第86話「右左折より難しい?――二十一歳の銀行員、教習所で確認しすぎる」
第86話です。
今回は、創の教習3回目をかなり濃く描きます。
右左折、一時停止、巻き込み確認、優先関係、坂道発進など、前回より一気に覚えることが増えていきます。
慎重さは創の長所ですが、確認しすぎて判断が遅れる場面も。
長瀬先生から改めて教えられるのは、
「確認したら、判断して動く」
ということ。
一方、休日の黒瀬は高校時代の友人たちとお台場・秋葉原へ。
琴葉も中学・高校時代の友人たちと原宿・表参道へ出かけ、それぞれの休日を楽しみます。
銀行を離れた三人の違った一日も合わせてお楽しみください。
土曜日。
午前七時四十八分。
東京都世田谷区、成城。
新居。
『右、左、後方……合図を出して、もう一回確認』
「創」
『ん?』
「朝ご飯、冷めるよ」
『……はい』
ダイニングテーブルの上で教本を開いたまま、宮嶋創・二十一歳は右左折の手順を復習していた。
向かいに座る欧陽璟瑶・四十五歳が、呆れたように笑う。
「今日は銀行、休みなのに。朝から勉強?」
『入校して三回目だから』
「三回目だから?」
『前回、初めて運転しただろ。発進と停止と外周だけで、かなり大変だった』
「今日は何をするの?」
『右左折、交差点、一時停止、坂道。それ以外も教本を見たら増えた』
「教本を見ても、教習内容は増えないでしょう?」
『俺の中では増えた』
璟瑶は味噌汁を一口飲んだ。
創の左手は教本を押さえている。その薬指には、シンプルな結婚指輪があった。
今日は休日。
銀行へは行かないため、外す必要がない。
「今日は指輪、つけていくんだね」
『休日だから』
「教習所で誰かに聞かれたら?」
『結婚してますって言う』
「私のことは?」
『言わない』
「青嶺中央銀行の頭取だってことは?」
『絶対に言わない』
「妊娠は?」
『言わない』
「双子は?」
創がわずかに止まった。
『長瀬さんには前回、子どもが生まれるって話した。双子かって聞かれたから、そこだけは答えた』
「それくらいならいいか」
『名前も年齢も仕事も、何も言ってない』
「分かってる」
創はようやく教本を閉じ、朝食へ箸を伸ばした。
『今日、俺、多分かなり注意される』
「多分大丈夫」
『その“多分大丈夫”は禁止』
「長瀬先生に?」
『俺にも』
璟瑶が笑う。
「頑張って。いってらっしゃい」
『行ってきます』
「まだ一時間以上あるよ」
『気持ちだけ先に』
「銀行へ行く時より緊張してない?」
『してる』
「そんなに?」
『銀行員は四年近くやってる。車を運転した時間は、まだ一時間にもなってない』
「それなら、仕方ないね」
銀行員としては、もう新人とだけ呼ばれる時期を抜けつつある。
けれど、運転席では完全な初心者だった。
――午前八時五十五分。
成城中央自動車学校。
土曜日のロビーは、平日の夜より人が多かった。
高校生、大学生、会社員、子育て中らしい人。年齢も立場も違う人たちが、同じ教本や教習原簿を持って待っている。
受付を済ませた創が待合席に座ると、隣の若い男性が教本を見ながらため息をついた。
「S字、無理だろ……」
創が思わず顔を向ける。
相手はすぐに気づいた。
「あ、すみません。独り言です」
『いえ。俺もよく言います』
「今日、何回目ですか?」
『入校して三回目です。技能は二時限目』
「近いですね。俺は技能三時限目です」
男性は少し笑った。
「河合悠斗、二十二歳です」
『宮嶋創、二十一歳です』
「学生?」
『銀行員です』
「二十一で?」
『高校を卒業してから働いてます』
「すごいな」
そこへ、近くにいた女性が会話に加わる。
「初心者同士?」
一ノ瀬結菜・十九歳。大学一年生。
「私も今日、技能三時限目」
河合が尋ねる。
「今日は何をやる予定?」
「右左折、一時停止、坂道だった気がする」
『俺も同じです』
少し離れた席から、佐原海斗・二十五歳も顔を上げた。
「俺は四時限目だけど、坂道で止まった時、すごく緊張した」
