第90話「隠しきれなくなる未来――それでも今は、四人で静かに進む」
第90話です。
今回は、妊娠中期編の一区切りとなる一話です。
璟瑶のお腹はさらに大きくなり、自宅では完全に妊婦らしい体型へ。
銀行でも、ゆったりした服を選んでいても少しずつ隠しにくくなってきました。
水城と劉川は、出張や会議、移動時間をさらに調整。
それでも、妊娠についてはまだ公表しません。
一方の創も、教習は仮免前まで進み、学科の効果測定を意識する段階へ。
そして中国へ戻る前の崇岳も、新居に立ち寄り、少し大きくなった娘のお腹と、父親になる創を静かに見守ります。
仕事、結婚、妊娠、免許。
全部が少しずつ前へ進んでいく、81〜90話の締めくくりです。
月曜日。
午前六時四十八分。
東京都世田谷区、成城の新居やなて。
『……』
キッチンで朝食を作る宮嶋創・二十一歳が、何度目か分からないほどリビングを振り返る。
ソファには、欧陽璟瑶・四十五歳が座っていた。
ゆったりとした部屋着でも、腹部の丸みがはっきり分かる。
もう「少し膨らんできた」という表現では足りない。
双子を宿す身体は、誰が見ても妊婦だと分かる姿へ近づいていた。
「創」
『何?』
「今、何回目?」
『何が?』
「お腹を見るの」
『数えてない』
「私は数えてる」
『何回?』
「六回」
『そんなに?』
「まだ七時前だよ」
『時間は関係ないだろ』
璟瑶は小さく笑い、自分の腹部へ右手を添えた。
「私も、前よりかなり分かる」
『うん』
「昨日まで着てた服も、少し裾が上がるようになった」
『そろそろ、マタニティ寄りの服を増やした方がいいんじゃない?』
「仕事用?」
『家でも銀行でも。締め付けないもの』
「水城さんにも同じことを言われた」
『そりゃ言う』
「劉川さんも」
『正しい』
「創も?」
『正しい』
「……全員同じ」
『みんな、璟瑶の身体を優先してるから』
創は出来上がった朝食をテーブルへ並べた。
白米。
味噌汁。
焼き魚。
卵焼き。
温野菜。
ヨーグルト。
璟瑶の分は、一度に食べすぎないよう少なめに盛りつけてある。
「最近、私の分だけきれいに少ないね」
『一度に多く食べると苦しいって言っただろ』
「言った」
『足りなかったら、後で軽く追加できるようにしてる』
「細かい」
『銀行員だから』
「最近、何でもそれで済ませるでしょう?」
『便利だから』
――午前七時十二分。
二人は向かい合って朝食を食べ始めた。
今日は二人とも、青嶺中央銀行本店へ通常出勤する。
ただし、璟瑶の勤務予定は以前とは明らかに変わっていた。
出張は減った。
会議と会議の間には休憩が入る。
長時間の立ち仕事や移動は避ける。
夜遅くまで残る予定も、可能な限り減らした。
すべて、水城と劉川が体調を優先して調整している。
「今日、創は何時まで?」
『六時半くらい』
「私は六時までの予定」
『早いな』
「水城さんが強制した」
『正しい』
「またそれ」
『俺も早く帰れたら帰る』
「教習所は?」
『今日はない』
「じゃあ、一緒に夕飯を食べられるね」
『うん』
――午前七時三十九分。
寝室にて仕事着に着替えた璟瑶が、姿見の前に立つ。
身体の線を拾いにくいワンピース。
その上には、前を閉じずに着られるゆったりとしたジャケット。
正面から見れば、まだ目立ちにくい。
しかし横を向けば、腹部の丸みは分かる。
「もう、前みたいには隠れないね」
『うん』
「正面は?」
『まだ目立ちにくい』
「横は?」
『分かる』
「座ったら?」
『もっと分かるかも』
「……困った」
『無理に隠す方が困る』
「分かってる」
『高峰先生にも言われただろ』
「身体を締め付けないこと」
『そう』
璟瑶は鏡の中の自分を見つめた。
「じゃあ、今日はこれで行く」
『いいと思う』
「今日、久世さんもいる」
『まだ知らないんだよな』
「うん」
『榊原さんも、長谷部さんも?』
「知らない。ほかの役員も、誰も知らない」
