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第89話「夜明けをつくる銀行――頭取の言葉と、創の第五教習」


第89話です。


今回は、二つの「前へ進む姿」を描きます。


前半では、経済ドキュメンタリー番組『フロンティアの夜明け――企業と地域、その次の一手』が青嶺中央銀行を取材。


地方企業の事業承継や海外展開、地域銀行との連携、そして東亜未来モビリティへの大型融資について、璟瑶が頭取として語ります。


「一億円の設備投資にも、一千二百億円の大型調達にも、その向こうに働く人と生活がある」


その言葉は、かつて創が語った銀行観ともどこか重なります。


後半では創の教習5回目。


第一段階の総合練習として、右左折、坂道、S字、クランク、一時停止、安全確認などをまとめて実践します。


まだ仮免前。


それでも、創の運転は確実に変わり始めています。



 金曜日。


 午前六時四十一分。


 東京都世田谷区、成城。


 新居。


「……創」


『ん?』


「今日、またカメラが来る」


『知ってる』


「前回より長いの」


『何時まで?』


「夕方まで」


 ダイニングで、宮嶋創・二十一歳が朝食を食べている。


 向かいには、欧陽璟瑶・四十五歳。


 ゆったりとした部屋着を着ているため、腹部の丸みは前回の健診時よりも分かりやすい。


 創の視線が、自然にそこへ向かった。


「……」


『何?』


「今日、一回目」


『まだ一回しか見てない』


「数えてる?」


『数えてない』


「嘘」


 創は何も答えず、味噌汁を一口飲んだ。


『今日の撮影、大丈夫?』


「水城さんと劉川さんが、かなり調整してくれてる」


『立ちっぱなしは?』


「ほとんどない」


『休憩は?』


「入ってる」


『移動は?』


「本店中心」


『ならいい』


「創」


『ん?』


「最近、夫なのか秘書なのか分からない」


『夫』


「即答」


『秘書の仕事はできないから』


「でも、休め、水を飲め、座れって、ずっと言うでしょう?」


『それは夫の仕事』


「そうなの?」


『俺の中では』


 璟瑶は小さく笑った。


 今日、青嶺中央銀行へ二度目の大規模な経済ドキュメンタリー取材が入る。


 番組名は、


『フロンティアの夜明け――企業と地域、その次の一手』


 今回の特集テーマは、


「地方から世界へ――巨大銀行が変える企業支援」


 先日放送された『経済最前線スペシャル――日本を動かす企業と金融』は、青嶺中央銀行という巨大金融グループと、その頭取である璟瑶を中心に構成されていた。


 今回の番組は、それとは少し違う。


 青嶺中央銀行だけを追うのではない。


 提携する地域銀行。


 地方の中小企業。


 事業承継。


 設備投資。


 海外進出。


 地域再生。


 その現場を中心に取り上げ、その中で青嶺中央銀行がどのような役割を担っているのかを描く。


 取材の大部分はすでに地方で行われていた。


 今日は、頭取インタビューと本店内の映像を追加する最終撮影日。


 収録した映像の一部は事前編集済みの本編へ差し込まれ、夜の特別放送に間に合わせる予定だった。


 もちろん、璟瑶の結婚は非公開。


 妊娠も、双子も非公開。


 カメラが追うのは、青嶺中央銀行頭取としての欧陽璟瑶だけだった。


 ――午前七時十八分。


 寝室。


 着替えを終えた璟瑶が、姿見の前に立っている。


 今日のジャケットは、前回の取材時よりもさらにゆとりのあるデザインだった。


 身体を締め付けず、正面から見れば腹部の丸みも目立ちにくい。


 それでも、横を向けば以前との違いは分かる。


「……」


 璟瑶が鏡の前で少し横を向く。


 後ろに立つ創が答えた。


『分かる』


「言わないで」


『水城さんと同じことを言っただけ』


「だから言わないで」


『でも、無理に隠す服を着てないなら、それでいい』


「うん」


 璟瑶は鏡の中の自分を見つめた。


「撮影は、胸から上が中心になるようにしてもらってる」


『それならいい』


「座って話す場面も多い」


『さらにいい』


「創」


『何?』


「今日、教習は五回目でしょう?」


『夜にな』


「何をするの?」


『第一段階の総合練習』


「総合?」


『今まで習ったことを組み合わせて走る』


「S字も?」


『ある』


「クランクも?」


『ある』


「坂道は?」


『ある』


「交差点も?」


『ある』


「全部?」


『ほぼ全部』


 璟瑶は一瞬黙った。


「……頑張って」


『その前に、俺も銀行で一日仕事だけどな』


「そうだった」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 ――午前七時三十六分。


 玄関。


 二人は左手を見る。


 休日の間、ずっとつけていた結婚指輪。


 今日は勤務日だから、それぞれの薬指から外さなければならない。


 二人は指輪を専用のケースへしまった。


 何もなくなった左手を、璟瑶がそっと撫でる。


「毎回、やっぱり慣れない」


『帰ったら、また戻す』


「うん」


 創が靴を履く。


『じゃあ、行ってくる』


「待って」


 璟瑶が創のネクタイを軽くつかんだ。


『今日、朝からテレビに出る人ですよね?』


「家では妻」


『知ってる』


 璟瑶が近づく。


「ん……」


 ちゅ、と短く唇が重なる。


 一度離れてから、もう一度。


「んっ……」


 ちゅっ。


 創が少し笑った。


『今日も回数多い』


「教習、頑張る分」


