第88話「初めてのシミュレーター――危険は起きてからでは遅い」
第88話です。
今回は、創の教習4回目。
初めての危険予測シミュレーターに挑みます。
子どもの飛び出し、自転車、駐車車両の陰、夜間、雨天、右直事故、バイクのすり抜けなど、実際の道路で起こり得る危険を次々と体験。
慎重さは大切ですが、怖がって動けなくなるのも安全運転とは違う。
長瀬先生から、改めて「確認・判断・行動」の大切さを教わります。
後半はS字、クランク、障害物回避にも挑戦。
一方その頃、璟瑶は新居で一人、双子のお腹を撫でながら創の帰宅を待っています。
運転と妊娠。
全く違う二つの出来事の中で、「何かが起きる前に備える」という共通点も見えてくる一話です。
日曜日。
午前九時十二分。
東京都世田谷区、成城。
新居。
『じゃあ、行ってくる』
「うん」
玄関で、宮嶋創・二十一歳がスニーカーを履く。
今日は銀行が休みのため、左手の薬指には結婚指輪をつけたままだ。
見送る欧陽璟瑶・四十五歳の左手にも、同じプラチナのリングが光っている。
「今日は技能、四回目?」
『うん』
「何をするの?」
『シミュレーターと、S字、クランク、障害物』
「多いね」
『俺もそう思う』
璟瑶は創の肩を軽く整えた。
「S字って、河合さんが無理だって言ってたもの?」
『まだ覚えてるの?』
「創が何度も話すから」
『今日は俺も、無理って言うかもしれない』
「確認しすぎて、S字の途中で止まらないでね」
『それ、一番ありそう』
璟瑶が笑う。
創の視線が、妻の腹部へ向いた。
前回の健診以降、また少し丸みを増したように見える。
「また見た」
『見た』
「今日、何回目?」
『三回目』
「まだ九時十二分だよ」
『時間は関係ない』
創は立ったまま、部屋着の上から璟瑶の腹部へそっと手を触れた。
『今日は無理しないで』
「創もね」
『俺?』
「シミュレーターで事故を起こさないで」
『シミュレーターなら、起こす可能性はある』
「本物の道路で起こさなければいい」
『そのために行ってくる』
「いってらっしゃい」
『行ってきます』
短く唇を重ねる。
ちゅ、と小さな音がした。
創が玄関を出ると、家の中が静かになった。
今日、璟瑶は予定を一つも入れていない。
前回の健診で、高峰澪奈からはっきり言われた。
「仕事を続けられることと、今までどおりの仕事量を続けられることは別です」
水城も、劉川も、創も、同じ考えだった。
だから今日は、本当に休む。
仕事をしない。
無理をしない。
何もしないことを選ぶ日だった。
――午前九時五十八分。
成城中央自動車学校。
ロビー。
創は受付を済ませ、教習原簿を受け取った。
掲示板で今日の内容を確認する。
一時限目。
ドライビングシミュレーターを使用した危険予測。
二時限目。
場内技能。S字、クランク、障害物の回避。
『……』
創が小さく息を吐く。
「まだ始まってないのに、もう疲れた顔してません?」
隣から声をかけたのは、河合悠斗・二十二歳だった。
『まだ疲れてない』
「S字、今日?」
『今日』
河合は無言で創の肩を軽く叩いた。
「生還して」
『だから戦場じゃない』
その隣に、一ノ瀬結菜・十九歳が座る。
「私、昨日S字やったよ」
『どうだった?』
「一回、後輪が縁石に乗りそうになった」
『やっぱり難しい?』
「難しかった。でも教官に、ハンドルだけじゃなくて車全体の位置を見てって言われた」
『それが一番難しそう』
少し離れた席から、佐原海斗・二十五歳も話に加わる。
「ハンドルを何回回すかだけ考えると、余計に分からなくなるよ」
『みんな、一週間くらい先へ進んだだけで経験者みたいになってる』
安西美咲・三十二歳が笑う。
「一つ先の項目を経験すると、急に先輩になった気分なんですよ」
河合が自分を指す。
「それ、俺?」
「全員です」
西野蓮・十八歳が教本を抱えたまま言う。
「俺、まだ外周です」
『じゃあ、今のうちからS字を怖がらなくてもいい』
「今日S字を怖がってる宮嶋さんが言うんですか?」
『そう』
全員が笑う。
教習の進み方も、得意な項目も、それぞれ違う。
けれど、失敗しながら覚えていることだけは同じだった。
そこへ担当指導員の長瀬孝弘・四十六歳が現れる。
「宮嶋さん」
『はい』
「今日は運転席へ座る前に、一度事故を起こしてもらいます」
『縁起が悪くないですか?』
「シミュレーターの中で起こした方が、実車で起こさないために覚えられます」
