第77話「二十一歳の先輩――新人二人に教える“確認は入口だ”」
第77話です。
今回は創の「教える側としての成長」を中心に描きます。
昨日の外回りを終えた湊と彩葉。
二人の報告書を見ながら、創は前職時代に三谷雅臣から教わった言葉を改めて伝えます。
「確認はゴールじゃない。入口だ」
確認した事実。
先方の認識。
銀行側の推定。
そして次に確認すること。
創自身もまだ学ぶ途中だからこそ、後輩へ教える中で自分の理解不足にも気づいていきます。
桐生も、そんな創が少しずつ「教わる側」から「教える側」へ進んでいることを感じ始めます。
そして仕事の合間には黒瀬と琴葉との休憩時間、仕事終わりには久しぶりのB5へ。
仕事、後輩、夫婦。
三つの顔を持つ二十一歳の一日です。
火曜日、午前八時十一分。
青嶺中央銀行本店、十八階。法人営業第一部。
『おはようございます』
「おはようございます」
「おはようございます!」
創が席に着くより早く、橘川湊と篠宮彩葉が挨拶した。昨日、二人を連れて初めて外回りに出た。今日は、その訪問報告書を創が確認することになっている。
『二人とも早いね』
「書いた内容が気になって、朝もう一度見直しました」と湊。
「私は、メモと数字を照合しました」と彩葉が言う。
『篠宮さんらしい』
「褒めてます?」
『褒めてる』
「僕は?」と湊が聞く。
『昨日より、朝の声が少し落ち着いてる』
「また感覚で言ってませんか」
「銀行側の推定ですね」と彩葉。
『二人とも、それ気に入ったな』
桐生雅人が声をかける。
「宮嶋。小会議スペース、九時四十五分まで使っていい。その後は東央精密の進捗も見せてくれ」
『分かりました』
創は二人に向き直った。
『じゃあ、報告書を見よう』
◇◇◇
午前八時二十四分。
創は湊の報告書を開いた。
光栄産業機器への定例訪問。受注状況、原材料費、修繕費。話題ごとに整理されている。
自動車部品向けの受注は前年同月比で約六パーセント増。鋼材と一部電子部品の価格が上昇し、取引先への価格転嫁は一部が未了。
そこまでは、昨日先方から聞いた内容だった。
『橘川くん、ここを読んで』
「原材料費の高騰により、同社の収益は悪化している……です」
『収益が悪化したことは、確認した?』
「材料費が上がって、価格転嫁も全部はできていないので、そう思いました」
『「思った」んだよね』
湊の表情が変わる。
「……銀行側の推定です」
『そう。利益が実際にどう変わったかは、昨日聞いていない。材料費の上昇を、受注増でどこまで吸収できているかも分からない』
湊はすぐに文章を消そうとした。
『待って。まず、どう直すか言ってみて』
「原材料価格の上昇と価格転嫁の遅れから、収益が圧迫される可能性がある。ただし、実際の利益への影響は未確認……でしょうか」
『いい。次回確認することも書こう』
「直近の試算表や、粗利率の推移です」
『うん』
彩葉が隣でメモを取る。
『篠宮さん、何を書いた?』
「事実と推定は、文章の中でも分けることです」
『それと、確認できていないことも情報だよ。「未確認」って書けば、次に何を聞くか分かる』
湊の報告書には、修繕費についても詳しく書かれていた。前年通期は約一千二百万円、今年は上期で九百万円近い。第二工場の搬送装置に修繕が集中し、一度、二時間半の停止があった。納期の遅れは残業で防いだ。
『ここはいい。発言した人と、確認できた内容が分かる』
「ありがとうございます」
だが、次の一文で創は止まった。
『「早期の設備更新が必要」。これ、誰が言った?』
「……誰も言っていません」
『先方が更新時期を決めたとも、まだ聞いていないよね』
「はい。銀行の方で、勝手に結論を出していました」
湊が悔しそうに唇を結ぶ。
『でも今、自分で気づいた。そこが大事だよ』
創は、昨日二人に伝えた言葉をもう一度口にした。
『確認はゴールじゃない。入口だ』
そして湊に尋ねる。
『更新が必要だとまだ決まっていない。だったら、次は何を聞く?』
「会社として更新を検討しているか。検討しているなら、時期と見積額……資金をどう用意するつもりか、です」
「今の設備を使い続ける場合に、何を心配しているかも聞きたいです」と彩葉が加える。
『そう。答えを一つ確認したら、次に必要な問いが見えてくる』
創はホワイトボードに四つの欄を書いた。
確認済みの事実。先方の認識や発言。銀行側の推定。次回確認すること。
『この四つを分けて、もう一度書いてみて』
