第8話「退職して数ヶ月――銀行員じゃない僕と、頭取の彼女との短い休息」
今回は、東都共栄銀行を退職した創にとって、十八歳から初めてとなる長い休養期間のお話です。
高校卒業後、すぐに銀行員として働き始めた創。
平日の朝に起きればスーツへ着替え、銀行へ向かう。
それが当たり前だった約四年間。
ところが今は、朝起きても出勤する必要がありません。
平日の午前十時にスーパーへ行き、昼間の街を歩き、空いている映画館へ入る。
創にとっては、今までほとんど知らなかった「普通の平日」です。
さらに今回は、両親にも東都共栄銀行を退職したこと、そして全国四十七都道府県に巨大な金融ネットワークを持つ青嶺フィナンシャルグループの中核銀行――青嶺中央銀行へキャリア採用で内定したことを、改めて詳しく報告します。
もちろん、二か月半すべて遊んでいられるわけではありません。
青嶺中央銀行から届く大量の事前教材。
金融知識。
財務諸表。
法人融資。
外国為替。
英語。
そして、中国人の恋人・璟瑶との会話にもつながる中国語。
「休みなのに結局銀行の勉強してる……」
そんな創とは対照的に、璟瑶は青嶺中央銀行頭取として相変わらず多忙な毎日を送っています。
一緒に旅行へ行きたい創。
しかし、全国のグループ銀行や海外事業を抱える頭取には、簡単にまとまった休みを取ることもできません。
その代わり。
璟瑶が創の一人暮らしの家へ来る回数は少しずつ増えていきます。
外では二十四歳差の恋人。
家では、肩書も立場も忘れた自然な二人。
そして二か月半の休息が終わる頃には――。
「頭取と行員」として同じ銀行で働く日が、すぐそこまで近づいています。
創にとって最初で最後かもしれない、束の間の長い休息をお楽しみください。
東都共栄銀行を退職した翌朝。
午前六時半、宮嶋創はいつもの時間に目を覚ました。
「支度しないと……」
反射的に身体を起こしたところで、もう銀行へ行く必要がないことを思い出す。
青嶺中央銀行の一斉入行日までは、約二か月半。高校卒業後すぐに働き始めた創にとって、初めての長い休養期間だった。
「何をすればいいんだ……」
創は早朝にもかかわらず、璟瑶へ電話をかけた。
『おはよう、創。私はもう本店へ向かっているところよ』
「俺、二か月半も休みなんだ。二人で旅行へ行かない?」
『私が何をしている人か忘れた?』
「青嶺中央銀行頭取で、青嶺FGの副CEO。それから四十五歳の俺の彼女」
『最後だけ仕事に関係ないでしょう?』
「でも一番大切だよ」
電話の向こうで璟瑶が黙る。
「照れた?」
『違うわ。それより、今は何日も休めないの。取締役会や全国の系列銀行との会議、中国事業の協議もあるから』
「じゃあ日帰りで鎌倉か箱根は?」
『日程が合えばね』
「いつか上海にも行きたい。前に案内してくれるって言っただろ?」
『覚えていたのね。いつか必ず連れていってあげる』
「約束」
『ええ、約束よ』
その日は休んでもいいと許されたものの、翌日からは勉強するよう恋人命令を受けた。
「頭取命令より断りにくいな」
『当然でしょう?』
◇◇◇
退職後の一週間、創は想像以上に暇を持て余した。
朝早く目を覚まし、掃除や洗濯を終えれば、午前九時にはすることがなくなる。
平日のスーパーや映画館へ出かけ、昼間の街を歩いた。これまでは銀行の中にいた時間を自由に過ごせることが、どこか不思議だった。
三日目には、青嶺中央銀行から入行前教材が届いた。
コンプライアンス、法人融資、財務分析、外国為替、情報管理、全国の地域銀行ネットワークなど、分厚い教材が箱いっぱいに入っている。
『教材が届いた』
『よかったわね。全部読みなさい』
『休養期間なのに?』
『青嶺中央銀行の内定者でしょう?』
「逃げ道がないな……」
創は諦めて教材を開いた。
◇◇◇
その週末、創は実家を訪れた。
父・宮嶋和久と母・宮嶋恵美子へ、東都共栄銀行を退職し、青嶺中央銀行へ転職することを正式に報告する。
「青嶺中央銀行って、テレビや新聞に出る銀行でしょう?」
「うん。全国四十七都道府県に地域銀行ネットワークを持つ、青嶺FGの中核銀行だよ」
「高卒で二十一歳の創が、どうして受かったんだ?」
「父さん、その聞き方はひどくない?」
創は苦笑しながら、若手金融人材コースへ応募し、書類選考や筆記試験、三度の面接を通過したことを説明した。
「最終候補六人から、内定したのは三人」
「その三人に入ったの? すごいじゃない」
「ありがとう」
