第75話「もう夫婦だけど、もう一度――結婚指輪と二度目のプロポーズ」
第75話です。
すでに法律上は夫婦になった創と璟瑶。
今回は休日に二人で結婚指輪を選びに行きます。
派手すぎず、長く使えるシンプルなペアリング。
しかも創は、東都共栄銀行で働いていた頃に自分で貯めたお金から購入することを決めました。
そして夜。
創の手料理を二人で食べたあと、もう一度だけきちんと言いたかった言葉を璟瑶へ伝えます。
「もう結婚してるけど……改めて。これからも俺の妻でいてください」
法律上の夫婦になったあとだからこその、二度目のプロポーズ。
今回は二人の夫婦としての節目を描く回です。
土曜日、午前八時十二分。
成城の新居で、宮嶋創は肩を揺すられて目を覚ました。
「創。起きて」
『……まだ八時だよ』
「今日は十一時に予約してるでしょう?」
『三時間ある』
「三時間しかないの」
隣にいる欧陽璟瑶は、もう着替えを済ませていた。
『休日まで頭取みたい』
「今日は頭取じゃありません。結婚指輪を選びに行く妻です」
その言い方に、創は眠気の残る顔で笑った。
婚姻届が受理されて一週間。二人はもう夫婦だ。それでも、左手の薬指にはまだ何もない。
創が起き上がると、璟瑶は少しためらってから尋ねた。
「本当に、二人分とも創が払うの?」
『うん。今日は俺に買わせて』
「自分の分くらい、払えるよ」
『知ってる。俺よりずっと払えるのも』
「そこは否定しないんだ」
『できないから』
二人は笑った。だが創は、すぐに真面目な顔に戻る。
『東都共栄銀行で働いていた時から、少しずつ貯めたお金がある。その一部で、璟瑶との指輪を買いたいんだ』
「創が働いて、貯めたお金で?」
『うん。無理な買い方はしない。それは約束する』
璟瑶はしばらく創を見つめ、頷いた。
「分かった。じゃあ、二人とも本当に好きなものを選ぼう。値段じゃなくて」
『もちろん』
「私、遠慮して好きじゃない指輪を選んだりしないからね」
『それがいい。毎日見るのは、璟瑶なんだから』
その言葉に、璟瑶は少し照れた。
「……ほら。早く支度して」
◇◇◇
午前十時四十六分。銀座。
並んで歩く二人の距離は、平日より少し近かった。璟瑶は落ち着いた服に帽子と眼鏡を合わせている。金融界で顔を知られている以上、人目には気を配る。それでも今日は、創と一緒に指輪を選ぶ休日だった。
予約していた4℃ BRIDALの店に入る。
「いらっしゃいませ。本日は結婚指輪をお探しですか」
『はい』
「ご入籍はこれからでしょうか」
創と璟瑶は顔を見合わせた。
『もう、先週しました』
「そうでしたか。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
スタッフに案内され、二人はショーケースの前に座った。
最初に並べてもらったのは、飾りの少ない指輪だった。まっすぐな形のもの。少し曲線の入ったもの。幅が違うもの。小さな石が一つ入ったもの。
創は、目の前に置かれた数本を見比べる。
『写真で見るのと、全然違うな』
「でしょう? 指につけると、また変わると思う」
創が最初に選んだのは、光を受けて華やかに輝く一本だった。
『これ、璟瑶に似合いそう』
璟瑶は試着して、左手を少し傾ける。
「きれい。でも、私には少し華やかすぎるかな」
『そう?』
「仕事中につけないとしても、家で毎日見たい指輪だから。もう少し落ち着いたものが好き」
『分かった』
次に璟瑶が選んだのは、幅のある指輪だった。創の指にも試してみる。
「……ちょっと違う」
『つけたの璟瑶なのに、即答?』
「創の指には、もう少し細い方が似合う」
『よく見てるな』
「夫の手だから」
創は指輪を外すふりをして、赤くなった顔を隠した。
いくつか試すうちに、意見が分かれることもあった。創は装飾のないものに惹かれ、璟瑶は角度によって表情が変わるものを手に取る。
『俺、これが好きかも』
「私も好き。でも創がつける方は、少し角が気になる」
『本当だ。手を握ると、ここが当たる』
スタッフが別の形を持ってくる。
二人は一本ずつ試しては、互いの手を見た。握ってみる。離して、もう一度見る。
選んでいるのは指輪なのに、創は時々、今まで知らなかった璟瑶の好みに出会っている気がした。璟瑶も、創が自分の指輪より先に彼女のつけ心地を確かめるたび、嬉しくなった。
やがて創の目が、二本並んだシンプルなプラチナの指輪で止まった。
『これ、どうだろう』
線はまっすぐに近い。飾りはほとんどない。けれど光にかざすと、表面が柔らかく輝いた。
璟瑶が左手の薬指に通す。
「……」
『どう?』
「軽い。つけてるのに、邪魔にならない」
創は、指輪そのものより先に璟瑶の表情を見た。
『似合ってる』
「さっきも言ったよ」
『さっきより似合ってる』
「それ、選ぶたびに言うつもり?」
『気に入ったものが見つかるまで』
璟瑶は笑って、もう一本を創に渡した。
「創もつけて」
創が薬指に通すと、璟瑶の笑顔がふっと静かになった。
『……変?』
「ううん」
璟瑶は創の左手をそっと取る。
「夫の手だ、って思った」