『関係ないだろ』


「もう一回」


『はい』


 最後にもう一度、短く唇を重ねる。


「いってらっしゃい」


『いってきます』


 銀行では、頭取と若手行員。


 その関係へ戻る前の、短い夫婦の時間だった。


 ――午前八時三十二分。


 東京都千代田区、大手町。


 青嶺中央銀行本店、一階。


 番組取材班が入館する。


 ディレクター、鷹野遼介・四十六歳。


 番組記者、篠原沙紀・三十八歳。


 カメラマン、柿崎直人・四十二歳。


 音声担当、長尾美里・三十四歳。


 そのほか、制作スタッフ五名。


 チーフAD、佐野圭太・三十一歳。


 AD、橋本奈央・二十七歳。


 制作進行、藤森和樹・三十三歳。


 照明担当、三浦朱音・二十九歳。


 映像技術担当、倉田雅樹・三十六歳。


 広報部の担当者が、撮影条件を改めて説明する。


「本日は、事前に公開許可を得た情報のみ撮影をお願いします」


「承知しています」


 鷹野が答える。


「法人営業フロアでは、端末画面、顧客資料、個別案件が映り込まないよう徹底してください」


「はい」


「東亜未来モビリティ株式会社については、公表済み資料の範囲に限ります」


「承知しました」


「地方企業の映像やオンライン会議も、企業側が同意した範囲以外は使用できません」


「事前の確認表と照合しながら進めます」


 カメラを回す前に、公開可能な情報と非公開情報を明確に分ける。


 金融機関への密着取材では、映像として見栄えがするかどうかより、守らなければならない情報の方が優先された。


 ――午前八時四十六分。


 四十二階。


 頭取室。


 水城絢乃・三十一歳が、タブレットで本日の予定を読み上げる。


「頭取。午前十時頃まで、頭取室で座ってのインタビューです。その後、地域銀行連携室へ移動。午前十一時十五分から休憩を確保しています」


「はい」


 第一秘書の劉川景仁・三十八歳が続ける。


「午後は、地方企業支援に関するオンライン会議の公開部分を撮影します。その後、東亜未来モビリティ株式会社の公表済み案件について説明していただきます」


「分かりました」


「立った状態での撮影は、合計十五分以内へ調整しました」


 水城の言葉に、璟瑶が顔を上げる。


「十五分?」


「はい」


「短くない?」


「ちょうどいいです」


「即答」


「高峰先生から、仕事を続けられることと、今までどおりの仕事量を続けられることは別だと言われたんですよね?」


「……創から聞いた?」


「頭取ご本人から伺いました」


「そうだった」


 劉川が予定表を閉じる。


「本日は、予定外の取材延長も受けません」


「二人とも、番組スタッフより厳しい」


「必要ですので」


 水城は表情を変えなかった。


 璟瑶は小さく息を吐き、ジャケットの裾を整える。


「分かりました。予定どおりでお願いします」


「はい」


 前の璟瑶なら、あと十分、もう一つの質問くらいならと、撮影延長を受けていたかもしれない。


 今は違う。


 働き続けるために、仕事を制限する。


 少しずつ、その選択を受け入れ始めていた。


 ――午前九時二分。


 頭取室。


 カメラが回り始める。


 篠原沙紀が璟瑶の正面に座った。


「今回の特集テーマは、『地方から世界へ』です。青嶺中央銀行の地域企業支援は、東京の本店主導なのでしょうか」


「いいえ」


 璟瑶は迷わず答えた。


「東京の本店から地方へ、答えを押しつけるつもりはありません」


 柿崎のカメラが、璟瑶の表情へ静かに寄る。


「地域銀行が持っている情報、取引先との長い関係、地域で積み重ねてきた信頼。それは、東京の本部が短期間で作れるものではありません」


「では、青嶺中央銀行は何をするのでしょうか」


「地域銀行が持つ強みに、青嶺中央銀行の資金、海外ネットワーク、専門人材、デジタル、M&A、事業承継などの機能を加えます。それが、グループである意味です」


「青嶺中央銀行が主役になるわけではない?」


「ありません」


 璟瑶ははっきりと言った。


「地域企業の一番近くにいる地域銀行が、主役になる場面も多くあります。私たちは、必要な時に必要な機能を提供する。その形の方が、地域企業にとって良いと考えています」


 巨大銀行が上から答えを与えるのではない。


 現地の銀行が企業と向き合い、単独では足りない機能を青嶺中央銀行が補う。


 それが璟瑶の考える地域金融だった。


 ――午前九時二十一分。


 取材班が地方で事前に撮影した映像が、モニターへ映し出される。


 山梨県。


 甲斐精機工業株式会社。


 従業員百三十八名。


 自動車、産業機械、半導体製造装置向けの精密部品を製造する、架空の金属加工メーカー。


 二代目社長、早川宗太郎・五十二歳。


 同社の強みは、高精度な金属加工技術。


 一方で、三つの課題を抱えていた。


 創業者の高齢化に伴う事業承継。


 新型の五軸加工設備を導入するための資金。


 新設備で製造する高精度部品の海外販路。


 地域銀行が主担当となり、青嶺中央銀行の専門部署が支援へ入った。


 篠原が尋ねる。


「この企業に対して、青嶺中央銀行は何をしたのでしょうか」


「最初から海外進出を勧めたわけではありません」


 璟瑶が映像を見る。


「まず、会社として次の十年間に何を残したいのか。誰が経営するのか。設備、人員、技術、取引先をどう引き継ぐのか。そこを地域銀行と一緒に整理しました」


「海外展開は、その後ですか?」


「はい。経営承継の方針が決まった段階で設備資金を検討し、その設備によって製造できる製品に海外需要が見込めると確認できた。そこで初めて、青嶺中央銀行の海外ネットワークをつなぎました」


