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第80話「夫婦を知る人は、まだほんの少し――それでも四人家族の時間は進んでいく」


第80話です。


71話から続いてきた「結婚後の秘密共有編」も、今回で一区切りです。


創の東央精密製作所の設備更新案件は、ついに正式審査の段階へ。


六十五点から始まった資料も、事実と推定、導入する場合としない場合の両面を整理し、八十点まで到達しました。


一方、銀行内で二人の結婚を知るのは、水城、劉川、桐生、御子柴だけ。


役員会や一般行員には、まだ秘密のままです。


また今回は、創が以前一人暮らしをしていた部屋についても改めて考えます。


家賃や光熱費をどうするのか。


解約するのか、それとも思い出の場所として残すのか。


そして夜。


二人の結婚指輪と、少しずつ大きくなる璟瑶のお腹を並べながら、これまでの十話を静かに振り返ります。



 水曜日。午前七時三十八分。


 東京都世田谷区、成城の新居。


「創。今日、東央精密は一区切り?」


『多分』


「多分?」


『桐生さんが最終的にどう見るか、まだ分からないから』


 欧陽璟瑶は朝食を食べる手を止め、向かいに座る宮嶋創を見た。


「七十九点だったんでしょう?」


『今も七十九点』


「あと一点」


『点数を取りたくて仕事してるわけじゃないよ』


「でも、気になる?」


『……気にはなる』


 璟瑶が笑う。創も味噌汁を飲みながら、少しだけ笑った。


 東央精密製作所の設備更新資金融資案件。最初に資料を作った時は、老朽化した設備を更新する必要性ばかりを見ていた。


 それから何週間もかけて、創は資料を直した。


 修繕費は比較する範囲を揃えた。設備の停止時間は、全設備で発生したものと、今回の対象設備が直接の原因と確認できたものを分けた。古い設備を使い続ける負担だけでなく、新しい設備を導入する時の教育や立ち上がりの負担も書いた。


 生産性が一時的に落ち、受注まで減った場合に返済余力がどう変わるかも検証した。導入後に何を確認するかは、銀行だけで決めず、顧客と話し始めている。


 ようやく、正式な審査に向けて資料をまとめるところまで来た。


「緊張してる?」と璟瑶。


『少し』


「珍しい」


『融資案件だぞ』


「頭取の夫として、じゃなくて?」


『銀行では、ただの若手行員として』


「そうだったね」


 創は左手を見た。今は薬指に結婚指輪がある。けれど、家を出る前には外す。


 今日も、いつも通りに。


 ――午前七時五十六分。


 玄関で、創は小さな指輪ケースを開いた。


「まだ少し寂しい?」


『少し』


「私も」


 二人はそれぞれ指輪を外し、別々のケースにしまった。


「帰ってきたら、またつけるよ」と璟瑶。


『今日もお願い』


「うん。今日も私がつける」


 創は先に家を出た。璟瑶は数分後、別の経路で銀行へ向かう。


 家では夫婦。銀行では頭取と若手行員。その距離は、今日も変えない。


 ――午前八時二十分。


 青嶺中央銀行本店、十八階。法人営業第一部。


『おはようございます』


「おはよう、宮嶋。今日、東央精密の資料を出すんだろ?」


 相沢拓也が創の机に寄ってきた。


『はい』


「緊張してる?」


『ちょっと』


「最初、六十五点だったもんな」


『あの時は桐生さんに、かなり言われました』


 横から佐伯遼が振り向く。


「六十五、七十、七十三、七十四、七十七、七十九。順調に上がったじゃないか」


『全部覚えてるんですか?』


「点数を言われるたび、お前の顔が分かりやすかったから」


「七十七点の時、嬉しそうだったよね」と藤崎美優。


「七十九点の時は、あと一点って顔だった」と北川玲奈も言う。


『皆さん、仕事してください』


「宮嶋もな」と水野拓海。


『はい』


 その時、桐生雅人がやって来た。


「宮嶋。九時に小会議室。資料を全部持ってきて」


『はい』


「相沢、榎本も」


「分かりました」


 副チームリーダーの榎本和也が応じる。


 桐生は創を見た。


「今日は点数を取りに来るなよ」


『分かっています』


「審査に回せる資料になったかを見る。七十九点でも回せないなら回さない。八十点でも問題があれば戻す」


『はい』


 創は頷いた。


 残り一点ではない。今から問われるのは、別の部署の目に渡せるかどうかだった。


 ――午前八時五十九分。


 小会議室の机に、四人分の資料が並ぶ。


 表紙には、こう記されていた。


 東央精密製作所 設備更新資金融資検討資料。


 従業員八十六名。売上高約二十四億円。設備投資額約一億八百万円。借入希望額一億円。


「説明して」と桐生。


『はい』


 創は一度息を整え、資料を開いた。


『今回の設備更新は、老朽化した設備への対応を目的としています。ただし、老朽化しているから更新すべきだ、という結論を銀行側で先に置いていません。更新する場合と、しない場合の両方を整理しました』