創がすぐに反応する。
『後ろに下がります?』
「ATなら、教わったとおりに操作すれば簡単には下がらない。でも気持ちの中では百メートルくらい下がった」
一ノ瀬が顔をしかめる。
「それ、怖い」
安西美咲・三十二歳が笑った。
「大丈夫ですよ。教官が横にいますし、補助ブレーキもありますから。私も昨日やりました」
『それを聞くと、少し安心します』
さらに、制服姿の西野蓮・十八歳が遠慮がちに口を開く。
「俺は今日、初めての技能です」
河合が創を見る。
「じゃあ宮嶋さんが先輩だ」
『一時限分だけです』
「十分です」
『前回、二十キロで速いって言いましたけど』
全員が笑った。
一ノ瀬が頷く。
「分かる。私も最初、二十キロで速いと思った」
「俺はハンドルが戻らなくて焦った」
河合も続ける。
安西が周囲を見渡した。
「みんな最初は何かありますよ。だから教習所に来るんです」
知らない者同士。
年齢も仕事も違う。
それでも、全員が初心者だった。
それだけで会話ができる。
創の緊張も、少しだけ薄れた。
一ノ瀬が、ふと創の左手を見る。
「宮嶋さん、結婚してるんですか?」
『あ……はい』
「二十一歳で?」
河合が目を丸くする。
『はい。よく早いって言われます』
安西が尋ねた。
「奥さんは免許を持ってる?」
『持ってます』
「じゃあ、免許を取った後は練習に付き合ってもらえますね」
『そうですね』
佐原が興味を示す。
「奥さん、何歳?」
『そこは秘密で』
「意味深だな」
一ノ瀬が笑う。
『普通です』
もちろん、普通ではない。
妻は青嶺中央銀行頭取、欧陽璟瑶・四十五歳。
しかも、双子を妊娠している。
この場にいる誰一人、想像できるはずがなかった。
――午前九時二十八分。
「宮嶋さん」
呼ばれて顔を上げる。
担当指導員、長瀬孝弘・四十六歳が立っていた。
「二時限目、行きますよ」
『お願いします』
一ノ瀬が手を上げる。
「頑張ってください」
『そちらも』
河合が真剣な顔で言う。
「坂道から生還して」
『戦場じゃないです』
先ほどより軽くなった足取りで、創は教習車へ向かった。
――午前九時三十二分。
「乗る前に、何をします?」
教習車の横で長瀬が尋ねる。
『車の周囲を確認します。前後左右、車体やタイヤの近くに人や障害物がないかを見る』
「はい。では、実際に」
創は車の周囲を一周した。
人はいない。障害物もない。タイヤにも見て分かる異常はない。
『確認しました』
「では乗ってください」
『はい』
運転席に座る。
前回よりは、少しだけ自然に身体が動いた。
シートの前後位置。
背もたれ。
ヘッドレスト。
ブレーキをしっかり踏めるか。
ハンドルを握った時に腕が伸び切っていないか。
シートベルト。
ルームミラー。
ドアミラー。
一つずつ合わせていく。
「前回より速いですね」
『家で復習しました』
「実車なしで?」
『椅子に座って』
「真面目ですね」
『悪いですか?』
「悪くありません。ただ、今日は確認することが増えます」
『覚悟してます』
「覚悟しすぎると、またハンドルを握り締めますよ」
『……気をつけます』
エンジンを始動する。
長瀬が前を見たまま説明した。
「今日は、右左折、一時停止、交差点、坂道を中心にやります。最初は合図と進路変更です」
『はい』
「合図を出すだけでは足りません。ミラー、合図、目視。必要な場所を見て、安全なら動く」
『はい』
「では、発進してください」
創はルームミラーを見る。
ドアミラー。
右後方を目視。
念のため左も見て、もう一度後ろを――。
「宮嶋さん」
『はい』
「今、確認に何秒かけました?」
『五秒くらいですか?』
「もっとです。その間にも状況は変わります」
『……はい』
「全部を何度も見るのではなく、必要なものを順番に見る。見終わったら判断する。安全なら動く」
『分かりました』
「もう一度」
創は呼吸を整えた。
ルームミラー。
ドアミラー。
合図。
目視。
『安全を確認しました』
「では発進」
