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第83話「前頭取、十二年ぶりの帰還――欧陽崇岳が見た現在の青嶺中央銀行」


第83話です。


今回は、欧陽崇岳・72歳が十二年ぶりに青嶺中央銀行本店へ戻ってきます。


復職ではなく、創立記念資料や銀行史編纂への協力を目的とした訪問。


それでも、崇岳が頭取だった時代を知る行員たちにとっては特別な一日になります。


部署を一つずつ回り、若手からベテランまで直接話を聞く崇岳。


途中では、何も知らない周囲の前で創とも偶然再会します。


さらに社員食堂では黒瀬と琴葉へ、今の青嶺中央銀行について率直な意見を尋ねる場面も。


一方その頃、璟瑶は父が本店に来ていることも、母・美智子と妹二人が日本に戻っていることも知りません。


そして最後に、元頭取は現頭取のいる42階へ向かいます。



 水曜日。午前八時五十二分。


 東京都千代田区、大手町。


 地上四十二階、地下五階からなる青嶺中央銀行本店。その正面玄関に、一台の黒い車が静かに止まった。


 後部座席の扉が開き、一人の男性が降りる。


 欧陽崇岳、七十二歳。


 現頭取・欧陽璟瑶の父親であり、十二年前まで青嶺中央銀行の頭取を務めていた人物だった。


「……」


 崇岳は、かつて毎日のように出入りしていた建物を見上げた。


 外観は大きく変わっていない。だが、正面入口のセキュリティゲート、受付の端末、壁面のデジタルサイネージなど、入館の仕組みは十二年前とはまるで違っていた。


「変わったな」


 小さく呟く。


 今日、崇岳が本店へ来たのは、経営へ復帰するためではない。


 創立記念事業の一環として進められている銀行史編纂プロジェクト。その資料確認と証言収録に協力し、現在の青嶺中央銀行を前頭取の立場から見てもらいたいという依頼を受けたためだった。


 ただし、崇岳は訪問に一つの条件をつけている。


「大げさな出迎えはいらない。普通に銀行の中を歩かせてくれ」


 その希望により、ロビーに役員が並ぶような歓迎は行われなかった。


 待っているのは、総務部と銀行史編纂担当の数名だけだった。


 ――同じ頃。午前八時五十五分。


 四十二階、役員会議室。


「華瑞国際産業集団に対する八十億元の与信枠について、新エネルギー設備四十億元、運転資金二十五億元、物流会社の買収資金十五億元を、同じ性質のリスクとして扱わないでください」


 欧陽璟瑶は、正面の資料を開いていた。


 会議に出席しているのは、副頭取の久世宗一郎、専務の御子柴泰成、常務の水谷征吾、中国関連案件を担当する陳高明、経営企画の相馬玲二、第一秘書の劉川景仁、第二秘書の水城絢乃だった。