 桐生は黙って聞いている。


『修繕費は、前年と当年で対象設備に関連する費用の範囲を揃えて比較しました。また、全設備の停止時間約五十四時間を、すべて今回の対象設備が原因だったとは扱っていません。直接の原因と確認できた停止を切り分けています』


「納期への影響は?」と榎本。


『主要取引先向けで一日遅れた実績があります。ただ、恒常的に遅延が発生しているとは確認されていません』


「続けて」


『現設備を使い続ける場合、熟練者の経験に頼る操作と異常時対応が残ります。一方、更新した場合にも、メーカー研修や社内教育、立ち上がり期間が必要です。新設備にすれば、すぐ教育負担がなくなるとは見ていません』


 相沢が小さく頷いた。何度も修正した部分だ。創は今、それを資料に頼りきらずに説明できている。


『返済面では標準ケースに加え、新設備の立ち上がり時に生産性が一時的に七十パーセントまで低下し、同時に受注が五パーセント減る複合ストレスケースも見ています』


「結果は?」と桐生。


『返済余力は大きく縮小します』


「それで?」


『その仮定だけで直ちに資金繰りが破綻するという結果ではありません。ただし、安全だとは表現しません』


「理由」


『七十パーセントという生産性は銀行側が置いたストレス仮定です。実際の受注減少幅や継続期間、原材料価格、導入時期などが変われば、結果も変わります』


「うん」


『そのため、実行後は導入進捗、生産性、停止時間、修繕費、納期、受注動向、返済状況を確認していく考えです』


「若手の習熟は?」と榎本が尋ねる。


『研修を受けた人数だけでなく、単独で操作できる人数と、異常時に対応できるかを中心に見る方向です』


「方向、というのは?」


『銀行側だけで管理項目を決めず、先方と協議して最終化するためです』


 桐生が顔を上げた。


「なぜ、一方的に決めない?」


『先方自身の設備管理や人材育成にも役立つ指標でなければ、銀行に報告するためだけの作業になってしまうからです』


 少しの沈黙のあと、桐生が次のページをめくった。


「更新しない場合は?」


『新たな借入負担は生じません。一方で、対象設備の修繕費や停止リスク、熟練者への依存は残ります。ただ、それらが今後必ず悪化するとは断定していません』


「更新する場合は?」


『停止リスクや熟練者依存の低減が期待できます。ただし、新規借入と立ち上がり時の生産性低下、新設備の教育・維持費という負担が生じます』


「どちらが正解?」


 創は一拍置いて答えた。


『銀行が決めることではありません。東央精密が更新を選ぶ理由に合理性があるか。その投資をして返済できるか。想定外が起きた時に耐えられるか。銀行はそこを確認します』


 桐生は資料を閉じ、相沢を見る。


「どう?」


「審査に回していいと思います。未確認の部分も、そのまま未確認と書いてあります。数字の比較範囲も揃いました」


「榎本は?」


「私も、正式審査へ進める水準だと思います。ただ、審査から追加確認は来るでしょう」


『はい』


 桐生が創に向き直った。


「宮嶋。八十点」


『……八十、ですか』


「指導用の点数だぞ。八十点だから融資が通る、という意味じゃない」


『はい』


「審査に出せる資料になった、という意味だ。ここからは別の目が入る。追加資料を求められるかもしれないし、条件が変わるかもしれない」


『分かっています』


「でもな」


 桐生は少し間を置いた。


「最初に六十五点だった資料を、ここまで持ってきたのはお前だ。相沢も榎本も俺も、色々言った。でも聞いて、確認して、直したのは宮嶋だ。そこは自分で認めろ」


 創はしばらく黙ってから、頷いた。


『……はい』


「じゃあ審査に回す」


『ありがとうございます』


「俺への礼は、案件が終わってからにしろ」


 相沢が笑う。


「でも、一区切りだな」


『はい』


 正式審査へ進む。それは融資の決定ではない。けれど創が積み重ねてきた仕事は、確かに次の段階へ届いた。


 ――午前十時十三分。


 四十二階、頭取室。


 璟瑶は華瑞国際産業集団に関する資料を確認していた。劉川が通常通り予定を読み上げる。