ブレーキを緩め、アクセルを軽く踏む。
教習車が前へ進んだ。
「今の流れはいいです」
『よかった』
「まだ始まったばかりです」
『分かってます』
――午前九時四十一分。
外周を一度走った後、長瀬が指示する。
「次の交差点を左折します」
『はい』
「左折で大切なことは?」
『左へ寄せる。合図。減速。歩行者と自転車。巻き込み確認』
「今度は一度に出ましたね」
『朝、復習したので』
「では、言葉だけで終わらせずにやりましょう」
創はミラーを確認し、合図を出した。
左側を目視してから、車体をゆっくり左へ寄せる。
「寄せ方を、もう少し滑らかに」
『はい』
「交差点が近づきます。減速」
ブレーキを踏む。
「横断歩道、歩行者、自転車」
『いません』
「巻き込みをもう一度」
創はミラーを見て、肩越しにも確認した。
その間に教習車の速度はさらに落ち、ほとんど止まりかける。
「宮嶋さん」
『はい』
「確認はできています。でも、確認することに集中して車が止まっています」
『……』
「安全は確認できましたか?」
『できました』
「なら動く」
『はい』
創は左折した。
ハンドル操作は前回より滑らかだったが、曲がった先で少し外側へ膨らむ。
「左折は大回りしない。視線を曲がった先へ」
『はい』
「もう一周やりましょう」
『お願いします』
二回目。
ミラー、合図、目視。
左寄せ。
減速。
横断歩道と巻き込みの確認。
安全を判断し、そのまま左折する。
「今のはいいです」
『本当ですか?』
「本当です」
『やった』
「喜ぶのは、右折が終わってからにしてください」
『ですよね』
――午前九時五十四分。
「次の交差点を右折します」
『はい』
合図を出し、中央へ寄せる。
対向車。
横断歩道。
右折先。
創は一つずつ確認する。
対向の教習車が一台近づいてきたため、停止した。
「待ちましょう」
『はい』
対向車が通過する。
創は右折先の横断歩道を見る。
歩行者はいない。
左を見る。
もう一度、対向車線を見る。
念のため右も――。
「宮嶋さん。今、行けました」
『え?』
「対向車はもういませんでした」
『でも、歩行者を確認してました』
「それは必要です。ただ、一つ確認して、次を確認して、また最初へ戻ったら、いつまでも右折できません」
『……』
「確認したら、判断して動く」
創が小さく呟く。
『確認はゴールじゃない。入口……』
「その言葉、何回目です?」
『今日だけなら三回くらいです』
「人生では?」
『もっとです』
「前の上司の影響、強いですね」
『はい』
「では今日は、入口から出口まで行ってください」
『はい』
もう一度、同じ右折へ入る。
対向車が通過する。
歩行者はいない。
自転車も来ていない。
右折先に障害物もない。
『行きます』
「どうぞ」
アクセルを軽く踏み、交差点の中心の内側を通るように右折する。
「今の判断は良かったです」
『確認して、判断して、動く』
「そうです」
――午前十時五分。
次は一時停止だった。
「標識は?」
『止まれ』
「停止線は?」
『あります』
「では停止してください」
創は速度を落とし、停止線の直前で完全に止まった。
「停止位置、問題ありません。そこから何をします?」
『前方と左右を確認します』
左右を見る。
しかし、交差道路は塀で見えにくい。
「見えますか?」
『見えにくいです』
「では?」
『徐行しながら、見える位置まで少し前へ出る』
「どうぞ」
創はごく低速で前へ出た。
左右を確認できる位置でもう一度安全を見る。
「安全を確認できましたか?」
『はい。進みます』
「そうです」
交差点を通過する。
「一時停止は、止まれば終わりではありません。見通しが悪いなら、安全に見える位置まで出て、もう一度見る」
『止まることがゴールじゃない』
「何でもその考え方につなげますね」
『使いやすいので』
優先関係の練習でも、同じだった。
どちらが優先か。
何を根拠に判断するか。