「順番が重要なのでしょうか」


「重要です」


 璟瑶は頷く。


「海外へ進出すること自体が目的になれば、失敗する可能性が高くなります。企業が何を実現したいのか。そのために海外市場が必要なのか。順番を間違えないことです」


「海外進出ありきではない?」


「ありません。国内で成長する選択肢が最も適切なら、無理に海外へ出る必要はありません」


 企業の未来を、銀行側の都合で決めない。


 融資や海外支援という商品を売る前に、その企業が本当に必要としているものを見る。


 その考えが、璟瑶の回答には一貫していた。


 ――午前九時五十二分。


 話題は事業承継へ移る。


「後継者がいない企業を、銀行はどのように支えるのでしょうか」


「承継方法は一つではありません。親族承継、従業員承継、第三者承継、M&A、外部経営人材の登用など、複数の選択肢があります」


「銀行が最善の方法を選ぶ?」


「いいえ。銀行が答えを決めるのではありません」


 璟瑶の声が、少し強くなる。


「経営者が何を残したいのか。従業員、取引先、地域がどうなるのか。次に経営する人が、その事業を持続させられるのか。そこまで一緒に考えた上で、経営者自身に選んでいただきます」


「すぐに銀行の収益へつながらない相談も受けますか?」


「もちろんです」


「なぜでしょう」


「企業がなくなれば、雇用も、取引も、地域経済も影響を受けます。すぐに融資や手数料へつながらなくても、相談を受ける意味はあります」


「短期の収益より、地域の継続を優先する?」


「どちらか一方だけを見るのではありません。銀行も事業ですから、持続的な収益は必要です。しかし、目の前の手数料だけを優先し、地域企業との信頼を失えば、銀行自身も長くは続きません」


