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第85話「カメラが追う頭取――『経済最前線スペシャル』密着取材」


第85話です。


今回は、青嶺中央銀行に経済ドキュメンタリー番組の密着取材が入ります。


朝は新居に泊まった崇岳、美智子、雪瑶、玲瑶を含めた家族六人での朝食からスタート。


創が朝食を用意し、家族を見送った後、夫婦もそれぞれ銀行へ向かいます。


銀行では、地域銀行連携、事業承継、GX、DX、海外展開、金融教育、災害対策、そして大型融資案件まで、璟瑶が頭取として話せる範囲を詳しく説明。


もちろん、結婚と妊娠については完全非公開です。


一方の創は普段通り仕事を続け、昼休みには黒瀬と琴葉と社員食堂へ。


公の「頭取」と、家での「妻」。


その二つの顔がよりはっきり描かれる一話です。



 木曜日。午前五時五十八分。


 東京都世田谷区、成城の新居。


『……よし』


 宮嶋創は、エプロン姿でキッチンに立っていた。


 昨夜、この家には四人の家族が突然泊まることになった。


 欧陽崇岳・七十二歳。欧陽美智子・六十八歳。次女の欧陽雪瑶・四十二歳。そして三女の欧陽玲瑶・三十九歳。


 妻の欧陽璟瑶と創を合わせ、今朝は六人分の朝食が必要だった。


『六人で食べる朝飯を作るの、初めてだな』


 炊きたての白米。だし巻き卵。焼き鮭。小松菜のおひたし。豆腐とわかめの味噌汁。大根とにんじんを使った煮物。それにヨーグルトと果物。


 璟瑶の分だけは量を少なめにし、一度に無理をして食べなくて済むようにしている。


 ――午前六時十九分。


「……いい匂い」


 後ろから声がした。


『おはよう』


「おはよう」


 璟瑶は、ゆったりした部屋着姿で立っていた。


 仕事着ではないため、少しずつ大きくなっているお腹の丸みがよく分かる。


 創の視線が、無意識にそこへ向かった。


「また見た」


『何を?』


「お腹」


『見た』


「認めるのが早くなったね」


『毎日見てるから』


 璟瑶は笑い、創の隣に立った。


「何を作ってるの?」


『朝飯』


「それは見れば分かる」


『五人分を先に作って、最後に俺の分』


「最初から六人分と言えばいいのに」


『細かい』


「銀行員でしょう?」


『璟瑶も銀行員だろ』


「そうだった」


 璟瑶が鍋をのぞく。


「手伝う?」


『今日は座ってて』


「どうして?」


『朝から取材だろ』


「まだ大丈夫だよ」


『大丈夫だからって、朝から立ち続ける理由はない』


「……創」


『何?』


「最近、水城さんに似てきた」


『昨日、お義父さんにも似たようなこと言われた』


「全員、私に同じことを言う」


『それだけ心配されてるってこと』


「監視されてる気もする」


『管理』


「同じ」


『違う』


 二人は顔を見合わせて笑った。


 ――午前六時三十二分。


「おはようございます」


 最初に美智子が現れ、その後ろから雪瑶と玲瑶もダイニングへ入ってきた。


 最後に来た崇岳は、食卓とキッチンを見比べる。


「創」


『はい』


「これを全部、朝から作ったのか?」


『はい』


「銀行員を辞めて食堂を開く気は?」


『ありません』


「即答だな」


 雪瑶が食卓を見て感心する。


「本当にすごい。これ、全部六人分?」


『そうです』


「お姉ちゃん、毎日こんな朝食なの?」


「毎日ここまで品数は多くないよ。普段は二人だから」


 玲瑶がだし巻き卵をのぞき込む。


「形も綺麗」


 美智子も微笑む。


「創君、料理が上手なのね」


『一人暮らしが長かったので』


「味はどうかな」と崇岳。


『食べてから言ってください』


「そうする」


 ――午前六時四十七分。


 六人が食卓を囲む。


『いただきます』


「いただきます」