「はい」
「分かりました」
彩葉は少し考え、尋ねた。
「「確認は入口だ」って、前の銀行の上司の方に教わったんですか」
『三谷さんっていう先輩にね。俺も昔、「売上が減っています」って報告して、「なぜ減った?」と聞かれたことがある』
「何て答えたんですか」と湊。
『「確認していません」』
「厳しく言われました?」
『うん。「売上が減ったことだけ分かって、次に何を見るか決められるのか」って。数量が減ったのか、単価が下がったのか、取引先に変化があったのか。そこから聞かなきゃいけなかった』
創はホワイトボードを見た。
当時は三谷に教えられる側だった。その言葉を、今日は自分が湊と彩葉に説明している。
◇◇◇
午前八時五十五分。
彩葉の報告書には、誰が何を発言したかが丁寧に記されていた。
『ここはいいね。佐久間部長の話と、井口課長の話が混ざってない』
「ありがとうございます」
『ただ、「当面、資金繰り上の問題なし」の「当面」は、どれくらい?』
彩葉の手が止まった。
「聞いていません」
『「問題なし」と判断したのは?』
「井口課長が、「当面は大丈夫」と話されました」
『だったら、まずは井口課長の認識として書こう。銀行側が資金繰りに問題はないと判断するには、まだ資料が足りない』
彩葉は考え、文章を直した。
井口経理課長の認識として、当面の資金繰りに大きな懸念はない。ただし、「当面」が指す期間や、月ごとの資金の動きは未確認。次回、必要な資料を確認する。
『これなら分かる』
「未確認と書くと、報告書が未完成に見える気がしていました」
『一回の訪問で全部分かる方が不自然だよ。分からないことを分かっている資料なら、次に動ける』
湊が顔を上げる。
「じゃあ、分からないことは全部聞き続けるんですか」
『全部ではない。相手の時間も使うから。銀行が判断するために、何が必要かを考えて聞く』
「確認すること自体が目的じゃないんですね」
『そう』
二人が頷いた。
午前九時二十二分。ガラス越しに三人の様子を見た桐生が、通りかかった相沢へ言う。
「宮嶋、教えてるな」
「昨日が初めての同行OJTでしたよね」
「ああ。人に説明すると、自分の分かっていないところも見える」
「それ、あとで本人に言うんでしょう?」
「もちろん」
◇◇◇
九時四十分過ぎ。報告書の確認を終える前に、創は二人へ一つずつ尋ねた。
『昨日できたこと、できなかったこと、次にやることを、それぞれ一つ』
湊は相手の答えから質問をつなげられたことを挙げた。一方、最初は次の質問ばかり考え、話を聞き逃しそうになったという。
「次は、質問項目を終わらせるより、相手の話を聞きます」
『うん』
彩葉は曖昧な言葉を数字で確かめられたが、メモを取りすぎて相手の顔を見られない時があったと話した。
「次回は面談中に要点を記録して、終わった直後に詳しく整理します」
『いいね』
「宮嶋さんは?」と湊が尋ねる。
『俺も?』
「昨日、桐生さんに反省を聞かれてましたよね」
『覚えてたのか』
創は少し考えた。
『二人が質問する機会を作れたのは良かった。でも、考えてもらおうとして黙りすぎた場面があった。次は、詰まった時に答えを教えるんじゃなく、考える手がかりになる問いを一つ入れる』
「全員に課題があるんですね」と彩葉。
『あるよ。俺も桐生さんや相沢さんに教わってる途中だから』
時計が九時四十五分を示した。
『今日はここまで。修正版を出したら、また確認する』
◇◇◇
午前十時五十七分。
創は自席で東央精密製作所の資料を開いた。昨日、桐生から七十九点と言われた案件だ。
設備導入後の確認項目に目を通していて、一文で止まった。
「若手社員の習熟度向上を確認」。
『……人には曖昧に書くなって言っておいて』
「どうした」と、後ろを通った桐生が尋ねる。
『自分の資料にも、曖昧な言葉が残ってました。「習熟度向上を確認」です』
「何を見れば、向上したと言える?」
『単独で操作できる人数と、異常時の対応を習得した人数を、まず見たいです。研修の修了者数だけでは、現場で使えるか分かりません』
「それを顧客が記録できるかは?」
『まだ確認していません。次に聞きます』
桐生は頷いた。
「人に教えると、自分の穴が見えるだろ」
『はい』
「点数は七十九点のまま」
『今、採点する日じゃないですもんね』
「分かってるじゃないか」
桐生は少し歩いてから振り返る。
