第84話「父と娘、十二年ぶりの頭取室――そして創は初めて運転席へ」
第84話です。
今回は、十二年ぶりに青嶺中央銀行本店へ戻ってきた崇岳と、現頭取となった娘・璟瑶が頭取室で向き合います。
最初は「元頭取」と「現頭取」として、地域銀行ネットワーク、海外拠点、事業承継、GX、サイバー対策、若手育成など、現在の青嶺中央銀行について真剣に話し合います。
そして二人きりになった時だけ、父と娘の顔へ。
双子の心拍や璟瑶の体調を確認し、崇岳も一人の父親として娘を心配します。
一方、創はいつも通り法人営業第一部で仕事を続けた後、夜には成城中央自動車学校へ。
ついに初めて運転席へ座り、自分の手で車を動かします。
さらに夜の新居には、崇岳だけでなく美智子、雪瑶、玲瑶まで集合。
いつもよりかなり賑やかな一夜になります。
水曜日。午後二時二十六分。
東京都千代田区、大手町。
青嶺中央銀行本店、四十二階。
頭取室。
「……お父さん?」
欧陽璟瑶・四十五歳。
仕事中とは思えない呼び方が、思わず口からこぼれた。
十二年前まで、この部屋の主だった男。
欧陽崇岳・七十二歳。
青嶺中央銀行前頭取であり、璟瑶の父親が、頭取室の入口に立っていた。
「久しぶり」
崇岳が笑う。
璟瑶は数秒間、言葉を失った。
「どうして、ここにいるの?」
「銀行史編纂の協力と、今の銀行を見るため」
「今日来るなんて、聞いてない」
「言ってないからな」
「それは分かってる」
第二秘書の水城絢乃は、わずかに緊張した表情を浮かべた。
第一秘書の劉川景仁はいつも通りに見えたが、崇岳が朝から本店内を歩き回っていた事実には驚いている。
「会議は終わった?」と崇岳。
「今、一区切りしたところ」
「なら、まず仕事の話をしよう」
璟瑶は一瞬、父親の顔を見た。
しかし、すぐに頭取の表情へ戻る。
「分かりました。欧陽元頭取」
崇岳の口元が少し上がった。
「はい、欧陽頭取」
水城と劉川が一瞬だけ視線を交わす。
ここから始まるのは、父親と娘の会話ではない。
前頭取と現頭取。
二人の銀行経営者の対話だった。
――午後二時三十一分。
崇岳は応接用のソファへ座り、璟瑶も向かいに腰を下ろした。
水城が銀行の現況をまとめた資料を用意し、劉川が飲み物を置く。
崇岳は、懐かしむように部屋を見渡した。
「机も変わったな」
「十二年前と同じだったら、困ります」
「設備もずいぶん変わった」
「システムもセキュリティも変わりました」
「でも、窓から見える景色は、それほど変わらない」
「十二年ですよ。建物も増えています」
「今日は銀行の中ばかり見ていたから、外を見ていなかった」
璟瑶が小さく笑う。
「それは昔から変わってない」
ほんの数秒、父と娘の空気が戻る。
しかし、崇岳はすぐに表情を引き締めた。
「今日、いくつかの部署を見た」
「どこを?」
「三十五階、三十四階、二十八階、二十七階、十八階、十四階。他にもいくつか」
璟瑶の反応が、一か所で止まる。
「十八階?」
「行った」
水城も、ごくわずかに反応した。
璟瑶は父親の顔を見つめる。
「……創に会った?」
「会った」
「どこで?」
「エレベーターの中。偶然乗ってきた」
「何か話した?」
「前頭取と若手行員として、普通に挨拶をした」
「周りに人は?」
「何人かいた。だが、誰も何も気づいていない」
璟瑶の肩から、わずかに力が抜ける。
「そう……」
「法人営業第一部にも行った。桐生さんにも会った」
「桐生さんと?」
「若手をよく見ている。任せるが、丸投げはしない。いい上司だと思う」
璟瑶は静かに頷いた。
桐生は創が結婚しており、その妻が欧陽璟瑶であることを知っている。
崇岳も、その事実を承知している。
だが、今ここで、秘密の共有者として名前を出す必要はない。
水城と劉川も黙っていた。
崇岳は話を銀行全体へ戻す。
「青嶺は大きく変わったな」
「十二年経っていますから」
「全国四十七都道府県の地域銀行とのネットワークも、以前より強くなった」
「はい。ただ、青嶺中央銀行本店が、地域の銀行へ一方的に指示を出す仕組みにはしていません」
「各銀行の独立性は残している?」
「残しています。資金、システム、海外、人材、M&A、事業承継では青嶺中央銀行が支援します。ただし、地域の取引先との関係や営業判断まで、すべて本店へ吸い上げるつもりはありません」
「それでいい。東京から地方を見て、全部分かったつもりになるのが一番危ない」
「同感です」
「海外拠点は?」
「約四十拠点です。東アジア、東南アジア、北米、欧州を中心に、地域ごとの採算と役割を見直しています」
「中国の比重は大きい?」
「大きいです。ただし、“中国だから”という一つの見方では判断しません。企業単位、案件単位で見ます」
「今日の華瑞案件も?」
「はい。八十億元を一つの与信として見るのではなく、新エネルギー設備、運転資金、物流会社買収に分けて検証しています」
「国も企業名も、信用力の代わりにはならない」
「分かっています」
崇岳は頷き、次の論点へ移る。
「中小企業の事業承継は?」
「増えています。後継者不足だけではありません。親族内承継、従業員承継、第三者承継、M&A、ファンド活用。選択肢が増えた分、銀行側の説明責任も重くなりました」
「銀行が売る側になりすぎるなよ」
璟瑶は即座に答えた。
「分かっています」
「手数料を取れるからM&Aを勧めるのではない。その会社に必要な選択かどうかを見る」
「銀行にとって収益性の高い提案と、取引先にとって最善の選択が一致するとは限りません。そこは分けます」
「ならいい」
「GXは?」と崇岳。
「融資だけではなく、設備更新、省エネルギー、サプライチェーン、移行計画まで見ています。ただ、銀行が専門家のふりをして結論を押しつけないようにしています」
「サイバーセキュリティは?」
