第10話「入社式――最終候補六人から選ばれた三人、そして“恋人”は壇上の頭取」
今回は、いよいよ宮嶋創が青嶺中央銀行へ正式に入行する日です。
東都共栄銀行を退職し、約二か月半の休養期間を経て迎えた新しい銀行員人生の初日。
キャリア採用・若手金融人材コース。
最終面接まで残ったのは六名。
宮嶋創。
黒瀬颯真。
水無瀬琴葉。
片桐悠斗。
早瀬美月。
成瀬航平。
そこから正式に内定を勝ち取ったのは、わずか三名でした。
二十一歳で東都共栄銀行・城東支店から転職した宮嶋創。
京浜栄信銀行・横浜法人営業部で五年間、法人融資に携わってきた二十七歳の黒瀬颯真。
日栄未来銀行・個人金融部資産運用課で四年間、資産運用や相続、富裕層対応を経験してきた二十六歳の水無瀬琴葉。
年齢も、前職も、得意分野もまったく違う三人が、今日から「同期」として同じスタートラインに立ちます。
そして創が初めて手にする、
「青嶺中央銀行 宮嶋創」
と記された社員証。
十八歳から働いてきた東都共栄銀行の行員ではなく、今日から本当に青嶺中央銀行員になったことを実感する瞬間です。
しかし――。
創にとって今回の入行式には、普通の新入行員には絶対にない緊張があります。
昨夜まで創の家で一緒に夕食を食べ、抱きしめ合い、何度もキスをしていた恋人・欧陽璟瑶。
その彼女が、今朝は入行式の壇上に立つ「青嶺中央銀行頭取」として現れます。
家では「璟瑶」。
銀行では「頭取」。
昨夜決めた二人だけのルールが、ついに現実になる最初の日です。
銀行では完全に頭取と行員。
銀行を出れば二十四歳差の恋人。
この作品の大きな軸となる二重生活が、いよいよ始まります。
午前五時五十分。
宮嶋創は、目覚まし時計が鳴る直前に目を覚ました。
今日は東都共栄銀行へ出勤する朝でも、二か月半の休養期間でもない。
二十一歳の創が、青嶺中央銀行の行員になる日だった。
「……今日からか」
昨夜まで部屋には欧陽璟瑶がいた。
二人で夕食を食べ、銀行内で守るルールを決め、何度も抱きしめ合って濃厚なキスを交わした。
だが今日から、銀行内で彼女を「璟瑶」とは呼べない。
「……頭取」
鏡に向かって練習してみるが、まだ違和感があった。
創は用意していた濃紺のスーツへ着替え、提出書類や筆記用具を改めて確認した。
「全部ある……よし」
東都共栄銀行で三谷主任から繰り返し教えられた確認の習慣は、新しい銀行へ移っても身体に染みついていた。
午前七時、創は自宅を出た。
◇◇◇
同じ頃、青嶺中央銀行本店四十二階の頭取室では、璟瑶がすでに仕事を始めていた。
「八時四十分から、キャリア採用者入行式です」
第一秘書・劉川景仁の報告を聞きながら、璟瑶は第二秘書・水城絢乃が用意した三名の資料を確認した。
一人目は、宮嶋創、二十一歳。
東都共栄銀行・城東支店で約四年間、預金や為替、諸届、法人営業同行、後輩指導などを経験している。
二人目は、黒瀬颯真、二十七歳。
京浜栄信銀行・横浜法人営業部で五年間、中小企業への設備・運転資金融資や財務分析を担当してきた。
三人目は、水無瀬琴葉、二十六歳。
日栄未来銀行・個人金融部資産運用課で、投資信託、保険、相続、資産承継、富裕層対応を経験。証券外務員一種やFP二級などの資格も持っている。
最終候補六名から選ばれた、異なる強みを持つ三人だった。
「頭取、入行式の訓示はこちらでよろしいでしょうか?」
劉川から原稿を受け取った璟瑶は、最後に一文を書き加えた。
『私たちは数字を扱います。しかし、その数字の先には必ず人がいます』
「頭取らしいお言葉ですね」
「……そうかしら」
その言葉を最初に自分へ教えたのが、今日入行する二十一歳の青年だとは、誰も知らなかった。
◇◇◇
午前八時十分。
創は青嶺中央銀行本店の前に立った。
最終面接の際にも訪れていたが、今日は応募者ではなく入行者として、この建物へ入る。
