第9話「入行前夜――明日から彼女を『頭取』と呼ばなければならない」
今回は、青嶺中央銀行への入行を翌日に控えた、創と璟瑶の「入行前夜」です。
東都共栄銀行を退職してから約二か月半。
長い休養期間の中で、創は金融知識、財務諸表、法人融資、外国為替、英語、中国語などを学び、青嶺中央銀行から届いた事前教材にも取り組んできました。
そして、いよいよ明日。
宮嶋創は正式に青嶺中央銀行の行員になります。
しかし、それは同時に――。
これまで普通に「璟瑶」と呼んでいた恋人を、銀行では「頭取」と呼ばなければならなくなるということでもあります。
銀行内では完全に頭取と行員。
「創」と呼ばない。
「璟瑶」と呼ばない。
勤務中の私的な連絡もなし。
頭取室へ個人的な理由で行くこともなし。
人事評価、配属、給与、昇進にも璟瑶は一切介入しない。
「恋人なのに?」
「恋人だからこそ」
二人がこれから同じ銀行で働き続けるために、必要なルールを一つずつ決めていきます。
ですが――今夜だけはまだ違います。
ここは銀行ではなく、創の家。
頭取でも行員でもない。
二十一歳の創と、四十五歳の璟瑶。
二十四歳差の恋人として過ごせる入行前最後の夜です。
明日から始まる「頭取と行員」という新しい関係を前に、二人がどんな夜を過ごすのか。
どうぞ最後までお楽しみください。
青嶺中央銀行への入行前日。
宮嶋創の部屋には、入行案内や研修日程、退職証明書、本人確認書類、各種誓約書などが並べられていた。
明日着る濃紺のスーツや白いシャツ、ネクタイ、磨いた革靴も準備してある。
「忘れ物はないよな……」
創は提出書類を一枚ずつ確認した。
午前八時十五分までに青嶺中央銀行本店の人事部受付へ集合。キャリア採用・若手金融人材コースの入行者は三名。
そのうちの一人が、二十一歳の宮嶋創だった。
「本当に明日なんだ……」
東都共栄銀行を退職してから約二か月半。
最初は時間を持て余したが、金融知識や財務分析、法人融資、外国為替、英語、中国語を学びながら、入行への準備を進めてきた。
そして明日からは、恋人である欧陽璟瑶との関係も変わる。
自宅では二十四歳差の恋人。
しかし銀行では、頭取と若手行員だった。
◇◇◇
午後六時過ぎ、インターホンが鳴った。
扉を開けると、四十五歳の中国人女性頭取・欧陽璟瑶が立っていた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
「最近は『ただいま』って言ってなかった?」
璟瑶は少し笑い、部屋へ足を踏み入れた。
「ただいま」
「おかえり」
自分専用のスリッパへ履き替えた璟瑶は、テーブルに並ぶ大量の書類を見て目を丸くした。
「全部確認した?」
「したよ」
「本当に?」
「何度もした」
それでも璟瑶は、社員証申請書、退職証明書、顔写真、本人確認書類、印鑑、筆記用具まで一つずつ確認した。
「前職の資料は持ち込まない。顧客情報も話さない。社員証を受け取ったら紛失しないこと」
「本当に母親みたいだな」
「頭取として確認しているの」
「もっと重いじゃん」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇◇◇
夕食は創が中心となって作った。
豚肉と野菜の炒め物、卵焼き、味噌汁を二人で食べる。
「創、料理が上手になったわね」
「二か月半もあったから」
「入行前研修の成果?」
「家事部門の研修」
「そんな部署はないわ」
穏やかな食事を終えると、創はメモ用紙を用意した。
「明日からのルールを、きちんと決めよう」
「そうね」
二人はソファへ並んで座り、銀行内で守る約束を確認した。
銀行では、璟瑶は頭取、創は一人の行員。互いを「創」「璟瑶」とは呼ばず、「頭取」「宮嶋さん」と呼ぶ。
廊下やエレベーターですれ違っても、普通に挨拶するだけ。目で合図したり、誰もいないからと私的な話をしたりしない。
創が個人的な理由で頭取室を訪れることも、勤務中に私用メッセージを送ることも禁止する。
「昼休みも?」
「急用でなければ勤務終了後にして」
「厳しいな」
「恋人だからこそよ」
璟瑶は真剣な表情で続けた。
「頭取の恋人だから採用された。頭取の恋人だから良い部署へ配属され、昇進した。創に、そんなふうに言われてほしくないの」