「十二年前より、はるかに重い経営課題です。システムが一つ止まれば、決済、送金、営業店、法人取引まで広く影響します。復旧体制だけでなく、止めないための設計と訓練が必要です」
「今日、滝沢さんも同じようなことを言っていた。便利になった分、止められなくなったと」
「その通りです」
「若手はどう?」
璟瑶の頭に、一瞬だけ創の姿が浮かんだ。
しかし、現頭取として答える。
「新卒だけでなく、他行や異業種からのキャリア採用も増やしています。多様な人材が入れる入口は作りました」
「入った後、使えている?」
「配属先によって、育成の質に差があります。そこは課題です」
「採用した人数を成果にするな。定着したか、仕事を任せられるようになったか、その人の経験を活かせているかまで見た方がいい」
「はい」
崇岳はしばらく黙った。
資料を見るのではなく、向かいに座る娘を見る。
「璟瑶」
現頭取ではなく、娘の名前が呼ばれた。
室内の空気が変わる。
「一つだけ、言っておく」
「何?」
「この銀行は、私の銀行ではない」
璟瑶は黙って聞く。
「そして今は、君の銀行でもない」
「……」
「預金を預ける人。融資を受け、事業を営む人。毎日ここで働く行員。その人たちの銀行だ。頭取は、その時間と責任を預かっているだけだ」
璟瑶はしばらく父親を見つめていた。
やがて静かに答える。
「分かっています」
「本当に?」
「私の名前を残すために、銀行を大きくしたいわけではありません。私が退いた後も、地域と企業と行員を支えられる銀行にしたい」
「そうか」
「頭取が替わるたびに全部が変わる銀行では、組織とは言えない。私がいなくても続くものを残す。それが、今の私の役目です」
崇岳の目が少し細くなる。
「十二年前より、私より頭取らしいことを言うな」
「今の頭取は私ですから」
「そうだった」
璟瑶が少し笑う。
「でも、その言葉。お父さんも頭取だった頃、自分に言い聞かせていたの?」
「毎日言えていたら、もっとよい頭取だったかもしれない」
「言えなかった?」
「自分が正しいと思いすぎた日もあった。銀行を守ることと、自分の判断を守ることを、取り違えたこともある」
璟瑶の表情が変わる。
父親が過去の自分について、ここまで率直に語るのを聞いたことはなかった。
「失敗したの?」
「いくつもした」
「お父さんでも?」
「頭取だから失敗しないわけじゃない。頭取の失敗は、多くの人に影響する。それだけだ」
「……」
「だから、一人で正しいと思うな。反対する人を遠ざけるな。自分に都合の悪い数字ほど先に見ろ」
「はい」
「それから」
崇岳は水城と劉川を見る。
「止めてくれる人を、大切にしなさい」
璟瑶も二人を見る。
「……最近、かなり止められています」
「それは、君が止められるような働き方をしているからだろう」
「お父さんまで?」
「私も昔、秘書に止められた」
「止まった?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「今、反省している」
水城が思わず口元を緩めた。劉川もごくわずかに笑う。
――午後二時四十七分。
崇岳は、少し間を置いてから尋ねた。
「もう一つ、銀行とは別に聞いてもいいですか。欧陽頭取」
「何でしょう。欧陽元頭取」
「宮嶋さんを、どう見ていますか?」
水城の指が一瞬止まる。
劉川も崇岳を見る。
璟瑶は少し驚いた。
「今、二人の前で聞くの?」
「二人とも知っているんだろう?」
「知っています」
「なら問題ない」
「問題はあります」
「何が?」
「恥ずかしい」
崇岳の顔に、父親の笑みが戻った。
「頭取にも、恥ずかしいことがあるのか」
「あります」
「答えられない?」
璟瑶は一度、水城と劉川を見た。
二人とも黙っている。
「……仕事上の評価ですか?」
「父親として聞いている」
「それなら、頭取室でする質問じゃない」
「今日しかないから、ここで聞く」
「お父さん、そういうところ本当に変わらない」
璟瑶は小さく息を吐いた。
それでも、逃げずに答える。
「創は、私にとって一番大切な人です」
水城と劉川は表情を変えないよう努めた。
「年齢は二十四歳違います。銀行では若手行員で、私は頭取。簡単な関係じゃない」
「うん」
「でも、創は私を“頭取だから”好きになったわけじゃない。何者か分からなかった時から、私自身を見てくれた」
璟瑶の声が、少しずつ柔らかくなる。
「私が仕事で強くいなければならない時も、家では無理に強がらなくていいと思わせてくれる。身体のことも、双子のことも、私より心配しているくらい」
水城がわずかに目を伏せる。
劉川は黙ったまま聞いている。
「毎朝、銀行へ来る前に二人で指輪を外します。創は今でも、そのたびに少し寂しそうな顔をする。帰ったら、私が指輪をつけ直す。それだけで嬉しそうに笑うの」
「……そうか」
「私も同じです。銀行では距離を取る。でも、それは愛していないふりをしているわけじゃない。守るために分けているだけ」
璟瑶は一度言葉を止めた。
そして、父親の目をまっすぐ見る。
「私は創を愛しています。自分で思っていたより、ずっと深く」
水城の目が少し見開かれる。
劉川も、さすがに一瞬だけ表情を動かした。
「創が傷つくのは嫌。私の立場のせいで不当に評価されるのも、逆に特別扱いされるのも嫌。だから銀行では、頭取と宮嶋さんの距離を守りたい」
「母親になることは?」
「怖い。でも、創となら二人で考えていけると思ってる」
「創君を信じている?」
「はい。夫としても、これから父親になる人としても」
崇岳は娘の顔を、しばらく黙って見つめた。
「そこまで聞けば十分だ」
「聞いたのはお父さんでしょう」
「水城さんと劉川さんも、よく覚えておいてください」
「え?」
「今の頭取は、宮嶋さんのことになると、ここまで話します」
「お父さん!」
水城は笑いをこらえ、劉川は小さく咳払いした。
「承知しました」と劉川。
「私も、よく分かりました」と水城。