 ――午前十時十八分。


 撮影が一度止まる。


 水城がすぐに璟瑶へ近づいた。


「頭取、休憩します」


「まだ大丈夫」


「大丈夫なうちに休みます」


「……」


 璟瑶の反論が止まった。


「創と同じ」


「何がですか?」


「何か起きる前に休めって言うところ」


「宮嶋さんが正しいです」


「また、そっちの味方」


 劉川が水を差し出す。


「今日は放送より身体を優先してください」


「分かってる」


 璟瑶はソファへ深く座り、水を飲んだ。


 腹部へそっと手を添える。


 強い張りはない。


 出血も、痛みもない。


 それでも、長く話し続けるだけで、以前より疲れを感じる。


「本当に変わるね」


 水城が尋ねる。


「何がですか?」


「身体。少し前まで、このくらいの取材なら何でもなかった」


 劉川が静かに答える。


「だから、今までどおりではいけないということですね」


「はいはい」


 言葉は少し不満そうだった。


 しかし璟瑶は立とうとせず、休憩時間を最後まで取った。


 それもまた、働く母として選び始めた変化だった。


 ――午前十時四十七分。


 十八階。


 法人営業第一部。


 創はPCの画面を見つめていた。


 東央精密製作所の設備更新資金融資。


 正式審査から届いた追加照会。


「設備導入が三か月遅れた場合、返済計画へどの程度の影響が生じるか」


 創は、設備の納入時期だけを三か月ずらすのではなく、試運転、従業員の習熟、生産性の安定、売上への反映まで後ろ倒しにして検証していた。


 相沢拓也・三十三歳が隣から画面を見る。


「宮嶋、三か月遅延のストレスケース、どう?」


『設備稼働が三か月遅れた場合として、売上の立ち上がりも同じ期間だけ後ろへずらしています』


「返済は?」


『据置期間を設定する場合と、当初予定どおり返済を開始する場合を比較しています。ただ、こちらだけで決める話ではないので、審査部と先方の条件確認が必要です』


「既存借入も含めた?」


『含めました』


「運転資金は?」


『通常より安全側に置いています』


「安全側って、具体的には?」


 創は、月次の資金繰り表を示しながら説明する。


 原材料の仕入支払い。


 既存借入の約定返済。


 新規借入の返済。


 設備納入時の支払い。


 生産性が安定するまでの人件費。


 相沢は一つずつ確認し、頷いた。


 少し離れた位置で聞いていた桐生雅人・四十二歳が近づく。


「宮嶋」


『はい』


「正式審査に入ったからって、“通すこと”を目的にするなよ」


『はい』


「質問が増えることは、悪いことじゃない。条件が変わったなら、前提も変える」


『分かりました』


「設備が三か月遅れるなら、売上も三か月遅れる。それで終わりじゃない」


『はい』


「設備が入ってから安定稼働するまでの期間も、後ろへずれる可能性がある」


『そこも、もう一段厳しく置きます』


「返済できるように見えるケースを作るんじゃない。悪くなった時に、どこまで耐えられるかを見る」


『はい』


 創は回答案を修正する。


 今日の夜には、教習所で第一段階の総合練習がある。


 しかし今は銀行員として、目の前の融資案件を一つずつ進める。


 ――午前十一時三十二分。


 四十二階、地域銀行連携室。


 カメラが再び回り始めた。


 壁面モニターには、全国四十七都道府県に広がる地域銀行ネットワークの模式図が表示されている。


 実際の顧客名や取引内容は出さない。


 篠原が質問する。


「全国にこれだけのネットワークを持つことで、何が変わりましたか?」


「地方企業が別の地域へ進出する時、現地をよく知る銀行へつなぐことができます」


 璟瑶は椅子に座ったまま答える。


「反対に、東京の企業が地方に工場や物流拠点を作る場合は、その地域の産業、雇用、人材、取引先に関する情報を、地域銀行から得ることができます」


「同じグループ内でも、銀行同士が競合することはありませんか?」


「あります」


 璟瑶は隠さず答えた。


「同じグループだからといって、すべての競争をなくすわけではありません。各銀行は独立して経営し、それぞれの顧客に責任を持っています」


「では、何を共有するのでしょう」


「一行単独では持つことが難しい機能です。大規模システム、サイバーセキュリティ、海外拠点、専門人材、災害時支援などを共有します」


「競争しながら協力する?」


「はい。簡単ではありませんが、どちらか一方だけでは地域金融の強さを維持できません」


 ――午後一時十八分。


 オンライン会議。


 モニターには地方企業と地域銀行の担当者が映る。


 撮影を許可された範囲のみ、番組のカメラが記録している。


 瀬戸内アグリテック株式会社。


 従業員七十六名。


 農業、食品加工、IoT技術を組み合わせた架空の地域成長企業。


 社長は宮原圭介・四十八歳。


「海外販売を検討しています。ただ、その前に国内の生産能力を上げる必要があります」


 地域銀行の担当者が説明する。


「設備投資額は、総額二十二億円を想定しています」


 青嶺中央銀行の海外担当者が続ける。


「輸出先の候補は台湾、シンガポール、タイです。ただし、商品ごとに輸入規制や食品表示、検疫条件が異なります」


 璟瑶が資料へ目を落とす。


「海外販売を始める時期だけを、先に決めないでください」


 宮原が頷く。


「はい」


「国内の生産能力、品質管理、物流、現地規制、販売先、代金回収。その準備を固めてから、開始時期を決めましょう」


「分かりました」


「先に日程を発表すると、準備が間に合わなくても進まなければならなくなります。目的は、海外へ出たと発表することではありません」


「継続して販売し、利益を出すことです」


「はい。その前提で計画を作りましょう」


 番組が撮影するのは、巨大銀行の頭取が一方的に指示を出す姿ではなかった。


 企業。


 地域銀行。


 青嶺中央銀行。


 三者がそれぞれの知識を持ち寄り、同じ課題を考える姿だった。


 ――午後二時二十九分。


 頭取室。


 テーブルに、東亜未来モビリティ株式会社の公表済み資料が置かれる。


 総額一千二百億円。


 サステナビリティ・リンク・シンジケートローン。


 青嶺中央銀行が主幹事を務める大型案件。


 公表済みの資金使途は、次のとおりだった。


 四百五十億円。


 次世代EV駆動システム。


 三百二十億円。


 国内電池工場の更新。


 二百十億円。


 省エネルギー型物流拠点。


 百二十億円。


 再生可能エネルギー設備。


 百億円。


 研究開発とデジタル化。


 KPIには、CO2排出原単位、再生可能エネルギー比率、工場のエネルギー効率、サプライチェーンの人権監査などが設定されている。


 篠原が尋ねる。


「一千二百億円という規模は、銀行にとっても特別なのでしょうか」


「金額としては非常に大きいです。当然、審査、リスク管理、参加金融機関との調整は慎重に行います」


「では、金額の大きい案件ほど、銀行にとって重要なのでしょうか」


「いいえ」


 璟瑶は即答した。


「大型融資だけが金融ではありません」


 水城が顔を上げる。


 劉川も、璟瑶の次の言葉を待った。


「一億円の設備投資にも、一千二百億円の大型調達にも、その向こうに働く人と生活があります」


 静かな声。


 それでも、言葉は明確だった。


「金額の大小によって、人の生活の重要度が変わるわけではありません」


「大型案件と中小企業案件では、社会への影響が違うのでは?」


「影響の広がり方は違います」


 璟瑶は答える。


「大型案件は、産業や多数の雇用、幅広い取引先に影響します。一方、中小企業の設備投資は、一社の雇用、その取引先、従業員と家族、地域の仕事を直接支えることがあります」