『……お願いします』
――午前十時四分。
シミュレーター室。
薄暗い室内に、大型モニターと運転席を模した装置が設置されている。
ハンドル。
アクセル。
ブレーキ。
方向指示器。
メーター。
実車と同じ位置に、必要な装置がそろっていた。
創が運転席へ座る。
『本物よりゲームみたいですね』
「ゲームだと思わないでください」
『はい』
「今日行うのは、運転技術そのものより、危険を見つけて予測する訓練です」
長瀬がモニターを指す。
「事故が起きた後にどう対応するか。それも大切です。しかし、もっと大切なのは、事故が起きる前に危険の可能性へ気づくことです」
『はい』
「宮嶋さんに一番注意してほしい点は、もう分かりますね?」
『確認しすぎること』
「分かっているなら結構です」
『何度も言われたので』
「今日は、その意味がもっと分かると思います」
『怖いですね』
「始めます」
最初の画面は、昼間の住宅街だった。
道幅は狭く、左側には高い塀が続いている。
前方には、一台の駐車車両。
創はアクセルを戻した。
「何が見えますか?」
『前方に駐車車両』
「それだけですか?」
『車の陰が見えません』
「そこから何が出てくる可能性があります?」
『歩行者、自転車、子ども』
「では、どうします?」
『速度を落とします』
創は十五キロ、十キロと速度を落とした。
駐車車両へ近づいた瞬間、その陰から小学生が飛び出してくる。
『っ……!』
創はすぐにブレーキを踏んだ。
車は子どもの手前で停止する。
「止まれました」
『心臓に悪い……』
「シミュレーターです」
『分かっていても怖いです』
「なぜ事前に速度を落としました?」
『車の陰が見えなかったから』
「正解です。見えないということは、誰もいないという意味ではありません」
『はい』
「ただ、今回はかなり手前から十キロまで落としていました」
『危ないと思ったので』
「速度を落とすこと自体は間違っていません。しかし、必要以上に遅い速度を長く続ければ、後続車や交通の流れとの関係で、別の危険が生まれます」
『安全なら遅いほどいい、というわけじゃない』
「そうです。安全運転と、怖くて動けない運転は違います」
創はその言葉を、頭の中へ刻んだ。
――第二場面。
商店街。
歩行者と自転車が多い道路。
前方左側を一台の自転車が走っている。
創は自転車との距離を取り、少し速度を落とした。
「何を見ていますか?」
『前方の自転車』
「それだけ?」
『前の横断歩道と、右側の歩行者』
「さらに先は?」
『自転車の前に、停車車両があります』
「はい」
その直後、自転車が停車車両を避けるため、急に右へ膨らんだ。
『うわっ』
創がブレーキを踏む。
接触する前に停止できた。
「何が起きました?」
『自転車が、停まっていた車を避けました』
「自転車だけを見ていれば、突然こちらへ寄ってきたように感じます。しかし、さらに前の状況も見ていれば、進路を変える可能性を予測できます」
『一つ先を見る』
「一つだけではありません。特定のものだけに集中せず、状況全体を見る」
『はい』
――第三場面。
見通しの悪い交差点。
高い塀に遮られ、左右から来る車や自転車が見えない。
止まれの標識はない。
創は速度を落とし、交差点の手前で停止した。
「一時停止の標識はありませんよ」
『左右が見えないので、徐行して確認します』
「はい」
創は少しずつ前へ出る。
右。
左。
もう一度、右。
念のため左へ戻り――。
「宮嶋さん」
『はい』
「また確認のループへ入っています」
『……はい』
「状況は変化しますから、一度見れば永遠に安全というわけではありません。しかし、右、左、右、左と繰り返すだけでも進めません」
『安全を確認したら、判断する』
「そして進む」
『はい』
創は徐行したまま交差点へ入る。
その直後、右側から自転車が速い速度で接近してきた。
創はブレーキを踏み、すぐに停止する。
『今の自転車、最初は見えませんでした』
「途中からは見えました」
『はい』
「だから徐行していたんです。絶対に何も起きないと確認してから進むことが、現実には不可能な場面もあります」
長瀬は画面を止めた。
「だからこそ、危険が現れても対応できる速度と位置を選び、すぐ止まれる準備をするんです」
『危険を完全にゼロにできなくても、対応できるように小さくする』
「そういうことです」
――第四場面。
大きな交差点。
創は右折待ちで停止している。