 崇岳は焼き鮭を一口食べた。


「うまい」


『ありがとうございます』


 美智子はだし巻き卵を味わう。


「少し甘め?」


『璟瑶が好きなので』


「お姉ちゃん、甘い卵が好きだった?」と雪瑶。


「昔から好き」


「知らなかった」と玲瑶。


「玲瑶が人の好みを覚えていないだけ」


「ひどい」


 崇岳は味噌汁を飲み、創を見る。


「昨日、教習所で初めて運転したんだろ?」


『はい』


「時速二十キロ?」


『そこまで言います?』


「二十キロで怖かったの?」と雪瑶。


『初めてなら怖いですよ』


「私も最初は十五キロで怖かった」と玲瑶。


『ほら』


 創が嬉しそうな顔をする。


「でも、一週間くらいで慣れた」


『そこまでは聞いてません』


 食卓に笑いが起こった。


 美智子は璟瑶へ尋ねる。


「今日の取材は何時から?」


「取材班が八時半頃に本店へ入る予定」


「番組名は?」と崇岳。


「『経済最前線スペシャル――日本を動かす企業と金融』」


「テレビの密着取材?」と雪瑶。


「一日だけ。全部を撮影するわけじゃないよ」


「家も映る?」と玲瑶。


「映りません」


「創君は?」


「映りません」


『映ったら困る』


「結婚も妊娠も非公開だからな」と崇岳。


「もちろん。取材対象は銀行の取り組みだけ」


 美智子が心配そうに娘を見る。


「長時間立ち続けないでね」


「分かってる」


『水城さんがいるから大丈夫』


「劉川さんもいる」と崇岳。


「全員で私を監視する」


『管理』


「同じ」


『違う』


 今度は六人全員が笑った。


 ――午前七時十九分。


 朝食が終わると、創は食器を片づけ始めた。


「私も手伝う」と美智子。


『大丈夫です』


「六人分でしょう?」


『では、お皿をお願いします』


「私も」と雪瑶。


「私も手伝う」と玲瑶。


 崇岳も立とうとする。


「私は?」


『お義父さんは座っていてください』


「なぜ?」


『昨日、一日中銀行を歩いたでしょう』


「七十二歳扱いか?」


『七十二歳です』


「……」


 美智子が笑う。


「創君の勝ちね」


 ――午前七時四十一分。


 玄関。


 崇岳、美智子、雪瑶、玲瑶の四人は、それぞれ荷物を持っていた。


 今日は一度、滞在先へ戻ることになっている。


「創、朝食ありがとう」


『いえ』


「また作ってくれ」


『次は来る前に連絡してください』


「それは考える」


『昨日みたいな突然の訪問はやめてください』


「今度は連絡するから」と美智子。


 璟瑶が母親を見る。


「本当に?」


「多分」


「お母さんまで……」


 雪瑶は璟瑶をそっと抱きしめた。


「お姉ちゃん、身体を大事にしてね」


「うん」


 玲瑶も姉のお腹を見る。


「次に会う時は、もっと大きくなっていそう」


「そうかもね」


 美智子は娘の頬へ触れた。


「無理しないで」


「分かってる」


「本当に?」


「……分かってる」


 崇岳も言う。


「水城さんの言うことを聞け」


「またそれ?」


「あの人は正しい」


「劉川さんも、創も、お父さんも、全員そればかり」


「全員が言うなら、聞いた方がいい」


 璟瑶はため息をついたが、その顔は笑っていた。


「じゃあ、またね」


 四人が家を出る。


 にぎやかだった玄関が、急に静かになった。


 残ったのは、創と璟瑶。


 いつもの夫婦二人の朝へ戻った。


 ――午前七時四十八分。


 璟瑶は、少しゆったりしたダークカラーのジャケットに着替えた。


 仕事着では、腹部の丸みはまだ目立ちにくい。


 創もスーツ姿になる。


 二人は互いの左手を見た。


 昨夜からつけていた結婚指輪がある。


「今日も外すね」


『うん』


 二人はそれぞれの指輪を外し、専用のケースへしまった。