「忘れて」
「難しいと思います」と水城。
「水城さんまで……」
崇岳が笑う。
父親として聞きたかった答えは、もう十分すぎるほど聞けた。
――午後二時五十三分。
水城が予定表を確認した。
「頭取、三時十分から次の予定があります」
「分かりました」
崇岳が二人の秘書を見る。
「最後に少しだけ、娘と二人で話しても?」
水城と劉川は璟瑶を見る。
「大丈夫です」
「では、十分ほど外におります」と水城。
「何かございましたら、お呼びください」と劉川。
二人が退室し、扉が閉じる。
頭取室に、父親と娘だけが残された。
崇岳はすぐ、璟瑶の腹部へ視線を向ける。
ゆったりした仕事用のジャケットを着ているため、まだ見た目ではほとんど分からない。
だが、父親は双子の妊娠を知っている。
「身体は?」
「今は大丈夫」
「本当に?」
「本当に」
「二人とも?」
「心拍は確認できてる。成長も、二人とも今のところ週数相当。大きく心配するような成長差もないって」
「そうか……」
崇岳が小さく息を吐く。
前頭取の表情が消える。
そこにいるのは、娘と、まだ生まれていない二人の孫を心配する父親だけだった。
「お腹は大きくなった?」
「普段着なら、かなり分かるようになった」
「仕事では隠せている?」
「今は、ゆったりした服なら。でも、ずっとは無理だと思う」
「無理して隠すな」
「お父さんまで水城さんみたい」
「水城さんは正しい」
「劉川さんも?」
「正しい」
「創も?」
「正しい」
「私だけ間違ってる?」
「頑張りすぎている時は、間違っている」
璟瑶は少しむっとする。
「お父さんは頭取時代、もっと無茶してた」
「だから言っている。真似するな」
「……」
「私のよかったところだけ継げ。悪かったところまで継ぐ必要はない」
璟瑶は返す言葉を失った。
父親が、自分の悪いところを娘へ認める。それは十二年前には聞けなかった言葉だった。
「……分かった」
「それでいい」
崇岳は少し間を置き、今度は穏やかに言った。
「創君、元気だった」
「エレベーターで少し見ただけでしょう?」
「顔を見れば分かる」
「本当に?」
「父親だから」
「義理の?」
「そう」
璟瑶は思わず笑った。
「創、仕事頑張ってるでしょう?」
「ああ。桐生さんは厳しそうだな」
「その方が創にはいい。優しくされるより、きちんと見てもらえる方が喜ぶから」
「よく分かっているな」
「夫だから」
「さっきの話を聞けば、分かる」
「もう、その話は終わり」
崇岳は頭取室を見渡した。
机にも棚にも、創との写真や私生活を示すものはない。結婚指輪も見えない。
「指輪はしていないんだな」
「銀行では外してる。創も」
「帰ったら?」
「私が創につける。私の指輪もつける」
「そうか」
崇岳は少し寂しそうに、しかし理解するように笑った。
「秘密は大変だな」
「でも、今はこれでいい。創の仕事を守るためでもあるから」
「分かった」
崇岳が時計を見て立ち上がる。
「もう戻る」
「今日、どこに泊まるの?」
崇岳の動きが、一瞬止まった。
「……ホテル」
璟瑶の目が細くなる。
「今、間があった」
「気のせいだ」
「何か隠してる?」
「銀行では、頭取が来訪者を疑いすぎるのはよくない」
「娘として父親を疑ってるの」
「それは厄介だな」
「お父さん」
「では、また後で」
「後で?」
「言葉の綾だ」
「絶対に何かある」
崇岳は扉へ向かう。
「欧陽頭取。仕事へ戻ってください」
「欧陽元頭取。逃げましたね」
「何のことか分からない」
扉の外にいた水城と劉川は、そのやり取りを聞いていたが、何も言わなかった。
――午後三時十二分。
十八階、法人営業第一部。
創は、東央精密製作所の追加照会への対応に戻っていた。
義父である前頭取が同じ建物にいても、創の仕事が変わるわけではない。
「宮嶋」と相沢。
『はい』
「設備代金の支払条件、確認できた?」
『はい。契約時二十パーセント、納入時六十パーセント、検収後二十パーセントです』
「根拠資料は?」
『メーカーの見積書と支払条件書を受領予定です。口頭確認だけで確定扱いにはしません』
「うん」
後ろから桐生も来る。
「審査から、ほかに何が来た?」
『既存借入の約定返済と、新規借入を合わせた月次資金繰りです』
「作れる?」
『作れます。ただ、先方の仕入代金支払いに季節変動があるため、その点を追加確認します』
「いつ?」
『今日中に小田切さんへ連絡します』
「なら、やって」
『はい』
創は電話を取り、東央精密の小田切昌弘へ連絡した。
『青嶺中央銀行の宮嶋です。先ほどの件で、もう一点確認させてください』
仕事は普段通りに進んでいく。
銀行にいるのは、前頭取の義理の息子ではない。
正式審査中の案件を担当する、若手銀行員・宮嶋創だった。
――同じ頃。
十四階、中小企業金融部。
黒瀬颯真が席へ戻ると、真壁隆志に呼ばれた。
「黒瀬。昼、欧陽元頭取と何を話した?」
「やっぱり見てました?」
「あれだけ目立っていれば見るよ」
大庭智也、坂口裕介、松本由佳も近くにいる。
「黒瀬、よく銀行の悪いところを言えたな」と大庭。
「聞かれたので」
「俺なら、“特にありません”って答えるかもしれない」と坂口。
「それ、一番嫌がられそう」と松本。
「実際、褒めるだけなら聞く意味がないと言われました」
「何を言った?」と真壁。
「グループ銀行と本体との間で、同じ情報を別の様式へ入力し直す作業が残っていることです」
「そこか」
「まずかったですか?」
「いや、実際にある。重複確認を減らせる余地もある」
黒瀬は少し安心する。
「京浜栄信の鷹取元頭取の話もしていたよな」と大庭。
「はい。昔から知り合いだったそうです」
「同じ世代の銀行経営者なら、何度も会っているだろうな」
黒瀬は昼の会話を思い出す。
「でも、不思議でした」
「何が?」
「前頭取なのに、こっちの話をよく聞くんです」