相手が止まってくれたとしても、他方向の安全まで保証されたわけではない。
創は一つずつ確認しながら、長瀬の問いに答えた。
けれど、答えが正しいだけでは車は進まない。
知識を使い、状況を判断し、自分で操作する。
それがまだ、創には難しかった。
――午前十時十九分。
教習車の前に坂道が現れる。
『……』
「顔が緊張しましたね」
『坂です』
「見れば分かります」
『後ろへ下がりませんか?』
「教わったとおり、落ち着いて操作してください」
『多分、大丈夫?』
「“多分”は使いません」
『ですよね』
坂の途中にある停止位置へ向かう。
アクセルを少し踏み増す。
「踏みすぎない」
『はい』
停止位置が近づく。
創は早めにアクセルを戻し、ブレーキを調整した。
前回より滑らかに止まる。
「いいですね」
『止まりました』
「次は発進です。AT車ですから、ブレーキからアクセルへ右足を移し、必要な力で踏みます。慌てなくていい」
『はい』
創は後方を確認した。
さらに右、左、また後方――。
「長いです」
『すみません』
「後ろは安全ですか?」
『はい』
「なら発進」
ブレーキを離し、アクセルを踏む。
車は後退せず、前へ進んだ。
『下がってない』
「きちんと操作しましたから」
『多分じゃなくて』
「はい」
坂を上り切る前に、長瀬が前方を指す。
「頂上の向こうは見えません。速度を落としてください」
『はい』
徐行で頂上を越える。
「下り坂は速度が出やすい。不要なアクセルは踏まない。ブレーキで調整する」
『はい』
創は慎重に速度を抑えながら、坂を下りた。
――午前十時二十九分。
「最後に一周します。今日やったことを一通り入れます」
『全部ですか?』
「全部です」
創は一度、大きく息を吐いた。
『分かりました』
発進。
外周。
左折。
巻き込み確認。
右折。
対向車との間隔。
一時停止。
見通しの悪い交差点。
優先関係。
坂道発進。
下り坂。
最初の一周より、動作は少しつながっていた。
右折では一度、判断が遅れた。
「今は行けました」
『はい』
「次に同じ状況が来たら、確認後に判断する」
『はい』
次の左折では、確認に時間をかけすぎなかった。
安全を見て、速度を保ったまま曲がる。
「今の左折は良かったです」
『少し分かってきました』
「何がです?」
『確認することと、止まることは同じじゃない』
「そうですね」
『確認した上で、安全なら動く』
「そのとおりです」
『仕事より難しい』
「銀行の仕事は、そんなに簡単なんですか?」
『簡単じゃないです』
「では、比較しない」
『はい』
――午前十時四十三分。
教習車を所定の位置に戻す。
Pレンジ。
パーキングブレーキ。
エンジン停止。
創は大きく息を吐いた。
『……疲れた』
「前回も言いましたね」
『前回より疲れました』
「考えることが増えましたから」
長瀬は教習原簿へ記入しながら振り返る。
「今日良かったのは、運転姿勢、発進、ブレーキ。前回よりかなり滑らかでした。左折も二回目以降は良かった。坂道も問題ありません」
『ありがとうございます』
「課題は右折と交差点。安全確認後の判断が遅れます」
『はい』
「確認は丁寧です。ただし、長い。一か所を見すぎれば、その間に別の危険を見落とします」
『はい』
「必要な場所を、必要なタイミングで見る。確認したら、判断して動く。これが今日の宿題です」
『分かりました』
「次回はS字とクランクに入るかもしれません」
『……』
「露骨に嫌そうな顔をしない」
『待合室で、S字は無理だって聞きました』
「誰から?」
『河合さんです』
「他人の不安までもらわないでください」
『はい』
――午前十一時二分。
技能教習の後、創は続けて学科を受講した。
担当は高梨浩平・五十一歳。
今日の内容は、信号、優先道路、横断歩道、緊急自動車、駐停車だった。
「赤信号は止まる。これは皆さん分かります。では、青信号なら必ず進まなければならないか。そうではありません」