「中国側から最新資料を追加で取得しています」と陳が説明する。「物流会社の買収部分については、対象会社の債務をもう一段確認する必要があります」


「そうしてください。新エネルギー設備も、担保としての設備価値だけでは見ません。稼働率、販売先、価格変動まで確認します」


 水城は記録を取りながら、時計を見た。


 今日、崇岳が本店へ来ていることを、璟瑶は知らない。


 銀行史編纂プロジェクトを所管する総務部の担当者と、久世、黒崎忠彦ら一部の役員だけが知っている。


 崇岳本人が、事前に強く希望したからだった。


「現頭取の予定を動かす必要はない。仕事を止めさせてまで会うつもりもない。娘の会議が終わるまでは知らせなくていい」


 そのため璟瑶は、父親がすでに同じ建物の中にいることを知らないまま、会議を続けていた。


 ――午前九時二分。


 一階、受付。


「欧陽元頭取。お久しぶりです」


 総務部の大崎俊明が深く頭を下げた。


 十二年前、崇岳が頭取だった頃、大崎は本店総務の課長代理だった。現在は総務部の部長代理級として、銀行史編纂プロジェクトの実務を担っている。


「大崎」


 崇岳は顔を見るなり言った。


「白髪が増えたな」


「元頭取ほどではありません」


「言うようになった」


「十二年経ちましたので」


 崇岳が笑う。


 隣にいた女性も頭を下げた。


「お久しぶりです」


 人材開発部の藤堂真紀、五十四歳。十二年前は人事部で若手研修を担当していた。


「藤堂。君は変わらないな」


「それは女性に対する褒め言葉ですか?」


「褒めている」


 大崎が隣で小さく笑った。


 現在も青嶺中央銀行に在籍する行員のうち、崇岳の頭取時代を直接知る者は、本店と営業店を合わせておよそ四十七名。多くは定年退職し、関連会社への転籍や別の道を選んでいる。


