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第79話「秘密を知る人が増えても――頭取と宮嶋さんの距離は変えない」


第79話です。


銀行内で結婚を知る人は、水城、劉川、桐生、御子柴の四人まで増えました。


それでも、銀行での二人は今まで通り。


璟瑶は頭取。


創は法人営業第一部の若手行員・宮嶋さん。


劉川も桐生も御子柴も、それぞれ知っている範囲を越えて話すことはありません。


今回はそんな「知っていても何も変えない」人たちの姿を中心に描きます。


また創は朝から自分と璟瑶のお弁当を作り、昼には同僚たちとの何気ない会話も。


一方、黒瀬と琴葉は今でも創に“彼女がいる”と思ったままです。


そして朝に外した結婚指輪は、夜になれば再び璟瑶の手で創の左手へ戻ります。



 月曜日。午前六時十九分。


 東京都世田谷区、成城の新居。


 キッチンから、炊きたての米の匂いが漂っていた。


「……創?」


『起きた?』


「何してるの?」


『弁当』


 寝室から出てきた欧陽璟瑶は、まだ部屋着のままだった。少し寝癖の残る髪を押さえながら、エプロン姿の宮嶋創を見つめる。


 調理台には、弁当箱が二つ並んでいる。


「何時から起きてたの?」


『六時前。昨日の夜に下ごしらえしたから、もう詰めるだけ』


 甘さを控えた卵焼き。小松菜のおひたし。薄味の鶏むね肉の照り焼き。にんじんといんげんの胡麻和えに、小さな鮭の塩焼き。


 おにぎりは創の分が三つ。鮭、昆布、梅。璟瑶の分は鮭と梅の二つで、海苔は食べる直前に巻けるよう別に包んであった。


「私の分まで作ったの?」


『うん。今日は食べられそう?』


「朝の気持ち悪さは、そんなにないよ」


『ならよかった。でも、無理して全部食べなくていいから』


「はい」


 璟瑶が隣に立つ。創が弁当箱の蓋を閉じるのを、しばらく黙って見ていた。


『何?』


「ありがとう。朝から二人分、大変でしょう」


『一人分作るなら、もう一人分もそんなに変わらないよ』


「そういうことにしておく」


 璟瑶は笑い、服の上からそっとお腹に触れた。


 金曜日の健診では、双子それぞれの心拍を確認できた。あれから週末を挟んで、また仕事の朝が来た。


 創もそのお腹を見る。毎日見ているからこそ、少しずつ丸みが増しているのが分かった。


『今日も、二人分ちゃんと食べてね』


「食べられる分だけね」


『……そうだった』


「創が言ったんでしょう」


 二人で笑ってから、朝食の準備に戻った。


 ――午前七時三十五分。


 玄関で、創が自分の左手を見下ろした。


 薬指には結婚指輪がある。璟瑶の指にも、同じように。


「外す?」


『うん』


 分かっていたことなのに、創の返事は少し遅れた。


『毎朝、ちょっと嫌だな』


「私も」


 二人はそれぞれ指輪を外し、専用の小さなケースにしまう。銀行では、まだ公にできない。頭取と若手行員の結婚を知る人はいても、職場での扱いを変えないため、今はこの形を選んでいる。