銀行内で結婚を知る者は、まだ四人だけ。
そのうち妊娠と双子まで把握しているのは、水城と劉川だけだった。
桐生と御子柴は、創と璟瑶が結婚したことは知っている。
しかし、妊娠は知らない。
必要な情報を、必要な相手にだけ共有する。
その線引きは、今も守られている。
『今日、誰かに気づかれたら?』
「いつもどおり仕事をする」
『聞かれたら?』
「その時に考える」
『隠すために無理するのだけはやめて』
「うん。約束する」
――午前七時五十四分。
玄関。
二人は左手から結婚指輪を外し、それぞれのケースへしまった。
「銀行では、まだ頭取」
『俺は若手行員』
「家では?」
『夫』
「私は?」
『妻』
璟瑶が満足そうに笑う。
「いってらっしゃい」
『行ってきます』
体調を優先し、今日は短く唇を重ねるだけにした。
ちゅ、と小さな音がする。
創は妻の頬へ軽く触れた。
『無理するなよ』
「創もね」
――午前八時四十四分。
青嶺中央銀行本店、四十二階の頭取秘書室。
出勤した璟瑶を見て、水城絢乃・三十一歳が一瞬動きを止めた。
「……」
「何?」
「頭取。今日は仕事着でも、かなり分かります」
「朝から創にも言われた」
そこへ資料を持った劉川景仁・三十八歳が来る。
劉川も璟瑶の姿を一度見て、すぐに視線を戻した。
「確かに、以前より分かりやすくなっています」
「劉川さんまで?」
「申し訳ありません」
「謝ることではないでしょう?」
水城が予定表を開く。
「服装だけで隠し続けることは、そろそろ難しくなるかもしれません」
「まだ公表はしない」
「承知しています。ただし、出張はさらに減らします」
「もう決定?」
「はい」
劉川が来週の予定を示す。
「大阪への日帰り出張は、副頭取または担当役員による代行が可能です」
「久世さん?」
「案件によります。頭取でなければ成立しない出張だけ残します」
水城も続ける。
「頭取が行かれる場合も、日帰りではなく一泊を検討します」
「一泊の方が負担にならない?」
「一日に往復移動と会議を詰め込まずに済みます」
「なるほど」
「午後の会議二本の間には、三十分空けています」
「そんなに?」
「必要です」
「……分かりました」
璟瑶は、もう反論しなかった。
仕事を続けるためには、今までと同じ予定ではいけない。
そのことを、少しずつ受け入れ始めていた。
――午前九時十二分。
役員会議室。
副頭取の久世宗一郎。人事担当役員の長谷部章一。
専務の御子柴泰成。
榊原征司。黒崎忠彦。早乙女慶一。
秋元康成。水谷征吾。陳高明。
相馬玲二。武藤英明。他、複数の役員が集まっている。
璟瑶が入室し、水城が事前に位置を調整した椅子へ座った。
久世が最初に報告する。
「頭取。昨日の『フロンティアの夜明け』ですが、かなり反響があります」
「広報から聞いています」
黒崎も資料を見る。
「地方企業支援に関する問い合わせが複数入っています」
相馬が続ける。
「地域銀行からも、共同案件についての相談が増えています」
璟瑶は全員を見渡した。
「番組で取り上げられたからという理由だけで、案件を進めないでください。通常どおり、必要性、採算、リスクを確認します」
「承知しました」
榊原が予定表へ目を落とす。
「来月、頭取の地方訪問が少し減っていますね」
璟瑶は一瞬だけ水城を見る。
水城は何も言わない。
「オンラインで代替できる予定を、一部切り替えました」
「なるほど」
榊原はそれ以上尋ねなかった。
長谷部が次の議題へ移る。
「若手人材交流プログラムの次期候補は、来週提出します」
「お願いします」
御子柴は、璟瑶の服装が以前と変わったことに気づいていた。
彼は結婚を知っている。
だが妊娠は知らない。
個人的な事情を憶測する立場ではないと考え、何も口にしなかった。
会議は通常どおり進む。
今のところ、誰からも質問はない。
それでも、隠し続けられる時間が短くなっていることを、璟瑶自身が一番よく分かっていた。