前方が詰まり、進めば交差点内で停止する場合は、青でも進入しない。
青は安全の保証ではなく、進行できることを示す信号にすぎない。
横断歩道では、横断中または横断しようとしている歩行者がいれば、一時停止する。
サイレンが聞こえた時も、ただ慌てて止まるのではない。緊急自動車がどこから来るかを確認し、交差点を避けて進路を譲る。
創は昨夜、テレビの中で璟瑶が語っていた言葉を思い出した。
銀行は、数字だけを見ていては仕事にならない。
運転も、信号や標識だけを見ていればいいわけではない。
その向こうに、人がいる。
教本の規則は、その人を守るためにある。
創は熱心にノートを取った。
信号。
横断歩道。
緊急自動車。
駐車禁止と駐停車禁止の違い。
交差点、踏切、バス停、消防施設の周囲。
高梨が、前列の創を見る。
「全部書かなくても、教本に載っていますよ」
『……はい』
前回、長瀬にも同じことを言われた。
後ろに座る河合が小さく笑う。
「宮嶋さん、本当に真面目」
『聞こえてます』
教室に小さな笑いが起きた。
――その頃。
午前十一時十二分。
東京都江東区、お台場。
黒瀬颯真・二十七歳は、高校時代の仲間たちと合流していた。
須藤大輝・二十七歳。IT企業営業。
片桐翔太・二十七歳。自動車部品メーカー勤務。
三上蓮司・二十八歳。物流会社勤務。
長谷川拓真・二十七歳。公務員。
小泉直哉・二十六歳。広告会社勤務。
「全員揃うの、いつ以来?」
「黒瀬が転職してから初めてじゃない?」
「そうかも」
六人が向かったのは、ダイバーシティ東京 プラザ内のアミューズメント施設だった。
バスケットボール。
卓球。
バドミントン。
アーチェリー。
ローラースケート。
ボウリング。
始める前は全員、自分たちの体力を疑っていなかった。
一時間後には、誰が「全部やる」と言ったのか責任の押しつけ合いになった。
黒瀬がフリースローを三本続けて外す。
「銀行員!」
須藤が叫ぶ。
「金利は読めても、リングは読めない!」
「関係ない!」
ボウリングでは、黒瀬が百三十二、百四十九。
片桐がスコア表を見る。
「地味に強い」
「銀行員は関係ないからな」
三上が念を押す。
「今日は仕事の話、禁止」
「賛成」
黒瀬はスマートフォンをポケットへしまった。
今日は青嶺中央銀行の行員でも、キャリア採用者でもない。
ただ、昔からの友人たちの一人だった。
――午前十一時三十五分。
東京都渋谷区、原宿。
水無瀬琴葉・二十六歳も、昔からの友人たちと過ごしていた。
白鳥美月・二十六歳。アパレル会社勤務。
高野千尋・二十七歳。旅行会社勤務。
桜井菜々美・二十六歳。保育士。
藤原莉子・二十五歳。化粧品会社勤務。
「今日、パンケーキ何軒?」
菜々美が尋ねる。
美月が当然のように答えた。
「三軒」
「三軒?」
「小さいものを選ぶから」
「パンケーキに小さいってある?」
五人は笑いながら、一軒目の店へ入った。
スフレパンケーキを分け、写真を撮る。
話題は自然に仕事へ移った。
「琴葉、転職先はどう?」
「忙しいけど楽しいよ。前と違う仕事もできてる」
「今は何をしてるの?」
「個人営業企画。説明資料とか、FAQとか」
莉子が首を傾げる。
「銀行って、ずっと数字を見る仕事かと思ってた」
「数字も見るけど、言葉もかなり見るよ。同じ商品なのに、店頭と紙とアプリとWebで説明が微妙に違ったら、お客さまが迷うでしょう?」
千尋が笑う。
「琴葉、昔から説明文を直すの好きだったもんね」
「好きというか、気になるだけ」
「それを好きって言うんだよ」
昨日、欧陽崇岳前頭取へ話したこと。
今日、昔からの友人たちへ話すこと。
相手は違っても、琴葉が気にかけているものは同じだった。
顧客へ伝わる言葉。
誰かが迷わない説明。
仕事から離れた休日の会話にも、今の自分が自然に混ざっていた。
――午後零時二十二分。
成城中央自動車学校。
学科を終えた創がロビーへ戻ると、河合たちも集まっていた。
「どうだった?」
河合が尋ねる。