『いつか、普通につけて銀行に行けるかな』


「いつかはね」


『うん』


 指輪のなくなった創の左手を、璟瑶が握る。


「今は、帰ってきたらまたつけよう」


『そうだな』


 創が先に家を出た。璟瑶は数分後、別の経路で出勤する。


 家を出る時まで二人は夫婦だ。銀行に着けば、頭取と宮嶋さんに戻る。


 ――午前八時十二分。


 青嶺中央銀行本店、十八階。法人営業第一部。


『おはようございます』


「おはよう、宮嶋。今日は弁当か?」


 相沢拓也が、創の鞄の横にある保冷バッグを見た。


『はい』


「自分で作った?」


『自分で作りました』


 隣から佐伯遼が顔を出す。


「宮嶋、料理するんだ」


『しますよ』


「意外」と藤崎美優。


『どういう印象だったんですか』


「仕事帰り、毎日コンビニに寄ってそう」


『偏見です』


 北川玲奈も加わった。


「で、中身は?」


『昼まで秘密です』


「自分で作った弁当なのに?」


『楽しみは取っておきたいので』


「平和な秘密だな」


 佐伯の言葉に、周囲が笑う。


 そこへ桐生雅人が通りかかった。


「宮嶋」


『はい』


「弁当の話が終わったら、東央精密。追加したモニタリング項目、九時半に見る」


『分かりました』


「桐生さんもお弁当、見てみません?」と佐伯。


「見ない。俺は宮嶋の昼飯まで評価する担当じゃない」


『仕事の方だけでお願いします』


「それで十分」


 桐生はいつも通り、自分の席へ戻った。


 創が結婚していることも、その相手が欧陽頭取であることも知っている。だが、朝の十八階で桐生が気にするのは、創の案件と仕事の進め方だけだった。


 創には、その普段通りがありがたかった。


 ――午前八時二十八分。


 四十二階、頭取室。


「おはようございます」


 劉川景仁が璟瑶を迎え、水城絢乃が予定表を開く。


「九時半から役員会。十一時に海外拠点とのオンライン会議。十二時は昼休憩、十三時から経営企画です」


「はい」


「来週の大阪出張は、久世副頭取に代行可能な部分を確認中です」と劉川が続けた。


「分かりました」


 劉川も水城も、璟瑶の結婚と双子の妊娠を知っている。金曜日の健診で二人の心拍が確認できたことも、本人から聞いていた。


 それでも、二人がここでするのは秘書としての仕事だった。必要な休憩を確保し、無理のない予定を組む。人前で私事に触れることはない。


 扉がノックされる。


「失礼します」


 人事担当役員の長谷部章一が資料を持って入ってきた。


「来年度の若手育成枠について、確認をお願いしたくて」


「どうぞ」


 劉川が飲み物を用意し、水城が資料を受け取る。


 長谷部は創との結婚も、妊娠も知らない。二人の秘書も、それを話す必要はなかった。


 ――午前九時三十一分。


 役員会議室。


 久世宗一郎副頭取をはじめ、御子柴泰成、榊原征司、長谷部章一ら役員が席に着いた。


 この中で璟瑶の結婚を知っているのは、御子柴だけだ。御子柴も妊娠と双子については知らない。


「では、始めます」


 国内法人部門から設備投資案件の報告が上がる。


「省人化や老朽設備の更新需要が増えています」


 璟瑶は資料に目を落としたまま言った。


「更新したいというだけで融資を進めないでください。導入後の稼働状況と返済余力まで見て判断を」


「審査側もそこは重視しています」と水谷征吾が応じる。「導入直後に生産性が一時的に落ちる例もありますから」


 御子柴は若手案件の概要資料で、創が設備更新を扱っていることを知っていた。だが、この議論と創の名前を結びつけて口にすることはなかった。


 やがて来週の予定に話が移る。


「大阪での予定は、一部なら私が代行できます」と久世。


「ありがとうございます。秘書室と調整します」


 長谷部が尋ねた。


「頭取、最近は海外出張も減らしていますか?」


「案件ごとに、移動する必要性を見直しています。オンラインで対応できるものも増えましたから」


 事実だった。妊娠だけを理由にしているわけではない。


 その時、榊原がふと顔を上げた。


「頭取、今日は少し服装が違いますね」


 水城のペンが、一瞬だけ止まりかける。


 劉川は表情を変えなかった。


「そうですか?」


「いつもより、ゆったりしたジャケットだと思って」


「最近は動きやすい服を選んでいます」


「ああ。私も肩が凝るので、分かります」


 話はそれで終わった。


 今はまだ、仕事着の上からお腹の変化は分かりにくい。けれど、水城は考える。いつかは、服だけで隠し続けられなくなる。その前に、本人の望む形で必要な準備を進めなければならない。