「どちらも重要だと?」


「はい。どちらも、銀行が軽く扱ってよいお金ではありません」


 篠原が資料から顔を上げる。


「欧陽頭取は、よく“お金の向こうに人を見る”という表現をされますね」


 璟瑶の答えが、一瞬だけ止まった。


 まだ二人が出会って間もなかった頃。


 若い銀行員だった創が、璟瑶へ言った言葉。


『銀行って、お金だけを扱っているように見えますけど、そのお金の向こうには人の生活がありますから』


 璟瑶は、その言葉を忘れていなかった。


 けれどカメラの前で、その言葉を教えてくれた夫の存在を明かすことはできない。


「銀行の数字は、必ず誰かの生活や事業とつながっています」


 璟瑶はまっすぐカメラを見る。


「それを忘れた時、銀行は数字だけを扱う組織になってしまうと思っています」


 ――午後三時四十二分。


 最後のインタビュー。


 篠原が問いかける。


「青嶺中央銀行が、地方の未来をつくるのでしょうか」


 璟瑶は、ゆっくり首を横へ振った。


「銀行だけで、未来はつくれません」


「では、銀行には何ができますか?」


「企業、自治体、住民、大学、地域金融機関。さまざまな人が動く中で、銀行は資金と情報と人をつなぐことができます」


 璟瑶は少しだけ間を置いた。


「夜明けを、銀行が一人でつくるわけではありません」


 篠原が静かに耳を傾ける。


「でも、夜が明けるまで、隣で支えることはできる」


 頭取室が静かになる。


 鷹野はモニターを確認した後、柿崎へ小さく頷いた。


 篠原が頭を下げる。


「ありがとうございました」


「ありがとうございました」


 カメラが止まる。


 その瞬間、璟瑶はソファの背へ身体を預けた。


 水城がすぐに近づく。


「終了です。頭取、この後は十五分休憩です」


「そんなに?」


「二十分に延ばしますか?」


「十五分でお願いします」


 劉川が水を差し出す。


「お疲れさまでした」


「ありがとう」


 篠原も立ち上がり、改めて頭を下げた。


「欧陽頭取。本日はありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました」


 取材班が退出する。


 扉が閉じた後、水城が口を開いた。


「頭取」


「何?」


「先ほどの、一億円にも一千二百億円にも、その向こうに働く人と生活があるという言葉」


「……」


「宮嶋さんの言葉に、少し似ていましたね」


 璟瑶は水城を見る。


 劉川も、わずかに笑った。


「私も思いました」


「二人とも、創の言葉を知ってるの?」


「以前、頭取ご自身が話されていました」


「そうだった?」


「はい」


 璟瑶は少し考える。


「……真似したわけじゃない」


「誰も真似とは言っていません」


「顔が言ってる」


 劉川が穏やかに言う。


「ご夫婦ですから、考え方が近づくこともあるのではないでしょうか」


「……夫婦」


 璟瑶は、その言葉を小さく繰り返した。


 そして少しだけ、嬉しそうに笑った。


 銀行では口にできない関係。


 けれど、自分が頭取として語る言葉の中に、創から受け取ったものが生きている。


 それは隠す必要のない、二人のつながりだった。


 ――午後四時二十分。


 十八階。


 法人営業第一部。


 創は、東央精密製作所の追加照会に対する回答案を、相沢と桐生に見てもらっていた。


 桐生が数字を確認する。


「この三か月遅延時の売上立ち上がり、もう少し厳しく置いてみて」


『はい』


「理由、分かる?」


『設備の納入だけが遅れるのではなく、試運転や稼働の安定まで後ろへずれる可能性があるからです』


「そう」


 桐生は資料を創へ戻す。


「返済できるケースを作るんじゃない。悪くなった時に、どこまで耐えられるのかを見る」


『はい』


「設備が三か月遅れた時に、先方が何を選べるかも考えて」


『返済開始時期の調整だけでなく、既存設備の使用継続、受注時期の調整、手元資金の確保も見ます』


「それでいい」


 創は修正を始める。


 午後五時四十八分。


 作業が一区切りついたところで、桐生が時計を見る。


「宮嶋」


『はい』


「今日、教習だろ?」


『はい』


「何時?」


『十九時です』


「じゃあ、今の修正内容をまとめて帰れ」


『でも、もう少し――』


「続きは明日できる」


『はい』


 相沢が尋ねる。


「今日で何回目?」


『技能五回目です』


「もう結構乗れる?」


『場内なら少しだけ』


「仮免は?」


『まだです』


「今日は総合?」


『はい』


 桐生が短く言う。


「なら、仕事を引きずらずに、そっちへ集中してこい」


『ありがとうございます』


「事故るなよ」


『まだ場内です』


「場内でも」


『はい』


 午後六時二分。


『お先に失礼します』


「お疲れ」


 創は鞄を持ち、本店を出た。


 ――午後六時五十四分。


 成城中央自動車学校。


 ロビー。


「宮嶋さん」


 河合悠斗・二十二歳が創へ声をかける。


『今日もいる』


「それ、こっちの台詞」


 一ノ瀬結菜・十九歳は、待合席で教本を開いていた。


「今日、総合?」


『うん』


「私、昨日やった」


『どうだった?』


「確認しすぎなければ大丈夫」


『俺に刺さる』


 佐原海斗・二十五歳も近くにいる。


「宮嶋さん、仮免が見えてきた?」


『まだ』


 安西美咲・三十二歳が笑う。


「でも、第一段階の後半には入ってきましたね」


 西野蓮・十八歳が緊張した顔で教習原簿を持っている。


「俺、今日は坂道です」


『ちゃんと操作すれば下がらないから大丈夫』


「宮嶋さん、最初の坂道ですごく怖がってたって聞きました」


 創は河合を見る。


『言った?』


「俺じゃない」


 一ノ瀬も首を振る。


「私でもない」


 佐原が笑う。


「教習所って狭いから、誰かが聞いてたんじゃない?」


『俺の話、広がってない?』


「二十キロでも速いって言った銀行員として?」


『それも誰が言った?』


 河合が目をそらす。


『河合』


「名前呼びになった」


 全員が笑う。


 そこへ長瀬孝弘・四十六歳が現れた。


「宮嶋さん」


『はい』


「今日の総合練習では、私は細かく言いすぎません」


『怖い』


「自分で考えて走ってもらいます」


『もっと怖い』


「今まで教えたことを使ってください」


『はい』


 ――午後七時三分。


 場内コース。


 教習車の横に、創と長瀬が立つ。


 今日行うのは、第一段階の総合練習。


 発着点からの発進。


 外周走行。


 速度調整。