 創の表情が少し曇る。


 璟瑶はすぐに気づいた。


「帰ったら、また私がつける」


『うん』


 玄関で靴を履く創のネクタイを、璟瑶が少し直した。


「今日は忙しい?」


『東央精密の審査照会がある』


「家では仕事の内容を話しすぎないで」


『名前だけだよ』


「それもほどほどに」


『はい、頭取』


「家で頭取って呼ばないで」


『はい、璟瑶』


「教習は?」


『今日はない』


「なら、早く帰れそう?」


『多分』


 璟瑶の眉が少し上がる。


『“多分大丈夫”と言うなって?』


「分かってるなら、言わないで」


『仕事が終わったら連絡する』


「うん」


『行ってきます』


「待って」


 璟瑶が創の胸元を軽くつかんだ。


 そのまま顔を近づけ、唇を重ねる。


 一度離れ、もう一度。


 今度は少し長く、穏やかに触れ合う。


『今日、密着取材を受ける頭取が、朝から何してるんだ』


「夫を見送ってる」


『もう終わり?』


「まだ」


 璟瑶が再び唇を重ねる。


 創はお腹を圧迫しないよう、背中へそっと手を添えた。


 離れたかと思うと、最後にもう一度、短いキス。


『一回増えた』


「夫婦だから」


『理由になってる?』


「なってる」


 璟瑶は満足そうに創を見た。


「いってらっしゃい」


『いってきます』


「創」


『何?』


「今日テレビに映った私を見ても、笑わないでね」


『録画する』


「笑わないで」


『それは約束できない』


「……」


 二人は玄関で、また笑った。


 ――午前八時二十七分。


 青嶺中央銀行本店、一階受付。


 テレビ局の取材班が到着した。


 番組の正式名称は、『経済最前線スペシャル――日本を動かす企業と金融』。


 今回の特集テーマは、「巨大銀行は地域経済をどう支えるのか――青嶺中央銀行、その現場」。


 取材全体を指揮するディレクターは篠崎隆之・四十三歳。


 頭取への質問と現場取材を担当する記者は白石真帆・三十五歳。


 カメラマンは村瀬修司・四十歳。


 音声担当は井川菜月・三十一歳。


 そのほか照明、技術、制作スタッフ数名が同行していた。


 広報担当者が、入館前に注意事項を確認する。


「撮影は、事前に許可されたエリアのみでお願いいたします」


「承知しています」と篠崎。


「顧客名、未公表案件、個別与信、審査資料、端末画面、行員の個人情報は映せません」


「カメラ位置は事前の指定範囲を守ります」と村瀬。


「役員会は公開可能な議題のみ撮影できます。公開範囲外の資料や発言が入った場合、その映像は使用できません」


「分かりました」


 四十二階では、取材を受ける璟瑶と二人の秘書が最終確認をしていた。


「頭取。カメラは原則として胸から上を中心に撮影するよう、村瀬さんにもお願いしています」と水城。


「ありがとう」


「立った状態での撮影が長くなりそうな場合は、途中で座っていただきます」


「はい」


 劉川が予定表を確認する。


「午前は頭取インタビュー。その後、地域銀行連携室とデジタル戦略部門。午後は法人金融、GX関連、公開可能部分のみの役員会、最後に総括インタビューです」


「分かりました」


「休憩は三回確保しました」と水城。


「三回?」


「はい」


「多くない?」


「多くありません」


 劉川も続ける。


「変更しません」


 璟瑶は二人を見る。


「また二対一?」


「三対一です」と水城。


「誰が三人目?」


「宮嶋さんです」


「創はここにいない」


「いらっしゃれば、必ず同意されます」


「……それは否定できない」


 ――午前八時四十五分。


 カメラが回り始める。


「本日はよろしくお願いいたします」


 白石真帆が頭を下げる。その後ろで、村瀬修司がカメラの構図と光を確認する。


「よろしくお願いいたします」