 劉川も同じことを考えていたが、会議中に視線を交わすことすらしなかった。


 ――午前十時二十六分。


 十八階で、桐生が創に資料を返した。


「東央精密。七十九点から、まだ動かさない」


『はい』


「理由は?」


『項目は具体化しました。でも、融資判断の論点が進んだわけじゃないからです』


「そう。点が欲しくて項目を増やすな。何のために見る?」


『実行後、計画と実績のずれを早く把握するためです』


「誰のため?」


『銀行だけじゃありません。先方自身が、投資の効果と負担を確かめるためでもあります』


 桐生が頷く。


「午後、小田切さんに電話できる?」


『できます』


「設備更新後、先方は何を追うつもりか聞いて。お前の考えた項目を、そのまま押し付けるなよ」


『はい』


 そこへ湊と彩葉がやって来た。


「宮嶋さん、修正した報告書、もう一度見ていただけますか」


「私も一緒にお願いします」


『十時四十五分から十五分なら大丈夫』


「ありがとうございます!」


 湊の声に、桐生が振り向いた。


「橘川」


「……はい」


「宮嶋の仕事もある。十五分で終わらせろ」


「はい」


 創にも視線を向ける。


「自分の案件、止めるなよ」


『止めません』


 頭取の夫としてではなく、担当案件を抱えながら後輩を見る二十一歳の行員として、創は今日も指導を受けていた。


 ――午前十一時五十七分。


 社員食堂。


 創が保冷バッグを持って席を探すと、相沢たちが手を振った。


「宮嶋、朝の秘密を見せろ」


『そんなに気になります?』


「気になる言い方をしたのはお前だろ」


 創は弁当箱を開いた。


「おお、ちゃんとしてる」


 佐伯が身を乗り出す。


「卵焼き、きれい」と藤崎。


「鮭も鶏も野菜もある」と北川。


「おにぎり三個は多くない?」と小宮山陸。


『午後、腹が減るんで』


「若いなあ」


 少し遅れて来た桐生も、空いている席に座った。


「桐生さん、宮嶋君のお弁当、どうです?」と藤崎。


 桐生は一瞥して答える。


「普通にうまそう」


『朝は評価しないって言ってましたよね』


「昼だろ」


 また笑いが起きた。


 創がおにぎりを一口食べると、相沢が尋ねた。


「自炊、いつからしてる?」


『一人暮らしを始めてからです。十八の時』


「最初から上手かった?」


『米の水を入れすぎて、お粥みたいになったことあります』


「食べたの?」と北川。


『食べました。捨てるの、もったいないんで』


 片瀬美咲が感心する。


「宮嶋君、生活力あるね」


 創は少しだけ返事に詰まった。今はもう、一人暮らしではない。


『前の銀行にいた頃に、だいぶ慣れました』


「彼女に料理、教わったりした?」と小宮山。


『いや、この弁当は俺が作りました』


「そこは疑ってないよ」


 藤崎が首をかしげる。


「そういえば、彼女いるんだっけ?」


 創は箸を止めた。妻がいる。けれど、ここでそうは言えない。


『大事な人はいます』


「前の銀行にいた頃から?」と佐伯。


『はい』


「じゃあ、二人分作ったりもする?」


『……昼飯の話、そこまで広げます?』


 創が困った顔をすると、桐生が言った。


「食事中に人の私生活を掘るな。自分の飯を食え」


 特別な助け船ではない。職場の会話として、踏み込みすぎない線を引いただけだった。


 創もまた、何も知らない同僚たちと普段通り昼を食べた。


 少し離れた席では、キャリア採用の同期である黒瀬颯真と水無瀬琴葉が話していた。


「創、最近忙しそうだな」


「東央精密に新人OJTもあるからね」


「彼女と会う時間、あるのかな」


「長く付き合ってるんでしょう。そろそろ結婚とか考えてたりして」


「でも、創は決まるまで絶対言わなさそう」


「ある日いきなり『結婚しました』って言うかも」


 二人は笑った。


 その日は、もう過ぎている。創が今朝、妻の分の弁当も作ったことを、二人は知らない。


 ――同じ頃、四十二階。


 璟瑶も弁当箱を開いていた。


 卵焼き、小松菜、鶏の照り焼き。創の弁当と同じおかずが、少し小さな箱に詰められている。鮭と梅のおにぎりも二つ。


「手作りですか?」と水城。


「うん」


 璟瑶の口元が緩む。水城には、誰が作ったか分かった。


「頭取、嬉しそうですね」


「お弁当がおいしそうだから」


「そうですね」


 水城はそれ以上聞かなかった。


 劉川が書類から顔を上げる。


「十三時から会議です。食事の時間は確保してください」


「分かってます」


「でしたら、結構です」


 誰が作ったかを知っていることと、それを職場で話すことは違う。二人の秘書は、その距離を守った。


 ――午後零時五十八分。