 今日、本店内で直接会えるのは十二名だった。


 法人審査第一部の野々村隆史。総務部の大崎俊明。市場企画部の神原正樹。融資企画部の有馬祐二。事務統括部の川瀬浩司。システム統括部の柴崎健吾。


 国際営業部の森川佳代。人材開発部の藤堂真紀。法人営業第二部の久保田恵。法務・コンプライアンス部の小野寺美和。システム企画部の滝沢由香。営業店支援部の本間沙織。


 十二年前は課長、課長代理、若手管理職、中堅行員だった者たちが、今ではそれぞれの部署を支える立場になっている。


 崇岳は来訪者用の入館証を受け取った。


「最初に銀行史編纂室へご案内します」と大崎。


「その前に、何部署か見てもいいか?」


「もちろんです。ただ、役員用エレベーターをお使いにならなくてよろしいんですか?」


「必要なら使う。だが今日は、今の銀行を見に来た。行員と同じ動線を歩かなければ分からない」


 藤堂が笑う。


「昔と変わりませんね」


「何が?」


「頭取だった頃も、突然一般エレベーターに乗って、各部署や営業店を回っていました。毎回、現場が慌てていましたよ」


「慌てさせるために行ったわけじゃない」


「それは知っています」


 ――午前九時十八分。


 三十五階、法人審査第一部。


「失礼します」


 崇岳がフロアへ入った瞬間、何人かが顔を上げた。


 一人の男性が立ち上がる。


「……欧陽元頭取?」


「野々村」


「お久しぶりです」


 野々村隆史、五十八歳。


 周囲に小さなどよめきが広がる。


「欧陽元頭取?」


「今日いらっしゃるって聞いてた?」


「研修映像で見た人だ……」


 若手の多くは、崇岳を映像や銀行史の資料でしか知らない。


「十二年ぶりです」と野々村。


「そうなるか。元気だったか?」


「何とかやっています」


「今は何を見ている?」


「設備更新と物流関係の案件が多いですね」


「昔より資料は増えたか?」


「比較にならないほど増えました」


「それはいい意味で?」


「半分は」


「悪い意味でも?」


「半分です」


 崇岳が笑う。


「そういう話を聞きたかった」


 野々村も笑った。


「元頭取は昔、“資料が厚いほど融資が安全になるなら、電話帳を稟議に添付しろ”と言いましたよね」


「言ったか?」


「言いました」


「忘れた」


「こちらは忘れられません」


 周囲から控えめな笑いが起こった。


 崇岳は、審査部の机を見渡す。紙の量は減り、モニターの数が増えている。資料の回覧も、審査の進捗管理も電子化されていた。


「便利になったか?」


「便利です。ただ、画面上の数字だけで企業を分かった気にならないようにと、若手には言っています」


「それでいい。仕組みが新しくなっても、数字の向こうに会社があることは変わらない」


 ――午前九時四十一分。


 隣接するリスク管理部門を見たあと、崇岳は階段へ向かった。


「一階だけ階段で下りよう」


「元頭取、七十二歳ですよね」と大崎。


「知っている」


「エレベーターがあります」


「階段もある」


「相変わらず頑固ですね」と藤堂。


「それも知っている」


 三人で一階下り、三十四階の融資企画部へ入る。


 有馬祐二が崇岳を見つけ、目を丸くした。


「欧陽元頭取!」


「有馬。声が大きい」


「すみません。十二年ぶりだったので」


「だからといって、銀行中に聞こえる必要はない」


 周囲に笑いが起こる。


「元頭取、昔より丸くなりました?」


「年を取っただけだ」


「そういうことにしておきます」


「有馬も言うようになったな」


「十二年分です」


 ――午前十時七分。


 二十八階、国際営業部。


 森川佳代は崇岳の姿を見ると、数秒間固まった。


「……欧陽元頭取」


「森川。久しぶりだな」


「お久しぶりです」


「まだ中国を担当しているのか?」


「現在も東アジアが中心です。元頭取に上海へ飛ばされましたから」


「飛ばしたんじゃない。任せたんだ」


「受ける側から見れば、ほとんど同じです」


「違う」