 璟瑶の表情が、完全に頭取のものへ変わった。


「本日のテーマは、“巨大銀行は地域経済をどう支えるのか”です」


「はい」


「青嶺中央銀行は、全国四十七都道府県の地域銀行とネットワークを構築しています。なぜ、一つの銀行へ統合するような中央集権型を取らないのでしょうか」


 璟瑶は、まっすぐ白石を見る。


「地域金融の強みは、その地域にしかない情報と、長年築いてきた信頼関係です。東京の本店が、全国すべての地域を知っているわけではありません」


 村瀬のカメラが、璟瑶の表情を捉える。


「各地域銀行の独立性を維持しながら、青嶺中央銀行が資金、システム、海外ネットワーク、専門人材、M&A、事業承継、デジタルといった機能を補完します」


「共同金融プラットフォームについて教えてください」


「地域銀行ごとに個別で保有していた一部の決済、本人確認、法人向けデジタル手続き、不正検知、データ連携の基盤を共同化しています」


「顧客情報も共有されるのですか?」


「無制限に共有する仕組みではありません。法令、契約、利用目的、権限に基づいて管理します。共同化と、情報を自由に使うことは全く違います」


 カメラは胸から上を中心に撮っている。


 ゆったりしたジャケットに隠れた腹部は映らず、妊娠に気づく者はいなかった。


 ――午前九時十二分。


 取材テーマは、中小企業の事業承継へ移る。


「事業承継の相談は増えていますか?」と白石。


「増えています。ただし、“後継者がいない”という単純な問題だけではありません」


「選択肢が広がっている?」


「親族内承継、従業員承継、第三者承継、M&A、資本提携、経営人材の紹介など、選択肢は増えています」


「銀行として、何を重視しますか?」


「企業という形を残すことだけを目的にはしません。従業員、取引先、地域、現在の経営者、そして次の世代にとって、どの形が持続可能なのかを一緒に考えます」


 白石はさらに踏み込む。


「銀行が収益や手数料のため、M&Aを勧めすぎる懸念はありませんか?」


「あります」


 璟瑶は即答した。


「だからこそ、手数料を得られる案件だから勧めるということは、あってはなりません。銀行にとって収益性のある取引と、企業にとって必要な選択が、常に一致するとは限らないからです」


 ディレクターの篠崎が、少し離れた場所で頷いた。


 ――午前九時四十五分。


 地域銀行連携室。


 大型モニターには全国地図が表示され、各地域銀行との連携状況が示されていた。


 銀行名や数値の一部は、放送時に伏せることを前提としている。


 担当者が説明する。


「大規模災害が発生し、被災地域の店舗だけでは業務継続が難しくなった場合、グループ内の他地域から人員、現金、システム、臨時窓口などの支援を行います」


「災害時の金融支援も、ネットワークの重要な役割なのですね」と白石。


「はい」


 続いて、特殊詐欺や不正送金への対策が紹介される。


 AIを活用した取引モニタリング、高齢者への注意喚起、営業店と専門部署の連携。


 ただし、具体的な検知条件や内部基準は公開しない。


「犯罪対策は、すべてを公開すればよいわけではありません」と璟瑶。


「犯罪者へ対策情報を与える可能性があるからですか?」


「はい。そのため、検知の詳細ではなく、お客さまをどう守るかという方針や、被害を防ぐために知っていただきたい行動を説明します」


 ――午前十時三十七分。


 デジタル戦略部門。


 電子請求、クラウド会計、API連携、決済、給与、在庫、受発注管理など、中小企業向けDX支援が紹介される。


「銀行がDXまで支援する必要があるのでしょうか」と白石。


「銀行がシステム会社になる必要はありません」


 璟瑶はそう前置きした。


「ただ、企業の課題は資金不足だけではありません。人手不足、経理負担、受発注、在庫、売掛金の回収。そうした業務上の詰まりが、資金繰りの問題につながる場合があります」