対向車線を直進車が一台通過した。
次の車までは距離がある。
『行けそうです』
「自分で判断してください」
『右折します』
創がアクセルを踏んだ瞬間、通過した対向車の陰からバイクが現れた。
『っ!』
創は強くブレーキを踏む。
モニターから大きな警告音が鳴った。
接触寸前。
「右直事故です」
『……』
「何が見えていませんでした?」
『バイクです。対向車の陰に隠れてました』
「大きな対向車が通過した後、その後ろに何もいないとは限りません」
『怖いですね』
「実際の道路なら、怖かったでは済みません」
『はい』
「右折を急がない。しかし、必要な確認ができた後まで、いつまでも止まり続けるわけでもない」
『また俺の課題に戻ってくる』
「全部そこへ戻ります」
『確認して、判断して、動く』
「そうです」
――第五場面。
片側二車線。
隣の車線には渋滞の車列が続いている。
創は赤信号で停止した。
信号が青へ変わる。
前方を見て発進した直後、左側の車列の間からバイクがすり抜けてきた。
『危ない!』
ブレーキを踏むが、反応がわずかに遅れる。
再び警告音が鳴った。
『……また』
「今回は何を見落としました?」
『左側。発進前に前しか見てませんでした』
「車列の間を、バイクや自転車が通ってくる可能性があります」
『はい』
創の手に汗がにじむ。
実際には動いていない。
衝撃もない。
それでも、目の前で事故寸前の状況が起きるだけで、胸が強く締めつけられる。
――第六場面。
夕方の雨。
ワイパーが動き、濡れた路面に対向車のライトが反射する。
『見にくい』
「では、どうします?」
『速度を落とします』
創は慎重に走る。
横断歩道の前に、傘を差した歩行者が立っていた。
創は停止する。
「いいですね」
歩行者が渡り始める。
一人目が通過した後も、創は停止を続けた。
その傘の陰から、もう一人の歩行者が現れる。
「今の判断は良かったです」
『一人渡ったから終わりじゃない』
「はい。傘で周囲が見えにくいのは、運転者だけではありません。歩行者側も車を確認しにくくなっています」
――第七場面。
夜間の住宅地。
街灯は少ない。
ヘッドライトが照らす範囲の外は、ほとんど見えなかった。
黒っぽい服を着た歩行者が、道路の端を歩いている。
『……今、見えました』
「どのくらい近づいてからですか?」
『かなり近くです』
「夜間は、明るい服や反射材を身につけている人ばかりではありません」
創は速度を落とした。
対向車がいないことを確認し、ライトを適切に使いながら歩行者との間隔を取る。
「運転者側が見つけなければなりません」
『はい』
「見えない。見えにくい。それを前提に運転してください」
――午前十時四十一分。
シミュレーターが終了し、モニターの映像が止まった。
創は背もたれへ身体を預けた。
『……実車より疲れました』
「今日は事故寸前が二回」
『はい』
「駐車車両の陰から飛び出した子どもには対応できました。進路を変えた自転車にも対応できました」
『右折時のバイクと、車列をすり抜けたバイクは遅れました』
「共通点は分かりますか?」
創は少し考える。
『見えている車や自転車だけに集中していました』
「そうです」
『その陰、その後ろ、まだ見えていないものが来る可能性まで考える』
「はい。ただし、すべてを怖がって止まったままでは運転できません」
『安全運転と、怖くて動けない運転は違う』
「それを覚えて帰ってください」
『はい』
「十分休憩したら、次は実車です」
『今からS字ですよね』
「はい」
『シミュレーターだけで疲れたのに』
「免許が欲しいんですよね?」
『欲しいです』
「なら、行きましょう」
『はい』
――同じ頃。
午前十時四十四分。
成城の新居。
璟瑶は一人、リビングのソファに座っていた。
テレビはついている。
けれど、ほとんど見ていない。
ゆったりとしたワンピースの上から、丸みの増した腹部へ右手を添える。
「二人とも。今日はお父さん、車の練習を頑張ってるよ」
返事はない。
胎動をはっきり感じ始める時期には個人差もある。
今はまだ、母の手の下に確かに二人がいる。それだけだった。
「S字、できるかな」
璟瑶は少し笑う。
「確認しすぎて、途中で止まってそう」
水を一口飲む。
テーブルには、高峰澪奈から渡された注意事項が置かれている。
長時間同じ姿勢を続けない。
疲れたら休む。
強い腹痛、出血、持続する張りなどがあれば連絡する。