――午前十時十五分。
十八階。
法人営業第一部。
創は東央精密製作所の追加資料を確認していた。
桐生雅人・四十二歳が近づく。
「宮嶋。昨日の遅延ケース、直した?」
『はい』
「見せて」
『こちらです』
桐生は資料へ目を通す。
「設備稼働は三か月遅延。売上の立ち上がりは四か月後ろ倒し?」
『設備導入後、安定稼働まで一か月余計に置きました』
「理由は?」
『最初から計画どおりの歩留まりになる前提では、安全側とは言えないからです』
「いい。返済は?」
『据置期間を一定範囲延ばす案と、当初約定を維持する場合を比較しています』
「どちらを通したい?」
創は一瞬考えた。
『通したい案を選ぶのではなく、先方の資金繰りと返済可能性を見た上で、審査部と条件を詰めるべきだと思います』
桐生が少し頷く。
「前なら、すぐに“こちらがいいと思います”って言ってたかもな」
『教習所で、判断は必要だけど、思い込みで動くなと教わっていて』
「教習所?」
『すみません』
「仕事につながってるなら、別にいい」
相沢拓也が横から尋ねる。
「宮嶋、仮免は近い?」
『第一段階の仕上げには近づいてます』
「最近ずっと、“まだ”って言ってなかった?」
『進んではいます』
佐伯遼も会話へ加わる。
「免許を取ったら、最初に誰を乗せる?」
『……彼女です』
少し離れた席にいた藤崎美優が振り向く。
「やっぱり彼女いるんだ」
『前から言ってますよ』
北川玲奈も尋ねる。
「何歳?」
『秘密です』
佐伯が笑う。
「またそれ」
創も笑った。
誰も、その“彼女”がすでに妻になっているとは知らない。
ましてや、欧陽璟瑶頭取であることも。
創が免許を取りたい本当の理由が、後部座席に二つのチャイルドシートを置く未来にあることも、誰も知らなかった。
――午前十一時四十三分。
別のフロア。
黒瀬颯真・二十七歳が、同僚と資料を確認している。
「宮嶋、免許まだ取れてないらしいな」
「仮免の前だって」
黒瀬が答える。
「創は慎重だから、少し時間かかりそう」
「彼女、ドライブを待ってるんじゃない?」
「そうかもな」
一方、個人営業企画部では、水無瀬琴葉・二十六歳も同僚から同じ話題を振られていた。
「創君、免許を取りに行ってるんだって?」
「うん」
「誰か乗せたい人がいるのかな」
「彼女がいるって言ってたから、多分その人じゃない?」
黒瀬も琴葉も、それ以上は考えなかった。
その未来の車に、妻だけでなく二人の子どもが乗ることを知らないまま。
――午後零時三十三分。
四十二階。
頭取室。
「頭取。今日の昼食は、こちらで召し上がってください」
水城が昼食を準備する。
「食堂には行かないの?」
「混雑を避けます」
「身体のため?」
「はい」
「最近、何でも身体が理由になるね」
劉川が答える。
「必要な理由です」
「分かってる」
璟瑶は、創が作った弁当を開いた。
量は多すぎず、おかずも少しずつ分けてある。
水城が中を見る。
「今日も宮嶋さんが?」
「うん。自分の分と一緒だからって」
「それでも、毎日続けるのは大変です」
劉川が言う。
璟瑶は少し嬉しそうに笑った。
「創、こういうことを苦にしないから」
「いい旦那さまですね」
「うん」
銀行の中で、妻として素直に返事ができる相手は、まだ水城と劉川だけだった。
――午後二時十分。
会議を終え、璟瑶が水城と廊下を歩く。
途中で、その歩調が少し遅くなった。
水城はすぐに気づく。
「頭取、大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「お腹が張ります?」
「張りというより、少し重い」
「頭取室へ戻りましょう」
「次は二時半からオンライン会議でしょう?」
「開始を五分遅らせます」
「そこまでしなくても」
「座って水分を取ってからです」
璟瑶は少し迷った。
しかし、今日は反論しなかった。
「分かった」