「銀行だけで解決するのですか?」


「いいえ。銀行だけで解決できると思うこと自体が危険です。必要に応じて、地域銀行、専門会社、外部企業へつなぎます」


 ――午前十一時十八分。


 最初の休憩。


 頭取室へ戻ると、水城がすぐに言った。


「頭取、座ってください」


「もう座ってる」


「最低十分は、そのままでいてください」


「次は十一時四十分でしょう?」


「だから二十分あります」


 劉川が水を置く。


「水分も取ってください」


「はい」


 璟瑶はコップを持ちながら、もう片方の手を腹部へ添えた。


 水城がすぐに気づく。


「張りますか?」


「違う。ただ、少し重い感じがするだけ」


「では、休みましょう」


「だから座ってる」


 劉川が端末を確認する。


「午後の立った状態での撮影を、一部短縮します」


「もう決定?」


「はい」


「二人とも強くなったね」


「必要ですので」と水城。


 ――午後零時八分。


 社員食堂。


 創が券売機の列へ並ぶと、前に黒瀬颯真、後ろに水無瀬琴葉がいた。


「今日、混んでるな」と黒瀬。


「テレビの取材が来ているから?」と琴葉。


『食堂までは撮らないだろ』


「それでも、みんな少しそわそわしてる」


 券売機には、中華蕎麦、鶏肉南蛮定食、親子丼、鯖の味噌煮定食、カレー、そば、うどん、日替わり定食が並んでいた。


「俺は鶏南蛮」と黒瀬。


「私は鯖味噌」と琴葉。


『俺は中華蕎麦と小親子丼』


 黒瀬が振り向く。


「二つ?」


『親子丼は小さい方』


「教習所へ行き始めて、食欲が増えた?」


『関係ない』


「昨日が初めての技能だったんでしょう?」と琴葉。


『うん』


 二人がほとんど同時に尋ねる。


「どうだった?」


『怖かった』


「何キロ出した?」と黒瀬。


『二十キロ』


「二十?」


『初めてなら速く感じるんだよ』


「分かる。最初の場内は怖いよね」と琴葉。


『だろ?』


「俺は初日から楽しかった」


『聞いてない』


 三人は食券を受け取り、料理を待つ列へ移動する。


「そういえば、昨日の欧陽元頭取、創も見た?」と黒瀬。


『見た』


「私たち、元頭取と話したんだよ」と琴葉。


『聞いた』


 二人が同時に創を見る。


「誰から?」


 創は一瞬言葉に詰まった。


『……噂』


「広まるの早いな」と黒瀬。


 実際には昨夜、本人から聞いた。だが、崇岳が義父であるとは言えない。


「京浜栄信銀行の鷹取元頭取の話をしたんだ」と黒瀬。


「私は日栄未来銀行の倉橋元頭取」と琴葉。


『へえ』


「それから、青嶺で変えた方がいいところを聞かれた」


『何て答えた?』


 黒瀬はグループ銀行と青嶺本体で残る重複入力について話し、琴葉は媒体ごとに異なる顧客向け説明表現について話した。


『二人らしい』


「何だよ、それ」


『褒めてる』


「創なら何て答える?」と琴葉。


『俺?』


「元頭取に、“今の青嶺で変えた方がいいところは?”って聞かれたら」


 創は少し考えた。


『若手が“分からない”って言いやすい雰囲気が、もっと広がればいいと思う』