今日の体調は安定している。
それでも、何か起きてから休むのでは遅い。
璟瑶はソファの背へ身体を預け、脚を楽な位置へ置いた。
「今日は何もしない」
自分に言い聞かせる。
「仕事も見ない」
スマートフォンへ目を向けても、業務メールは開かない。
「水城さんに怒られるから」
再び腹部を撫でる。
今、家には自分しかいない。
けれど本当は、一人ではない。
三人で過ごす、静かな休日だった。
――午前十一時二分。
成城中央自動車学校。
場内コース。
「先ほどは頭を使いました。今度は車両感覚を使います」
教習車の横で長瀬が言う。
『頭も使いますよね?』
「当然です」
『休憩、短い』
「十分ありました」
『はい』
創は運転席へ座る。
シート。
背もたれ。
ヘッドレスト。
ミラー。
シートベルト。
ブレーキ。
一つずつ確認して、エンジンを始動する。
「発進してください」
創はミラー、合図、目視の順に確認した。
安全を判断し、すぐに発進する。
「前回より流れが速くなりましたね」
『確認を減らしました』
「減らしたのではありません。必要な確認を、適切な長さでできました」
『言い方は大事ですね』
「銀行員は、そこに細かいんですね」
『言葉は大事です』
「ではS字へ行きます」
『はい』
前方に、細く曲がったコースが見える。
『……狭い』
「普通車が通れる幅です」
『本当に?』
「教習車が毎日通っています」
『そうですよね』
「入口で十分に速度を落とします。ハンドルだけではなく、自分の車がどこにいるかを意識してください」
『はい』
創はゆっくりS字へ入る。
ハンドルを左へ切る。
左前輪が気になる。
右側の余白も気になる。
創の視線が、車体のすぐ近くへ落ちた。
「どこを見ています?」
『左前です』
「近すぎます。もう少し先を見て」
『はい』
視線を進行方向へ移す。
車は曲線に沿って進むが、今度は右側へ寄りすぎる。
「右側が少し近い」
『はい』
ハンドルを戻し、次の曲線へ合わせて反対へ切る。
ところが、内側の後輪が縁石へ近づいていく。
「このままだと後輪が厳しいです。止めてください」
『はい』
創がブレーキを踏む。
「一度、降りましょう」
『降りるんですか?』
「実際の位置を見た方が早いです」
二人は教習車を降りた。
長瀬が右後輪と縁石の間を示す。
「ここです」
『……近い』
「このまま進めば、縁石へ乗る可能性が高いですね」
『脱輪寸前』
「そうです」
『銀行なら差し戻しですね』
「車なら脱輪です」
『そっちの方が怖い』
「銀行の資料なら直して出し直せます。運転中の車は動いています」
『はい』
「なぜ、この位置になったと思いますか?」
『内側へ寄りすぎたから』
「それは結果です」
『ハンドルを切るのが早かった』
「それもあります。もう一つは、近いところだけを見すぎたことです」
『はい』
「車の前輪だけではなく、車体全体がどう通るかをイメージする」
『難しいです』
「だから練習します」
教習車へ戻る。
少し後退して位置を直し、再び進む。
「慌てず、ゆっくり。少し先を見てください」
『はい』
一つ目の曲線を抜ける。
『行けた』
「まだ二つ目があります」
『ですよね』
次は逆方向。
今度はハンドルを切るタイミングが少し遅れ、外側へ膨らむ。
「左側、少し開きすぎています」
『修正します』
大きく動かしすぎないよう、ハンドルを調整する。
車は縁石に触れず、出口を抜けた。
『出ました』
「途中で修正はありましたが、最後は通れました」
『S字に勝った?』
「まだ引き分けです」
『厳しい』
――午前十一時二十二分。
二回目のS字。
創は入口で速度を落とす。
けれど、必要以上には止まらない。
視線を少し先へ置き、車体の位置を意識する。
ハンドルを切る。
戻す。
次の曲線に合わせ、反対へ切る。
後輪と縁石の間にも余裕がある。
そのまま出口を抜けた。
「はい。今のは良かったです」
『今度は?』
「勝ちです」
『よし』
「喜ぶ時間は三秒です。次はクランク」
『短い』
――午前十一時二十八分。
前方に、直角の曲がり角が続く狭路が見える。
『S字より嫌です』
「どうしてです?」
『角がはっきり見えるから』
「逆に、曲がる位置が分かりやすいので、クランクの方が得意な人もいます」
『俺は?』
「やってみないと分かりません」
十分に速度を落とし、クランクへ進入する。
「前輪だけではなく、後輪がどこを通るかを考えてください」