父は給与や研修、配属について確認したあと、納得したように頷いた。母は仕事よりも創の身体を心配した。
「大きな銀行へ行っても、無理しないでね」
「分かってる」
「休みの間に旅行でも行ったら?」
「行きたいけど、相手が忙しくて」
「相手? もしかして彼女?」
創は言葉に詰まった。
四十五歳の中国人女性で、青嶺中央銀行の頭取。
今それを話せば、転職以上の騒ぎになる。
「その話は、また今度」
「怪しいわね」
創は追及される前に話題を変えた。
◇◇◇
一週間が過ぎると、創は午前中に勉強し、午後は自由に過ごす生活を始めた。
金融知識や財務諸表、法人融資、外国為替、英語を学ぶ。東都共栄銀行で経験した内容もあったが、青嶺中央銀行では、より専門的な知識が求められていた。
『英語が難しい』
『頑張って』
『代わりにやって』
『却下』
『頭取の権力で何とかして』
『もっと却下』
中国語も勉強したが、それは仕事よりも璟瑶と話すためだった。
ある夜、創は電話で覚えた中国語を披露した。
「我叫宫岛创」
『発音が日本人ね』
「当たり前だろ!」
『でも、悪くないわ。もう一回』
璟瑶に教えられながら何度か発音を繰り返すことが、二人の日課になっていった。
◇◇◇
休養期間の中頃には、璟瑶が創の部屋へ来る回数も増えた。
「ただいま」
「ここ、俺の家なんだけど」
「最近よく来ているから」
いつの間にか、玄関には璟瑶専用のスリッパ、洗面所には歯ブラシが置かれていた。
「化粧水も置いていい?」
「もう住むつもり?」
「創がいるなら、それも悪くないわね」
「頭取が一LDKに?」
「嫌なの?」
「嫌じゃないけど」
自宅では一緒に夕食を作り、テレビを観ながら話す。そこに頭取と元銀行員という肩書はなく、二人は普通の恋人だった。
「璟瑶。好きって中国語で何て言うの?」
「我喜欢你」
「ウォー・シーファン・ニー?」
「もう少しゆっくり」
発音を教わった創は、少し照れながら璟瑶を見つめた。
「我喜欢你、璟瑶」
「……」
「合ってる?」
「合ってるわ」
璟瑶は創へ近づき、頬に触れた。
「んっ……」
唇が重なり、ゆっくりと離れる。
「今のは中国語の授業?」
「正解したご褒美よ」
「それなら毎日勉強しようかな」
「動機が不純ね」
そう言いながら、璟瑶はもう一度、創の唇へ軽くキスをした。
◇◇◇
別の日、六つの会議を終えた璟瑶が、疲れ切った様子で創の部屋を訪れた。
「今日は朝から何も食べてないの」
「座って。簡単なものを作るから」
創は卵とネギを入れた温かいうどんを作った。
「美味しい……」
「頭取に褒められた」
「今は恋人よ」
食後、璟瑶はソファで創の肩へ頭を預けた。
「こうしている時間が好き」
「何も考えなくていいから?」
「ええ。全国の銀行も、中国事業も、取締役会も、今だけは忘れられる」
「じゃあ今は何?」
「創の彼女。それだけ」
創は彼女の肩へ手を回した。
「今日は、それだけでいいよ」
「うん……」
二十四歳差も、社会的な立場の違いも、この部屋では関係なかった。
◇◇◇
二か月半は、想像以上に早く過ぎていった。
入行まで一週間となった頃、創は起床時間を午前六時半へ戻し、コンプライアンスや情報管理、金融犯罪対策を復習した。
教材には、役員との個人的関係や利益相反に関する項目もある。
「頭取が恋人って、一番難しい事例だよな……」
オンライン研修では、全国四十七都道府県のグループ銀行と海外拠点が紹介された。
創は改めて、その規模の大きさを実感する。
「本当に俺、ここで働くんだ……」
健康診断や提出書類の準備を済ませ、新しいスーツや革靴も購入した。
入行への準備が、少しずつ整っていった。
◇◇◇
入行まで残り二日となった夜。
璟瑶が、いつものように「ただいま」と言って創の部屋へ入ってきた。
「入行したら、ここへ来る回数を減らさないといけないわ」
「どうして?」
「頭取と若手行員が頻繁に同じ部屋へ出入りしているところを見られたら困るでしょう?」
「……確かに」
創は寂しそうに視線を落とした。
「同じ銀行になったら、恋人をやめた方がいいって言われるかと思ってた」
「私が?」
「うん」
璟瑶は創の手を握った。
「私は、創を自分の銀行へ呼んだから好きになったわけではない。雨の日に助けてもらったときから、あなた自身を見ていたの」
「うん」
「同じ銀行で働くようになっても、恋人であることは変えない」
「よかった……」
「ただし、銀行では完全に分ける。私用メッセージは禁止。個人的な理由で頭取室へ来るのも禁止。二人きりになっても触らない」