 右左折。


 一時停止。


 見通しの悪い交差点。


 坂道。


 S字。


 クランク。


 障害物の回避。


 停止と安全確認。


 これまで個別に習ってきた項目を、一つの運転として組み合わせる。


「進路の指示は私が出します。ただし、安全確認、速度、操作、進むか待つかの判断は、宮嶋さん自身で行ってください」


『はい』


「分からなくなったら?」


『分からないまま動かず、聞きます』


「いいです」


 創は車の周囲を確認し、運転席へ座った。


 シート。


 背もたれ。


 ヘッドレスト。


 シートベルト。


 ルームミラー。


 ドアミラー。


 ブレーキを踏み、エンジンを始動する。


 長瀬は何も言わない。


 創は自分でルームミラーを確認する。


 ドアミラー。


 合図。


 目視。


 安全を判断し、発進した。


 長瀬は、まだ何も言わない。


『……』


「何ですか?」


『何も言われない方が緊張します』


「今、運転しているのは宮嶋さんですから」


『はい』


 ――午後七時十一分。


 外周。


「次の直線で指示速度まで上げてください」


『はい』


 創はアクセルを踏む。


 指定区間に入り、速度を上げる。


 メーターを一度見る。


 前方へ視線を戻す。


 またメーターへ目を落としかける。


「メーターを見すぎない」


『はい』


「速度の感覚も身につけてください」


 創は前方を見ながら速度を保つ。


 指定区間が終わる。


 アクセルを戻し、次のカーブへ備えて減速する。


「今の速度調整はいいです」


『ありがとうございます』


「まだ始まったばかりです」


『すぐ現実へ戻す』


 ――午後七時十六分。


「次の交差点を左折」


『はい』


 ミラー。


 合図。


 目視。


 左へ寄せる。


 減速。


 横断歩道。


 歩行者なし。


 自転車なし。


 巻き込み確認。


 創は止まらず、適切な低速で左折した。


 長瀬は何も言わない。


『……どうですか?』


「聞かない」


『気になります』


「自分では、どうでした?」


『前回よりスムーズでした』


「なら、その感覚を覚えてください」


『はい』


 次は右折。


 対向する教習車が近づいてくる。


 創は待った。


 対向車が通過する。


 次の車までは距離がある。


 横断歩道に歩行者はいない。


 以前の創なら、もう一度右、左、対向車線、横断歩道と確認を繰り返していた。


 一瞬、足が止まりそうになる。


 しかし、安全は確認できている。


『行きます』


 創は右折した。


 長瀬が口を開く。


「以前なら、もう一度右と左を見て、そのまま待っていましたね」


『はい』


「今日は確認した後に動けました」


『褒めてます?』


「今は」


『今は?』


「次の場面では注意するかもしれません」


『やっぱり』


「前を見てください」


『はい』


 ――午後七時二十二分。


 一時停止。


 創は早めにアクセルを戻し、停止線の直前で滑らかに止まった。


 完全停止。


 右。


 左。


 見通しが悪い。


 徐行しながら、少しだけ前へ出る。


 再度確認。


 安全を判断し、交差点へ進む。


「いいです」


『今日は褒めますね』


「まだ二回です」


『数えてるんですか?』


「教習ですから」


 ――午後七時二十九分。


 坂道。


 前回よりも、創の表情は落ち着いていた。


「停止位置で止まってください」


『はい』


 アクセルを調整し、坂の途中で停止する。


「発進」


 後方を確認。


 ブレーキからアクセルへ右足を移す。


 適度に踏み込み、教習車は後退せずに前へ進んだ。


『……』


「何ですか?」


『もう怖くないです』


「油断しない」


『すぐ注意された』


「怖くないことと、雑に操作することは違います」


『はい』


 坂の頂上手前では徐行し、見えない先へ備える。


 下りでは速度が出すぎないよう、ブレーキで調整した。


 ――午後七時三十五分。


 S字。


 細い曲線の入口が近づく。


『……』


「今日は負けないでください」


『今、言いましたね?』


「言いました」


 創は十分に速度を落とし、S字へ入った。


 近い場所だけを見ない。


 視線を少し先へ置く。


 車体の位置を意識する。


 一つ目のカーブを抜ける。


 二つ目。


 内側の後輪が縁石へ近づく。


 創はさらに速度を落とし、ミラーで位置を確認する。


 安全を判断し、ハンドルを少しだけ修正した。


 止まり続けない。


 大きく戻しすぎない。


 そのまま出口を抜ける。


『……勝った』


「今は勝ちでいいです」


『今日は優しい』


「次はクランク」


『すぐ来た』


 ――午後七時四十一分。


 クランクへ進入する。


 最初の角。


 速度を落とし、外側に適度な余裕を取る。


 内輪差を意識して曲がる。


 通過。


 二つ目の角。


 右側が少し近い。


 創は止まらず、ごく低速を保ったままハンドルを修正する。


 ポールにも縁石にも触れない。


 出口を抜けた。


「良いです」


『一回で通れた』


「前回も一回で通っています」


『得意です』


「まだ教習所の場内です」


『分かってます』


 ――午後七時四十八分。


 左側に、障害物を模した駐車車両が置かれている。


 創は早めにミラーで後方を確認した。


 合図。


 右側の目視。


 そこへ対向車が来る。


 創は無理に出ず、その場で待った。


 対向車が通過する。


 周囲をもう一度確認し、十分な間隔を取って障害物を避ける。


 通過後、左側の安全を確認して元の進路へ戻った。


「良いです」


『今日、四回目』


「何がですか?」


『褒められた回数』


「運転へ集中してください」


『はい』


 ――午後七時五十五分。


「では、発着点へ戻ってください」


『はい』


 交差点。


 右折。


 左折。


 速度調整。


 安全確認。


 創は、自分で一つずつ判断しながら走る。


 発着点へ近づく。


 左へ合図。


 後方を確認。


 車体を寄せる。


 停止位置より少し手前で止まった。


「もう少し前へ」


『はい』


 ごく低速で進む。


「ここです」


 停止。


 Pレンジ。


 パーキングブレーキ。


 エンジンを切る。


 創は大きく息を吐いた。


『……』


「今日は、“疲れた”と言わないんですか?」


『言う前に聞かれました』


「どうでした?」