『技能と学科、両方終わりました』
「技能は?」
『確認しすぎて、左折する前に車が止まりました』
「俺はS字で脱輪しかけた」
『どっちがいいですかね』
「どっちもよくない」
一ノ瀬も戻ってくる。
「私は一時停止で、停止線より手前に止まりすぎた」
『みんな何かあるな』
安西が笑う。
「だから教習所なんですよ」
佐原も頷いた。
「最初から全部できるなら、習いに来る必要ないから」
『確かに』
西野が創へ尋ねる。
「宮嶋さん、坂道はどうでした?」
『下がらなかった』
「すごい」
『ATだから』
河合が笑う。
「そう言いながら、すごく嬉しそう」
『嬉しいよ』
「次はいつ?」
『来週』
「私も来週」
一ノ瀬が答える。
河合は明日も予約を取っているという。
運転はまだ怖い。
それでも、同じところで悩む人たちと話せるだけで、教習所へ来る時の緊張は少し軽くなった。
――午後一時三十分。
お台場で身体を動かした黒瀬たちは、そのままカラオケへ移った。
高校時代に流行した曲。
アニメの主題歌。
部活帰りによく歌った歌。
黒瀬が九十三点を出すと、須藤が悔しそうにマイクを置いた。
「今日、黒瀬の初勝利」
「ボウリングでも勝ってただろ」
「そうだった」
夕方には秋葉原へ移動した。
ゲームセンターでレースゲームをし、アニメショップを回る。
黒瀬はクレーンゲームの景品を見つめた。
「これ、甥っ子が好きそう」
五百円を入れる。
一回。
二回。
三回。
取れない。
片桐が横から言う。
「銀行員、損切りが大事」
「あと一回」
「できてないな」
四回目。
景品の箱が落ちる。
「取れた!」
黒瀬が思わず声を上げ、全員が笑った。
職場では見せない顔。
同期の創や琴葉も知らない顔。
それでも、どれも黒瀬颯真だった。
――午後二時十二分。
琴葉たちは二軒目のパンケーキを前にしていた。
そこで美月が唐突に尋ねる。
「彼氏は?」
「急だね」
「職場にいい人いないの?」
「いるけど、今はそういうの特にない」
「同期は?」
琴葉の頭に、黒瀬と創が浮かんだ。
「男の同期は二人。二十七歳と二十一歳」
「二十一?」
四人が同時に反応する。
「そこに食いつく?」
「若い。二十一歳で銀行員?」
「高校を卒業して、前の銀行で四年近く働いてるから」
「仕事できる?」
「できる。慎重すぎるくらい、何でも確認する」
美月が目を細める。
「琴葉、詳しいね」
「同期だから」
「彼女は?」
「いるよ。前の銀行にいた頃から付き合ってるって聞いてる」
もちろん、琴葉は知らない。
その“彼女”が、すでに妻になっていること。
相手が欧陽璟瑶頭取であること。
双子を妊娠していること。
何一つ知らないまま、創を慎重すぎる同期として語った。
その頃、その本人は教習所で確認しすぎを注意されていた。
――午後三時十九分。
成城。
新居。
『ただいま』
「おかえり」
璟瑶がリビングから玄関へ来る。
今日は二人とも、朝から結婚指輪をつけたままだった。
銀行から帰った日のように、指輪を戻す儀式はない。
けれど創は、それが少し嬉しかった。
「どうだった?」
『疲れた』
「運転した?」
『した』
「怒られた?」
『かなり注意された』
「銀行員の創より、教習生の創の方が怒られてる?」
『今は圧倒的に教習生』
「何を言われたの?」
『確認は丁寧。でも確認することに集中して、車が止まってますって』
璟瑶は数秒黙り、やがて口元を緩めた。
『笑うなよ』
「だって、創らしい」
『俺もそう思った』
「それで?」
『確認したら、判断して動く』
「確認は?」
『入口』
「また?」
『長瀬さんにも言われた』
璟瑶が笑う。
「三谷さん、教習所にいないのに、ずっといるね」
『頭の中にいる』
「少し怖い」
『いい意味で』
二人はソファへ移った。
「今日は何をしたの?」
『左折、右折、一時停止、見通しの悪い交差点、優先関係、坂道』
「全部できた?」
『一応』
「坂道、下がった?」
『下がってない』
「すごい」
『ATだから』