『内輪差』
「そうです」
最初の角へ近づく。
創がハンドルを切った。
「少し早いです」
『戻します?』
「慌てて大きく戻さない。少しずつ調整してください」
『はい』
車体左側がポールへ近づく。
『近い』
「見えていますか?」
『見えています』
「なら、必要以上に怖がらない」
創はゆっくり抜けた。
二つ目の角は右折。
今度は外側へ少し余裕を取りすぎる。
「右側を開けすぎています」
『はい』
ハンドルを調整する。
ポールには触れない。
そのまま出口を抜けた。
『通れた』
「一回目で通れましたね」
『S字より得意です』
「まだ一回だけです」
『すぐ現実へ戻す』
「教習ですから」
――午前十一時三十八分。
次は障害物の回避。
左側に模擬の駐車車両が置かれている。
「前方に障害物があります。どうします?」
『後方確認、合図、右側の安全確認。必要な間隔を取って避けます』
「対向車が来ていたら?」
『待ちます』
「どうぞ」
創はルームミラーと右のドアミラーを確認し、合図を出す。
目視しようとした時、対向車線から別の教習車が近づいてきた。
創はその場で待つ。
「今の判断は正解です」
対向車が通過する。
もう一度安全を確認し、障害物を避ける。
左側へ戻る際にも、ミラーと目視で安全を見る。
「今の確認は、長さもタイミングも良かったです」
『やっと褒められた』
「前から褒めています」
『注意の方が多いです』
「教習所ですから」
次の障害物付近には、歩行者と自転車を模した人形も置かれていた。
「障害物は、ただ避ければいいわけではありません。その陰や近くに人がいる可能性も考える」
『シミュレーターと同じですね』
「そうです。今日の二つの教習は別々ではありません」
『危険予測と実車がつながってる』
「はい」
――午前十一時四十七分。
再びS字。
三回目は、途中で止まらなかった。
低い速度を一定に保ち、少し先を見る。
車体全体の位置と内輪差を意識し、ハンドルを切って戻す。
出口を抜ける。
「良いです」
『今の、かなり良かったですか?』
「かなり良かったです」
『よし』
「次はクランク」
『まだやるんですか?』
「教習時間が残っています」
二回目のクランク。
最初の角は余裕を持って通過した。
二つ目の角で、創が一度停止する。
「なぜ止まりました?」
『右後輪が近い気がしました』
「確認しましたか?」
『ミラーでは、ぎりぎりではありません』
「なら?」
『進めます』
「どうぞ」
創はゆっくり車を進めた。
後輪は縁石に乗らず、そのまま出口を抜ける。
「今の判断は大切です」
『止まったことですか?』
「違います。止まって確認し、安全だと分かった後に進んだことです」
『確認して、判断して、動く』
「今日もそれです」
『俺、一生言われそう』
「免許を取る頃には、自分で言わなくてもできるようになってください」
『はい』
――午後零時一分。
教習車を所定の位置へ戻す。
Pレンジ。
パーキングブレーキ。
エンジン停止。
創は背もたれへ身体を預けた。
『……疲れた』
「技能四回目。毎回同じ感想ですね」
『今日が一番疲れました』
「前回も言いました」
『記録を更新しました』
長瀬は教習原簿へ記録する。
「今日のシミュレーターでは、駐車車両の陰からの飛び出し、自転車の進路変更、見通しの悪い交差点、右直事故、すり抜け、雨天、夜間を経験しました」
『事故寸前が二回』
「シミュレーターで経験したことを忘れないでください」
『はい』
「実車では、S字は二回目以降よくなりました。クランクは一回目から通過できました。障害物回避も、確認と判断の流れは良かったです」
『今日は褒めることが多い』
「課題もあります」
『ですよね』
「危険を予測しすぎて、必要以上に速度を落とす場面があります。それと、見えているもの一つへ集中しすぎる傾向が少しあります」
『一点集中』
「仕事では得意ですか?」
『資料の誤りを探す時には』
「運転では、一つ見つけて終わりではありません」
『はい』
「道路の状況は変化し続けます。前、横、後ろ、見えない部分。すべてに危険の可能性があります」
『銀行より大変』
「また比較しますね」
『癖です』
長瀬は少し笑った。
「ただ、宮嶋さん。今日は一つ、かなり良くなったことがあります」
『何ですか?』
「確認した後、動けるようになりました」
『本当ですか?』
「前回の右折では、確認を繰り返してずっと待っていましたから」