 そこへ市場企画部の神原正樹がやって来た。


「崇岳さん」


 周囲にいた若手が少し驚く。前頭取を名前で呼ぶ者は、今ではほとんどいない。


 神原は崇岳の頭取時代、企画スタッフとして長く直属で働いていた。


「神原」


「本当に帰ってきたんですね」


「帰ってきたと言うと、復職したように聞こえる」


「違うんですか?」


「七十二歳を働かせる気か?」


「お元気そうなので」


「断る」


 森川が笑う。


 少し先では、システム企画部の滝沢由香も崇岳に気づいた。


「元頭取」


「滝沢」


「十二年前、銀行のシステムが古いとおっしゃいましたよね」


「言った」


「今は便利になりました。ただ、別の意味でもっと大変です」


「どうして?」


「便利になった分、止められなくなりました。以前より、一つのシステム障害が広い業務へ影響します」


 崇岳の表情が真剣になる。


「なるほど。それは銀行史にも残した方がいい。昔は紙の処理が一つ止まっても、銀行全体までは止まらなかった」


「今は一つの障害が、複数の業務や営業店へ同時に影響する可能性があります」


「便利になったことで、新しい弱さも生まれたわけだな」


「はい」


 崇岳は、ただ懐かしむために歩いているのではなかった。


 今の銀行が何を得て、何に悩んでいるのか。一つの部署ごとに、自分の目で見て、そこで働く行員の言葉を聞いていた。


 ――同じ頃。午前十時十九分。


 東京都中央区、銀座のカフェ。


「やっぱり、日本のケーキは小さい」


 欧陽玲瑶、三十九歳。


 欧陽家の三女は、ケーキを食べながら不満そうに言った。


 向かいに座るのは、次女の欧陽雪瑶、四十二歳。


「玲瑶、それ二個目でしょう」


「二個食べたから、小さいって分かるの」


「意味が分からない」


 隣では母親の欧陽美智子が紅茶を飲みながら、二人の娘を見て笑っている。


「二人とも、日本へ戻って最初の話がケーキなの?」


「お母さん、日本人でしょう?」と玲瑶。


「そうだけど」


「なら、日本のケーキ事情は重要」


「放っておいて。ずっとこうだから」と雪瑶。


「そうね」


 三人は日本にいる。


 しかし、長女の璟瑶はまだ何も知らない。


 父親が青嶺中央銀行本店にいること。母親が日本へ戻っていること。二人の妹まで一緒に来ていること。


 美智子がティーカップを置いた。


「お父さん、今頃は銀行の中を歩き回っているでしょうね」


「七十二歳で?」と雪瑶。


「そう」


「階段を使ってそう」と玲瑶。


「使ってると思う」


「絶対使ってる」


 美智子が笑う。


「昔から、エレベーターを待つくらいなら一階か二階は歩く人だったから」


「お姉ちゃんは知ってるの?」と雪瑶。


「知らない」


 妹二人が同時に顔を上げた。


「え?」


「崇岳さんが、知らせなくていいって言ったの。仕事を邪魔したくないからって」


「じゃあ、私たちが日本にいることも?」


「まだ知らない」


 雪瑶が額に手を当てる。


「お母さん、それは絶対に怒られるよ」


「どうして?」


「家に帰ったら、父、母、妹二人が全員日本にいました、でしょう?」


 美智子は少し考えた。


「……喜ぶと思う」


「半分は怒る」と雪瑶。


「しかも、お姉ちゃんは今、双子がいるんでしょう?」と玲瑶。


「しっ」


 美智子が周囲を見回す。


「外で大きな声で言わないの」


「ごめん」


「お腹の写真は見た?」と雪瑶。


「見たよ。少し分かるようになってきた」


「会いたい」と玲瑶。


「私も」と雪瑶。


「今日会えるかは分からない。璟瑶は仕事中だから」


「でも、お父さんが一番先に会いそう」


「銀行へ行ってるからね」


「それ、お姉ちゃんはもっと怒ると思う」


 三人の笑い声が重なった。


 その頃、話題の本人はまだ四十二階で会議を続けていた。


 ――午前十一時四分。


 青嶺中央銀行本店。


 崇岳は二十階から一般用エレベーターに乗り、十八階のボタンを押した。


 中には五人の行員がいる。