身体が、以前と同じ速度では働けないことを伝え始めている。
それを認めて休むことも、働く母として必要な選択だった。
――午後五時五十五分。
「本日の予定は終了です」
水城がはっきり告げる。
「本当に?」
「本当にです」
劉川も続ける。
「車の手配も済んでいます」
「メールを少しだけ――」
「明日できます」
璟瑶は諦めたようにPCを見る。
「創にも同じことを言われる」
「では、帰りましょう」
「……はい」
璟瑶はPCを閉じた。
――午後六時十四分。
十八階。
「宮嶋、今日はここまで」
桐生が声をかける。
『はい』
「東央精密は、明日、審査部との打ち合わせが入る」
『分かりました』
「審査は進んでる。ただし、通る前提で話すなよ」
『はい。まだ正式審査中です』
「よし」
創もPCを閉じた。
今夜は教習所へ行かない。
帰宅後、仮免許前の効果測定へ向けて学科問題を解くつもりだった。
仕事も教習も、一つずつ進める。
――午後七時五分。
成城。
新居。
『ただいま』
「おかえり」
先に帰宅していた璟瑶が、玄関で創を迎える。
創が指輪ケースを出す。
璟瑶は創の左手を取り、結婚指輪を薬指へ戻した。
「おかえり」
『ただいま』
次に創が、妻の指輪を戻す。
『おかえり』
「ただいま」
二人の薬指に、同じリングが並ぶ。
その瞬間、インターホンが鳴った。
「?」
璟瑶がモニターを見る。
「……お父さん?」
『今日来るって言ってた?』
「言ってない」
『また?』
璟瑶が通話ボタンを押す。
「お父さん」
『開けて』
「先に、どうして来たの?」
『中国へ戻る前に、顔を見に来た』
璟瑶の表情が柔らかくなる。
「今、開ける」
――午後七時十三分。
玄関。
欧陽崇岳・七十二歳が入ってくる。
「こんばんは」
『こんばんは』
「また連絡なし?」
璟瑶が尋ねる。
「今日は七分前に連絡した」
「それは連絡したことにならない」
崇岳が創を見る。
「創もそう思う?」
創は少し迷った。
『……七分は短いと思います』
「婿まで娘側か」
「夫だから」
璟瑶が答える。
「そうだった」
崇岳は笑いながら靴を脱いだ。
リビングへ入ったところで、娘の立ち姿を見て足を止める。
「……」
「何?」
「大きくなったな」
「お腹?」
「うん」
前に頭取室で会った時は、仕事着でほとんど分からなかった。
今は、ゆったりとしたワンピースでも腹部がはっきり丸い。
「もう、かなり分かる」
「家では完全に分かる」
「銀行では?」
「少しずつ、隠しにくくなってる」
「そうか」
崇岳がソファへ座る。
創はお茶を用意した。
「明後日、中国へ戻る」
崇岳が言う。
「もう?」
「仕事が残ってる」
「引退したのに?」
「完全に何もしないわけじゃない」
創がお茶を置く。
『どうぞ』
「ありがとう」
崇岳は湯飲みを手に取り、今度は創を見た。
「教習はどう?」
『仮免前まで進んできました』
「もう路上?」
『仮免を取ってからです』
「学科もある?」
『今は効果測定に向けて問題集を解いてます』
「運転、怖い?」
『まだ、かなり怖いです』
「父親になるのも?」
創の答えが止まった。
璟瑶も父を見る。
崇岳の顔は真剣だった。
創は正直に答える。
『かなり怖いです』
崇岳はゆっくり頷いた。
「それでいい」
『え?』
「怖くない父親の方が、私は怖い」
『そういうものですか?』
「自分一人なら、失敗を自分で受ければいい。でも子どもができれば、自分の判断が、その子たちの生活を変える」
『はい』
「怖いから考える。準備する。確認する。それでいい」
『確認しすぎて、教習所では注意されてますけど』
「そこは直せ」
璟瑶が笑う。
「お父さん、長瀬先生と同じ」
「長瀬先生?」
『教習所の指導員です』
「会ったこともないのに?」
「考え方が同じ。確認したら判断して動けって」
「当たり前だ」
『それが難しいんです』
「仕事も同じだろう」
『また銀行へ戻った』
三人は笑った。