「十時半に久世副頭取、十一時十五分に陳常務。午後は役員向けのリスク説明です」


「はい」


 水城が続けた。


「午後の予定には、十五分の休憩を二回確保しました」


「二回?」


「昨日、少しお疲れが出ていたので」


 劉川も表情を変えずに言う。


「私も、その方がよいと思います」


「また二対一?」


「頭取、諦めてください」


 水城が答えたところで、扉がノックされた。


「どうぞ」


 久世宗一郎が入ると、水城はすぐに仕事の表情に戻った。劉川は最初から何も変わらない。


「大阪の日程ですが、一部は私が代行します」と久世。


「助かります」


「最近は移動を減らしていますね」


「オンラインで対応できるものが増えましたから」


「そうですね」


 久世はそれ以上尋ねなかった。


 頭取の結婚も、双子の妊娠も知らない。今、共有されているのは業務上の予定調整だけだった。


 ――午前十一時四十七分。


 人事部。


 御子柴泰成が書類を見ていると、部下が若手法人担当の研修一覧を持ってきた。


「宮嶋創さんの次期研修も、継続でよろしいでしょうか」


「通常の基準は満たしている?」


「はい」


「なら、担当部署の通常の手順で進めてください」


「承知しました」


 御子柴が創の配偶者を知っているからといって、研修の扱いを変えることはない。優遇もしない。不利益も与えない。


 必要な情報を知った人が、それぞれの仕事の線を守る。それが二人の職場での距離を保っていた。


 ――午後零時十二分。


 社員食堂で、創は相沢たちと昼食を取っていた。今日は弁当ではなく、鶏南蛮定食だ。


「宮嶋。八十点、おめでとう」


『相沢さん、声が大きいです』


「何が八十点?」と佐伯。


『東央精密の資料につけられた、指導用の点数です』


「ついに?」と北川。


『ついに』


「六十五点からだろ。結構上がったな」と水野。


『でも、審査はこれからです』


「それは本人が一番分かってるよ」と相沢。


 小宮山が箸を置く。


「分かってても、今日は少しくらい喜べばいいだろ」


 創は少し考えた。


『……そうですね。嬉しいです』


「珍しく素直」と佐伯。


『桐生さんにも、自分で認めろって言われたので』


「桐生さん、そういうことも言うんだね」と北川。


「言う時は言うよ。その前に十倍くらい厳しいけど」と相沢。


 皆が笑う。創も笑いながら、昼食を続けた。


 この席で創の妻が誰かを知っている人はいない。少し離れた席の桐生だけが知っているが、仕事中にその話をすることはなかった。


 ――午後一時十九分。


 黒瀬颯真と水無瀬琴葉は、食堂を出る前に創の姿を見つけた。


「創、今日は機嫌よさそうだな」と黒瀬。


「東央精密が進んだんじゃない?」


「そうかもな。……そういえば、最近あいつの彼女は元気なのかな」


「またその話?」と琴葉が笑う。「本人が話さないなら、聞きすぎない方がいいよ」


「結婚したら、さすがに教えてくれるだろ」


 琴葉は少し離れた席の創を見た。


「宮嶋創だから、急に言うかもしれないね」


「それはありそう」


 二人はまだ知らない。その『急に言う日』を、創がいつにするか考えていることを。


 ――午後二時三十五分。


 四十二階の役員会議室では、海外法人金融、システム、リスク、人事と議題が進んでいた。


「今期のキャリア採用三名は、各部署でおおむね順調に定着しています」と長谷部章一が報告する。


「個人名ではなく、採用・育成制度として検証してください」と璟瑶。


「承知しました」


 三名は、宮嶋創、黒瀬颯真、水無瀬琴葉。


 御子柴はその名前を知っている。だが、この場で一人にだけ触れる理由はない。


 榊原征司が言った。


「頭取は最近、若手の育成状況もよく見ていますね」


「将来の銀行を支える人たちですから。ただし、個人の評価に私が入ることはありません」


「それは当然ですね」と久世。


 御子柴だけが、その言葉に職務上もう一つの意味があると知っていた。それでも、何も言わなかった。


 ――午後四時十二分。


 十八階の自席で、創は画面に届いた通知を見た。


『相沢さん。審査に受け付けられました』