「今日から、ここで働くんだ……」
受付で本人確認を済ませ、一時入館証を受け取った創は、二十八階の人事部へ向かった。
入行者受付で待っていたのは、人事部キャリア採用課長・白河芙美香だった。
「宮嶋創さんですね。電話ではお話ししましたが、直接お会いするのは初めてですね」
「はい。内定のご連絡をいただき、ありがとうございました」
「今日からよろしくお願いします」
提出書類に不備がないことを確認した白河は、一枚のカードを差し出した。
『青嶺中央銀行』
『人事部付・キャリア採用研修員 宮嶋創』
創の顔写真が入った社員証兼入館証だった。
「本日から使用してください。紛失した場合は、直ちに人事部とセキュリティ担当へ申告すること」
「承知しました」
創は両手で社員証を受け取った。
「……本当に入ったんですね」
「実感しましたか?」
「はい」
「今日から宮嶋さんも、青嶺中央銀行の一員です」
創は社員証を首から下げ、改めて頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
◇◇◇
そこへ、背の高い男性が現れた。
「キャリア採用の受付はこちらですか?」
「はい。お名前をお願いします」
「黒瀬颯真です」
書類を提出した黒瀬は、創を見て笑顔で手を差し出した。
「もしかして同期? 俺は黒瀬颯真、二十七歳」
「宮嶋創です。二十一歳です」
「二十一歳!?」
予想以上に驚かれ、創は苦笑した。
「高卒で十八歳から東都共栄銀行に勤めていました」
「若いけど、銀行経験は約四年あるのか。俺は京浜栄信銀行で法人融資を五年やってた」
「設備資金や財務分析も?」
「そればっかりだったよ。でも今日からは、同じ一年目だ」
さらに数分後、落ち着いた雰囲気の女性が到着した。
「本日入行予定の水無瀬琴葉と申します」
受付を終えた水無瀬は、創の年齢を聞いて僅かに目を見開いた。
「最終面接の待機室で名前を見ました。二十一歳だったので、どのような人なのか気になっていました」
「普通の銀行員ですよ」
「普通の二十一歳は、青嶺中央銀行のキャリア採用最終面接まで残らないと思います」
水無瀬は日栄未来銀行で資産運用や相続相談を担当し、複数の資格を持っていた。
「俺たち同期、かなり強くない?」
黒瀬の言葉に、創は少し不安になる。
「自分が一番弱い気がしてきました」
「そんなことはありません」
水無瀬が即答した。
「宮嶋君には、十八歳から現場で積んだ経験があります。それぞれ違う分野を教え合えばいいと思います」
「決まりだな。同期三人で研修を乗り切ろう」
年齢も前職も経験も違う三人は、この日から同期となった。
◇◇◇
午前八時半。
白河課長は三人を小会議室へ案内した。
「最終面接まで進んだのは六名。その中から採用されたのが、皆さん三名です」
宮嶋創は若さと支店実務経験、顧客志向。
黒瀬颯真は法人融資実務と財務分析能力。
水無瀬琴葉は資産運用や相続対応の経験、継続的な資格取得。
「皆さんは、互いに競争相手であると同時に同期です。それぞれの強みを活かして協力してください」
三人は揃って返事をした。
続いて、前職の顧客情報や内部資料、営業戦略を持ち込んではならないこと、社員証や端末、印刷物を厳格に管理することが説明された。
「前職の経験は活かしてください。しかし、前職の秘密を利用してはいけません」
「承知しました」
銀行が変わっても、信用と確認を大切にする基本は同じだった。
◇◇◇
午前八時四十分。
入行式が始まった。
壇上には、白河課長、人事担当役員の長谷部章一、御子柴専務、久世副頭取が並んでいる。
中央の頭取席だけが空いていた。
誰が座るのか、創には分かっていた。
長谷部は、経験者だからこそ前職の常識を一度疑い、新しい環境で学ぶ姿勢を持つよう伝えた。
