第7話「十八歳から育ててくれた銀行へ――退職の日、一人一人に伝える『ありがとうございました』」
今回は、宮嶋創が十八歳から約四年間勤めてきた東都共栄銀行・城東支店を退職する日です。
高校卒業直後。
銀行員として何も分からなかった創に、電話応対、伝票確認、本人確認、振込処理、諸届、法人営業――その一つ一つを教えてくれた場所。
神崎支店長。
牧野副支店長。
倉持課長。
岸本課長。
そして、直属の上司として創を一から育ててくれた三谷主任。
さらに、佐伯美咲、藤村直樹、小野寺奈緒、白石康平、高瀬真由をはじめとする同僚たち。
そして今度は創自身が仕事を教える立場になっていた、松岡海斗たち後輩。
青嶺中央銀行への転職は、創にとって大きな挑戦です。
しかし、新しい銀行へ進むからといって、これまで育ててもらった場所への感謝がなくなるわけではありません。
「青嶺へ行っても、ここで覚えたこと忘れるなよ」
「銀行が大きくなっても、お客さん一人一人を見ることは同じだ」
創がこれから銀行員として歩いていくうえで、大切な言葉を一人一人から受け取っていきます。
そして最後には、創から後輩・松岡へ託される「業務確認メモ」。
教えてもらう側だった創が、誰かへ自分の経験を残していく側になったことも、この四年間の成長の証です。
宮嶋創にとって最初の銀行。
東都共栄銀行・城東支店で迎える最後の一日を、どうぞ最後までお楽しみください。
青嶺中央銀行から正式な採用内定通知書が届いた。
封筒には、採用内定通知書、労働条件通知書、研修予定表、入行手続きに必要な書類が収められていた。
「本当に決まったんだな……」
高校を卒業した十八歳から約四年間、東都共栄銀行で働いてきた。
次に進むのは、全国四十七都道府県に巨大な金融ネットワークを持つ青嶺中央銀行。
創は翌朝、一通の退職願を鞄へ入れた。
◇◇◇
東都共栄銀行・城東支店。
いつもと同じように出勤した創は、神崎支店長から支店長室へ呼ばれた。
室内には牧野副支店長、三谷主任、倉持融資営業課長も揃っていた。
「結果が出たんだな?」
「はい。青嶺中央銀行から正式に内定をいただきました」
三谷主任が静かに頷く。
「受かったか」
「はい」
「それで、決めたんだな?」
神崎支店長に尋ねられ、創は迷わず答えた。
「青嶺中央銀行へ行きたいと思っています」
鞄から退職願を取り出し、机の上へ置く。
「正式に退職させていただきたいと思います。これまで、本当にありがとうございました」
創が深く頭を下げると、神崎支店長はしばらく退職願を見つめた。
「正直、寂しい。十八歳で入ってきたお前が、もう辞めるんだからな」
「すみません」
「謝るな。青嶺中央銀行から内定を得たのは、ここで積んできた経験が評価されたということだ。俺たちも胸を張っていい」
「支店長……」
「向こうへ行っても、ここで覚えたことを忘れるな。預金額が一億円でも一万円でも、その人にとって大切なお金であることは同じだ」
それは創が大切にしてきた考えと重なっていた。
「法人融資も同じだ。数字の向こうには人がいる。それを絶対に忘れるな」
「はい。絶対に忘れません」
牧野副支店長も創の肩を叩いた。
「転職が怖いのは当然だ。新しい銀行、新しい上司、新しい規則。全部変わる」
「正直、かなり怖いです」
「それでいい。分からないことは、また一から覚えればいい。お前は十八歳のときに一度やっている。二度目もできる」
「ありがとうございます」
倉持課長からは、自作の融資業務に関するメモを渡された。
「財務分析や決算書の見方、面談で確認することをまとめてある」
「いただいてもいいんですか?」
「社内資料ではなく、俺が自分で作ったものだ。ただし、青嶺では青嶺のやり方を覚えろ」
「はい」
「銀行ごとに文化は違う。でも、顧客を見るという基本は同じだ」
個人営業課長の岸本理沙は、新人だった頃の創を思い出して笑った。
「最初は、お客さんに声をかけられるたびに私たちを見ていたのに、今では後輩を教えるようになったのね」
「恥ずかしいので忘れてください」
「無理よ。でも、銀行員として本当に成長したと思う」
そして最後に、直属の上司である三谷主任と二人で話した。
「俺がお前へ最初に教えたことを覚えているか?」
「確認です」
「そうだ。どの銀行へ行っても、確認を怠るな」
数字、氏名、口座番号、振込先、本人確認書類。たった一つの間違いが、顧客からの信用を失わせる。
「三谷主任には、電話の取り方から全部教えていただきました。何度も怒られましたけど、今思えば必要なことでした」
「俺、そんなに怒ったか?」
「かなりです」
「悪かったな」