「よし。ここから追加質問が来るぞ」


『はい』


 後ろから桐生も画面を見た。


「宮嶋。今は一区切りだ。でも案件が終わったわけじゃない」


『分かっています』


「次は審査担当が見る。そこで別の弱点が出るかもしれない」


『はい』


「楽しめ」


『……楽しむんですか?』


「自分の作った資料を、他部署がどう見るか知れる。勉強になるだろ」


『そうですね』


「指摘を全部吸収しろ。ただ、言われたことを考えずに書き足すなよ」


『はい』


 桐生が去ると、相沢が笑った。


「六十五点の資料が、正式審査まで来たな。どう?」


 創は通知をもう一度見た。


『嬉しいです』


「うん」


『それと、次は何を聞かれるかなって考えてます』


「それでいい」


 創は画面を閉じず、審査からの連絡に備えて資料の確認を続けた。


 ――午後五時四十三分。


 仕事を終えた創には、帰宅前に寄りたい場所があった。


 前に一人で暮らしていたマンションだ。


 生活の中心は成城の新居へ移ったが、賃貸契約はまだ続けている。今日は使わなくなったものを整理し、これから部屋をどうするか管理人の高木夫妻に相談するつもりだった。


 ――午後六時二十一分。


 旧マンション。


 鍵を開け、暗い部屋に入る。


『ただいま……じゃないか』


 思わず口をついて出た言葉に、創は小さく笑った。


 十八歳から何度も帰ってきた部屋だ。仕事で失敗した日も、疲れ果てた日も。璟瑶が初めて訪ねてきた日も、この部屋は同じ場所にあった。


『今日は片付けだけ』


 冷蔵庫には、未開封の飲み物や調味料が少し残っていた。創は期限を一つずつ確認し、持ち帰るものを保冷バッグに入れる。使えなくなったものは分けて処分し、棚も拭いた。


 テレビ、ケトル、充電器、延長コード。使わないもののプラグを抜いていく。


 ただ、ブレーカーには触れなかった。部屋の設備や管理上、電源を残すべきものがあるかもしれない。そこは管理会社に確かめてから決める。


 冷蔵庫も中身を片付けたばかりだ。停止後の清掃や乾燥まで、次に来た時にきちんと済ませることにした。


 ――午後六時五十八分。


 管理人室を訪ねると、高木美奈子が扉を開けた。


「あら、創君。久しぶり」


『こんばんは』


 奥から夫の高木修一も顔を出す。


「部屋を見に来たのか?」


『はい。それと、少し相談があって』


「座りな」


 三人で小さなテーブルを囲む。


「新居ではちゃんと暮らしてる?」と美奈子。


『はい』


「彼女さんと?」


 創は一瞬、言葉を選んだ。高木夫妻は新居へ移ることを知っているが、結婚を済ませたことはまだ話していない。


『一緒に暮らしてます』


「そう。よかった」


 修一が本題を促した。


『この部屋を、しばらくあまり使わないと思うんです。契約を続ける場合の費用と、解約する場合のことを知りたくて』


「まだ退去を決めたわけじゃないのね」と美奈子。


『はい。選択肢を確認してから考えたいです』


 修一は頷いた。


「まず家賃は、使わなくても契約が続く限り原則かかる。空けている間だけ払わなくていい、とはならないよ」


『そうですよね』


「家賃をなくすなら解約して退去することになる。ただ、一度退去したら、またこの部屋を借りられる保証はない」


『別の方が入るかもしれないからですね』


「そう。空いていても新しい契約になる。初期費用が改めて必要な場合もあるし、退去時の精算や荷物の搬出も考えないといけない」


 美奈子が付け加える。


「数か月だけ手放して、また戻りたいなら、かえって費用や手間が増えるかもしれないね」


『部屋をほとんど使わない間、家賃の相談はできますか?』


「管理会社に相談することはできる」と修一。「ただ、応じてもらえる前提では考えない方がいい。契約条件もあるから、まず正式に確認しよう」


『分かりました』


「光熱費の方は、使う頻度に合わせて見直せるかもしれない」と美奈子。


「電気、ガス、水道は、使わなくても契約によって基本料金や最低料金がかかる場合がある。停止すれば抑えられることもあるけど、再開の手続きが必要だ。時々この部屋を使うなら、どれを残す方がいいか考えた方がいい」