「崇岳さんは昔からそうだったらしい」と真壁。
「怖かったけどな」と大庭。
「大庭さん、それ本人にも言ってましたよね」
「忘れろ」
周囲に笑いが起きた。
――同じ頃。
個人営業企画部。
「琴葉、元頭取と何を話したの?」
藤沢麻衣に聞かれ、水無瀬琴葉が振り向く。
「今の銀行で、変えた方がいいところを聞かれました」
「答えたの?」と大崎理沙。
「はい」
「勇気あるな」と小野翔平。
「私は、お客さまへの説明について話しました。店頭、紙、アプリ、Webで、同じ商品でも少しずつ言葉が違う。必要事項を守りながら、もっと分かりやすく揃えられると思うって」
藤沢が頷く。
「今、FAQの見直しをしてるものね」
「はい」
「元頭取は何て?」と古川直人。
「“いいね”って」
「軽いな」
「私も、もっと怖い人だと思っていました」
「現役の頃は、今より怖かったらしいよ」と藤沢。
大崎が首をかしげる。
「どうして黒瀬君と琴葉に声をかけたんだろうね」
「キャリア採用で、外から来た人の意見を聞きたかったんだと思います」
「なるほど」
誰も、黒瀬と琴葉が創の同期であることを崇岳が知っていたとは思わない。
――午後五時五十八分。
銀座のカフェ。
窓の外は、すでに夕方の色へ変わっていた。
「お母さん。私たち、何時間ここにいるの?」
玲瑶が尋ねる。
「かなり」と雪瑶。
「話したいことがたくさんあったんだから」と美智子。
「でも、お姉ちゃんはまだ私たちが日本にいることを知らない」
「もう少し待ちましょう」
美智子のスマートフォンに、崇岳からメッセージが届く。
「連絡が来た」
「何て?」と雪瑶。
美智子が読み上げる。
「“今日は成城に泊まろう”」
妹二人の動きが止まる。
「え?」
「四人で璟瑶の新居へ行くって」
「今日?」と玲瑶。
「今日」
「お姉ちゃんは聞いてる?」と雪瑶。
「多分、まだ」
「……怒られる」
「絶対」と玲瑶。
「でも、喜ぶと思う」と美智子。
「半分はね」と雪瑶。
「残り半分は怒る」と玲瑶。
三人は顔を見合わせ、笑った。
――午後六時十五分。
青嶺中央銀行本店、十八階。
創は仕事を一区切りつけた。
今夜は、二回目の教習がある。初めての技能教習だった。
「宮嶋、今日は教習?」と桐生。
『はい』
「技能?」
『初めてです』
「なら、遅刻するな」
『はい』
相沢が笑う。
「緊張してる?」
『かなり』
「初めて自分で車を動かすんだろ?」
『はい』
「最初はアクセルが怖いぞ」と佐伯。
『脅さないでください』
「でも楽しそう」と北川。
『楽しみより、怖い方が強いです』
桐生は創を見る。
「怖いなら、勝手に分かった気にはならない。その方がいい」
『長瀬さんにも似たことを言われました』
「担当の指導員?」
『はい』
「なら、分からないことは聞け。分かったふりをするな。車も案件も、勝手な推測が一番危ない」
『そこも同じですね』
「行ってこい」
『お先に失礼します』
午後六時二十四分。
創は本店を出た。
――午後七時二分。
成城中央自動車学校。
技能教習の配車表に、自分の名前が表示されている。
宮嶋創――担当指導員・長瀬孝弘。
『……』
「来ましたね」
後ろから声がして、創が振り返る。
「こんばんは」と長瀬。
『こんばんは』
「緊張していますか?」
『かなり』
「今日は場内です。公道には出ません」
『分かっています。それでも怖いです』
「正常です」
長瀬は教習車の前へ立った。
「まず、車の周囲を確認してください」
創は車の前後左右へ目を向け、タイヤ付近も見る。
『周囲に人や障害物がないことを確認しました』
「いいですね。“大丈夫です”だけではなく、何を確認したのか具体的にしてください」
『はい』
「では、運転席へどうぞ」
創はドアを開けた。
初めて運転席へ座る。
『……近い』
「何がですか?」
『ハンドルが』
「まだ座席を調整していません」
『そうでした』
長瀬が助手席に座る。
「まず座席です。右足でブレーキを奥まで踏んでください」
『はい』
「膝が伸び切らず、少し余裕が残る位置にします。次に背もたれ。ハンドルを握った時、腕が伸び切らない位置へ合わせてください」
創は一つずつ調整する。
「ヘッドレスト。次にシートベルト」
『はい』
「座席を決めた後で、ルームミラーとドアミラーを合わせます」
前回習った通りに確認していく。
「宮嶋さん、やはり確認が丁寧ですね」
『適性検査では、そこだけ褒められました』
「そこだけ?」
『考えすぎによる判断の遅れに注意、とも書かれました』
「今日は、考えすぎて発進できないことだけ気をつけましょう」
『はい』
長瀬はセレクトレバーを示す。
「AT車の基本です。P、R、N、D。パーキングブレーキの位置も確認してください」
『はい』
「右側がアクセル、左側がブレーキです。ただし、どちらも基本的に右足で操作します」
『ブレーキも右足ですね』
「そうです。左足は基本的に使いません」
『分かりました』
「では、ブレーキを踏んだままエンジンを始動してください」
創がスイッチを押す。
エンジンがかかった。
『……』
「まだ動いていませんよ」
『分かっています』
「顔は、もう動いたようになっています」
『初めてなので』
長瀬が少し笑う。
「ブレーキを踏んだまま、Dへ入れます。ミラーと目視で周囲を確認。パーキングブレーキを解除してください」
創は一つずつ操作する。
「では、ブレーキをゆっくり緩めてください」
右足の力を少し抜く。
教習車が、ゆっくり前へ進み始めた。
『……動いた』
「宮嶋さんが動かしたんです」
『同じじゃないですか』
「違います。車が勝手に動いたと思ってはいけません。宮嶋さんがブレーキを緩めたため、クリープ現象で進みました。自分の操作の結果です」
『はい』
「少しだけアクセルを踏んでみましょう」
創が恐る恐る右足へ力を入れる。
速度が十キロ、十五キロと上がる。
『速い』