『それは忘れてください』
「教習記録に残っています」
『銀行みたいですね』
「教習所も記録は大切です」
創も笑う。
「次は複数の課題を組み合わせます」
『仮免、近づいてきますか?』
「少しずつです」
『まだ先ですね』
「急がないこと。今できることを確実に身につけてください」
『はい』
「ご家族を乗せるんでしょう?」
創の頭に、璟瑶と双子の姿が浮かぶ。
『はい』
「なら、今日のシミュレーターを忘れないでください」
『絶対に忘れません』
「危険は、起きてからでは遅いです」
『はい』
――午後零時二十一分。
ロビー。
教習原簿を返却した創のところへ、河合たちが集まる。
「どうだった?」
『S字に最初は負けた』
「やっぱり?」
『でも二回目は勝った』
「早いな」
一ノ瀬が尋ねる。
「脱輪した?」
『寸前で止められた』
「私と同じ」
佐原が続ける。
「クランクは?」
『一回で通った』
河合が納得できない顔をする。
「何でS字で負けた人が、クランクは一回なんだよ」
『俺に聞くなよ』
安西が笑う。
「人によって得意なところが違いますから」
西野はシミュレーターに興味を示した。
「シミュレーター、どうでした?」
『事故寸前が二回』
「怖い……」
『でも、やってよかった』
「どうして?」
『本物の道路で同じことが起きたら、怖いでは済まないから』
河合が創を見る。
「急に真面目になった」
『銀行員だから』
「関係ある?」
『ない』
全員が笑った。
創は時計を見る。
午後零時二十七分。
『じゃあ、俺は帰る』
一ノ瀬が創の左手を見る。
「奥さん、待ってる?」
『多分――』
口にしてから、創は言い直した。
『いや、待ってる』
河合が笑う。
「そこは断定した」
『確認済み』
――午後一時十分。
成城。
新居。
『ただいま』
すぐには返事がない。
少し遅れて、リビングから声が届く。
「おかえり」
創がリビングへ入ると、璟瑶はソファに座っていた。
膝にはブランケット。
片手は腹部の上。
「おかえり」
『待ってた?』
「待ってた」
『何してた?』
「何も」
『本当に?』
「テレビを少し見て、お腹を撫でてた」
『仕事は?』
「してません」
『メールは?』
「見てません」
『偉い』
「子ども扱いしないで」
創は笑いながら、隣へ座った。
「今日はどうだった?」
創が大きく息を吐く。
『S字に負けた』
「東央精密には少しずつ勝ってるのに?」
創はすぐに妻を見る。
『比較対象が違う』
「追加照会、一つずつ乗り越えてるでしょう?」
『まだ正式審査中。案件に勝ち負けなんて言ったら、桐生さんに怒られる』
「家だからいいでしょう?」
『家でも案件に勝ち負けはつけない』
「真面目」
『銀行員だから』
「長瀬先生にも言ってそう」
『今日も、銀行と比較しないでくださいって言われた』
「やっぱり」
璟瑶が笑う。
『でも、S字は二回目で通れた』
「じゃあ、最後は勝った?」
『引き分けから勝ちに変わった』
「クランクは?」
『一回で通った』
「すごい」
『もっと褒めて』
「すごい」
『同じだろ』
「とてもすごい」
『棒読み』
璟瑶は声を出して笑った。
「シミュレーターは?」
創の表情が少しだけ変わる。
『怖かった』
「また?」
『今までで一番』
創は、シミュレーターで経験した場面を一つずつ話した。
駐車車両の陰から飛び出した子ども。
急に進路を変えた自転車。
対向車の陰から現れたバイク。
渋滞する車列をすり抜けてきたバイク。
雨。
夜。
見通しの悪い交差点。
璟瑶は腹部へ手を置いたまま、静かに聞いた。
「事故、起こした?」
『寸前が二回』
「シミュレーターで?」
『うん』
「何と?」
『右折した時のバイクと、発進した時にすり抜けてきたバイク』
「怖いね」
『本物だったら、もっと怖い』
璟瑶は一度、自分のお腹へ視線を落とした。
「創」
『ん?』
「免許を取って、四人で出かける時。急がなくていいからね」
『うん』
「後ろで二人が泣いていても」
『安全な場所まで行ってから止まる』
「私が早くって言っても?」
『璟瑶は言わないだろ』
「もし言ったら?」
『それでも急がない』
璟瑶が少し笑う。
「正解」
『長瀬さんにも言われた。危険は起きてからでは遅いって』
「そうだね」
『でも、怖がって動けないのも違う』
「確認して」
『判断して』
「動く」
『そう』
「もう夫婦で暗記してるね」