 法人営業第一部の佐伯遼と北川玲奈も乗り合わせていた。


 十九階で扉が開く。


『失礼します』


 ファイルを持った宮嶋創が乗り込んできた。


 扉が閉まる。


 創は何気なく前を見て、数秒間動きを止めた。


『……欧陽元頭取』


 佐伯と北川が創を見る。


 崇岳は表情を変えず、行内で使うべき呼び方を口にした。


「宮嶋さん」


 二人は岳父と婿だ。


 だが、このエレベーターの中にいるのは、青嶺中央銀行の前頭取と若手行員だけだった。


『お久しぶりです』


「ええ」


『本日は、本店へいらしていたんですね』


「銀行史の資料確認と、現在の行内を見せてもらうために来ました」


『そうでしたか』


「宮嶋さんは、法人営業でしたね」


『はい。法人営業第一部です』


「そうですか」


 それ以上、崇岳は何も聞かなかった。


 創も余計なことは話さない。


 十八階に到着し、扉が開く。


「では」


 崇岳が先に降りる。


 創は軽く頭を下げた。


『失礼いたします』


 佐伯と北川も続く。


 少し廊下を歩いてから、佐伯が尋ねた。


「宮嶋、欧陽元頭取と会ったことがあるの?」


 創は一瞬だけ答えを考えた。


『以前、ご挨拶したことがあります』


 嘘ではない。


 実際には何度も会い、家族として話している。ただ、義理の父親だとは言わなかった。


「すごいね。私、実際に見るのは初めて」と北川。


「俺も銀行史の研修映像だけだった」と佐伯。


『俺も今日いらっしゃるとは知らなかったので、驚きました』


 それも本当だった。


 ――午前十一時十二分。


 法人営業第一部へ崇岳が入ると、フロアの空気が変わった。


 年次の高い行員の何人かが、すぐに気づく。


「欧陽元頭取……?」


 桐生雅人が席を立った。


「法人営業第一部、若手法人担当チームの桐生です」


「若手担当の責任者ですか?」


「はい」


「初めまして」


「こちらこそ、お目にかかれて光栄です」


 桐生は、崇岳が創の義父であることを知っている。


 創が結婚しており、妻が欧陽璟瑶であることを報告されているからだ。


 それでも表情も態度も変えなかった。


 崇岳もまた、創だけを見ようとはしない。


「今、若手にはどの程度の案件を持たせていますか?」


「経験や習熟度に応じて担当させています。任せますが、丸投げはしません。必要な段階で上司や先輩が確認します」


「それがいい」


 相沢拓也も近くへ来た。


「相沢です。宮嶋を含め、若手が担当する案件のサポートをしています」


「そうですか」


 相沢は二人の関係を何も知らない。


 創は少し離れた自席へ戻り、東央精密の追加確認事項を整理し始めた。


 崇岳はその姿を一度だけ見たが、近づかなかった。


 代わりに、水野拓海、片瀬美咲、小宮山陸といった若手行員に話しかける。


「仕事はどうですか?」


「まだ分からないことが多いです」と水野。


「分からない時は?」


「桐生さんや相沢さん、ほかの先輩に聞きます」


「それでいい。分かったふりをされるより、ずっといい」


 片瀬が尋ねる。


「欧陽元頭取の頃も、若手はこんな感じでしたか?」


「もっと怒られていた」


 周囲に笑いが起きる。


「ただし、昔の方が全部よかったとは思わない方がいい。昔の悪かったところが今は直っているなら、それが一番いい」


 桐生が小さく頷く。


 創も自席から、その言葉を聞いていた。


 家庭で会う時とは違う。


 父親としてではなく、前頭取として銀行と行員を見る崇岳の姿が、創には少し新鮮だった。


 ――午前十一時四十分。


 崇岳は二十七階へ向かう階段を下りていた。


「元頭取、本当に全部歩くんですね」と大崎。


「銀行が広くなった」


「建物の大きさは同じです」


「部署が増えた」


「それは増えました」


 二十七階の法務・コンプライアンス部では、小野寺美和が崇岳を迎えた。


「欧陽元頭取」


「小野寺。まだ銀行に怒っているのか?」