「でも初めてでしょう?」
『うん』
「なら、すごい」
創は少しだけ嬉しそうに笑った。
『今日、教習所で何人かと話した』
「友達?」
『まだ、そこまでは』
創は、河合悠斗、一ノ瀬結菜、佐原海斗、安西美咲、西野蓮のことを話した。
「いろんな年齢の人がいるんだね」
『うん』
「指輪、聞かれた?」
『一ノ瀬さんに』
「何て答えたの?」
『結婚してますって』
「妻は誰か聞かれた?」
『秘密』
「年齢は?」
『秘密』
「仕事は?」
『秘密』
「妊娠は?」
『秘密』
「双子は?」
『長瀬さんだけ知ってる』
「前回、話したんだよね」
『うん』
璟瑶は少し考えてから、面白そうに整理する。
「じゃあ教習所では、二十一歳の既婚銀行員」
『そうなる』
「銀行では?」
『彼女がいると思われてる若手行員』
「家では?」
『夫』
「これからは?」
創は璟瑶の腹部を見る。
普段着の上からでも、以前より丸みが分かる。
『父親』
「それから、運転手」
『家族専属?』
「それ、いい」
『長距離も?』
「行くって約束したでしょう?」
『した』
創はそっと腹部へ手を置いた。
『今日、坂道を上れたから』
「うん」
『四人でドライブする未来に、一歩近づいた』
――午後五時二十二分。
表参道。
三軒目のパンケーキを前に、琴葉たちは全員、少しだけ後悔していた。
「もう無理」
「三軒目を言い出したの誰?」
全員が美月を見る。
「ごめん」
それでも、小さめのリコッタパンケーキを五人で分けた。
「今日、何枚食べた?」
「数えない」
「カロリーが怖い?」
「現実を見たくない」
笑いながら店を出る。
次はパンケーキ以外にしようと決めた直後、美月が「じゃあクレープ」と言い、四人から同時に否定された。
黒瀬も琴葉も、それぞれ昔からの友人たちと休日を過ごした。
仕事を忘れて遊ぶ時間。
けれど、話し方や選ぶ言葉、誰かへの気遣いには、現在の自分が残る。
休日は仕事と無関係な空白ではない。
銀行員になる前の自分と、銀行員になった今の自分を、もう一度つなぎ直す時間でもあった。
――午後七時九分。
成城の新居。
夕食。
今日は璟瑶の体調も比較的安定していた。
二人は向かい合って食事をしながら、教習の話を続ける。
「巻き込み確認、難しい?」
『確認自体は難しくない。難しいのはタイミング』
「長く見すぎると?」
『前を見てない時間が増える』
「そうか」
『仕事なら、資料を一回見て、もう一度見直すこともできる。でも運転は動き続けてる。同じやり方じゃ駄目なんだ』
璟瑶が箸を置いた。
「創、今日少し成長したね」
『運転で?』
「考え方。慎重なのは変わってない。でも、慎重なら何でもいいわけじゃないって分かってきてる」
創は少し考える。
『東央精密も似てるかもしれない』
「案件の詳しい話はしない」
『一般論だけ』
「それなら」
『正式審査に入ったら、別の部署から質問が来た。自分では確認したつもりでも、違う視点がある』
「それはいい経験ね」
『うん。教習でも長瀬さんから、自分だけじゃ気づかない視点がいっぱい来る』
「怒られながら?」
『かなり』
璟瑶が笑う。
「銀行員の創と、教習生の創。今はどっちが大変?」
『教習生』
「即答」
『銀行は四年近くやって、少し慣れたから』
「でも四年前、銀行へ入った時も同じだったんじゃない?」
創の箸が止まる。
『……そうかも』
「じゃあ四年後には、普通に運転してるかもしれない」
『四年後、俺は二十五歳』
「私は四十九歳」
『双子は四歳くらい』
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
四年後。
運転席には創。
助手席には璟瑶。
後部座席には二つのチャイルドシート。
そこに座る二人には、もう名前があり、声があり、それぞれ違う表情がある。
「四年後、どこへ行ってるかな」
『いろんなところ』
「横浜?」
『湘南』
「箱根」
『軽井沢』
「もっと遠くも」
『俺がちゃんと運転できるようになってたら』
