた?」


『銀行でも同じだろ』


「確認は入口?」


『それは三谷さん』


「最近、誰の言葉か分からなくなる」


『俺も』


 二人で笑う。


 それでも創の胸には、朝から小さな違和感が残っていた。


 張りがある。


 歩く速度も遅い。


 疲れやすさも、以前よりはっきりしている。


 璟瑶は「大丈夫」と言う。


 しかし今の創には、その言葉だけで安心することができなかった。


 ◇◇◇


 午前九時四十一分。


 産婦人科病院の待合室。


 今日は銀行も教習所もない。


 創は一日を空け、璟瑶の健診に付き添っていた。


 ゆったりしたワンピースに、薄手のカーディガン。


 それでも、もう腹部は隠れない。


 隠そうとすること自体に、意味がなくなり始めていた。


『重い?』


「重い」


『どのくらい?』


「双子くらい」


『そのままだな』


「そのままだから」


「欧陽さん」


 名前を呼ばれ、璟瑶が立ち上がる。


 創もすぐ隣についた。


 ◇◇◇


 午前九時五十八分。


 診察室。


 高峰澪奈が、電子カルテから顔を上げる。


「おはようございます」


「おはようございます」


『おはようございます』


 澪奈は璟瑶の腹部へ目を向けた。


「かなり大きくなりましたね」


「本人も毎日感じてます」


『俺も』


「宮嶋さんは毎日言っていそうですね」


『言ってます』


「本当に毎日」


 短く笑ったあと、澪奈は診察の表情へ戻った。


「まず、体調を確認します。出血は?」


「ありません」


「強い腹痛は?」


「ありません」


「お腹の張りは?」


 璟瑶が、わずかに間を置く。


「前より増えました」


「いつ感じますか?」


「朝、起きた時。それと、長く座っていた時や会議が続いた後に少し」


 創が妻を見る。


『それ、初めて聞いた』


「昨日は、そこまでじゃなかったから」


『そこまでって――』


「宮嶋さん」


『はい』


「夫婦のお話はあとでお願いします。今は私が聞きます」


『……すみません』


 璟瑶が小さく笑う。


 浮腫… 息切れや動悸。めまい。


 頭痛。視覚の異常。胎動。


 澪奈は一つずつ確認していく。


「胎動は感じますか?」


「あります」


「二人とも?」


「多分、二人」


『多分禁止』


「創」


「今日は超音波で二人とも確認しますから」


『お願いします』


 ◇◇◇


 血圧と体重。


 尿検査、採血に浮腫の確認。


 続いて、超音波検査が始まる。


 診察台に横になる璟瑶。


 その横で、創は画面を見つめていた。


「まず一人目です」


 小さな身体が映る。


 その胸の中で、心臓が確かに動いている。


「心拍、問題ありません」


 創が止めていた息を吐く。


 続いて、もう一人。


「二人目も、しっかり動いています」


『……よかった』


「まだ全部見ますよ」


『はい』


 頭。腹部。大腿骨。推定体重。


 二人分の計測が進む。


「二人とも成長しています。今の週数から大きく外れてはいません」


「成長差は?」


「少しあります。ただ、現時点で大きな問題と判断するほどではありません」


 創の顔に浮かんだ緊張を見て、澪奈が続ける。


「双子が完全に同じ速度で成長するとは限りません。今後、差が広がらないか慎重に見ていきます」


『はい』


 胎盤。羊水。血流。


 一つずつ確認していく。


「羊水量にも、今すぐ問題になる所見はありません。胎盤も同様です」


 璟瑶と創の表情が、少し緩む。


 しかし澪奈の診察は、まだ終わらなかった。


 母体側を詳しく確認する。


 血圧や尿検査に、現時点で重大な異常はない。


 貧血は軽度の傾向… 浮腫も軽いが、経過観察が必要。


 そして、子宮頸管を確認した澪奈の表情が変わった。


「欧陽さん」


「はい」


「子宮頸管が、前回より短くなっています」


 創が身を乗り出す。


『危ないんですか?』


「すぐ出産になるという意味ではありません」


『はい』


「ただ、双胎妊娠で張りが増え、子宮頸管にも変化が出ている。これは軽く見られません」


 澪奈はカルテを確認し、改めて璟瑶を見る。


「欧陽さん。今日から入院しましょう」


「……今日から?」


「はい。今日からです」


 診察室の空気が止まった。


『そんなに悪いんですか?』


「悪くなってから入院するのでは遅いんです」


 澪奈の声は静かだった。


「今は、二人とも元気です。だからこそ、元気なうちに守ります」


 璟瑶が自分のお腹を見る。


「入院は、どのくらいですか?」


「現時点では何日とは言えません。張りや子宮頸管の状態、血圧、貧血、浮腫。それに二人の成長、心拍、羊水量。今後は病院で継続して見たいです」