「教え方は悪くなかった。ただし、分からないことを分かったふりして教えるな。教える側になったから偉いんじゃない。責任が一つ増えたんだ」
『分かりました』
創は資料の一文を直した。
湊と彩葉に話したことが、そのまま自分に返ってきていた。
◇◇◇
午後零時十六分。花乃家。
「いらっしゃい。あら、三谷さん。松岡君も」
女将の花村千鶴は、東都共栄銀行城東支店の二人を席へ案内した。
三谷雅臣と松岡海斗。創が前の銀行にいた頃から、花乃家へ足を運んでいた顔なじみだ。
「昨日、宮嶋が来た?」と三谷が聞く。
「来たよ。新人さんを二人連れて」
「もう後輩と外回りしてるんですか」と松岡が驚く。
「しっかりやってたよ」
三谷は少し嬉しそうにした。
「元気そうでした?」
「うん。元気だった」
「何か、変わったことは?」
千鶴の脳裏に、昨日の創の声がよみがえる。
『女将さん。俺、結婚しました』
けれど表情には出さない。
「仕事、頑張ってるみたいだったよ」
「そうですか」
千鶴は注文を取り、厨房へ向かった。
創が自分の口で話せる日まで。そう約束した以上、千鶴は家族にも、三谷にも松岡にも話さない。
◇◇◇
午後二時四十八分。本店十四階の共用休憩室。
創が一人で飲み物を飲んでいると、黒瀬颯真と水無瀬琴葉がやって来た。キャリア採用の同期だ。
「創、昨日新人を連れて外回りしたんだって?」
『どこで知った?』
「新人OJTの予定が共有されてた」と黒瀬が言う。「二十一で教える側か」
『同行しただけだよ』
「でも、何を教えたの?」と琴葉。
『相手の話を最後まで聞くこと。それから、確認したら次に何を見るか考えること』
「何それ?」
『前の銀行の上司に教わった。「確認はゴールじゃない。入口だ」って』
琴葉が頷く。
「FAQを直す時も同じかも。「分かりにくい」と言われたことを確かめて、そこで終わらずに、どこが分かりにくかったかを見る」
『そういうこと』
黒瀬が笑う。
「部署が違っても、考え方は似てるな」
三人は互いの仕事の苦労を、話せる範囲で話した。顧客の詳しい情報や案件資料は持ち出さない。
やがて黒瀬が尋ねた。
「そういえば、例の彼女は元気?」
創は一瞬だけ止まる。
もう彼女ではない。妻だ。
『元気だよ』
「そろそろ紹介してよ」と琴葉。
『まだ』
「ずっとそれだな」と黒瀬が笑う。
創も笑って席を立った。
『十分快適休憩、終了』
「「十分快適」って何だよ」と黒瀬。
『十分休んで、少し快適になった』
「言葉まで仕事に戻るのを急がなくていいよ」と琴葉が言う。
三人は別々の階へ戻った。
◇◇◇
午後三時十九分。
湊と彩葉の修正版が届いた。
湊は「収益が悪化している」と断定した箇所を、「収益が圧迫される可能性がある。ただし、実際の影響は未確認」と直していた。設備更新が必要だと決めつけた文も消し、先方の意向を次回確認する形に変えている。
彩葉は「当面の資金繰りに問題なし」を、井口課長の認識として書き直した。「当面」の期間は未確認だと明記している。
『二人とも、良くなった』
「ありがとうございます」と彩葉。
「完成ですか?」と湊。
『訪問報告書は、次に確認することが見えた時点で、もう次の仕事が始まってる』
「確認は入口、ですね」と彩葉が言った。
『そう』
創が言わなくても、二人の口からその言葉が出た。
◇◇◇
午後五時四十九分。桐生が三人を呼んだ。
「昨日の訪問と今日の報告書、そこまでが今回のOJTだ。行って帰ってきただけで終わりじゃない」
「はい」と湊と彩葉が答える。
「宮嶋から、何を教わった?」
「相手の話を聞くこと。事実と銀行の推定を分けることです」と湊。
「確認できていないことも明確にすることです」と彩葉。「それから、確認は入口だということ」
「次の機会にも、実際にやってみろ。一回聞いただけで身についたと思うなよ」
「はい」
二人が頭を下げると、桐生は創を見た。
「宮嶋も、教えて終わりじゃないからな」
『分かっています』
「ならいい。次も三人で組む機会を作る」
「よろしくお願いします!」と湊。
「橘川。最後まで声が大きい」
「……よろしくお願いします」
相沢まで笑った。
◇◇◇
午後六時十七分。
創は東央精密の資料を所定の場所へ戻し、パソコンを閉じた。仕事の書類は一枚も持たない。
私用のスマートフォンで璟瑶に連絡する。
『仕事、終わった?』
「今終わったところ」
『B5、三十分だけ寄る?』
「行く」
創は少し時間をずらして、地下五階へ向かった。
二人だけの秘密の場所、B5。