「今でも言えるだろ?」と黒瀬。


『俺は桐生さんや相沢さんに聞ける。でも、全部署が同じとは限らない』


「なるほど」


「それ、元頭取に言えばよかったのに」と琴葉。


『聞かれてないから』


「次に会ったら言えば?」


『……そうだな』


 普通の行員よりも、次に会う機会は多いかもしれない。


 それでも今は、曖昧に笑うことしかできなかった。


 三人は料理を受け取り、席へ着く。


「ところで、今日は頭取の密着取材だよな」と黒瀬。


「朝、カメラを見た」と琴葉。


『そうみたいだな』


「番組、見る?」


『見る。録画もする』


「経済番組、そんなに好きだった?」と黒瀬。


『銀行員が経済番組を見てもいいだろ』


 琴葉が創をじっと見る。


「もしかして、頭取のファン?」


 創の箸が一瞬止まる。


『……銀行員として尊敬してる』


「模範解答」と黒瀬。


『うるさい』


 妻だから録画するとは、二人とも思わない。


 ――午後一時十五分。


 法人営業フロア。


 事前に許可された一部エリアで、撮影が始まった。


 顧客名や案件名、端末画面、机上の資料が映らないよう、広報担当者とカメラマンの村瀬が一つずつ確認している。


 創の席は撮影範囲から離れていた。


 それでも、カメラがフロアへ入ってくると、視線が一瞬そちらへ向く。


「宮嶋」と桐生。


『はい』


「撮影を気にするな」


『気にしてません』


「見てた」


『カメラが珍しかったので』


「仕事」


『はい』


 相沢が創の画面を見る。


「東央精密の追加照会、どこまで?」


『月次資金繰りへ反映しました』


「見せて」


『はい』


 同じフロアの少し離れた場所には、妻がいる。


 だが創は近づかず、璟瑶も創を探さない。


 銀行では頭取と若手行員。


 カメラがあってもなくても、その距離は変わらなかった。


 ――午後一時三十八分。


 撮影テーマはGXと脱炭素へ移った。


「銀行が脱炭素投資を支援する理由は何でしょうか」と白石。


「環境問題だから、という理由だけではありません」


 璟瑶が答える。


「企業にとって、エネルギー価格、輸出規制、取引先からの削減要請、設備効率、競争力は、すべて経営課題です。だから銀行も、融資判断の一部として確認する必要があります」


「脱炭素への対応が不十分であれば、融資を断ることも?」


「一つの指標だけで単純に決めるものではありません。業種、技術、地域、企業規模、必要な移行期間、現実的な改善計画を見ます」


 ――午後二時二十二分。


 公開済みの大型案件が取り上げられた。


 東亜未来モビリティ株式会社。


 自動車、電池、物流技術を手がける国内大手グループで、青嶺中央銀行を主幹事とする総額一千二百億円のサステナビリティ・リンク・シンジケートローンを組成している。


「非常に大きな案件ですね」と白石。


「はい」


「資金使途を、公表されている範囲で教えてください」


「次世代EV駆動システムに四百五十億円。国内電池工場の更新に三百二十億円。省エネルギー型物流拠点に二百十億円。再生可能エネルギー設備に百二十億円。研究開発とデジタル化に百億円です」