「仕事は――」


『璟瑶』


「でも」


『銀行は久世さんたちがいる』


「……」


『昨日、話したばかりだろ』


 久世宗一郎。早乙女慶一。黒崎忠彦。


 水城絢乃。劉川景仁。


 銀行を支える人たちの名前を、創は一人ずつ挙げた。


『銀行を一人で背負わなくていい』


「私、頭取だから」


『知ってる。だからこそ、今は休む』


 璟瑶は創を見る。


『銀行、九十八兆円くらいあるんだろ』


「九十八・五兆円」


『そこ訂正する?』


「大事」


『そういうところだよ』


 澪奈が、わずかに笑う。


 しかし創は真剣なまま続けた。


『行員は二万五千人。FG全体なら六万七千人いる』


「うん」


『でも、この二人の母親は璟瑶しかいない』


「……」


『銀行は、みんなで守れる。でも、二人をお腹の中で守れるのは今は璟瑶だけだ』


 璟瑶の目が、わずかに潤む。澪奈も静かに頷いた。


「宮嶋さんの言う通りです。入院は仕事を取り上げるためではありません」


 澪奈は、璟瑶のお腹へ目を向ける。


「二人が安全に育つ時間を守るためです。そして、お母さんの身体を守るためでもあります」


 自宅で休みながら働く。


 それだけでは、もう守りきれないところまで来ている。


 璟瑶は長く息を吐いた。


「……分かりました」


 そして、はっきり言う。


「入院します」


 創の肩から、少しだけ力が抜けた。


「病室を準備します。必要な荷物は、ご家族に持ってきてもらえますか?」


『俺が家へ戻ります』


「宮嶋さんは、今日は欧陽さんと一緒にいてください」


『でも』


「頼れるご家族がいるなら、頼ってください」


 創は少し迷い、頷いた。


『分かりました』


 ◇◇◇


 午前十一時十八分。


 診察室を出ると、璟瑶は水城へ電話をかけた。


「水城さん。私、今日から入院することになった」


 電話の向こうに、短い沈黙が落ちる。


 しかし返ってきた声は、すでに秘書のものだった。


「承知しました。頭取、銀行のことは今、考えないでください」


「でも――」


「久世副頭取と劉川さんへ、私から連絡します。月曜日以降の予定は全件再調整します」


 海外案件は、劉川と早乙女へ。


 法人・国内案件は、久世と黒崎へ。


 必要なものだけを整理し、頭取へ上げる。


 水城は迷わず引き継ぎを組み始めていた。


「水城さん、早い」


「昨日、準備しましたから」


「……」


「昨日、久世副頭取たちへお話しした意味が、今日ありましたね」


「うん」


「ですから、今は病院にいてください」


「分かった」


 続いて劉川から連絡が入る。


「東アジア関連はこちらで整理します。必要な案件だけを、久世副頭取、早乙女常務、陳取締役を通じて上げます」


「ありがとう」


「病院へ大量の資料を持ち込むことはしません」


「劉川さんまで?」


「水城さんと同意見です」


「……分かった」


 次は久世だった。


「今日の健診で、入院を勧められました」


「今日からですか?」


「はい」


「承知しました。銀行はこちらで支えます。昨日申し上げた通りです」


 久世の返事に迷いはなかった。


「私と黒崎、早乙女で必要な部分を引き受けます。水城さんと劉川君にも調整してもらいます」


「お願いします」


「頭取は、病院の指示に従ってください。それから、今すぐリモート会議のことを考えないように」


「まだ何も言ってない」


「言うと思いました」


「……創みたい」


「宮嶋君と同じなら、正しいということです」


 璟瑶が少し笑う。


「任せてください」


 電話が終わる。


 創が隣から尋ねた。


『大丈夫だった?』


「うん。銀行はこちらで支えるって」


『ほら。昨日、話してよかった』


「……うん」


 秘密を明かした翌日。


 その決断が、もう璟瑶と双子を支えていた。


 ◇◇◇


 正午過ぎ。


 入院手続きが始まる。


 書類。緊急連絡先。


 病棟での過ごし方と必要な衣類や日用品。


 創は説明を聞きながら、細かくメモを取った。


『俺が家へ戻って取ってくる』


「先生に、ご家族を頼ってって言われたでしょう」


『でも』


「恵美子さんにお願いしよう」


『……分かった』


 創は母、宮嶋恵美子へ電話をかける。


『母さん。今は大丈夫だから、先に落ち着いて聞いて』


「その言い方が一番落ち着けないんだけど」


『璟瑶、今日から入院になった』


「……え?」


『双子は元気。璟瑶も今すぐ危険ってことじゃない。でも、早産にならないよう病院で見てもらう』


 恵美子は短く息を吐いた。


「分かった。何が必要?」