――午後七時四十五分。
夕食。
突然の訪問だったため、特別な料理はない。
創が二人分用意していた煮魚、野菜、味噌汁、ご飯を、三人分へ少し増やした。
「創、また全部作った?」
『はい』
「本当に慣れたな」
『一人暮らしが長かったので』
崇岳が娘を見る。
「璟瑶は何を作る?」
「私も作るよ」
「何が得意?」
「中華」
「本場の?」
「上海料理」
創が頷く。
『俺より上手いです』
「それなら安心した」
「何が?」
「創だけが家事をしてるわけじゃない」
「私もちゃんとしてます」
『今は俺の方が多いけど』
「妊娠中だから」
『そう』
崇岳は二人の会話を聞き、少し黙った。
娘の腹部を見る。
「本当に父親になるんだな」
創が答える。
『はい』
「まだ実感はない?」
『あります。でも、お腹がもっと大きくなって、動いたのが分かるようになったら、さらに実感すると思います』
「私は毎日実感してる」
璟瑶が自分の腹部へ触れる。
「身体は大丈夫?」
崇岳が尋ねる。
「今は大丈夫」
「“今は”だな」
「うん」
「無理するな」
「お父さんまで。今日、何回目?」
「父親だから言う」
『俺も言います』
「知ってる」
――午後八時三十六分。
玄関。
帰ろうとする父を、璟瑶が見つめる。
「次に日本へ来るのはいつ?」
「まだ決めてない」
「生まれる前には?」
「来る」
崇岳は即答した。
璟瑶が少し笑う。
「お母さんも?」
「多分」
「雪瑶と玲瑶も?」
「来たがる」
「また全員?」
「覚悟しておけ」
創が笑う。
『家が広くてよかったですね』
「本当に」
靴を履いた崇岳が、最後に創へ向き直る。
「創」
『はい』
「娘を頼む」
『はい』
「双子も」
『はい』
「それから、自分も大事にしろ」
『俺も?』
「父親になる前に、自分が潰れたら意味がない」
創は少し驚き、それから深く頭を下げた。
『分かりました』
「じゃあ、また」
「気をつけて」
扉が閉じる。
家の中は、再び夫婦二人――そして、お腹の中の二人だけになった。
――午後九時十二分。
ダイニングテーブル。
教習原簿。
学科問題集。
道路標識一覧。
その隣には、高峰澪奈から渡された双胎妊娠の冊子が並んでいる。
創が問題集を開く。
隣に座る璟瑶が、標識を指した。
「これは?」
『駐車禁止』
「これは?」
『駐停車禁止』
「違いは?」
創が顔を上げる。
『璟瑶』
「何?」
『教習を受けてるのは俺だよ』
「確認」
『最近、その言葉好きだな』
「創が毎日言うから」
『駐車禁止は駐車が禁止。条件を満たす一時的な停車は可能。駐停車禁止は、駐車も停車も禁止』
「正解」
『先生?』
「助手」
『誰の?』
「妻」
創が笑う。
「次。これは?」
『車両進入禁止』
「これは?」
『一方通行』
「これは?」
『指定方向外進行禁止』
「これは?」
『徐行』
「これは?」
『止まれ』
「これは?」
『俺が疲れる標識』
「不正解」
『休憩』
「五分」
『十分』
「七分」
『交渉するの?』
「銀行員だから」
『俺も銀行員』
二人は笑った。
創は問題集を閉じ、今度は双胎妊娠の冊子を手に取る。
『じゃあ次は俺から』
「何?」
『これは?』
「妊娠中期の注意事項」
『これは?』
「むくみ」
『これは?』
「血圧」
『これは?』
「貧血」
『これは?』
「早産兆候」
『これは?』
「子宮頸管」
『これは?』
「創」
『何?』
「教習を受けてるのは創。妊娠してるのは私」
『確認』
「……」
二人は顔を見合わせ、また笑った。
教習原簿と、双胎妊娠の冊子。
まったく違う二つの資料。
それでも、どちらも四人の未来に必要なものだった。
――午後十時八分。
リビング。
二人はソファに並んで座る。
テレビはついているが、音量は小さい。
璟瑶が創の方へ少し身体を寄せる。
『触っていい?』
「聞かなくてもいいのに」
『毎回聞く』
「どうぞ」
創は服の上から、妻の腹部へそっと手を置いた。