「単なる大型融資ではない?」


「サステナビリティ・リンク型ですから、事前に定めた指標の達成状況も確認します」


「具体的には?」


「公表済みの範囲では、CO2排出原単位、再生可能エネルギー比率、工場のエネルギー効率、サプライチェーンの人権監査などです」


「目標未達の場合は、どうなりますか?」


「契約上、金利を含む一定の条件へ影響する設計があります。ただし、個別条件のすべては公表していません」


 白石は、もう一つ尋ねる。


「一千二百億円を貸す銀行として、最も重視したことは何でしょうか」


 璟瑶は一呼吸置いた。


「貸すこと自体が目的ではありません」


 村瀬のカメラが、その表情へ寄る。


「その投資が十年後も意味を持つのか。それによって企業の競争力、雇用、取引先、地域がどう変わるのか。そして、借入金を返済できる事業として成立するのか」


 取材班が静かになる。


「そこまで一緒に考えることが、銀行の役割だと思っています」


 ディレクターの篠崎が、すぐに言った。


「今の回答、使わせていただきます」


「どうぞ」


 ――午後三時六分。


 取材は、地方企業の海外展開へ移る。


「青嶺中央銀行は、中国を含む東アジア支援に強みがありますね」


「はい。ただし、海外へ進出すること自体を成功とは考えません」


「その後が重要?」


「現地の販売先、規制、税務、人材、為替、資金回収、撤退条件まで考えて、初めて海外展開です」


「中国企業への大型融資も増えていますか?」


「案件はあります。ただし、国籍だけで判断することはありません。企業の財務、事業、資金使途、担保、契約、返済能力を個別に確認します」


 華瑞国際産業集団の案件は未公表だ。


 璟瑶は一切触れず、白石も深追いしなかった。


 ――午後三時四十九分。


 金融教育と人材育成。


「なぜ銀行が、若い人への金融教育を行うのでしょうか」


「預金、投資、ローン、クレジット、税金、詐欺。社会へ出ると、突然多くのお金の判断を求められます」


「十分に学ぶ機会がない?」


「はい。誰もが知識を得てから社会へ出るわけではありません。だから銀行には、商品を売る前に判断材料を提供する役割もあります」


「女性や若手管理職の育成については?」


「性別や年齢だけを理由に登用することはしません。ただし、過去の慣習が機会を狭めていたなら、それは直す必要があります」


「若手へ任せることも重要ですか?」


「任せるだけでは育成になりません。失敗した時に支える仕組みまで含めて、育成だと考えています」


 ――午後四時三十分。


 役員会のうち、公開可能な部分だけが撮影された。


 出席者は久世、御子柴、黒崎、早乙女、秋元、水谷、陳、相馬、武藤ら。


 扱う議題は、地域銀行共同システムの更新、中小企業DX支援枠、災害時の業務継続訓練に限定された。


「共同化の目的は、単純なコスト削減だけではありません」


 璟瑶が会議で説明する。


「一行だけでは確保が難しいセキュリティ、専門人材、復旧能力を、共同で持つ意味があります」


 カメラが回る。


 御子柴が知っている結婚の秘密は、当然口に出ない。


 久世や黒崎は、璟瑶の結婚も妊娠も知らない。


 ゆったりしたジャケットと胸から上を中心とした撮影により、映像に残るのは青嶺中央銀行頭取としての欧陽璟瑶だけだった。


 ――午後五時四十六分。


 最後のインタビュー。


「欧陽頭取にとって、銀行とは何でしょうか」


 白石の質問に、璟瑶は少し考えた。


「人の生活の裏側に、長く存在するものだと思います」


「生活の裏側?」


「給与、住宅、教育。企業の設備、雇用、事業承継。そして災害。誰かの人生が大きく動く時、その近くにはお金の問題があります」


 璟瑶はカメラをまっすぐ見る。


「だから、数字だけを見ていては、銀行の仕事はできません」


「ありがとうございました」


「ありがとうございました」


 村瀬がカメラを止め、音声担当の井川も収録終了を知らせる。


 その瞬間、璟瑶の肩から少し力が抜けた。


「……ふぅ」


 水城がすぐに水を渡す。


「お疲れさまでした」


 劉川も予定表を確認する。


「本日は、この後に新しい予定を入れておりません」


「ありがとう」


 少し離れた場所から、白石が尋ねた。


「頭取、かなりお疲れですね」


 璟瑶は微笑む。


「一日中カメラに追われるのは、銀行業務とは違う疲れ方ですね」


 妊娠のことは言わない。


 白石も、単純に長時間の取材による疲労だと受け止めた。


 ――午後六時二十二分。


 十八階。


「宮嶋」


『はい』


「審査照会への回答は、今日はここまで」と桐生。


『はい』


「明日もう一度確認してから返す」


『分かりました』


「お疲れ」と相沢。


『お疲れさまです』


 創はPCを閉じた。


 私用のスマートフォンを見ると、璟瑶からメッセージが届いている。


「終わった。疲れた」


 創は少し笑った。


『お疲れ。俺も今終わる』


 ――午後七時四十分。


 成城の新居。


『ただいま』


「おかえり」


 璟瑶が玄関へ迎えに来る。


 創は指輪ケースを取り出し、左手を差し出した。