「うん」
「だから配属、給与、人事評価、昇進には一切介入しない。全部、創自身の力で進んでもらう」
「それでいいよ。俺も璟瑶に入行させてもらったとは思われたくない」
「本当に?」
「むしろ、そうしてほしい」
創の答えを聞き、璟瑶は安心したように微笑んだ。
「仕事で俺が大きなミスをしたら?」
「必要なら、頭取として厳しく対応するわ」
「三谷主任より怖いかも」
「仕事は仕事でしょう?」
「うん。銀行では、ちゃんと頭取でいて」
今度は璟瑶が少し驚いた。
「創、分かっているじゃない」
「二十一歳だからって馬鹿にしないでよ」
「してないわ。少ししか」
「してたんだ」
再び二人の笑い声が重なった。
◇◇◇
最後に決めたのは、交際を銀行内で誰にも明かさないことだった。
同期や研修担当者、直属の上司にも話さない。コンプライアンス上の申告が必要になった場合だけ、必要最小限の人物へ伝える。
「誰にも言えないんだな。恋人なのに」
寂しそうな創の手に、璟瑶が自分の手を重ねた。
「銀行の中で隠すだけ。私たちの関係を否定するわけではないわ」
「うん」
「もし隠し続けることが苦しくなったら、一緒に考えましょう」
「今のうちに言っておく。俺は嫌にならないよ」
創は璟瑶を真っ直ぐ見つめた。
「俺は頭取だから付き合っているわけじゃない。最初は正体を知らず、綺麗な中国人女性だと思っていた」
「お姉さんではなく?」
「そこ、気にする?」
「少しだけ」
「傘を貸して、中華料理店で再会して、好きになった。そのあとで頭取だと知った」
創は彼女の手を強く握った。
「俺が好きなのは、青嶺中央銀行頭取じゃない。欧陽璟瑶だよ」
璟瑶の目が僅かに揺れた。
「四十五歳の私へ、そんなに真っ直ぐ言わないで」
「どうして?」
「嬉しいから」
「じゃあ、もっと言う。璟瑶が好き。大好きだよ」
「もう……」
璟瑶は創へ身体を寄せた。
「んっ……」
重なった唇は、最初は短く触れるだけだった。
一度離れると、璟瑶は創の頬を両手で包む。
「明日からは、頭取と行員ね」
「でも今夜だけじゃない。家でも、休日でも、銀行を出たら恋人だろ?」
「ええ。ずっと恋人よ」
創は璟瑶の腰へ腕を回した。
「なら今も、恋人」
「うん……」
「んっ……ん……」
二度目のキスは、互いの気持ちを確かめるように長く続いた。
璟瑶の腕が創の背中へ回り、二人の身体が隙間なく近づく。唇が離れても、吐息が触れるほどの距離から動かなかった。
「これは明日から、銀行では絶対にできないね」
「当たり前でしょう。廊下も、エレベーターも、頭取室も絶対禁止よ」
「じゃあ、できるのはここだけ?」
「ええ。ここだけ」
今度は璟瑶から唇を重ねる。
「んっ……」
創も自然に彼女を抱き寄せた。
一度離れては、また重なる。
「んっ……ん……」
短く、そして長く。何度も濃厚なキスを交わし、二人は入行前最後の夜を惜しむように抱き合った。
「今日、キスが多くない?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「なら、いいでしょう?」
璟瑶が再び近づく。
「んっ……」
唇を離した創は、少し息を整えながら尋ねた。
「四十五歳って、こんなに積極的なの?」
「人によるわ」
「璟瑶は?」
「創だからよ」
「それ、反則だろ……」
璟瑶は創の胸元へ額を預けた。
◇◇◇
「私も、少し怖いの」
璟瑶が小さな声で打ち明けた。
「創が本当に私の銀行へ来ることは嬉しい。でも、私のせいで余計な目を向けられたり、傷ついたりしないか不安なの」
「璟瑶との交際が、俺の邪魔になるかもしれないって?」
「ええ」
創は抱きしめる腕に力を込めた。
「青嶺中央銀行を受けたことも、入行を決めたことも、璟瑶と付き合うと決めたことも、全部俺が決めたことだよ」
「創……」
「だから、一人で責任を感じないで。今は頭取じゃなくて俺の彼女なんだから、少しくらい頼ってよ」
「二十一歳のくせに、たまに格好いいことを言うのね」
「たまにじゃなく、毎回にして」
「それは無理」
二人は笑い合い、そのまましばらく抱き合っていた。
明日からは、頭取と若手行員という肩書が二人の間に入る。
だから今だけは、何も考えず、ただ好きな人の温もりを感じていた。
◇◇◇
午後十一時頃、二人は決めたルールをもう一度確認した。