『今までで一番、運転してる感じがしました』


「ありましたか?」


『はい』


 長瀬は教習記録を確認する。


「最初の頃と比べて、一番変わったところが分かりますか?」


 創は少し考えた。


『確認した後に動けるようになった』


「そうです」


 長瀬が頷く。


「最初から安全確認は非常に丁寧でした。でも、確認すること自体が目的になっていた」


『はい』


「今は、確認、判断、行動が少しずつ一つの流れになっています」


『じゃあ、第一段階はもう大丈夫ですか?』


「まだです」


『ですよね』


「でも、仕上げには近づいています」


 創の表情が少し明るくなる。


「ただし」


『来た』


「速度を確認する時、メーターへ意識を向けすぎる場面があります」


『はい』


「S字とクランクは問題なし。坂道も問題なし。一時停止は良い。右左折も前回よりかなり良くなりました」


『本当に褒めてる』


「だからこそ、油断しないでください」


『はい』


「次から、第一段階の見極めを意識する段階へ入ります」


『仮免が近い?』


「その前に、技能だけでは足りません」


『学科』


「はい。効果測定に向けて勉強してください」


『してます』


「講義内容を全部ノートへ書く人なので、そこはあまり心配していません」


『褒めてます?』


「少しだけ」


 創は笑った。


 ――午後八時十九分。


 学科自習室。


 技能教習は終わった。


 それでも創は、すぐには帰らなかった。


 仮免許前の効果測定を意識し、問題集を開く。


 信号。


 標識と標示。


 優先道路。


 一時停止。


 徐行。


 横断歩道。


 歩行者保護。


 緊急自動車。


 追い越し。


 駐車と停車。


 安全地帯。


 踏切。


 夜間と雨天。


 一問ずつ問題文を読む。


「青信号は、車両が必ず進まなければならないことを示す」


『×』


 正解。


 次の問題。


「横断歩道に近づいた時、横断する歩行者がいないことが明らかな場合を除き、横断歩道の直前で停止できる速度で進行しなければならない」


『……』


 創は教本へ戻り、該当部分を確認する。


 そして答えを選ぶ。


 今回は、確認していい。


 むしろ、今のうちに確認して覚える必要がある。


『学科は戻って確認できるから、運転より楽だな』


 隣に座る河合が顔を上げる。


「何か言った?」


『独り言』


「また運転と比較した?」


『何で分かった?』


「宮嶋さん、そればっかりだから」


 反対側の席にいる一ノ瀬が尋ねる。


「今、何問目?」


『三十問』


「私は四十二問」


『早い』


「宮嶋さん、一問ずつ確認しすぎ」


 河合が笑う。


「ここでも?」


『学科ならいいだろ』


 三人は周囲へ配慮し、小さな声で笑った。


 ――午後九時二十八分。


 成城。


 新居。


 璟瑶はリビングのソファに座っていた。


 テレビには、今夜放送される『フロンティアの夜明け』の録画予約画面が表示されている。


 すでに放送は始まっているが、創と一緒に最初から見るため、再生していない。


 スマートフォンにメッセージが届く。


『今終わった。帰る』


 璟瑶はすぐに返信した。


「待ってる」


 腹部をそっと撫でる。


「お父さん、今日は総合練習だったって。ちゃんとできたかな」


 自分で言ってから、少し笑った。


 ――午後十時七分。


『ただいま』


「おかえり」


 璟瑶が玄関で迎える。


 創は鞄から、いつもの指輪ケースを出した。


 璟瑶が創の左手を取り、プラチナのリングを薬指へ戻す。


「おかえり」


『ただいま』


 次に創が、璟瑶の指輪を手に取る。


『今日は俺がつける』


「うん」


 妻の薬指へ、ゆっくりリングを戻す。


『おかえり』


「ただいま」


 二人の左手へ、夫婦の印が戻った。


『今日の撮影、どうだった?』


「疲れた」


『ちゃんと休んだ?』


「休んだ」


『本当に?』


「水城さんがいたから」


『なら安心』


「創、最近、水城さんへの信頼がすごい」


『俺がいない時に璟瑶を止められる、最強の人だから』


「劉川さんもいる」


『二人ならもっと安心』


「私の意思は?」


『無理しようとしなければ尊重する』


「条件つき」


 ――午後十時四十二分。


 軽い夜食を終えた二人は、リビングのテレビで録画を再生した。


 すでに地方で撮影されていた本編へ、今日の頭取インタビューと本店映像が組み込まれている。


 ナレーションが流れる。


『人口減少、人手不足、後継者難。地域企業が直面する課題に、巨大金融グループはどう向き合うのか。地方から世界へ、その次の一手を追う――』


 山梨県の甲斐精機工業。


 加工機が動き、若い技術者が精密部品を確認する。


 早川社長と地域銀行の担当者が、将来の設備投資について話す。


 続いて、青嶺中央銀行の映像へ変わった。


 画面の中の璟瑶が語る。


「東京の本店から地方へ、答えを押しつけるつもりはありません」


「地域銀行が持つ情報と信頼に、本部の資金、海外ネットワーク、専門人材を加える」


「それが、グループである意味です」


 創は黙って画面を見ている。


 それから隣にいる本人を見る。


「何?」


『テレビの璟瑶、今日も完全に頭取』


「頭取だから」


『今は?』


「妻」


『うん』


 番組は、瀬戸内アグリテックの海外展開支援へ進む。


 企業、地域銀行、青嶺中央銀行。


 三者が対等に意見を出し合う場面が流れた。


 そして、東亜未来モビリティの大型融資へ移る。


 次世代EV。


 電池工場。


 省エネルギー型物流拠点。


 再生可能エネルギー。


 研究開発。


 画面の中の璟瑶が言う。


「大型融資だけが金融ではありません」


「一億円の設備投資にも、一千二百億円の大型調達にも、その向こうに働く人と生活があります」


 創の動きが止まった。


『……』


 璟瑶が横目で見る。


「何?」


『それ、俺が前に言ったことと少し似てる』


「そう?」


『銀行って、お金だけを扱ってるように見えるけど、そのお金の向こうには人の生活がある。俺、前に言った』


「覚えてる」


『やっぱり』


「覚えてるだけ」


『真似した?』


「してません」


『似てる』


「夫婦だから」


『……』


「何?」


『今、“夫婦だから”って言った』


「言った」


『テレビに映ってる頭取が?』


「今ここにいる私は、テレビの中じゃない」


『そうだけど』


 璟瑶は創の肩へ寄りかかった。


「長く一緒にいたら、考え方が似ることもあるでしょう?」