 璟瑶が結婚指輪を取り、創の薬指へ戻す。


「おかえり」


『ただいま』


 今度は創が、璟瑶の指輪ケースを開いた。


『今日は俺がつける』


「お願いします」


 璟瑶が左手を差し出す。


 創は妻の薬指へ、ゆっくり指輪を通した。


『おかえり、璟瑶』


「ただいま、創」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 ――午後八時十一分。


 夕食は、創が作った雑炊と温野菜だった。


 疲れている璟瑶は、無理のない量だけをゆっくり食べる。


「今日、朝からずっと喋ってた」


『頭取だから』


「頭取でも疲れる」


『知ってる』


「それに、ずっと近くにカメラがいるの。変な感じだった」


『録画した』


「本当に?」


『うん』


「見ないで」


『見る』


「本人が嫌だって言ってるのに?」


『妻が全国放送に出るのに、見ない方が無理だろ』


「笑わない?」


『努力はする』


「約束になってない」


 ――午後九時二十六分。


 リビング。


 テレビに『経済最前線スペシャル――日本を動かす企業と金融』のタイトルが映った。


 その日の取材映像を使った特集が始まる。


 ナレーションが流れた。


『全国四十七都道府県の地域金融機関と連携し、国内外に巨大な金融網を持つ青嶺中央銀行。そのトップを務めるのが、欧陽璟瑶頭取、四十五歳――』


 画面に映る璟瑶。


 頭取室でのインタビュー、地域銀行連携室、デジタル戦略部門、法人金融の現場、役員会。


 創はテレビ画面と、隣にいる本人を交互に見た。


「何?」


『いや……』


「何?」


『家で俺に“疲れた”って言ってる人と、同じ人に見えない』


「同じ人です」


『画面だと、本当に頭取だな』


「頭取だから」


『今は?』


「妻」


『そう』


 テレビの中の璟瑶が語る。


『貸すこと自体が目的ではありません』


『その投資が十年後も意味を持つのか。企業の競争力、雇用、取引先、地域がどう変わるのか。そこまで一緒に考えることが、銀行の役割だと思っています』


 創は黙って聞いていた。


「何?」と璟瑶。


『かっこいい』


「急に?」


『家では、朝から俺に何回もキスして、水城さんに休めって言われてる人なのに』


「それ、テレビ局には言わないで」


『言う相手いないよ』


 璟瑶は創の肩へ寄りかかった。


「疲れた」


『ほら』


「何?」


『やっぱり同じ人だった』


「最初から同じ人です」


 創は服の上から、璟瑶のお腹へそっと手を置いた。


 普段着では、少しずつ大きくなる丸みがよく分かる。


 テレビ画面にいるのは、青嶺中央銀行頭取・欧陽璟瑶。


 創の隣にいるのは、妊娠中の妻・欧陽璟瑶。


 同じ一人の女性だ。


 だが、世間が知るのは、まだ一つの顔だけだった。


 結婚は非公開。妊娠も、双子の存在も非公開。


 その事実を銀行で知る者も、ごく少数に限られている。


 今日、璟瑶は全国の視聴者へ、自分の言葉で銀行の未来を語った。


 地域金融、事業承継、災害支援、DX、GX、海外展開、大型融資、人材育成、金融教育。


 そして、数字の向こう側にいる人の生活。


 それは、創が以前から抱いている銀行への考え方にも似ていた。


『璟瑶』


「何?」


『俺、この人と結婚してるんだよな』


「今さら?」


『テレビで見ると、たまに信じられなくなる』


 璟瑶は、創の頬へ指を触れた。


「確認する?」


『何を?』


「私が創の妻かどうか」


 創は笑った。


『確認はゴールじゃないんだろ?』


「入口」


『じゃあ、その次は?』


「夫婦の時間」


 璟瑶はそのまま創の肩へ頭を預けた。


 テレビでは、カメラが頭取を追っている。


 家では、夫が妻の隣に座っている。


 そして妻のお腹の中では、二つの小さな命が育っている。


 今日のカメラには映らなかった、もう一つの欧陽璟瑶の人生。


 その時間もまた、静かに、確かに進んでいた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、頭取・欧陽璟瑶のメディア密着回でした。


全国47都道府県の地域銀行ネットワークや事業承継、GX・DX、海外展開、災害時金融支援、金融教育など、現在の青嶺中央銀行が力を入れている取り組みを幅広く紹介しました。


さらに東亜未来モビリティ株式会社への総額1,200億円のサステナビリティ・リンク・シンジケートローンについても、公開可能な範囲で具体的に説明しています。


その一方で、テレビには映らない秘密もあります。


璟瑶が創の妻であること。


そして、双子を妊娠していること。


銀行では頭取として堂々と語り、家へ帰れば「疲れた」と創にもたれかかる一人の妻。


創が画面と隣の璟瑶を見比べてしまうのも当然かもしれません。


次回、第86話。


創の教習3回目。


いよいよ右左折、一時停止、交差点、巻き込み確認など、運転中に同時に考えることが一気に増えていきます。


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