「誰が怒らせていると思っているんです?」


「昔は私だった」


「自覚があったんですね」


「少しは」


 そこへ営業店支援部の本間沙織も合流した。


「元頭取。昔、連絡なしで営業店へ来るの、本当に迷惑でした」


「今日は本店だけだから安心しろ」


「そういう問題ではありません」


 また笑いが起きた。


 十二年が経過しても、当時同じ銀行で働いた者との距離は残っている。


 ――午後零時十九分。


 社員食堂。


「聞いた?」と黒瀬颯真。


「何を?」と水無瀬琴葉。


「欧陽元頭取が本店に来てるって」


「聞いた。二十八階も回ったみたい」


「七十二歳だよな」


「うん」


「現頭取のお父さんだろ。親子で頭取って、改めて考えるとすごいな」


「でも、経営の考え方は同じじゃないみたいだよ。時代も違うし」


 二人の周囲には、それぞれの所属部署の上司や先輩が座っていた。


 黒瀬が以前所属していた京浜栄信銀行も、琴葉がいた日栄未来銀行も、長く青嶺中央銀行と関係のある銀行だ。


「京浜栄信にいた頃、欧陽元頭取の名前は研修で何度も聞いた」と黒瀬。


「日栄未来も同じ。青嶺との連携は昔からあったから」


 その時、近くにいた大庭智也が箸を止め、立ち上がった。


 真壁隆志、坂口裕介、松本由佳、藤沢麻衣、古川直人、小野翔平、大崎理沙も次々に立つ。


「?」


 黒瀬と琴葉が後ろを振り向いた。


「……え?」


 社員食堂の入口に、欧陽崇岳が立っていた。大崎俊明も同行している。


 崇岳を知る中堅やベテラン行員が、一人、また一人と立ち上がる。


「欧陽元頭取」


「お久しぶりです」


「元頭取、お疲れさまです」


 崇岳は片手を上げた。


「座って。昼飯が冷める」


 それでも黒瀬と琴葉は立ち上がり、頭を下げた。


「欧陽元頭取、お疲れさまです」


 崇岳は食堂を見渡しながら歩き、なぜか二人のテーブルの近くで足を止めた。


「食事中にすみません」


「いえ、大丈夫です」と黒瀬。


「二人とも若いね。新卒ですか?」


「僕は二十七歳で、キャリア採用です。以前は京浜栄信銀行にいました」


「私は二十六歳です。前職は日栄未来銀行でした」


「なるほど。どちらの銀行も、昔からよく知っている」


 崇岳は、二人が創の同期であることを以前から知っていた。創から話を聞いたことがあったからだ。


 だが、それを理由に近づいたと思われないよう、本人たちには言わない。


 黒瀬が少し緊張しながら尋ねた。


「欧陽元頭取は、京浜栄信銀行の鷹取宗一郎元頭取をご存じですか?」


「もちろん。何度も会った」


「僕が新人だった頃、鷹取元頭取が支店へ来たことがあります。応接室に入らず、ずっとロビーを見ていたんです」


 崇岳が懐かしそうに笑う。


「あの人はそういう人だった。“本店の数字だけでなく、支店の床を見ろ”とよく言っていた」


「本当に、そのままの方でした」


 今度は琴葉が尋ねる。


「日栄未来銀行の倉橋美登里元頭取もご存じですか?」


「知っている。会議資料を真っ赤に直す人だった」


 琴葉が目を丸くする。


「そうです。有名でした」


「“お客さまが理解できない説明は、銀行が説明したことにならない”と、いつも言っていた」


「その言葉、私が個人営業企画にいた時も研修で使われていました」


「そうか」


 崇岳は二人を見た。


「では、二人とも外から青嶺へ来たんですね」


「はい」


「そうです」


「一つ、聞いてもいいですか?」


 二人の背筋が少し伸びる。


「はい」


「この銀行で、変えた方がいいと思うところはありますか?」


「……私たちに聞くんですか?」と琴葉。


「若い人と外から来た人だから、見えるものもある。前頭取を褒めるだけなら、聞く意味がない」


 黒瀬と琴葉は顔を見合わせた。


 先に黒瀬が答える。


「では、一つだけ」


「どうぞ」


「グループ銀行から青嶺本体へ情報をつなぐ時、似た内容を別の様式に入れ直す場面がまだあります。システム統合が難しいのは分かりますが、同じ内容を何度も確認することがあります」