御子柴専務は、不正や情報漏洩、軽率な判断が銀行全体の信用を傷つけると厳しく説いた。
久世副頭取も告げる。
「最初から完璧な人はいません。しかし、分かったつもりになることが最も危険です。必ず確認してください」
(やっぱり、どこの銀行でも確認なんだな)
創は三谷主任の教えを思い出した。
そして最後に、白河課長が壇上中央へ視線を向けた。
「青嶺中央銀行頭取・欧陽璟瑶より、訓示を申し上げます」
側面の扉が開き、濃紺のスーツに役員徽章をつけた璟瑶が入ってきた。
昨夜まで創の部屋で恋人として過ごしていた女性とは、まるで空気が違う。
役員と入行者全員が起立した。
「おはようございます」
「おはようございます」
創もほかの二人と同じように深く頭を下げた。
璟瑶は創だけを特別に見ることなく、三人へ平等に視線を向けた。
「本日より、皆さんは青嶺中央銀行の行員です。入行おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「皆さんがこれまで勤めてきた銀行、担当業務、学歴、年齢は、それぞれの大切な経歴です。しかし、今日から問われるのは、青嶺中央銀行で何をするかです」
経験が足りなければ学び、知識が足りなければ身につける。失敗は隠さず報告し、分からないことは確認する。
そして璟瑶は、創が待っていた言葉を口にした。
「銀行は数字を扱う仕事です。しかし、その数字の先には必ず人がいます」
創の目が僅かに大きくなる。
「預金の先には、その人が積み重ねてきた生活があります。住宅ローンの先には家族がいて、法人融資の先には経営者や従業員、取引先、その家族がいます」
雨の日、創が一人の中国人女性へ話した言葉だった。
「数字だけを見て、人を見失ってはいけません。同時に、同情だけで数字を見失うことも許されません。銀行員には、その両方を見る責任があります」
そして三人を見渡した。
「今日から皆さんは、青嶺中央銀行の名前を背負います。一人ひとりの行動が、この銀行の信用になることを忘れないでください」
「ありがとうございました」
創は恋人ではなく、青嶺中央銀行頭取へ深く頭を下げた。
◇◇◇
続いて三人へ辞令が交付された。
「宮嶋創さん」
「はい」
「本日付をもって、青嶺中央銀行人事部付キャリア採用研修員を命ずる」
「ありがとうございます」
辞令を受け取った創に続き、黒瀬と水無瀬にも同じ辞令が渡された。
こうして三人は、正式に青嶺中央銀行の行員となった。
◇◇◇
午前九時十五分、入行式が終わった。
「緊張したな……」
会場を出た黒瀬が大きく息を吐いた。
「実際に見ると、欧陽頭取は空気を変える人だな」
「分かります。四十五歳で青嶺中央銀行の頭取ですから」
水無瀬も同意する。
創は心の中で思った。
(昨日、俺の部屋で一緒に卵焼きを食べて、何度もキスしていたんだけどな……)
もちろん、口に出せるはずがない。
「宮嶋君はどう思った?」
「かなり緊張しました」
「頭取が『数字の先には人がいる』と言ったとき、少し驚いていなかった?」
水無瀬の鋭い指摘に、創は慎重に答えた。
「自分も以前から、似たことを考えていたので」
「いい考え方だと思います」
黒瀬は法人融資、水無瀬は資産運用の経験から、数字の向こうにいる企業や顧客の目的を見ることが大切だと語った。
「本当に、いい同期になれそうだな」
「まだ初日ですよ」
三人は笑い合った。
◇◇◇
そのとき、廊下の向こうから璟瑶が秘書や行員たちを伴って歩いてきた。
三人は姿勢を正す。
創は昨夜決めたルールを思い出した。
「お疲れさまです、頭取」
璟瑶は足を止めず、ほかの二人と同じ表情で創を見る。
「お疲れさまです。宮嶋さん、本日から研修ですね」
「はい」
「しっかり学んでください」
「承知いたしました」
続いて黒瀬と水無瀬にも声をかける。