「銀行では頭取と行員」
「はい」
「呼び方は、頭取と宮嶋さん」
「はい」
「私的な接触や連絡は禁止」
「はい」
「配属、給与、評価、昇進への特別扱いは?」
「一切なし」
「恋人なのに?」
創がわざと尋ねると、璟瑶は迷わず答えた。
「恋人だからこそ」
「その答え、好きだな」
創はメモを閉じ、璟瑶を見つめた。
「明日、銀行では頭取」
「あなたは宮嶋さん」
「でも、この家では?」
「私は璟瑶。あなたは創」
「ずっと?」
「ずっとよ」
「璟瑶、大好き」
「私も大好きよ、創」
再び二人の唇が重なる。
「んっ……」
一度離れたあと、創は璟瑶を強く抱き寄せた。
「んっ……ん……」
長いキスを交わしながら、明日からも二人の気持ちは変わらないことを確かめ合った。
◇◇◇
午前零時前。
玄関で帰ろうとした璟瑶は、扉を開ける前に振り返った。
「創。最後にもう一度」
璟瑶から創を抱きしめる。
「明日から、銀行ではこれは禁止よ」
「分かってる。だから今だけ」
「好きよ、創」
「俺も好きだよ」
「んっ……」
短いキスのあと、璟瑶はもう一度唇を重ねた。
「んっ……ん……」
「最後って、一回じゃないの?」
「気が変わったの」
創からも三度目のキスをする。
「んっ……」
唇を離した二人は、額を触れ合わせた。
「おやすみ、創」
「おやすみ、璟瑶」
璟瑶は一歩離れ、頭取の表情へ戻った。
「明日、青嶺中央銀行本店でお待ちしています、宮嶋さん」
創も姿勢を正す。
「よろしくお願いいたします、頭取」
「合格」
二人は最後に笑い合い、璟瑶は部屋をあとにした。
◇◇◇
一人になった創は、入行案内をもう一度確認した。
翌日、最終候補六名から選ばれた三名のキャリア採用者が、青嶺中央銀行本店へ集まる。
二十一歳の宮嶋創と、まだ名前も顔も知らない男性一名、女性一名。
そして式典の壇上には、今夜まで何度も唇を重ねて抱き合った恋人が、青嶺中央銀行頭取として立つ。
銀行内では完全な他人。
「お疲れさまです、頭取」
「お疲れさま、宮嶋さん」
ただそれだけ。
しかし銀行を出れば、二人は再び創と璟瑶へ戻る。
頭取と若手行員。
そして、二十四歳差の秘密の恋人。
二つの関係を同時に抱える二人の新しい日常が、いよいよ始まろうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、創と璟瑶が青嶺中央銀行で同じ職場になる前夜を描きました。
翌日のスーツ。
社員証関係書類。
退職証明書。
雇用保険や源泉徴収票。
筆記用具。
入行案内。
すべてを確認し、創の準備は完了。
そして、その確認を誰より細かくしてくれたのが――青嶺中央銀行頭取であり、二十四歳年上の恋人でもある欧陽璟瑶でした。
「忘れ物ない?」
「母親みたいに言わないで」
「二十四歳年上だからね」
そんな二人らしいやり取りから始まりましたが、今回最も重要だったのは、翌日から守ることになる二人だけのルールです。
銀行では、
「お疲れさまです、頭取」
「お疲れさま、宮嶋さん」
それだけ。
頭取室へ個人的に会いに行くこともできない。
勤務中の私的なメッセージも禁止。
璟瑶は創の配属、人事評価、給与、昇進へ一切介入しない。
創が失敗すれば、一人の行員として扱う。
恋人だから甘くするのではなく――。
「恋人だからこそ」
特別扱いをしない。
その決意は、最終面接まで創を自力で進ませた璟瑶らしい考え方でもあります。
一方で、銀行を離れれば二人の関係は変わりません。
「創」
「璟瑶」
そう呼び合える場所では、これまで通り恋人。
だからこそ入行前最後の夜は、何度もキスをして、抱きしめ合い、これから始まる新しい生活への不安も二人で確かめ合う時間になりました。
そして最後。
「明日から銀行では私を何て呼ぶ?」
「頭取」
「合格」
いよいよ次回、第10話。
青嶺中央銀行、入行式当日。
最終候補六名から内定を勝ち取った三名が、本店へ集まります。
宮嶋創、二十一歳。
そして、創と同期になる男性一名、女性一名。
三人が初めて顔を合わせる中、入行式の壇上へ現れるのは――。
昨夜まで創の家で恋人として過ごしていた、青嶺中央銀行頭取・欧陽璟瑶。
家では恋人。
銀行では完全な他人。
二人の新しい銀行生活が、いよいよ始まります。