『電気のプランを変える方法もありますか?』


「候補にはなる。ただ、『基本料金なし』だけで決めないで、料金全体と契約条件を比べないとね」


 創は手帳に書き留めた。


「相談に来てもメモを取るのね」と美奈子が笑う。


『忘れると困るので』


「銀行員だな」と修一も笑った。


「それと、電気を全部止める前には、部屋の設備について管理会社に聞いて。冷蔵庫を止めるなら、中を空にして清掃と乾燥も忘れずに」


『はい』


「長く空ける時は、排水口など部屋の状態も見に来た方がいい。水道を止めるかどうかも、使う頻度と合わせて決めよう」


 創はメモを見返した。


『契約を残すなら、家賃は原則そのまま。減額できるかは管理会社に相談する。ただ、期待しすぎない』


「そう」


『解約すると同じ部屋に戻れる保証はなく、退去や再契約にも費用がかかり得る』


「うん」


『光熱費は停止やプラン変更を比較する。でも、部屋の管理や再開の手間も一緒に考える』


「その通り」


「それで、どうしたい?」と美奈子が尋ねた。


 創は少し考え、答えた。


『今日は解約しません。この部屋、まだ残したいです』


 修一が頷く。


「それなら管理会社に、契約と設備の条件を確認しよう。その答えを聞いてから、創君が決めればいい」


『お願いします』


「たまには戻ってきなさい」と美奈子。


『はい。また来ます』


 この部屋に、今は毎日帰るわけではない。それでも、すぐに手放す必要はないと思えた。


 ――午後七時二十三分。


 創は旧居に戻り、窓と施錠、持ち帰る荷物を確かめた。


 使わない機器のプラグは抜いた。ブレーカーやガス、水道の契約はまだ触れない。管理会社に確認してから決める。


 保冷バッグと紙袋を持ち、玄関で一度振り返った。


『また来る』


 部屋の灯りを消し、鍵をかけた。


 ――午後八時九分。


 成城の新居。


『ただいま』


「おかえり。今日は少し遅かったね」


『昔の部屋に寄ってた』


「片付け?」


『うん。冷蔵庫に残ってた、使えるものも持ってきた』


 璟瑶は紙袋を見て、それから創の顔を見た。


「解約するの?」


『しない。少なくとも、今は』


「そっか」


 創が靴を脱いで指輪ケースを出すと、璟瑶は手を差し出した。


「先に、こっち」


『はい』


 創が左手を出す。璟瑶はケースから指輪を取り、薬指にゆっくりはめた。


「おかえり」


『ただいま』


 創は指輪を見つめた。旧居からここへ帰ってきたことが、その小さな輪で急に実感できた。


「高木さんたちと話せた?」


『うん。家賃とか光熱費とか、解約した時のこととか』


 二人はリビングへ移り、創は聞いてきたことを話した。契約を続ける間は家賃がかかること。一度解約すれば同じ部屋に戻れるとは限らないこと。光熱費は見直せても、部屋をどう管理するかと切り離せないこと。