「なってるよ」
『多分?』
「それは禁止だった」
『うん』
「練習して、行けるようになろう」
『四人でな』
「うん。四人で」
――午後九時二十一分。
リビング。
創は再び教本を開いていた。
隣に座る璟瑶が、標識を指す。
「これは?」
『駐停車禁止』
「これは?」
『駐車禁止』
「これは?」
『一方通行』
「これは?」
『徐行』
「これは?」
『優先道路』
「これは?」
『璟瑶』
「何?」
『問題を出すの、楽しんでるだろ』
「少し」
『やっぱり』
璟瑶が笑い、ソファの背へ身体を預ける。
その動きがわずかに重く見えた。
創はすぐに教本から顔を上げる。
『疲れた?』
「少しだけ」
『横になる?』
「まだ大丈夫」
『無理するなよ』
「分かってる」
創は教本を閉じた。
『じゃあ今日は終わり』
「勉強、もういいの?」
『妻優先』
「教習所、落ちたら?」
『落ちないように明日やる』
「仕事は?」
『月曜日』
「いい答え」
創は璟瑶の肩をそっと抱いた。
お腹を圧迫しないように距離を調整する。
璟瑶が創の肩へ寄りかかる。
「今日、楽しかった?」
『教習?』
「うん」
創は少し考えてから答えた。
『怖かった』
「それは前回も聞いた」
『でも、前回より楽しかった』
「本当?」
『できることが増えたから』
「じゃあ、よかった」
『うん』
「次は何をするの?」
『S字とクランクかもしれない』
「難しそう」
『河合さんが、無理だって言ってた』
「じゃあ創も無理?」
『やる』
「即答」
『免許を取るって決めたから』
璟瑶が笑う。
「確認して」
『判断して』
「動く」
『うん』
今日、創は知った。
確認が多ければ多いほど安全、とは限らない。
一つの場所を長く見ている間にも、別の状況は変わる。
必要な場所を、必要なタイミングで確認する。
安全を確かめたら、判断する。
そして、動く。
三谷から教わった「確認はゴールじゃない。入口だ」という言葉。
銀行の仕事で受け取ったその意味が、運転を始めたことで、また少し広がった。
一方、同じキャリア採用の同期である黒瀬と琴葉は、それぞれ昔からの友人と笑っていた。
お台場と秋葉原。
原宿と表参道。
成城の教習所と新居。
三人は別々の休日を過ごしていた。
それでも、その時間はどれも現在へつながっている。
黒瀬は、銀行員になる前からの自分へ戻った。
琴葉は、昔から変わらない「伝わる言葉」への関心を確かめた。
創は、これから父親になる自分へ向かって、新しいことを学び始めた。
まだ場内… まだ二十キロ、まだ右左折。
それでも、止まったままではない。
『次も頑張る』
「うん」
『四人で、遠くまで行けるように』
「待ってる」
創は璟瑶の腹部へ目を向けた。
二人はまだ生まれていない。
返事もないけれど確かにそこにいて、
創が前へ進む理由になっている。
確認して… 判断して、動く。
父親になるための準備が、また一つ積み重なった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
創の3回目の技能教習では、右左折や一時停止、坂道発進など、運転らしい操作が一気に増えました。
特に今回の課題は「確認しすぎ」。
安全確認そのものは大切でも、確認したまま動かなければ運転はできません。
三谷から教わった「確認はゴールじゃない。入口だ」という言葉が、教習所でも別の意味を持ち始めています。
また、教習所では河合悠斗、一ノ瀬結菜、佐原海斗、安西美咲、西野蓮といった他の教習生とも少しずつ交流が始まりました。
一方で、黒瀬は高校時代の仲間たちとお台場から秋葉原へ。
琴葉も友人たちと原宿・表参道でパンケーキ巡り。
それぞれが銀行を離れ、普通の二十代として休日を過ごす一日でもありました。
次回、第87話。
璟瑶は妊娠中期二度目の再診へ。
双子はさらに成長し、少しずつ大きくなるお腹と、これからの働き方について高峰澪奈から改めて話を聞くことになります。