「時速十五キロです」
『体感だと、かなり速いです』
「最初はそう感じます。近くだけを見ず、進む方向を見てください」
創は視線を少し遠くへ向けた。
「カーブが来ます。アクセルを戻し、必要に応じてブレーキ。ハンドルは急に切らないでください」
『はい』
車がゆっくり曲がる。
「息を止めない」
『止めてました?』
「止めていました」
『すみません』
「謝ることではありません。呼吸してください」
カーブを抜け、ハンドルを戻す。
「手を離さず、戻る動きも支えてください」
『はい』
「現在、時速二十キロです」
『これで二十……公道で五十キロなんて無理じゃないですか』
「今日考えることではありません。今は二十キロを安全に走ってください」
『はい』
――午後七時二十一分。
「次は停止します。目標位置を見て、アクセルを戻し、ブレーキをゆっくり踏んでください」
創がブレーキを踏む。
思った以上に力が入り、教習車が前へ沈み込むように止まった。
『……』
長瀬の身体も少し前へ動く。
「宮嶋さん」
『はい』
「止まる時は、銀行の稟議のように急に結論を出さないでください」
『どういう例えですか』
「銀行員なので、分かりやすいかと」
『分かりにくいです』
「最初は軽く踏んで速度を落とします。停止位置が近づいたら踏み増し、止まる直前に力を調整します。もう一度やりましょう」
『はい』
二回目の発進。
十キロ、十五キロ。
今度は早めにアクセルを戻し、ブレーキを少しずつ踏む。
先ほどより滑らかに止まった。
「今の方がいいです」
『本当ですか?』
「本当です」
創の表情が少し明るくなった。
――午後七時三十四分。
続いて、安全確認の練習へ入る。
「今日は大きな進路変更まではしません。ですが、確認する場所は覚えます」
ルームミラー、ドアミラー、そして目視。
「ミラーだけで全部見えると思わないでください。死角があります。最後は、自分の目でも確認します」
『はい』
「ただし、確認に時間をかけすぎると、前を見ていない時間が増えます」
『……』
「何か思いました?」
『適性検査に書かれたままです』
「考えすぎ?」
『はい』
「運転は、確認が少なすぎても、多すぎてもいけません。必要な確認を、適切な時間で行います」
『一番難しいですね』
「その通りです」
外周を何周か走る。
発進、低速走行、カーブ、停止。速度は十キロから二十キロ程度。
それでも創の手には汗がにじんでいた。
「宮嶋さん。ハンドルを握る力が強すぎます」
『分かります?』
「指が白くなっています。もう少し力を抜いてください」
創は恐る恐る指を緩める。
「車を殴って曲げるわけではありません」
『分かってます』
「顔は殴りそうです」
『そんな顔してます?』
「しています」
創が思わず笑う。
その瞬間、肩の力も少し抜けた。
「今、そのくらいでいいです」
『運転中、笑ってた方がいいですか?』
「ずっと笑う必要はありません」
『ですよね』
――午後七時五十六分。
教習車を停止させる。
セレクトレバーをPへ入れ、パーキングブレーキをかける。エンジンを切ったところで、創は大きく息を吐いた。
『疲れた……』
「時速二十キロで?」
『精神的にです』
「初回は、そういう方も多いですよ」
『怖かったです』
「何が一番?」
『自分が操作すると、本当に車が動くことです』
長瀬は頷いた。
「その感覚は、忘れない方がいいです」
『怖さを?』
「車は便利です。でも、自分の操作で動くから、責任があります。慣れて怖さをすべて失うと、操作や確認が雑になる人もいます」
『なら、怖いままでいい?』
「怖さを安全確認へ変えられるなら、それでいいです」
『はい』
「今日は、運転姿勢、座席とミラーの調整、発進、停止、低速走行、外周、カーブ、安全確認まで行いました」
『はい』
「次は右左折、一時停止、交差点へ進みます」
『もっと忙しくなりますね』
「なります」
『……』
「免許取得をやめますか?」
『やめません』
「即答ですね」
『双子を乗せると決めているので』
長瀬が創を見る。
「お子さんが生まれるんですか?」
創は少しだけ間を置いた。
『……はい。双子です』
「それなら、なおさら急がず、きちんと覚えましょう」
『はい』
長瀬は、それ以上家庭のことを聞かなかった。
創は少し安心した。
――午後八時十三分。
成城の新居。
インターホンが鳴った。
「?」
創はまだ教習中。先に帰宅していた璟瑶がモニターを見る。
「……」
画面の前で固まった。
父親の崇岳がいる。
その隣には、母親の美智子。
さらに妹の雪瑶と玲瑶まで並んでいる。
「……何で?」
もう一度インターホンが鳴る。
璟瑶は通話ボタンを押した。
「……お父さん」
『こんばんは』
「お母さん?」
『ただいま』
「雪瑶?」
『久しぶり、お姉ちゃん』
「玲瑶?」
『お姉ちゃん、元気?』
「……」
璟瑶は数秒間、何も答えなかった。
『開けてくれる?』と崇岳。
「その前に説明して」
『やっぱり怒ってる』と雪瑶。
『言ったでしょう』と玲瑶。
美智子が穏やかに言う。
『璟瑶。中に入ってから怒って』
「……分かった」
璟瑶はため息をつき、オートロックを解除した。
数分後、玄関の扉が開く。
「こんばんは」
崇岳が、まるで予定通りだったかのように入ってきた。
「お父さん。ホテルに泊まるって言ったよね?」
「言った」
「嘘だったの?」
「予定を変更した」
「いつ?」
「さっき」
璟瑶は母親を見る。
「お母さんは、いつ日本へ帰ってきたの?」
「今日」
「どうして言ってくれなかったの?」
「驚かせようと思って」
「驚いた。十分すぎるくらい」
続いて妹二人を見る。
「雪瑶と玲瑶も?」
「ごめん」と雪瑶。
「でも、お姉ちゃんに会いたかった」と玲瑶。
璟瑶は怒った顔を保とうとした。
けれど、十二年ぶりに父親が頭取室へ現れ、その夜には母親と妹二人まで新居へ来た。驚きと嬉しさが大きすぎて、怒りきれない。