「銀行の案件を説明してるみたい」と璟瑶。


『癖だな』


「でも、ちゃんと考えてきたんだね」


『うん』


「創は残したい?」


 創は頷いた。


『残したい。家賃は、前に決めた通り俺が払う』


「分かった。費用は管理会社にも確認して、無理のない形にしよう」


『うん』


「私も、あの部屋は嫌いじゃないよ」


『今の家と比べたら狭いのに?』


「広さの話じゃない。創と最初に過ごした場所だから」


 創は少し照れたように笑った。


『俺も、そこが好きなんだと思う』


 ――午後八時四十八分。


 夕食のあと、二人はソファに並んで座った。


 璟瑶の部屋着の下で、お腹が以前より少し丸く見える。


『触っていい?』


「うん」


 創は服の上からそっと手を置いた。


『今日、東央精密が正式審査に入った』


「本当? おめでとう」


『まだ融資が決まったわけじゃないけど』


「それでも、一段進んだんでしょう?」


『うん』


「何点になった?」


『八十』


「やっとだね」


『やっと』


 璟瑶は笑い、創の肩に寄りかかった。


「頭取として、案件の中身は聞かないよ」


『分かってる』


「妻としては言える。創、お疲れさま」


『ありがとう』


 創はもう一方の手で、璟瑶の左手を取った。二人の指輪が並ぶ。銀行では見えないものが、この家にはある。


「秘密を知る人、少し増えたね」と璟瑶。


『うん。でも、知ってることはそれぞれ違う』


 水城は結婚も妊娠も双子も、新居のことも知っている。劉川は秘書として必要な範囲で結婚と双子の妊娠を知っている。


 桐生が知るのは、創が結婚していて妻が欧陽頭取であることまで。御子柴は配偶者と住所など人事上必要な事項を知るが、妊娠については知らない。


 ほかの役員のほとんどは、結婚も知らない。黒瀬と琴葉は、璟瑶をまだ創の「彼女」だと思っている。


「変な感じだね」と璟瑶。


『でも、俺たちまで変わるわけじゃない』


「銀行では?」


『璟瑶は頭取。俺は若手行員』


「家では?」


『夫と妻』


 創はお腹に置いた手を見た。


『それから、父親と母親になる準備中』


「二人分ね」


『うん』


 まだ性別も、名前も決まっていない。二つの子ども部屋も、ほとんど空のままだ。


 それでも金曜日の健診で、二人それぞれの心拍を確認した。少しずつ変わる璟瑶のお腹が、これからの暮らしを毎日少しずつ現実にしていく。


「そういえば、教習所は?」と璟瑶。


『候補だけ調べた。通勤途中に寄れそうなところと、休日に行きやすいところ』


「もう調べたの?」


『候補だけだよ』


「東央精密の審査、新人OJT、教習所。全部詰め込まないでね」


『分かってる。璟瑶も休憩、ちゃんと取って』


「今日は水城さんが二回入れた」


『二回?』


「劉川さんまで賛成した」


『いいことだ』


「創も二人の味方?」


『その件は、三人の味方』


「また三対一」


 璟瑶が少し不満そうな顔をする。創は笑って、その手を握り直した。


 結婚を届け出た。指輪を買い、毎朝外し、帰宅すればまたつけるようになった。秘密を共有する人も、少し増えた。


 創は初めて後輩二人を連れて外回りをし、前職の上司・三谷から教わった「確認はゴールじゃない。入口だ」という言葉を渡した。東央精密の資料は六十五点から八十点になり、正式審査へ進んだ。


 璟瑶のお腹も少しずつ大きくなっている。


 変わったことは多い。けれど、どれもまだ途中だ。審査の結果も、教習所へ通う時期も、これから必要になる仕事の調整も、二人で考えることが残っている。


「創」と璟瑶が呼んだ。


『何?』


「お腹がもっと大きくなったら、銀行ではどうしようね」


 創はすぐには答えなかった。


『その時は、誰に何を伝える必要があるか、二人で考えよう。璟瑶の身体と仕事に必要なことを、いつまでも隠したままにはできないから』


「うん」


『今、全部決めなくてもいい。でも、準備はしておこう』


「そうだね」


 璟瑶は創の手に、自分の手を重ねた。


「これからも、銀行では頭取と宮嶋さん?」


『うん』


「家では?」


『夫と妻』


「その次は?」


 創は少し丸くなったお腹を、もう一度そっと見た。


『四人家族』


 璟瑶が微笑む。


 夫婦であることを知る人は、まだほんの少し。それでも二人の暮らしは、立ち止まっていない。


 今日できたことを確かめ、まだ分からないことは次に考える。


 二人は手を重ねたまま、これから四人で過ごす家の静かな夜を見渡した。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


第71話から第80話までの一区切りとなる回でした。


創と璟瑶は正式に夫婦となり、銀行内でも必要最小限の人たちへ結婚を共有。


現在、銀行で結婚を知るのは水城、劉川、桐生、御子柴の四人だけです。


しかも、それぞれが知っている情報の範囲は違います。


だからこそ、誰も必要以上に踏み込まず、銀行ではこれまで通り「頭取」と「宮嶋さん」の関係を守っています。


仕事面では、東央精密製作所の案件がついに正式審査へ。


六十五点から何度も資料を直してきた創にとって、大きな一区切りとなりました。


また、一人暮らし時代のマンションについても、高木夫妻へ家賃や光熱費、解約した場合の再契約などを相談。


すぐに手放すのではなく、しばらく残すという選択を続けます。


そして夜。


二つの結婚指輪。


少しずつ丸くなる璟瑶のお腹。


「秘密を知ってる人、少し増えたね」


そう話す璟瑶に、創は「でも俺たちが何者かは変わらない」と答えました。


銀行では頭取と若手行員。


家に帰れば夫と妻。


そして、もうすぐ四人家族。


次回、第81話からは妊娠中期編へ。


これまで以上に目立ち始めるお腹、双子の成長、仕事との両立、そして創の運転免許取得も少しずつ動き始めます。


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