以前より明らかに丸い。
双子が育っていることが、母の身体の外側にも現れ始めている。
『もう、いつまでも隠せないな』
「うん」
『怖い?』
「少し」
『俺も』
璟瑶が創を見る。
「何が一番怖い?」
創は少し考えた。
『璟瑶と二人が、無事に出産まで進めるか。それが一番怖い』
「秘密は?」
『知られるのは怖い』
「銀行は?」
『いろいろ変わると思う』
「うん」
『でも、一番大事なのは身体だ』
璟瑶が頷く。
「私も」
「結婚を知られることより?」
「それも怖い。でも今、この二人は育ってる」
『うん』
「それで、今は十分」
創はその言葉を聞きながら、腹部を優しく撫でた。
『次の健診でも、二人とも元気だといいな』
「うん」
『性別も、今度こそ』
「まだそれ?」
『気になる』
「確定するまで待つ」
『はい』
二人の左手には結婚指輪。
テーブルには教習原簿と、双子についての資料。
夫婦。
仕事。
妊娠。
免許。
秘密。
すべてが一度に大きく変わったわけではない。
一つずつ、少しずつ進んでいる。
創はまだ免許を持っていない。
仮免許にも届いていない。
それでも第一段階の仕上げに近づき、学科の効果測定を意識するところまで来た。
璟瑶はまだ、妊娠を公表していない。
結婚も、銀行内で広く知られてはいない。
それでも身体の変化は、隠せない領域へ近づいている。
水城と劉川は、璟瑶を守るために出張や勤務を調整する。
久世、榊原、長谷部をはじめ、多くの役員はまだ何も知らない。
桐生は創を、いつもどおり厳しく指導する。
御子柴も人事上の必要な情報だけを胸にしまい、通常どおり接する。
黒瀬と琴葉は、創には年上かもしれない秘密の恋人がいると思ったまま。
外から見れば、何も変わっていない。
けれど家へ帰れば、昨日より少し大きくなったお腹がある。
昨日より少し父親へ近づいた創がいる。
昨日より少し母親へ近づいた璟瑶がいる。
そして、昨日より少し成長した二つの命がある。
創は腹部へ向かって、小さく語りかけた。
『まだもう少し、秘密に付き合ってくれな』
「二人にそんなこと言う?」
『家族だから』
「そうだね」
創は妻の肩を抱いた。
腹部を圧迫しないよう、そっと距離を整える。
璟瑶は創の肩へ寄りかかった。
出産までは、まだ長い。
その間に何が起きるかは分からない。
免許取得までにも、まだ学ぶことがある。
東央精密の正式審査も続いている。
結婚と妊娠の秘密を、いつまで守れるかも分からない。
それでも今は、四人で静かに進む。
銀行では、頭取と若手行員。
家へ帰れば、夫と妻。
そして、その間で育つ二つの小さな命。
秘密を隠しきれなくなる日は、もう遠くない。
けれど、その日が来るまでの時間も、四人にとって大切な家族の時間だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第81話から続いてきた妊娠中期編も、今回で一区切りです。
璟瑶のお腹は明らかに大きくなり、これまでのように服だけで完全に隠し続けることも難しくなってきました。
それでも、現時点では妊娠も結婚も広く公表していません。
久世、榊原、長谷部をはじめとする重役たちもまだ知らず、黒瀬と琴葉も創には「彼女がいる」と思ったままです。
一方、創は運転教習を重ね、第一段階の仕上げと仮免前の学科対策へ。
まだ免許も仮免も取得していませんが、父親になるための準備は確実に進んでいます。
そして中国へ戻る前に新居を訪れた崇岳から、「怖くない父親の方が怖い」と言われた創。
不安があるからこそ、確認し、考え、準備する。
それも父親になる過程なのかもしれません。
銀行では、まだ頭取と若手行員。
家では夫と妻。
そしてその間で、二つの小さな命は確実に大きくなっています。
次回、第91話。
少しずつ隠しにくくなる璟瑶の妊娠と、仮免を目前にした創。
二人の秘密にも、また新しい変化が近づいてきます。