「……もう」
美智子が娘へ近づく。
「璟瑶」
「何?」
「お腹、本当に少し大きくなったね」
璟瑶の表情が、すぐに柔らかくなった。
「分かる?」
「お母さんには分かる」
「私にも分かる」と雪瑶。
「私も」と玲瑶。
「そんなにみんなで見ないで」
「私は銀行では分からなかった」と崇岳。
「仕事着だったから」
美智子が璟瑶の顔を見つめる。
「顔色は悪くないね」
「うん。今日は大丈夫」
「無理してない?」
「してない……つもり」
「その言い方、お父さんと同じ」と雪瑶。
「本当に」と玲瑶。
「二人とも、帰ってきてすぐ私を責めるの?」
「心配してるの」と雪瑶。
「双子のお母さんなんだから」と玲瑶。
璟瑶は返事をせず、少しだけ笑った。
「今夜、ここに泊まってもいい?」と美智子。
「四人とも?」
「四人とも」
新居には部屋がある。寝具も用意できる。
それでも、璟瑶はすぐに返事をしなかった。
「創に聞かないと」
「自分の両親と妹なのに?」と崇岳。
「ここは創の家でもあるから、私一人では決めない」
美智子が嬉しそうに笑った。
「そういうところ、夫婦になったのね」
「創は、まだ教習中。終わるまで待って」
「じゃあ、先にお茶を飲んでいい?」と雪瑶。
「さっきまでカフェにいたでしょう」と玲瑶。
「お茶は別腹」
「お茶に別腹ってあるの?」
久しぶりの家族の会話が、新居へ広がった。
――午後八時二十八分。
キッチンに立つ璟瑶を、美智子が横から見ていた。
「座っていて。私がやるから」
「お客さまにやらせられない」
「母親はお客さま?」
「今日の来方なら、突然の来客」
「それはそうね」
美智子は笑いながら、結局娘と一緒にお茶の準備を始めた。
リビングでは、崇岳が室内を見渡している。
「広いな」
「五LDKとサービスルーム」と玲瑶。
「お姉ちゃんと創君、二人で広すぎない?」
「もうすぐ四人」と雪瑶。
「そうだった」
崇岳は二つ並んだ閉じた扉を見る。
「あそこが子ども部屋?」
「多分」と雪瑶。
「勝手に見ないで」とキッチンから璟瑶。
「まだ開けてない」
「開けようとしてた」
「見ただけだ」
美智子が小声で言う。
「本当に昔と変わらないわね」
「お母さんも、止めてよ」
「十二年前から止めてるけど、半分しか聞かないの」
「本人も同じこと言ってた」
「何を?」
「秘書の言うことを半分しか聞かなかったって」
「半分も聞いていたかしら」
リビングから崇岳の声が飛ぶ。
「聞こえてる」
「聞こえるように言ったの」
雪瑶と玲瑶が笑う。
その時だけは、青嶺中央銀行の前頭取も現頭取もいなかった。
久しぶりに集まった父親、母親、三人の娘がいるだけだった。
――午後八時四十八分。
教習所を出た創は、璟瑶から届いていたメッセージを見た。
「教習が終わったら電話して」
すぐに電話をかける。
「もしもし」
『終わったよ』
「運転した?」
『した』
「どうだった?」
『怖かった』
「免許、やめる?」
『取る』
即答に、璟瑶が笑う。
「それと、創」
『何?』
「今、家にお父さん、お母さん、雪瑶、玲瑶がいる」
創の足が止まった。
『……四人とも?』
「四人とも」
『どうして?』
「私も聞きたい」
『今夜泊まるの?』
「泊まりたいって。創に聞いてから返事するって言った」
創は数秒考えた。
『いいよ』
「本当に?」
『家族だろ。それに、部屋も寝具もある』
「子ども部屋も、まだ使ってないから」
『一晩だけなら、そこも使える』
「じゃあ、泊まってもらう」
『うん』
「創、ありがとう」
『俺も帰ったら驚くと思うけどな』
――午後九時二十九分。
成城の新居。
『ただいま』
「おかえり」
璟瑶が玄関へ迎えに来た。
しかし、その後ろには四人いる。
「おかえり、創君」と美智子。
「お邪魔しています」と雪瑶。
「創君、こんばんは」と玲瑶。
「遅かったな」と崇岳。
『……本当に全員いる』
「私も玄関のモニターを見た時、同じ気持ちだった」
創は靴を脱ぎ、崇岳を見る。
『欧陽元頭取』
「ここは銀行じゃない」
『……お義父さん』
「それでいい」
「創君、教習はどうだった?」と美智子。
『初めて運転しました』
「できた?」と雪瑶。
『一応』
「怖かった?」と玲瑶。
『かなり』
「ぶつけた?」と崇岳。
『ぶつけてません』
「なら、初日は合格」
『勝手に判定しないでください』
全員が笑い、創の緊張も少し解けた。
創は鞄から、小さな指輪ケースを取り出す。
璟瑶が左手を差し出した。
「はい」
創も左手を出す。
璟瑶はケースから指輪を取り、創の薬指へゆっくりはめた。
「おかえり」
『ただいま』
そのやり取りを、美智子、雪瑶、玲瑶、崇岳が静かに見ていた。
「毎日しているの?」と美智子。
「創が帰ってきたら、私がつける」
『朝、銀行へ行く前に外します』
「まだ秘密なんだね」と雪瑶。
「銀行ではね」
「大変そう」と玲瑶。
『でも、少し慣れました』
「私はまだ、外す時に寂しい」と璟瑶。
美智子が優しく笑う。
「なら、帰った時にこうして戻せばいい。そのたびに、夫婦の家へ帰ってきたと分かるでしょう?」
『はい』
――午後九時四十二分。
創は着替えを済ませ、キッチンに立った。
『軽く食べられるもの、作ります』
「教習の後なのに大丈夫?」と美智子。
『簡単なものだけです。皆さん、夕食は?』
「カフェで軽く食べた」と雪瑶。
「ケーキを二つ」と玲瑶。
『それは夕食じゃないですよね』
「玲瑶は、ケーキを食事に数えるの」と璟瑶。
「お姉ちゃんまで」
創は冷蔵庫を開き、卵、鶏肉、野菜、作り置きの出汁を取り出した。
鶏肉と野菜の雑炊、薄味の卵焼き、小松菜のおひたしを用意する。
包丁を動かしながら、リビングにいる五人の会話を聞いていた。
「お姉ちゃん、本当に少しお腹が出たね」と雪瑶。
「さっきも言われた」
「触っていい?」と玲瑶。