「でも、そのおかげで今の自分があります。本当にありがとうございました」
創が頭を下げると、三谷は少し目を逸らした。
「青嶺中央銀行へ行けば、難関大学出身者や海外経験者、法人融資の専門家も大勢いるだろう」
「はい」
「でも、お前には十八歳から現場で積み上げた四年間がある。それを忘れるな。分からないことは聞け。知ったかぶりをするな。ミスを隠すな」
「はい」
「そして、確認しろ」
「最後もそれなんですね」
「一生それだ」
三谷は笑い、最後に告げた。
「いつかお前が上司になったら、十八歳の新人へ仕事を教えてやれ。俺がお前にしたようにな」
「はい」
「ただし、怒りすぎるなよ」
「自覚があったんですか?」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇◇◇
正式な最終出勤日。
創は、これまで一緒に働いてきた行員たちへ、一人ずつ挨拶して回った。
佐伯美咲からは、新人時代に伝票処理で困っていた創を何度も助けたことを懐かしそうに語られた。
藤村直樹とは、将来、競合銀行の行員として名刺交換するかもしれないと笑い合った。
「営業先で会ったら、案件を取るなよ」
「それは約束できません。仕事ですから」
「言うようになったな」
小野寺奈緒、高瀬真由、白石康平からは、窓口事務や入力確認、法人営業について、それぞれ最後の助言を受けた。
相馬弘樹、長瀬香織、橘雄大、矢吹千尋をはじめ、為替、出納、ローン、総務を担当する行員たちにも感謝を伝えた。
後輩の瀬戸悠斗、中原莉子、奥村大地も創へ頭を下げた。
「私も高卒なので、宮嶋先輩が青嶺中央銀行に合格したと聞いて、勇気が出ました」
中原の言葉に、創は優しく笑った。
「学歴がすべてではない。でも、勉強は続けた方がいい。俺もこれからだから、一緒に頑張ろう」
「はい!」
◇◇◇
最後に創が向き合ったのは、最も身近な後輩だった松岡海斗である。
「宮嶋先輩、本当に今日で最後なんですね」
「うん」
「まだ聞きたいことがたくさんあります。振込も、住所変更も、本人確認も、ミスしたときの対応も……」
創は机の引き出しから、一冊のノートを取り出した。
表紙には『業務確認メモ』と書かれている。
振込、諸届、本人確認、電話応対、法人先への連絡、ミスをしたときの報告順序。創が新人時代から書き続け、失敗した内容や先輩から注意されたことまで記録したノートだった。
「これを松岡にやる」
「宮嶋先輩のノート……?」
「困ったときに見ろ。同じ失敗をしないように、俺が間違えたことも全部書いてある」
松岡は目を赤くしながら、ノートを胸に抱えた。
「こんなのをもらったら、余計に寂しくなるじゃないですか」
「俺がいなくても大丈夫だ。最初より、かなり仕事ができるようになった」
「本当ですか?」
「分からないことは一人で判断せずに聞け。ミスをしたら隠すな。それから、確認を忘れるな」
「三谷主任みたいですね」
「俺も同じことを言われたよ」
松岡は少し笑い、深く頭を下げた。
「宮嶋先輩みたいな銀行員になれるように頑張ります」
「俺より上を目指せ」
「……はい!」
◇◇◇
最終日も、創は最後まで通常どおり仕事を続けた。
振込、伝票、諸届、顧客対応、電話応対。
今日が最後だからこそ、一つひとつをいつも以上に丁寧に確認した。
午後三時に営業を終えると、現金や伝票、残高の照合と締め処理を行う。
窓口、カウンター、ATM、営業席、応接室。
何度も失敗し、怒られながら、少しずつ仕事を覚えた場所を創は静かに見渡した。
午後五時半。
神崎支店長の呼びかけで、行員たちが集まった。
「本日をもって、宮嶋創が東都共栄銀行を退職する。高校卒業後、十八歳で入行し、今回、青嶺中央銀行のキャリア採用試験に合格した」
大きな拍手が起こる。
中央へ進んだ創は、城東支店で働く全員の顔を見渡した。
「十八歳で入行したとき、銀行員が何をするのかも、電話の取り方も、伝票の見方も分かりませんでした」
声が僅かに震える。
「何度も失敗して、そのたびに皆さんに助けていただきました。三谷主任には、特にたくさん怒られました」
「俺か?」
「一番多かったです」
支店内に笑いが広がった。
「それでも、そのおかげで今の自分があります。青嶺中央銀行で評価していただいた経験は、皆さんに育てていただいたからこそ得られたものです」
創は深く頭を下げた。
「十八歳で何も分からなかった自分を銀行員として育てていただき、本当にありがとうございました」
再び大きな拍手が起こった。
「青嶺でも頑張れよ!」
「元気でね!」
「宮嶋先輩、頑張ってください!」
創は何度も頭を下げた。