『まだ、そんなに長くない』


「でも毎日が濃い」


『それはそうだな』


 二人は笑った。


 番組の最後。


 画面の中の璟瑶が、今日最後に語った言葉が流れる。


「夜明けを、銀行が一人でつくるわけではありません」


「でも、夜が明けるまで、隣で支えることはできる」


 地域企業で働く人たちの顔。


 工場へ差し込む朝日。


 地域の街並み。


 それらの映像とともに、番組は終わった。


 ――午後十一時十一分。


「創」


『ん?』


「教習はどうだった?」


 創はソファの背へ深く身体を預ける。


『今日は、かなり良かった』


「自分で言うの?」


『長瀬さんが言った』


「何て?」


『最初より、確認した後に動けるようになったって』


「すごい」


『S字も今日はちゃんと通れた』


「勝った?」


『勝った』


「クランクは?」


『一回』


「坂道は?」


『余裕』


「それは油断してる」


『長瀬さんと同じこと言うなよ』


「ふふ」


『でも、第一段階の仕上げに近づいてるって』


「もう仮免?」


『まだ』


「まだなの?」


『学科もある』


「効果測定?」


『うん』


「勉強できそう?」


『学科は得意かもしれない』


「本当に?」


『問題を読んで、分からなかったら教本へ戻って確認できるから』


 璟瑶は一瞬黙り、それから笑った。


「創らしい」


『運転は戻れないからな』


「銀行の案件は?」


『資料なら戻って確認できる』


「人生は?」


『……』


「戻れない」


『急に深いな』


「私たちが付き合い始めた時も、戻らなかった」


『戻る気なかった』


「結婚も?」


『ない』


「双子も?」


 創は妻の腹部を見る。


『前へ進むだけ』


 璟瑶がゆっくり笑う。


「じゃあ、免許も」


『前へ進む』


 創は腹部へそっと手を置いた。


『今日、二人はどうだった?』


「静かだった」


『お母さんは?』


「少し疲れた」


『やっぱり』


「ちゃんと休んだ」


『偉い』


「また子ども扱い」


『四十五歳でも褒める』


「二十一歳の創に?」


『夫だから』


「その言葉、便利」


『本当だから』


 ――午後十一時三十六分。


 寝室。


 二人はベッドへ入った。


 照明を暗くした後も、創はスマートフォンに保存した学科問題を見ている。


「まだ勉強するの?」


『五問だけ』


「明日も朝から予定があるでしょう?」


『五問』


「三問」


『四問』


「三問」


『……三問』


「交渉成立」


 創は三問だけ解く。


 一問目、正解。


 二問目、正解。


 三問目で少し迷う。


『……』


「確認しすぎ」


『学科はいいの』


「長瀬先生に言う」


『やめろ』


 答えを選ぶ。


 正解。


『三問全部正解』


「おめでとう」


 創は満足そうにスマートフォンを置き、璟瑶の方を向いた。


 璟瑶も横向きになり、創を見る。


「今日、番組で言ったこと、本当に創の真似じゃないからね」


『まだ気にしてる?』


「気にしてない」


『絶対に気にしてる』


「夫婦だから似ただけ」


『はいはい』


「本当」


『分かった』


 創は少し近づき、腹部を圧迫しないように妻を抱き寄せた。


「創」


『ん?』


「一億円でも、一千二百億円でも、その向こうに人がいるって、本当にそう思ってる」


『うん』


「創に会ってから、前より強くそう思うようになったのは、あるかもしれない」


『それ、ほとんど影響を受けてるだろ』


「真似じゃない」


『分かってる』


 創の言葉をそのまま借りたのではない。


 璟瑶自身が、多くの企業と人を見てきた中で持っていた考え。


 そこへ、創の言葉が重なった。


 銀行の頭取と若手行員。


 二十四歳の年齢差。


 立場も経験も違う。


 けれど同じ家へ帰り、同じ食卓を囲み、同じ未来を考える夫婦になった。


 だから、互いの言葉や考え方が少しずつ重なることもある。


 今日、璟瑶は地方企業の未来について語った。


 巨大銀行が未来を一方的につくるのではない。


 それでも、夜が明けるまで隣で支えることはできる。


 一方、創は教習所で第五回の技能教習を終えた。


 発進。


 停止。


 右折。


 左折。


 一時停止。


 坂道。


 S字。


 クランク。


 障害物の回避。


 最初は一つずつ別々だった操作が、ようやく一つの運転としてつながり始めた。


 確認、判断し。動く。


 創は少しずつ、その流れを身につけている。


 仮免許と一般道路もまだ。


 運転免許までは、まだ遠い。


 それでも確実に前へ進んでいる。


 璟瑶のお腹の中にいる双子も、また一日成長する。


 銀行…教習…妊娠に家族。


 それぞれ進む速度は違う。


 それでも、どれも止まってはいない。


 創は妻の腹部へそっと手を添えた。


『璟瑶』


「何?」


『俺、ちゃんと仮免も本試験も合格する』


「うん」


『免許を取って、四人で出かける』


「待ってる」


『夜明けまで?』


「そこまで長く待たせないで」


『頑張ります』


 二人は小さく笑った。


 銀行が誰かの夜明けを隣で支えるように。


 創と璟瑶も、互いの新しい一歩を、すぐ隣で支え続けていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、璟瑶の二度目となる経済ドキュメンタリー出演と、創の教習5回目でした。


『フロンティアの夜明け』では、巨大銀行が地方へ答えを押し付けるのではなく、地域銀行が持つ情報と信頼に、本部の資金・専門人材・海外ネットワークを加えるという青嶺中央銀行の考え方を描きました。


そして大型案件だけでなく、中小企業の一つ一つの設備投資にも、その先に働く人や家族の生活がある。


その考え方は、創と璟瑶が夫婦として過ごす中で少しずつ重なってきたものなのかもしれません。


一方の創は、第一段階の総合練習へ。


最初の頃は「確認すること」そのものに集中していましたが、今では確認した後に判断し、実際に動くところまで少しずつ一つの流れになってきました。


S字、クランク、坂道、右左折も安定し始め、仮免を意識する段階へ近づいています。


ただし、まだ仮免前。


学科の効果測定もこれからです。


次回、第90話。


妊娠中期編の一区切り。


さらに大きくなっていく璟瑶のお腹と、仕事を続けるための新たな調整。


そして創も、仮免へ向けて次の段階を意識し始めます。


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