『三谷さんから始まったのに、長瀬さんまで加わった』
「次は双子も覚えるかも」
『家訓みたいにするなよ』
創の視線が、妻の腹部へ向く。
『触っていい?』
「何回聞くの?」
『毎回聞く』
「どうぞ」
創はワンピースの上から、そっと手を置いた。
『……』
「どう?」
『また大きくなった気がする』
「昨日も言った」
『毎日変わってる気がする』
「二人いるからね」
『恒例』
「恒例」
二人は笑った。
「今日、一人でここを撫でながら、創は今頃何をしてるのかなって考えてた」
『S字で縁石に乗りそうになってた』
「……ロマンチックな時間を返して」
『事実だから』
「その後は?」
『クランクを一回で通った』
「じゃあ少し返してあげる」
『二人に何か言ってた?』
「お父さんが車の練習を頑張ってるよって」
『本当に?』
「うん」
『返事は?』
「なかった」
『まだ仕方ない』
「でも、聞いてたかもしれない」
創は腹部へ顔を少し近づけ、声を落とした。
『今日、S字は最後にちゃんと通ったからな』
「報告、それ?」
『大事だろ』
「クランクも」
『クランクは一回で通った』
まだ返事はない。
それでも二人はしばらく、そこにいる小さな命を見つめていた。
――午後二時十八分。
遅めの昼食。
創が簡単なうどんを作り、璟瑶は少なめに食べている。
「創」
『ん?』
「今日、教習所にいつもの人たちいた?」
『いた』
「河合さん?」
『いた』
「一ノ瀬さん」
『いた』
「佐原さん」
『いた』
「安西さん」
『いた』
「西野君」
『いた』
「全部覚えた」
『何でそんなに覚えてるの?』
「創が楽しそうに話すから」
『俺、楽しそう?』
「違うの?」
創は少し考えた。
『運転は、まだ怖い』
「うん」
『でも、できなかったことができるようになるのは楽しい』
「それなら続けられるね」
『うん』
「免許を取ったら、最初はどこへ行く?」
『近所』
「夢がない」
『初心者だから』
「二回目は?」
『近所』
「三回目」
『近所』
「創」
『安全第一』
「……じゃあ十回目」
『横浜くらい』
「やっと遠くなった」
『高速道路は、もっと先』
「分かってる」
『双子を乗せるなら、特にな』
璟瑶がゆっくり頷く。
「楽しみ」
――午後四時三十七分。
静かな休日が続く。
璟瑶はソファで身体を休めていた。
創は教本を開いたものの、三十分ほどで閉じる。
「終わり?」
『今日は頭を使いすぎた』
「珍しい」
『失礼だな』
「銀行の仕事では?」
『使ってる』
「教習所では?」
『普段と違うところを使う』
「どこ?」
『車両感覚』
「あるの?」
『今、作ってる』
「頑張って」
創は璟瑶の隣へ座った。
璟瑶が自然に肩へ寄りかかる。
「今日、本当に何もしなかった」
『それでいい』
「少しだけ罪悪感がある」
『何で?』
「仕事、たまってるから」
『月曜日にやればいい』
「でも」
『水城さんに言うぞ』
「それ、ずるい」
『一番効くから』
「劉川さんもいる」
『二人いたら勝てない』
「創までいる」
『俺は夫』
「四対一」
『高峰先生まで入れたら五対一』
「もう勝てない」
『勝たなくていいんだよ』
創が妻の左手へ自分の手を重ねる。
二人の結婚指輪が触れた。
『今日は休む日』
「うん」
危険は、起きてからでは遅い。
それは道路だけの話ではない。
身体も同じだった。
無理を重ね、何かが起きてから休むのでは遅い。
何も起きていない今だからこそ、休む。
創はシミュレーターで危険予測を学んだ。
璟瑶は自分の身体に起こり得る負担を考え、休むことを選んだ。
別々の場所で、二人は同じことを教えられているようだった。
――午後七時四十二分。
夕食後。
創がキッチンで皿を洗う。
璟瑶はダイニングの椅子に座ったまま、声をかけた。
「創」
『ん?』
「今日、一番難しかったのは何?」
『シミュレーター』
「S字じゃないの?」
『S字は道が見えてるから』
「シミュレーターは?」
『危険がまだ見えてない』
璟瑶は少し考える。
「深いね」
『長瀬さんの受け売り』
「でも、本当だと思う」
『うん』
「見えていないから、存在しないとは限らない」
『そう』
「お腹の中も、少し似てるかも」
創の手が止まる。
「今は二人とも元気。でも、それだけで全部安心しきるんじゃなくて、定期的に診てもらう」
『高峰先生に言われた言葉だな』
「順調と、安全が保証されたことは同じじゃない」
『覚えてる』
「だから私も、ちゃんと休む」