 高峰澄江は、自宅から娘の澪奈に電話をかけた。


「金曜日、璟瑶ちゃんたちが健診に来たでしょう」


『来たよ』


「二人から、心拍を確認できたって聞いたの。少し安心した」


『うん』


「……ほかのことを聞き出したいわけじゃないからね」


『分かってる。診療の詳しい内容は話せないけど、本人が伝えていいと言った範囲なら』


 澪奈はそこで言葉を区切った。


『金曜日に確認できた二人の心拍については、その通りだよ。次も予定に沿って診ていく』


「ありがとう。それだけ聞ければ十分」


 元産婦人科医の澄江は、一度の良い結果が、その先まで保証するものではないことも知っている。だからこそ、金曜日に確かにあった良い結果を大切に受け取った。


 電話を切ったあと、澄江は欧陽美智子に連絡する。


「美智子さん。璟瑶ちゃんから、健診の大まかな話は伝えていいと聞いているから、その範囲だけね」


『はい』


「金曜日、二人とも心拍が確認できたよ」


 向こうで、息をのむ気配がした。


『……よかった』


「これからも診てもらう。そのことも忘れずに、今日の良い知らせは喜んでいい」


『はい。ありがとうございます』


「璟瑶ちゃんには?」


『夜に、私から電話します』


 澄江は頷いた。今は仕事中の娘の時間だ。母親が直接声を聞くのは、帰宅してからでいい。


 ――午後一時四十二分。


 頭取室へ戻る廊下で、久世副頭取が劉川を呼び止めた。


「頭取は、最近少し出張を減らしているね」


「はい。案件ごとに移動の必要性を見直しております」


「体調が悪いとか、そういうことでは?」


 劉川は足を止め、落ち着いた声で答えた。


「個人的な体調について、私からお話しすることはできません。予定上の調整が必要な場合は、業務に支障が出ないよう手配します」


「そうか。分かった」


 劉川は嘘をつかなかった。知っていることを、話す権限もない相手に明かさなかっただけだ。


 秘密を知る人が増えても、秘密が軽くなるわけではない。


 ――午後二時十九分。


 十八階で、創は東央精密製作所の小田切昌弘に電話をかけていた。


『設備導入後の効果について、御社ではどの項目を追う予定ですか』


『停止時間、不具合件数、生産量、納期ですかね。その辺りは見たいと思っています』


『若手社員の習熟についてはいかがでしょう』


『西沢から、操作できる人数は増やしたいと聞いています』


『異常が起きた時の対応も、確認される予定ですか』


『そこまでは、まだ具体的に決めていません』


『分かりました。こちらで先に評価項目と決めてしまわず、次回、西沢部長にもお考えを伺わせてください』


 通話を終えると、創はメモをまとめた。


「どうだった?」と相沢。


『銀行側で考えた項目と、先方が今考えている項目に差がありました。異常時対応の習熟です』


「銀行には必要に見えても、先方はまだそこまで考えてない?」


『はい。なぜ見る意味があると思うのか説明して、先方の管理にも役立つか話します』


「押し付けずに?」


『押し付けずに』


 後ろで聞いていた桐生が声をかけた。


「今の電話、良かった。銀行が欲しい数字を、そのまま客に管理させるな」


『はい』


「相手の経営にも役立つなら、一緒に考えろ。それができたら八十点に近づく」


『近づくだけですか』


「まだ、話しただけだからな」


『厳しいですね』


「仕事だから」


 結婚を知ってからも、桐生の採点は一つも甘くならない。創は少し笑い、資料の修正に戻った。


 ――午後四時五十五分。


 人事部で、御子柴泰成は若手研修の対象者一覧を確認していた。


 宮嶋創の名前も載っている。


 御子柴はその一行に目を留めたが、評価を書き換えることも、担当者に声をかけることもしなかった。研修の評価は担当部署が通常の基準で行う。


 御子柴が知っているのは、創の配偶者と新住所、そして人事上必要な届出事項だ。妊娠については知らない。


 知っているから優遇するのではない。知っているからこそ、自分の判断を余計な場所へ持ち込まない。


 御子柴は一覧を次のページへ進めた。


 ――午後六時十一分。


『お先に失礼します』


「お疲れ。弁当、うまかった?」と相沢。


『自分で作ったものについて聞かれると、答えにくいですね』


「一応、聞いとく」


『うまかったです』


「よかったな」


 藤崎が笑う。


「明日は、彼女に作ってもらえば?」


『……考えておきます』


 桐生がPCから顔を上げずに言った。


「宮嶋。明日九時、東央精密の続き」


『はい。お疲れさまでした』


 いつもの終業の会話を交わし、創は公共交通機関で成城へ帰った。


 ――午後七時十二分。


 新居の玄関。


『ただいま』