「現場の時間を取られる?」


「はい。ただ、確認自体が不要だとは思っていません。重複を減らせる部分はあると思います」


「なるほど」


 次に琴葉が答える。


「私は、お客さまへの説明です。同じ商品でも、店頭の説明、紙の案内、アプリ、Webで表現が少しずつ違うことがあります」


「必要事項が違うから?」


「それもあります。でも、必要な情報を守りながら、もっと同じ言葉で分かりやすくできる部分があると思います」


「いいね」


「悪いところを言ったのに、いいんですか?」


「悪いところを聞いたんだから、悪いところを言っていい」


 黒瀬が尋ねる。


「現役の頃も、こういうことを聞いていたんですか?」


「聞いた。ただ、頭取に悪いところを言う人は少なかった」


 近くの席から大庭が声をかける。


「元頭取、当時は怖かったですから」


 崇岳が振り返る。


「大庭、いたのか」


「ずっといました。聞こえていました?」


「全部」


 食堂に笑いが広がった。


「今は怖くないのか?」と崇岳。


「今は元頭取ですので、少しだけ」


「大庭さん、それを言って大丈夫ですか」と真壁。


「もう評価されないから」


「覚えておく」


「やっぱり怖いです」


 さらに笑いが起き、黒瀬と琴葉の緊張も少し解けた。


 崇岳は最後に二人へ言った。


「前の銀行のよかったところを忘れないでください。青嶺のよいところを足せばいい。転職したからといって、以前学んだものを全部捨てる必要はない」


「はい」


「ありがとうございます」


「食事を邪魔しましたね」


「いえ。ありがとうございました」


 崇岳が離れたあと、黒瀬は座ったまま数秒間黙っていた。


「俺、前頭取に銀行の変えた方がいいところを言った」


「言ったね」


「大丈夫かな」


「もう前頭取だから」と琴葉。


 隣の席から大庭が口を挟む。


「その台詞、さっき俺が言って怒られた」


 また笑いが起こった。


「創にも教えてやろう」と黒瀬。


「絶対驚くね」


 二人は知らない。


 その前頭取が、創の義理の父親であることを。


 ――午後一時十四分。


 十四階、共用フロア。


「元頭取、そろそろ休みませんか?」と大崎。


「今、食堂へ行った」


「食事はしていません。話しただけです」


「あとで食べる」


「七十二歳だということ、忘れていませんか?」と藤堂。


「さっきから皆、年齢ばかり言うな」


 崇岳は若手行員一人一人の挨拶へ返しながら、営業店支援部へ入った。


 本間沙織が、営業店から寄せられる問い合わせへの遠隔支援を説明する。


 以前は電話とFAXが中心だった。今ではチャット、Web会議、情報共有システムが使われている。


「速くなったな」と崇岳。


「速くなりました」


「仕事は楽になった?」


「別の忙しさが増えました」


「便利になれば、暇になるわけではない?」


「なりません」


「その辺りは、銀行も変わらないな」


 ――午後一時四十九分。


 四十二階では、午前から続いた会議がようやく一区切りを迎えた。


「華瑞案件については、追加資料が揃ってから再度確認します」と璟瑶。


「承知しました」と久世。


「審査側の論点も整理します」と水谷。


「お願いします」


 璟瑶が資料を閉じる。


 水城が時計を確認した。


「頭取、十五分間休憩してください」


「はい」


 会議室を出た久世は、廊下で待っていた黒崎忠彦と合流した。


「今、どちらです?」と久世。


「十四階です」


「まだ回っているんですか」


「昔から、そういう方でしょう」


 十二年前、久世は四十五歳で経営企画担当の取締役兼執行役員。黒崎は四十四歳で法人金融担当の取締役兼執行役員だった。


 今は一人が副頭取、一人が常務となっている。


 崇岳が頭取だった時代を、経営側で直接知る二人だった。


 ――午後二時十一分。


 二十六階、銀行史編纂室。


 崇岳がようやく椅子へ座ったところで、久世と黒崎が入ってきた。


「欧陽元頭取」


「久世。黒崎」


「お久しぶりです」


 崇岳は二人を順番に見た。


「久世、偉くなったな」


「元頭取に言われると、褒められているのか試されているのか分かりません」


「黒崎も偉くなった」


「こちらも試験ですか?」


「二人とも疑い深くなったな」


「銀行員ですから」と久世。


「私が教えた?」


「そこは元頭取の功績ということにしておきます」と黒崎。


 三人が笑う。


「今の銀行はどうですか?」と崇岳。


「簡単には答えられません」と久世。


「正解」


 黒崎が続ける。


「法人金融は、以前より複雑になりました。金利や融資だけではありません。事業承継、海外展開、GX、M&A、人材まで求められます」


「それは、よいことですか?」


「半分は。もう半分は、銀行が何でも分かった気にならないよう注意する必要があります」


「それも正解」


 久世が尋ねる。


「今日、若手にも質問して回っているそうですね」


「食堂で、外から来た若手二人と話した。面白かった」


「誰です?」


「名前は聞かなかった」


 実際には、黒瀬と琴葉が創の同期であることを知っている。