「服の上からなら」
玲瑶が恐る恐る手を添える。
「……ここに二人いるの?」
「うん」
「不思議」
「私も、今でも不思議」
雪瑶も隣に座る。
「二人とも心拍は?」
「確認できてる。大きさも、今のところ週数相当」
「よかった……」
雪瑶の声が少し震えた。
玲瑶も何も言わず、姉のお腹を見つめている。
「二人とも、そんな顔しないで」と璟瑶。
「だって」と雪瑶。
「お姉ちゃん、ずっと仕事ばかりだったでしょう」と玲瑶。
「それは今も」
「違う」と雪瑶。「前のお姉ちゃんは、仕事以外の未来をあまり話さなかった」
璟瑶は黙る。
「結婚するなんて思わなかった」と玲瑶。
「私も、自分がするとは思ってなかった」
「子どもも?」
「うん」
「それが今は、夫と双子がいる」
「まだ生まれてないけどね」
「でも、いるでしょう?」
璟瑶は自分のお腹へ触れた。
「……うん。いる」
キッチンから見える横顔は、銀行で見せる頭取のものではなかった。
創が毎日家で見ている、妻の柔らかな表情だった。
美智子が娘へ尋ねる。
「璟瑶。怖い?」
「何が?」
「妊娠も、出産も、その先も」
璟瑶は少し考える。
「怖いよ。四十五歳で、双子だから。先生も毎回、順調と安全の保証は違うって言う」
「そうね」
「でも、創がいるから、一人で怖がらなくていい」
創の包丁を動かす手が、一瞬止まった。
雪瑶が姉を見る。
「創君のこと、そんなに好き?」
「好き」
「即答」と玲瑶。
「だって夫だもの」
「さっき銀行では、どのくらい好きって言ったの?」と崇岳。
璟瑶が父親を睨む。
「お父さん、それを今言う?」
「私は聞いた」
「何を?」と美智子。
雪瑶と玲瑶も身を乗り出す。
「璟瑶は頭取室で、“創を愛している。自分で思っていたより、ずっと深く”と言った」
「お父さん!」
キッチンで、創の手が完全に止まった。
五人の視線が、一斉に向く。
『……俺も聞いていい話ですか?』
「聞かなくていい!」
「でも、もう聞いた」と玲瑶。
「創君、顔が赤い」と雪瑶。
『料理に集中します』
「火、弱くした方がいいんじゃない?」と美智子。
『大丈夫です』
崇岳が笑う。
「宮嶋さん、仕事では冷静だったのにな」
『今は銀行じゃありません』
「だから、お義父さんでいい」
『お義父さん、余計なことを言わないでください』
「もう言った」
「本当に二人、仲がいいね」と美智子。
「よくない」と璟瑶。
「顔は嬉しそう」と雪瑶。
「お姉ちゃん、隠すの下手」と玲瑶。
「銀行では隠せてる」
『家では隠さなくていいだろ』
創がキッチンから言う。
璟瑶は創を見る。
「……そうだけど」
『俺も璟瑶を愛してるから、同じ』
今度は璟瑶が固まった。
美智子が微笑み、雪瑶と玲瑶が顔を見合わせる。崇岳は満足そうに頷いた。
「創」
『何?』
「料理、まだ?」
『今ごまかした?』
「してない」
新居のリビングに、大きな笑い声が広がった。
創は再び鍋をかき混ぜながら、五人の姿を見る。
父親の崇岳。母親の美智子。次女の雪瑶。三女の玲瑶。そして長女の璟瑶。
三人の娘が母親を囲み、父親が横から口を挟む。十二年前の話、中国での暮らし、幼い頃の璟瑶の話。
創がこれまで断片的にしか知らなかった家族の時間が、目の前でつながっていく。
「璟瑶は小さい頃から頑固だった」と崇岳。
「お父さんに似たの」
「私は、そこまで頑固じゃない」
「七十二歳で銀行の階段を歩き回る人が?」と雪瑶。
「お父さん、今日も階段を使ったの?」と美智子。
「一階だけ」
「一階だけで終わった?」と玲瑶。
「……何階か」
「ほら」と璟瑶。
創は台所からその光景を見て、静かに笑った。
頭取室では見ることのできない璟瑶が、ここにはいる。
姉として妹二人に呆れ、娘として両親へ文句を言い、それでも再会を喜んでいる。
その輪の中に、自分も夫として加わっている。
『できました』
料理を運ぶと、五人が同じテーブルを囲んだ。
「創君、料理もできるのね」と美智子。
『一人暮らしが長かったので』
「璟瑶より上手かもしれない」と雪瑶。
「比べないで」
「お姉ちゃんも作る?」と玲瑶。
「作る時は作る」
『本当に作りますよ』
「創、そこで助けなくていい」
『事実だから』
「創君、璟瑶の味方なのね」と美智子。
『妻なので』
「即答」と雪瑶。
「さっきのお姉ちゃんと同じ」と玲瑶。
璟瑶は少し恥ずかしそうにしながらも、創の隣に座っていた。
――午後十時三十七分。
宿泊の準備を始める。
崇岳と美智子はゲストルーム。
雪瑶と玲瑶は、将来双子のために使う予定の二部屋へ、それぞれ簡易寝具を用意した。
まだ家具も、子ども用のベッドも置かれていない部屋だ。
今夜だけ、その二部屋で双子の叔母たちが眠る。
「ここは一人目の部屋?」と雪瑶。
「どちらをどちらの部屋にするか、まだ決めてない」
「性別も?」と玲瑶。
「まだ分からない。無理に早く確認しなくてもいいって」
「楽しみ」
「生まれたら、私が服を買う」と雪瑶。
「私も買う」と玲瑶。
「二人とも、買いすぎないで」
「私は何を買えばいい?」と崇岳。
「お父さんまで?」
「二人分必要だろう?」
「何でも二倍買えばいいわけじゃないよ」
「では、創君に聞く」
『俺に振らないでください』
「ベビーカーは?」と美智子。
『二人乗りも含めて、これから調べます』
「チャイルドシートは二つだね」と雪瑶。
『それは二つ必要です』
「車は?」と玲瑶。
『まだありません。俺も今日初めて運転したばかりです』
「じゃあ、おじいちゃんが買う」と崇岳。
「お父さん」と璟瑶。
『お義父さん』
二人の声が重なる。
「冗談だ」
「本当に?」と美智子。
「半分は」
「残り半分は本気でしょう」と璟瑶。
家中に、また笑いが広がった。
――午後十一時二分。
家族がそれぞれの部屋へ戻った後、創と璟瑶は浴室へ入った。
一・七五坪の広い浴室。湯は熱くしすぎず、長湯もしない。璟瑶の体調を優先する。