『家に入って、入院用品を持ってきてほしい』


「予備の鍵はある。すぐ行く」


『お願い』


「創」


『何?』


「あなたは璟瑶さんのそばにいなさい」


『うん』


 璟瑶も、母方の叔母である桜井由美子と桜井奈緒子へ連絡した。


 二人とも東京におり、すぐに手伝うと言ってくれた。


「創君のお母さんも来るの?」


「うん」


「じゃあ、成城の家で合流する」


「初対面だと思う」


「入院の日に親戚同士が初対面って、すごいね」


「私もそう思う」


「笑ってる場合じゃない。すぐ行くから」


「ありがとう」


 ◇◇◇


 午後一時十四分。


 成城の新居。


 恵美子が玄関前で予備鍵を取り出した時、背後から声がした。


「すみません。こちら、宮嶋創さんと欧陽璟瑶のご自宅でしょうか?」


「はい。もしかして、璟瑶さんの?」


「母の妹です。桜井由美子です」


「同じく妹の、桜井奈緒子です」


「あっ……初めまして。創の母の宮嶋恵美子です」


 三人が同時に頭を下げる。


「初めまして」


「初めまして」


 少しだけ、妙な間が生まれた。


 本来なら、もっと穏やかな日に交わすはずだった挨拶。


 今日は、娘であり、姪であり、嫁でもある璟瑶の入院用品を揃えるための初対面だった。


「こんな時に、初めましてですみません」


「いえ、こちらこそ」


 奈緒子が二人を見る。


「今は三人で、必要なものを揃えましょう」


「そうですね」


 それだけで、緊張が少しほどけた。


 三人は寝室や洗面所へ分かれ、衣類、洗面用品、タオル、充電器、羽織物などを揃えていく。


「創君、落ち着いてた?」


 由美子に聞かれ、恵美子は少し考える。


「落ち着いて話していました。でも、多分かなり心配しています」


「まだ二十一歳なんだよね」


「はい」


「でも、もう夫で、もうすぐ二人の父親」


 奈緒子が穏やかに笑う。


「璟瑶、創君と結婚してよかったね」


 恵美子も頷いた。


「私も、そう思っています」


 今日が初対面でも、守りたい家族は同じだった。


 ◇◇◇


 午後二時十七分。


 病棟の個室。


 璟瑶の正式な入院生活が始まった。


 ベッドと小さなテーブル。


 椅子。収納。洗面設備。


 創は病棟での注意事項を聞きながら、またメモを取る。


「体調に変化があれば、すぐナースコールを押してください」


『はい』


「ご主人、かなり細かくメモされますね」


 看護師が微笑む。


「銀行員なので」


『璟瑶も銀行員だろ』


「私は今、患者」


『そうだった』


 午後三時を過ぎた頃、恵美子、由美子、奈緒子が荷物を持ってきた。


『母さん』


「持ってきたよ」


「恵美子さん、ありがとうございます」


「今は身体を優先して」


 由美子と奈緒子も、ベッドのそばへ来る。


「璟瑶、大丈夫?」


「うん」


「顔を見たら、少し安心した」


「二人とも、ありがとう」


 創が三人を見る。


『今日が初対面だったんですよね』


「そう」


「玄関前で」


「入院用品を持ってくる日に、親戚の初顔合わせ」


「……ごめんなさい」


 三人の声が重なった。


「何で謝るの」


「何で謝るの」


「何で謝るの」


 創が思わず笑う。


『三人、合いそう』


「そう?」


「多分」


「合うと思う」


 病室の空気が、少し明るくなる。


 恵美子は璟瑶をまっすぐ見た。


「璟瑶さん。今は創を頼ってください」


「はい。でも、創にも仕事と教習所があるから」


「だったら私たちにも頼ればいい」


 由美子が言い、奈緒子も続ける。


「お姉ちゃんも、雪瑶も玲瑶もいる。崇岳さんだって、中国から飛んでくると思う」


「お父さん、本当に来そう」


『絶対来る』


「和久も必要なら動かすから」


『父さん、荷物みたいだな』


「父親は、こういう時に動くの」


『俺も父親』


「あなたは、ここ担当」


『はい』


 また、病室に笑いが生まれた。


 一人で背負わなくていい。


 その言葉が、少しずつ現実になっていた。


 ◇◇◇


 午後四時二十二分。


 三人が帰り、病室には夫婦だけが残る。


 創は持ってきてもらった荷物を、一つずつ収納した。


「創」


『何?』


「ありがとう」


『俺、荷物取りに行ってないけど』


「そうじゃなくて」


『じゃあ?』


「銀行より、私たちを優先してって言ってくれたこと」


 創の手が止まる。


『当たり前だろ』


「頭取としては、当たり前じゃない」


『夫としては当たり前』


 創はベッドの横へ座り、妻の手を握る。


『怖い?』


「少し」


『俺も』


「まだ出産じゃないよ」


『分かってる』


「二人とも元気」


『うん』