そこには顧客の資料も、経営会議の話も持ち込まない。先に入っていた創がソファに座っていると、数分後に扉が開いた。
「創」
『お疲れ』
璟瑶が隣に座る。創はその頬にそっと触れた。
「どうしたの?」
『会いたかった』
「朝、会ったのに」
『仕事してたら、長かった』
「私も」
短い口づけを交わし、二人は肩を寄せた。
「今日は、後輩さんの報告書を見たんでしょう?」
『うん。教えてたら、自分の資料に曖昧な言葉が残ってることにも気づいた』
「桐生さんに見つかった?」
『自分で先に見つけた。でも、点数は七十九点のまま』
「そう」
璟瑶はそれ以上、案件のことを聞かなかった。創も頭取室の仕事を尋ねない。
ただ、水を飲みながら、今日も無事に一日が終わったことを確かめる。
三十分が近づくと、二人は別々にB5を出た。創は十八階に置いた鞄を取りに戻る。
「宮嶋、まだいたの?」と残っていた佐伯が聞いた。
『鞄を取りに来ただけです。もう帰ります』
「今日は新人二人の報告書も見て、疲れただろ」
『少し。でも、二人とも頑張ってました』
「じゃあ、お前も早く帰れ」
『はい。お先に失礼します』
◇◇◇
午後八時二分。成城の新居。
『ただいま』
「おかえり」
玄関で璟瑶が創の左手を取り、朝外した指輪を薬指にはめた。
『ただいま、璟瑶』
璟瑶の指輪は、もう左手に戻っている。
夕食のあと、二人はソファに並んだ。
『今日、人に教えてみて分かった。自分も、まだ分かったふりをしそうになるんだよな』
「先輩になった日から、全部分かるわけじゃないものね」
『うん』
璟瑶はしばらく黙って、少し丸みの出たお腹に手を添えた。
「私も、初めて母親になる」
『俺も初めて父親になる』
「しかも、一度に二人」
『分からないことだらけだね』
創の言い方に、璟瑶が笑う。
その夜、二人は一緒に浴室へ入った。璟瑶が楽な姿勢で座ると、創も隣に腰を下ろす。
「仕事なら、分からないことを調べたり、人に聞いたりできる」と璟瑶が言った。「でも母親になることは、何が正解なのか分からなくて、少し怖い」
『俺も怖いよ』
「創も?」
『うん。父親になるのは初めてだから』
創は璟瑶の手を取った。
『分からない時に、分かったふりをしなくていいと思う。先生に聞けることは聞いて、家族に頼れる時は頼って、二人でも話そう』
「ここでも、確認は入口?」
『たぶん。聞いて、それから一緒に考える』
璟瑶が創に寄り、そっと唇を重ねた。一度離れて、もう一度。湯気の中で、穏やかなキスを交わす。
「創、ありがとう」
『まだ何も分かってないよ』
「一緒に考えるって言ってくれたから」
『うん。それは、これからも言う』
無理をせずに湯を上がり、二人は寝室へ向かった。
ベッドで並んで横になる。互いの薬指の指輪が触れた。
十八歳の創に、三谷が教えた言葉。
『確認はゴールじゃない。入口だ』
今日、創はそれを湊と彩葉に渡した。そして自分もまた、知らないことに気づいた。
教わる側でもあり、教える側でもある。
家へ帰れば夫で、これから父になる。
どの立場でも、分からないことを一つずつ確かめて、次を考える。
創が手を握ると、璟瑶が握り返した。
「おやすみ、創」
『おやすみ、璟瑶』
二人と、まだ小さな二人の夜が、静かに更けていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は創が湊と彩葉の報告書を通して、自分が教わってきたことを後輩へ渡す回でした。
「確認はゴールじゃない。入口だ」
三谷から創へ。
そして今度は創から湊と彩葉へ。
一つの言葉が少しずつ受け継がれていきます。
ただし、教える側になったから完成したわけではありません。
むしろ人へ説明することで、自分がまだ理解できていない部分にも気づく。
桐生の言う通り、創には「偉さ」ではなく、新しい責任が一つ増えました。
また今回は黒瀬と琴葉との休憩、花乃家で秘密が守られている様子、そして仕事終わりのB5も描きました。
夜には璟瑶から「二十一歳なのにもう後輩育成してるんだ」と言われた創。
それに対して返したのは、
「璟瑶だって四十五歳で初めて母親になるだろ」
という一言でした。
後輩育成も、父親になることも、母親になることも初めて。
だからこそ、分からないことを分かったふりせず、一つずつ確かめていく。
次回は第78話。
少しずつ目立ち始めた璟瑶のお腹とともに、夫婦になって初めての双子健診へ向かいます。