「三人とも期待しています」
「ありがとうございます」
それだけで、璟瑶は通り過ぎた。
創も璟瑶も、振り返らない。
「さすが頭取だな。宮嶋君も緊張した?」
「かなり」
「でも、ちゃんと『頭取』って呼べてたじゃん」
「昨日、家で練習したから」
「一人で?」
「……まあ」
実際には、本人を相手に練習していた。
昨夜、その頭取が創の部屋で夕食を食べ、濃厚なキスを交わし、「おやすみ、創」と囁いていたことなど、二人の同期は知らない。
◇◇◇
午前九時半。
三人は、これから三か月間を過ごす本店研修センターへ入った。
創は首から下げた社員証を、もう一度見つめた。
『青嶺中央銀行 宮嶋創』
東都共栄銀行で約四年間、銀行員としての基礎を学び、二か月半の休養を経て、今日から新しい銀行員人生が始まった。
隣には法人融資経験を持つ黒瀬颯真。
もう一人は資産運用経験を持つ水無瀬琴葉。
そして四十二階には、昨日まで自分を「創」と呼んでいた恋人が、青嶺中央銀行頭取としている。
銀行では、完全な他人。
創は「頭取」と呼び、璟瑶は「宮嶋さん」と呼ぶ。
しかし銀行を出れば、二人は再び二十四歳差の恋人へ戻る。
頭取と若手行員。
そして、誰にも言えない恋人同士。
二人の新しい日常が、この日から始まった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ついに宮嶋創が、青嶺中央銀行員として最初の日を迎えました。
最終候補六名。
その中から採用されたのは三名。
一人目は、東都共栄銀行・城東支店で十八歳から約四年間働いてきた宮嶋創。
二人目は、京浜栄信銀行・横浜法人営業部・法人営業第二課で、中小企業融資や設備資金、運転資金、財務分析などを経験してきた黒瀬颯真。
三人目は、日栄未来銀行・個人金融部資産運用課で、投資信託、NISA、保険、相続相談、資産承継、富裕層対応を経験してきた水無瀬琴葉。
それぞれ異なる強みを持つ三人が、今日から同期になりました。
特に創にとって大きかったのは、新しい社員証を受け取った瞬間です。
「青嶺中央銀行 宮嶋創」
東都共栄銀行を退職した時には社員証を返却し、最初の銀行員人生が終わったことを実感しました。
そして今度は、新しい社員証を手にしたことで、青嶺中央銀行での人生が本当に始まったことを実感します。
さらに入行式。
人事部キャリア採用課長・白河芙美香。
人事担当役員・長谷部章一。
専務取締役兼人事担当・御子柴泰成。
副頭取・久世宗一郎。
そして最後に現れたのは――。
青嶺中央銀行頭取・欧陽璟瑶。
昨夜まで創の家にいた「恋人」とはまったく違う、銀行経営者としての璟瑶でした。
「本日より、皆さんは青嶺中央銀行の行員です」
そして今回、創にとって特別な意味を持ったのが、
「私たちは数字を扱います。しかし、その数字の先には必ず人がいます」
という璟瑶の言葉。
第0話。
二人が初めて出会った雨の日。
まだ創が璟瑶の正体を何も知らなかった頃に語った、
「お金の向こうには人の生活がある」
という創自身の銀行員としての考え方。
それが今度は青嶺中央銀行頭取の言葉となって、新しく入行した三人へ伝えられました。
そして入行式終了後。
ついに訪れた、昨夜決めたルールを実践する瞬間。
「お疲れさまです、頭取」
「お疲れさまです、宮嶋さん」
それだけ。
振り返らない。
特別な目線も送らない。
昨夜、抱きしめ合い、何度もキスをしていた二人とは誰にも分かりません。
黒瀬も水無瀬も当然知りません。
昨夜、その頭取が創の一LDKの家にいたことなど。
そしてここから物語は、本格的な「青嶺中央銀行編」へ入ります。
銀行では頭取と行員。
銀行を出れば二十四歳差の恋人。
宮嶋創と欧陽璟瑶。
二人の誰にも言えない職場恋愛が、ここから本当の意味で始まります。