「先生も、元気なうちに守るって言ってた」


『うん』


「家に帰りたい」


『うん』


「創と一緒に寝たい」


『うん』


「朝、よいしょって言ってないって言いたい」


『それは病院でも言える。言ってるけど』


「言ってない」


『じゃあ、毎朝電話で確認する』


「六時半?」


『起きてたら』


「起きて」


『はい』


 二人の左手には、休日の結婚指輪がある。


 病室でも、二人が夫婦であることは変わらなかった。


 ◇◇◇


 午後五時十三分。


 澪奈が病室を訪れ、胎児心拍と腹部の張りを確認するモニターが装着された。


 一つ…もう一つ。


 二人分の心拍が病室に響く。


 創が、その音に耳を澄ませる。


『二人、いる』


「いるよ」


「現時点で、二人とも心拍はしっかりしています」


 澪奈は記録を確認する。


「ただ、張りはやはりあります。入院していただいてよかったと思います」


『入院の判断は正しかった?』


「はい。少なくとも、私はそう判断しています」


「先生」


「はい」


「仕事、リモートなら――」


『璟瑶』


「まだ最後まで言ってない」


 澪奈が少し笑った。


「状態が安定してから相談しましょう。今週末は仕事をしない。月曜日以降も、まず診察してからです」


「はい」


「仕事を続けられるかどうかではなく、どの程度なら母体と双子へ負担をかけずにできるか。その考え方に変えてください」


「……はい」


『先生、ありがとうございます』


「まだ先は長いですよ」


『はい』


「出産まで、できるだけ時間を稼ぎましょう」


 時間を稼ぐ。


 一日でも長く、二人がお腹の中で育つ時間を守る。


 そのために、今日から入院する。


 創はその言葉を、深く胸に刻んだ。


 ◇◇◇


 午後六時三十一分。


 創が帰る時間になる。


『何かあったら、すぐ連絡』


「分かってる」


『ナースコールも』


「分かってる」


『水は?』


「ある」


『充電は?』


「百パーセント」


『トイレ――』


「創」


『はい』


「確認、多すぎ」


『確認は入口』


「先に言われた」


 璟瑶が笑う。


 創は立ち上がり、妻の左手を握った。


『明日また来る』


「教習所は?」


『ない』


「仕事は?」


『日曜日』


「そうだった」


『曜日、分からなくなってる?』


「今日、急に入院したから」


『そうだよな』


 創は妻の額へ、そっと口づける。


『おやすみは、あとで電話する』


「うん」


 扉へ向かいかけた創を、璟瑶が呼び止める。


「創」


『ん?』


「ありがとう」


 創は振り返った。


『夫だから』


 それだけ答え、病室を出る。


 ◇◇◇


 午後七時十四分。


 病室。


 一人になった璟瑶は、白い天井を見つめていた。


 いつもの新居ではなく… 隣に創もいない。


 左手で結婚指輪に触れ、もう一方の手を大きなお腹へ置く。


「二人とも」


 静かな病室で、小さく語りかける。


「もう少し、ここにいてね」


 返事の代わりのように、腹部の内側で小さな動きを感じた。


「……うん」


 朝、自宅で目を覚ました時には、数時間後に入院するなど考えていなかった。


 それでも、今は一人ではない。


 久世が銀行全体を支え、黒崎が法人・国内部門を支え、早乙女が市場・国際部門を支える。


 水城と劉川が仕事を整える。


 創が夫として隣にいる。


 恵美子、由美子、奈緒子も、すぐに駆けつけてくれた。


 頭取だから、妻だから。母親だからといって。


 一人で、すべてを背負う必要はない。


 自宅だけでは、もう守りきれない。


 だから、病院で守る。


 欧陽璟瑶・四十五歳。


 双胎妊娠。


 この日から、正式な入院管理が始まった。


 出産の日まで、あとどれだけ時間があるのか。


 まだ誰にも分からない。


 ただ、確かなことが一つだけある。


 二つの小さな心臓は、今日もしっかり動いていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、ついに璟瑶が入院することになりました。


双子は元気。


だからこそ、元気な今のうちに守る。


澪奈先生の判断によって、夫婦の生活も銀行の動きも大きく変わっていきます。


そして入院用品を届けるため、恵美子・由美子・奈緒子の三人が初対面。


家族同士のつながりも、少しずつ広がり始めました。


次回、第93話。


頭取のいない青嶺中央銀行。


久世副頭取を中心に、秘書室と重役たちが銀行を支え始めます。


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