「おかえり」


 先に帰っていた璟瑶は部屋着姿で、左手にはもう結婚指輪があった。


 創は鞄を置き、朝しまった小さなケースを取り出す。


「左手」


 差し出した手を、璟瑶が取った。指輪をゆっくり薬指へ通す。


「おかえり」


『ただいま』


 創は戻ってきた指輪を見つめた。


『これ、毎日やってほしい』


「帰ってきたら、私がつける?」


『うん』


「いいよ。毎日」


『璟瑶の指輪も、俺がつけたかった』


「今日は先につけちゃった」


『明日から、待ってて』


「分かった」


 二人は少し笑った。


『弁当、どうだった?』


「おいしかった。おにぎり二つもちょうどよかったよ。創は?」


『三つ全部食べた』


「さすが、若い」


『それ、昼も言われた』


 璟瑶は笑いながらソファへ向かい、創も隣に座る。


「水城さんに、お弁当を見られた」


『誰が作ったか、分かっただろうな』


「多分。でも聞かなかった」


『劉川さんも?』


「お昼の時間だけ、ちゃんと取るように言われた」


『いつも通りだ』


「うん」


 創は十八階でのことを話した。桐生がいつもと同じように東央精密の資料を見て、点数を据え置いたこと。後輩二人の報告書を見る時間も、自分の仕事と両立するよう釘を刺されたこと。


「桐生さん、一度も結婚の話しなかった」


「それがいいね」


『うん。俺も、その方が仕事しやすい』


「御子柴さんも役員会ではいつも通りだった。劉川さんも、久世さんに私のことを聞かれて、余計なことは話さなかった」


『知っていても、変えないんだな』


「変えないために、知る範囲も分けてるんだと思う」


 水城と劉川は、結婚と双子の妊娠を知り、日程や体調への配慮を担っている。桐生は結婚と相手を知るが、妊娠は知らない。御子柴は人事上必要な結婚の情報を知るが、妊娠は知らない。


 それぞれに役割があり、口にしていいことも違う。


「知る人は増えたけど、銀行での私たちの距離は変わってないね」と璟瑶。


『頭取と宮嶋さん、だからな』


「家では?」


『夫と妻』


「あと?」


 創は璟瑶のお腹を見た。


『もうすぐ、父親と母親』


「二人分ね」


 璟瑶が服の上からお腹に触れる。その手に、創もそっと手を重ねた。


『今日、体調は大丈夫だった?』


「うん。変わったことはないよ」


『よかった』


「お母さんからも電話が来た。澄江先生から、金曜日に二人の心拍が確認できたって聞いたみたい」


『美智子さん、安心した?』


「声を聞いたら、泣きそうだった。今度は私からも電話する」


『一気に二人のおばあちゃんになるもんな』


「創のお母さんもね」


 創は笑い、璟瑶の手を握った。


 朝は外した指輪が、今は二人の指に戻っている。


 銀行では見えない夫婦の証。それを知らない人たちとも、明日また普段通りに働く。知っている人たちも、必要な時に必要な役割を果たす。


 その距離を守ってくれることが、今の二人には心強かった。


『朝、外す時は寂しかったんだ』


「うん」


『でも、帰ったら璟瑶がつけてくれるなら、明日は少し平気かも』


「毎日つけるって約束したから」


『約束な』


「約束」


 銀行では頭取と宮嶋さん。


 家では妻と夫。


 二つの場所での距離を混ぜずに、二人は一緒に暮らしていく。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は「秘密を知る人が増えても、銀行での距離は変えない」がテーマでした。


劉川は何も知らない第一秘書として振る舞い、桐生は創を一人の若手行員として通常通り指導。


御子柴も、人事上必要な事実を知っているだけで、創の評価や研修には一切介入しません。


役員会では久世、長谷部、榊原をはじめとする役員たちも、璟瑶の結婚を知らないままいつも通り。


その一方で、少しゆったりした服装など、璟瑶の身体の変化は少しずつ隠しにくくなり始めています。


昼には創の手作り弁当も登場しました。


創と璟瑶、二人分のお弁当を同じ朝に作っていても、銀行では誰もその関係を知りません。


黒瀬と琴葉も、まだ創に“彼女がいる”と思ったままです。


また、高峰澄江から美智子へ、本人の了承範囲内で双子の健診結果も伝えられました。


そして夜。


朝に外した結婚指輪を、璟瑶がもう一度創の左手薬指にはめる。


銀行では見せられなくても、家に帰れば夫婦に戻る。


二人だけの新しい日課になりました。


次回、第80話。


この章の一区切りとして、東央精密の案件、秘密を知る四人、少しずつ大きくなるお腹、そして四人家族へ進む二人の日常をまとめていきます。


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