◇◇◇
社員証や貸与品を返却し、机とロッカーから私物を取り出した。
三谷主任から渡された箱には、城東支店一同から贈られた一本の上等なボールペンと、メッセージカードが入っていた。
「青嶺で使え。なくすなよ」
「絶対になくしません」
「そう言う奴が一番なくすんだ」
午後六時十五分。
職員用出入口の前に立った創へ、神崎支店長が声をかける。
「お疲れさま、宮嶋」
「お疲れさまでした。今まで本当にありがとうございました」
「頑張れ」
「はい!」
創は深く頭を下げ、扉の外へ出た。
いつもなら翌朝には戻ってくる。しかし、もう東都共栄銀行の行員として、この扉を通ることはない。
「……ありがとうございました」
十八歳から二十一歳まで過ごした最初の銀行へ、もう一度頭を下げてから歩き始めた。
◇◇◇
その夜、創は自宅から璟瑶へ電話をかけた。
『お疲れさま、創。ちゃんと挨拶できた?』
「うん。一人ずつ感謝を伝えた。最後には、支店のみんなの前でも挨拶したよ」
『何て?』
「十八歳から銀行員として育ててくれて、ありがとうございましたって」
『それでいいと思う』
「寂しかったけどね」
『前の銀行を悪く言わず、受けた恩を忘れない。そういう創だから、私は好きになったの』
「今日、それを言う?」
『今日だから言うの。少し元気になった?』
「……なった」
創はソファへ深く座った。
「でも俺、今日から無職だ」
『言い方が違うわ。青嶺中央銀行への入行を控えた休養期間でしょう?』
「それだ」
『入行までに英語と財務分析を勉強して』
「少しくらい休ませてよ」
『中国語も』
「どうして?」
『私と中国語で話せるでしょう?』
「それなら少し勉強してもいいかも」
璟瑶は楽しそうに笑ったあと、優しい声で告げた。
『創。四年間、本当にお疲れさま』
「……ありがとう」
『東都共栄銀行で学んだことは、青嶺へ来ても大切にして』
「神崎支店長にも、銀行が大きくなっても顧客一人ひとりを見ることは同じだと言われたよ」
『いい支店長ね。創が育った理由が分かるわ』
「今度は、璟瑶の銀行へ行くんだな」
『ええ。ただし銀行では、私は頭取で、あなたは宮嶋さん』
「恋人ではない?」
『銀行の中ではね』
「面倒だな」
『その代わり、銀行を出たら創と璟瑶に戻ればいいでしょう?』
「それならいいか」
この日、創は東都共栄銀行員としての約四年間に区切りをつけた。
これから始まるのは、高校卒業後すぐに働き始めた創にとって初めてとなる長い休息。
その先には、青嶺中央銀行と、そこで頭取として待つ四十五歳の恋人・欧陽璟瑶がいる。
宮嶋創、二十一歳。
最初の銀行での時間は終わった。
しかし、銀行員としての本当の挑戦は、まだ始まったばかりだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、宮嶋創が東都共栄銀行・城東支店で最後の一日を迎えました。
十八歳で入行した時には、電話一本にも緊張し、伝票や本人確認について何度も先輩たちから教えてもらっていた創。
それが今では、後輩へ仕事を教え、自分で作った「業務確認メモ」を松岡海斗へ託すまでになりました。
特に三谷主任との最後の会話。
「俺がお前に最初に教えたこと覚えてるか?」
「確認です」
「そうだ。どこの銀行へ行っても確認を怠るな」
創が銀行員として最初に教わった「確認」という基本は、青嶺中央銀行へ移っても変わることはありません。
さらに、
「青嶺中央銀行だろうが何だろうが、お前はお前だ」
という三谷主任の言葉。
大きな銀行へ転職したからといって、これまでの自分まで変える必要はない。
東都共栄銀行で経験した約四年間そのものが、これからの創を支える土台になります。
そして最後。
支店全員を前に、
「十八歳で何も分からなかった自分を、銀行員として育てていただき、本当にありがとうございました」
と伝えた創。
その言葉とともに、宮嶋創の「東都共栄銀行員」としての時間は終わりました。
夜には璟瑶から、
「四年間、お疲れさま」
という言葉も。
明日から創は、しばらく銀行員ではありません。
高校卒業後すぐに働き始めた創にとって、初めてとなる数か月間の長い休息です。
平日の朝に出勤しなくてもいい。
銀行の閉店時間を気にしなくてもいい。
そんな今まで経験したことのない生活の中で、創は何をして過ごすのか。
もちろん、その間も四十五歳の恋人・欧陽璟瑶は青嶺中央銀行の頭取として働き続けています。
次回、第8話。
東都共栄銀行を退職してから青嶺中央銀行へ入行するまでの、束の間の休息期間。
宮嶋創にとって初めての「長い休み」が始まります。