「厳しいな」
「当然よ」
「じゃあ、今は?」
創は璟瑶の腰へ腕を回した。
「まだ入行前で、ここは俺の家。二人だけだよ」
顔を近づけると、璟瑶も拒まなかった。
「んっ……」
唇が重なる。
一度離れたあと、創はもう一度、彼女を抱き寄せた。
「んっ……ん……」
今度は先ほどより長く、互いの気持ちを確かめるように濃厚なキスを交わした。
創の手は璟瑶の腰に回り、璟瑶も彼の胸元へ手を添える。唇が離れても、二人は額を触れ合わせたままだった。
「入行前だからって、今のうちに全部しておこうとしてない?」
「少しだけ」
「正直ね」
「銀行では他人なんだろ? なら家では恋人を続ける」
「仕方ないわね」
璟瑶は微笑み、今度は自分から創へ唇を重ねた。
「んっ……」
再び長いキスを交わしたあと、璟瑶は優しく告げる。
「入行しても、無理に自分を大きく見せないで。分からないことは聞いて、失敗したら隠さないこと」
「うん」
「確認を怠らない」
「うん」
「顧客一人ひとりを見る」
「うん」
「数字の向こうには?」
「人がいる」
創の答えを聞き、璟瑶は満足そうに笑った。
「それなら大丈夫よ」
◇◇◇
長かった休養期間の最終日。
机には事前教材と提出書類、新しいスーツ、入行式の案内が揃っていた。
『最後の休みね。今日は何をするの?』
『二か月半の最後くらい、何もしない』
『準備は終わった?』
『全部終わったよ。恋人さんは今夜来る?』
少しして返信が届く。
『行く』
『明日、銀行では?』
『私は頭取。あなたは宮嶋さん』
『今日までは?』
『創』
創は画面を見つめて笑った。
二か月半の休養は終わる。
翌日、最終候補六名から選ばれた三名のキャリア採用者が、青嶺中央銀行本店へ集まる。
宮嶋創と、まだ顔を知らない男性一名、女性一名。
三人の新しい銀行員人生が始まる。
その前に今夜だけは、まだ頭取と行員ではない。
二十一歳の創と、四十五歳の璟瑶。
二十四歳差の恋人として過ごす、入行前最後の夜が待っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、東都共栄銀行を退職してから青嶺中央銀行へ入行するまでの、約二か月半を描きました。
十八歳から働き続けてきた創にとって、これほど長く仕事へ行かない生活は初めてです。
退職直後は、いつもの時間に目が覚めてしまい、
「……何すればいいんだ」
と本気で困っていた創。
平日のスーパー。
昼間の映画館。
時間を気にせず歩ける街。
銀行員だった頃にはほとんど経験できなかった日常を、少しずつ知っていきました。
そして両親にも正式に転職を報告。
東都共栄銀行を円満に退職したこと。
次の勤務先が青嶺中央銀行であること。
青嶺フィナンシャルグループが全国四十七都道府県へ地域金融ネットワークを持っていること。
最終候補六名から内定者三名に選ばれたこと。
キャリア採用・若手金融人材コースであること。
研修や配属についても含めて、ようやく家族へ自分の新しい進路を伝えることができました。
しかし、休養期間とはいえ完全な休みではありません。
青嶺中央銀行から届いた事前教材によって、創は再び勉強の日々へ。
金融実務。
財務諸表。
法人融資。
外国為替。
英語。
中国語。
特に中国語では、
「我喜欢你」
という、銀行業務にはまったく関係のない言葉まで覚えてしまいました。
そして今回大きく変化したのが、創と璟瑶の距離です。
最初は訪問客だった璟瑶。
それがいつの間にか創の家に自分用のスリッパを置き、歯ブラシまで置き、
「ただいま」
と言うほど自然な存在になりました。
仕事で疲れた璟瑶が創の肩に頭を預け、
「今は創の彼女。それだけ」
と言える場所。
青嶺中央銀行頭取という巨大な肩書を持つ璟瑶にとっても、創の一LDKの部屋は少しずつ特別な場所になっています。
ですが、その関係にも間もなく新しいルールが必要になります。
創が青嶺中央銀行へ入行すれば――。
銀行では、
「頭取」
「宮嶋さん」
家では、
「璟瑶」
「創」
同じ二人なのに、まったく違う関係を演じなければなりません。
そして長かった二か月半も、ついに終了。
次回、第9話。
青嶺中央銀行への入行前夜。
翌日から「恋人」ではなく「頭取と行員」として顔を合わせる二人が、最後に勤務中のルールを一つ一つ確認します。
そして、その翌朝。
最終候補六名から選ばれた三名が、青嶺中央銀行本店へ集まります。