 それでも、二人だけを特別に見ていたと思われるような話はしなかった。


「この後はどうします?」と久世。


「四十二階へ行く」


「とうとう現頭取に会いますか」と黒崎。


「会議は終わった?」


「終わりました」


「私が来ていることは?」


「まだご存じありません」


 崇岳は少し笑った。


「怒るかな」


「間違いなく驚きます」と久世。


「驚いたあとで、怒るかもしれません」と黒崎。


「どうして?」


「父親が自分の銀行を半日歩いていたのに、何も知らされていなかったからです」


「仕事中だった」


「そういう問題ではない気がします」


「行けば分かる」


 崇岳は椅子から立ち上がった。


 ――同じ頃。午後二時十八分。


 銀座のカフェ。


 美智子のスマートフォンに、崇岳から短いメッセージが届いた。


「今から四十二階」


 美智子が画面を見ていると、雪瑶が尋ねた。


「お父さん?」


「うん」


「何て?」


「これから、お姉ちゃんに会うって」


 妹二人が顔を見合わせた。


「怒られる」と雪瑶。


「絶対に」と玲瑶。


「そんなに?」と美智子。


「半日も同じ銀行にいて、何も言わなかったんでしょう?」


「そうだけど……」


「私たちが日本にいることは、今伝える?」と美智子。


「今言っても怒られる」と雪瑶。


「あとで言っても怒られる」と玲瑶。


「じゃあ、どうするの?」


「あとで全部まとめて怒られよう」


「どうして私まで?」


「お母さんも共犯だから」


「そうなの?」


 三人の笑い声が、また重なった。


 ――午後二時二十五分。


 青嶺中央銀行本店、四十二階。


 エレベーターの扉が開く。


 欧陽崇岳が降りた。


 十二年前まで、毎日のように歩いていたフロア。かつて自分が働いた頭取室があり、今は娘が青嶺中央銀行を率いている場所だった。


 第一秘書の劉川景仁が、遠くからその姿に気づく。


「……」


 珍しく、数秒間固まった。


「劉川さん?」


 水城絢乃が視線を追い、目を見開く。


「え……?」


 崇岳が二人へ近づいた。


「久しぶりです」


 劉川はすぐに立ち、頭を下げる。


「欧陽元頭取。本日いらしていたのですか?」


「朝から」


「朝から?」


 水城は頭取室の扉を見た。


「頭取は、ご存じないのですね」


「知らせないよう頼んだ」


「……」


 水城は何とも言えない表情になる。


 崇岳が尋ねた。


「怒ると思いますか?」


「私からは何とも申し上げられません」


 その顔には、怒る可能性が高いと書いてあった。


 劉川は表情を崩さないまま応じる。


「頭取は、現在休憩中です。お通ししてよろしいでしょうか」


「お願いします」


 水城が頭取室の扉へ近づき、ノックする。


「頭取、よろしいでしょうか」


「どうぞ」


 中から、璟瑶の声が返る。


 水城は扉を少し開けた。


「お客さまです」


「誰?」


 水城は一度、崇岳を見る。


「……欧陽元頭取です」


 数秒間、部屋の中から何も聞こえなかった。


 崇岳が小さく笑い、扉の前へ進む。


 今日、彼は前頭取として行内を歩いた。


 十二年前の部下たちと再会し、今の銀行について尋ねた。現在の役員と言葉を交わし、外から入ってきた若手行員の意見を聞いた。


 エレベーターでは、義理の息子である創とも会った。


 それでも行内では、前頭取と若手行員の距離を守った。


 そして最後に会うのは、青嶺中央銀行の現頭取。


 同時に、自分の長女でもある女性だった。


 扉が開く。


 頭取席にいた璟瑶が、顔を上げる。


「……お父さん?」


 完全に仕事の顔が崩れた。


「久しぶり」


 璟瑶は目を丸くしたまま、椅子から立ち上がる。


「どうして、ここにいるの?」


 十二年前、この部屋の主だった父親。


 今、その部屋を引き継ぎ、銀行を率いる娘。


 父と娘。前頭取と現頭取。


 二つの顔を持つ二人が、十二年ぶりに頭取室で向かい合った。


 その本当の会話は、これから始まる。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、前頭取・欧陽崇岳の十二年ぶりとなる青嶺中央銀行本店訪問でした。


かつての部下たちとの再会だけでなく、現在の審査、国際、システム、営業店支援などを実際に歩いて確認。


「昔の方が良かった」と懐かしむのではなく、今の銀行がどう変わったのかを若手にも直接聞く崇岳らしい一日になりました。


黒瀬と琴葉も、まさか創の義父とは知らないまま、前職銀行の思い出や青嶺中央銀行への率直な意見を話しています。


そして創とはエレベーターで偶然再会。


周囲には岳父と婿であることを完全に伏せ、あくまで「元頭取」と「若手行員」として挨拶しました。


一方で、美智子と璟瑶の妹二人も密かに日本へ。


肝心の璟瑶だけが、まだ何も知りません。


次回、第84話。


十二年前まで父が座っていた頭取室で、今度は現頭取となった娘・璟瑶と崇岳が向き合います。


そして後半では、創がついに初めて運転席へ座ります。


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