創は振り向き、少し笑った。
『今日一番の収穫』
「教習じゃないの?」
『それも収穫』
二人はまた笑った。
――午後十時二十二分。
寝室。
二人はベッドへ入る。
璟瑶は楽な姿勢で横向きになり、創も向かい合うように横になった。
「創」
『ん?』
「S字、次は失敗しない?」
『分からない』
「多分、大丈夫?」
『その言葉、やめろ』
「ふふ」
『でも、失敗しても教習所なら直せる』
「うん」
『本物の道路で失敗しないために、今、教えてもらってる』
「それでいい」
創が腕を伸ばす。
璟瑶も身体を近づけた。
腹部を圧迫しないように位置を整え、そっと抱き合う。
創は妻の頬へ手を添えた。
『璟瑶』
「何?」
『今日、ちゃんと休んでくれてありがとう』
「創にお礼を言われること?」
『言いたいから』
「……どういたしまして」
創がゆっくり顔を近づける。
唇が触れた。
「ん……」
ちゅ、と小さな音がする。
一度離れ、互いの顔を見る。
創はもう一度、今度は少し長く唇を重ねた。
「んっ……ちゅ……」
璟瑶の指が、創の胸元へ触れる。
創は妻の背を優しく支えながら、何度もゆっくりキスをする。
「ん……」
ちゅ。
一度離れて、また重なる。
「んっ……ちゅっ……」
短く。
長く。
確かめるように。
急がず、けれど離れがたそうに、何度も唇を重ねた。
やがて璟瑶が、わずかに息を弾ませながら笑う。
「今日、何回するの?」
『分からない』
「確認しすぎ?」
『これは何回でも確認する』
「何を?」
『璟瑶が、俺の妻だってこと』
「それは確認しなくても変わらないよ」
『分かってる』
それでも創は、もう一度唇を重ねた。
「んっ……」
ちゅ。
今度は少し深く、濃く。
けれど妻の身体へ負担をかけないよう、抱く力は優しい。
唇が離れた後も、二人の額は近いままだった。
『俺、必ず頑張って試験に合格するね』
「うん」
『ちゃんと免許を取る』
「待ってる」
『璟瑶と、この二人を乗せても大丈夫だって、自分で思えるくらい練習する』
「四人で、いろんなところへ行こうね」
『うん。必ず』
璟瑶からも顔を近づける。
「ん……ちゅ」
もう一度。
「んっ……」
さらにもう一度。
何度もキスを重ねた後、創は璟瑶の腹部へそっと手を置いた。
『二人とも、父ちゃん絶対に合格するからな』
「今度は聞こえてるかも」
『だったら、ちゃんと約束になる』
今日、創は知った。
見えている危険だけを確認しても足りない。
駐車車両の陰。
対向車の後ろ。
渋滞する車列の間。
暗闇。
雨。
見通しの悪い場所。
まだ見えていないものが存在する可能性を考える。
けれど、怖いからと止まり続けるのでもない。
確認する。
判断する。
動く。
その流れを、創は少しずつ身につけ始めていた。
免許取得はまだ先。
仮免許も、公道での教習も、まだ先にある。
それでも、父親になるための準備は、また一段進んだ。
そして妻のお腹の中にいる二人も、一日ずつ確かに成長している。
危険は、起きてからでは遅い。
だから予測し、備え、今できることを積み重ねる。
創は妻を抱きしめたまま、もう一度だけ優しくキスをした。
『絶対、合格する』
「うん。信じてる」
二人と、まだ生まれていない二人。
四人家族が一緒に遠くへ出かける未来へ向けて、時間は今日も静かに進んでいた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、創の初めての危険予測シミュレーターと、S字・クランクを中心に描きました。
見えている危険だけではなく、その陰や後ろに何がいる可能性があるのか。
一方で、すべてを怖がって止まり続けていては運転になりません。
「安全運転と、怖くて動けない運転は違う」
という長瀬先生の言葉は、創にとって大きな課題になりました。
S字では最初に脱輪寸前までいきましたが、二回目以降は車両感覚をつかみ始め、クランクも無事通過。
少しずつですが、確認した後に判断して動けるようになっています。
その頃、璟瑶は新居で仕事をせず、双子のお腹を撫でながらゆっくり休む休日を過ごしました。
高峰先生から言われた通り、「何か起きてから休む」のではなく、何も起きていない時に休むことも大切です。
次回、第89話。
創の教習5回目。
仮免許を少しずつ意識し始める一方、青嶺中央銀行には再びテレビ取材が入り、今度は『フロンティアの夜明け』が企業と地域金融の現場を追います。