二人は浴槽で並んだ。
「今日は大変だったね」と璟瑶。
『璟瑶の方が大変だろ』
「私?」
『朝から会議。午後はお義父さん。夜になったら、お義母さんと妹二人まで来た』
「創は初運転」
『二十キロで疲れた』
璟瑶が笑う。
「本当に怖かった?」
『怖かった』
「それでも免許は取る?」
『取る』
「即答」
『もう決めたから』
璟瑶は少し身体を創へ寄せた。
「免許を取ったら、最初は近所?」
『最初はな』
「慣れたら?」
『少しずつ遠くへ行く』
「私、行きたいところがたくさんある」
『どこ?』
「横浜、湘南、箱根、軽井沢、富士山。それから、もっと遠く」
『全部行こう』
「全部?」
『うん』
「双子が生まれた後も?」
『もちろん』
「四人で?」
『四人で』
璟瑶が嬉しそうに創を見る。
「約束?」
『約束』
創は璟瑶の頬へ触れ、ゆっくり顔を近づける。
唇が重なった。
一度離れ、また短く重なる。
「創」
『ん?』
「さっき、みんなの前で言ったこと」
『愛してるって?』
「……うん」
『本当だよ』
「私も」
『頭取室で、お義父さんに言ったんだろ?』
「言わされたの」
『でも本当?』
璟瑶は創の目を見る。
「本当。創のこと、私が思っていたより、ずっと好きになってた」
『俺も』
「どのくらい?」
『言葉で点数つけられないくらい』
「銀行員なのに?」
『何でも数字にできると思うなよ』
「創がそれ言う?」
二人は小さく笑い、もう一度だけ唇を重ねた。
家族が泊まっている夜だ。
お腹を圧迫しない姿勢で、短く穏やかに過ごす。
創は璟瑶のお腹を見る。
『今日も少し大きく見える』
「毎日言ってる」
『本当に大きくなってるから』
「二人いるからね」
『うん』
いつもの言葉が、今日も交わされた。
――午後十一時二十六分。
洗面室。
創がドライヤーを持つ。
「自分でできるよ」
『知ってる』
「じゃあ、どうして?」
『俺がやりたいから』
璟瑶は少し笑い、椅子へ座った。
創は温風を近づけすぎないよう気をつけながら、毛先からゆっくり乾かしていく。
「創」
『ん?』
「運転、上手くなるかな」
『なる』
「自信ある?」
『今はない』
「なのに?」
『練習するから』
「そういうところ、好き」
創はドライヤーを止めた。
『終わり』
「ありがとう」
『どういたしまして』
璟瑶が振り向く。創はその頬へ触れ、軽く唇を重ねた。
「家族がいるから、静かにね」
『それ、俺が言おうと思ってた』
「創には言えない」
『言えるよ』
「さっき、音を出してた」
『璟瑶もだろ』
二人は声を抑えて笑った。
――午後十一時四十分。
寝室。
今夜の新居には、いつもより多くの人がいる。
ゲストルームには父と母。少し離れた二つの部屋には、妹二人がいる。
それでも、この寝室にいるのは創と璟瑶だけだった。
二人はベッドの中で向かい合う。
「今日、お父さんと銀行で会ったんだね」
『本当に偶然だった』
「何て呼んだの?」
『欧陽元頭取』
「お父さんは?」
『宮嶋さん』
璟瑶が笑う。
「家では?」
『お義父さん』
「銀行では?」
『前頭取』
「私は?」
『銀行では頭取』
「家では?」
『妻』
璟瑶は満足そうに微笑んだ。
『何の確認?』
「大事な確認」
『確認は入口だろ。その次は?』
「おやすみのキス」
『分かりました』
創はゆっくり唇を重ねた。
一度離れ、もう一度、少し長く触れ合う。
「……おやすみ」
『おやすみ』
創は璟瑶を抱き寄せる。ただし、お腹を圧迫しないよう距離を調整する。
璟瑶も創の胸元へ身体を寄せた。
「創」
『ん?』
「免許を取ったら、本当にいろいろな場所へ行こうね」
『うん』
「長距離も」
『慣れてからな』
「分かってる」
『四人で行こう』
「うん」
創は服の上から、璟瑶のお腹へそっと手を置いた。
今日、崇岳は十二年ぶりに青嶺中央銀行本店を歩いた。
かつての部下と再会し、現在の若手行員へ問いかけ、黒瀬と琴葉の意見も聞いた。そして十二年前まで自分が使っていた頭取室で、現頭取となった娘と向き合った。
父と娘として。
前頭取と現頭取として。
その夜は、父、母、三人の娘、そして創が、一つの家へ集まった。
創もまた、初めて運転席に座った。
時速十キロ、二十キロ。それでも、自分の操作で車を動かした。
まだお腹の中にいる双子を、いつか安全に乗せるために、初めてハンドルを握った。
前頭取と現頭取。
銀行員と教習生。
父と娘。
夫と妻。
一日の中で、いくつもの顔と時間が交差した。
そして夜。
成城の新居では、六人の家族と、お腹の中にいる二人の小さな命が、同じ屋根の下で眠りにつこうとしていた。
いつもより少しにぎやかな家を、静かな夜が優しく包んでいった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、崇岳の本店訪問後編と創の初技能教習を描きました。
頭取室では父娘でありながら、まずは元頭取と現頭取として銀行の未来について意見を交わした崇岳と璟瑶。
「この銀行は私の銀行でも、君の銀行でもない」
という崇岳の言葉には、十二年前に頭取を務めた人物だからこその重みがあります。
そして二人きりになれば、話題は双子と璟瑶の体調へ。
仕事では厳しい元頭取も、娘を前にすればやはり父親でした。
一方の創は、ついに初めて自動車を運転。
十〜二十キロほどの場内走行でもかなり緊張しましたが、「怖いからやめる」ではなく、双子を乗せる未来のために免許取得を続けることを即答しました。
さらに夜は、美智子、雪瑶、玲瑶も新居へ集まり、そのまま家族四人が宿泊することに。
最後は創と璟瑶が、免許を取ったら家族四人で色々な場所へ行こうと約束して一日を終えました。
次回、第85話。
今度は青嶺中央銀行そのものがテレビカメラに追われます。
頭取・欧陽璟瑶が、現在の銀行が何を目指し、何に取り組んでいるのかを自ら語ります。