『もう夫だよ』
「知ってる。でも、見たら急に実感したの」
二人の指輪をつけた手が、ショーケースの上に並ぶ。
二十四歳離れた手だ。大きさも、歩んできた時間も違う。それでも今は、同じ形の指輪が左手にあった。
創は他の指輪も見て、最後にもう一度、その二本へ戻った。
『俺は、これがいい』
「私も」
『遠慮してない?』
「してない。創は?」
『してない』
価格は創が考えていた予算内だった。生活のために残しておくお金にも手をつけずに済む。
『これにします』
創の言葉に、璟瑶もはっきり頷いた。
「お願いします」
スタッフに内側の刻印について尋ねられ、二人はもう一度相談した。
婚姻届が受理された日付。その隣に、二人だけが分かるように「S & J」。
「名前を全部入れなくても、これなら分かるね」と璟瑶が言う。
『俺たちにはね』
刻印は後日、指輪を預けて入れてもらうことにした。今日はサイズの合う二本を持ち帰る。
会計で創がカードを出すと、璟瑶は何も言わずに隣に立っていた。創の横顔を見つめながら、この指輪には、彼が十八歳から働いてきた時間も少し入っているのだと思った。
店を出た午後零時四十一分。璟瑶が小さな袋を見る。
「創。ありがとう」
『まだ箱に入ったままだよ』
「それでも、ありがとう」
『俺も、ありがとう』
「どうして創まで?」
『俺の妻になってくれたから』
璟瑶の足が止まった。
「……銀座の真ん中で、それ言う?」
『駄目だった?』
「泣きそうになる」
創は少し笑う。
『じゃあ、続きは家で言う』
「続き?」
『夜まで待ってて』
創はそれ以上、教えなかった。
◇◇◇
同じ日の午後、本店では水城と劉川が休日に必要な資料整理をしていた。
「水城さん」と劉川が声を落とす。「頭取のご結婚、まだ時々、現実感がありません」
「私も最初はそうでした」
水城は周囲に人がいないことを確かめる。
「でも、一番大切なのは驚くことじゃありません。頭取が働く環境を整えることです」
「はい。休憩も、通院に合わせた日程調整も、二人で見ていきます」
「お願いします」
二人は再び仕事に戻った。
十八階では、忘れ物を取りに来た桐生が、創の東央精密の資料を一瞬だけ見た。
「……七十九点で悔しそうだったな」
月曜日には、また直した資料を持ってくるだろう。その時も、桐生は中身だけを見るつもりだった。
◇◇◇
午後六時十二分。成城の新居。
「できたよ」
創が食卓に並べたのは、鶏肉ときのこの炊き込みご飯、白身魚と野菜の蒸し焼き、具の多い味噌汁、ほうれん草の胡麻和えだった。
「今日は俺が作りたかった」
「ずっと見てたよ。包丁を持つ時、仕事の資料を見るのと同じ顔してた」
『危ないから話しかけないでって言ったのに』
「だから、見てただけ」
二人で「いただきます」と言い、璟瑶が魚を一口食べる。
『どう?』
「おいしい。こういうご飯、好き」
創の肩から力が抜けた。
「家に帰って、二人で食べる普通のご飯。これからは、いつか四人で食べるんだね」
璟瑶がお腹に手を添える。
『うん。最初は食べさせるだけでも大騒ぎかも』
「きっとね」
食事が終わっても、璟瑶は銀座で聞いた「続き」を忘れていなかった。
「創。夜まで待ってるんだけど」
『もう少しだけ』
「秘密が多い夫だね」
『今日だけ』
◇◇◇
午後七時四十一分。
食器を洗い終えた創は、寝室から小さなリングケースを持って戻った。
ソファに座る璟瑶が、それに気づく。
「創……?」
創は彼女の前に立った。店ではあれほど迷わず「これにします」と言えたのに、今はケースを持つ手が少し緊張している。
『今日、ちゃんと話したかったことがある』
「うん」
『俺たち、もう結婚してる。先週、婚姻届も受理された』
「うん」
『だから、今さらかもしれない。でも、あの日は書類を出して、受理の連絡を待って、嬉しくて……伝えたいことを、全部言えなかった』
創はケースを開いた。
二つの指輪が並んでいる。
『俺は、璟瑶が頭取だから結婚したんじゃない。年齢が離れていることを忘れたからでもない。知ったうえで、これからも一緒にいたいと思った』
璟瑶は何も言わず、創を見つめる。
『銀行では、互いの仕事を守りたい。家では、嬉しい日も、心配な日も、隣にいたい。子どもたちが生まれたら、四人で暮らしていきたい』
創は一度、息を吸った。
『もう夫婦だけど、改めて言わせて。璟瑶、これからも俺の妻でいてください』
璟瑶の目から、涙がこぼれた。
「創……」
『返事、聞いてもいい?』
「そんなの……」
璟瑶は泣きながら笑う。
「はい。これからも、創の妻でいます」
創も笑った。
璟瑶が左手を差し出す。創は指輪を取り、彼女の薬指にゆっくり通した。
銀座の店で試した時と同じ、ぴったりの大きさだった。それなのに、今はまるで違うものに見える。
「今度は、創の番」
璟瑶はもう一つの指輪を手に取った。
「創。これからも、私の夫でいてください」
『うん。ずっと、璟瑶の夫でいる』
璟瑶が創の左手に指輪をはめる。
二人は手を並べた。
同じ形の指輪が、同じ場所にある。
「婚姻届を出した時も嬉しかった」と璟瑶が言う。「でも、今はまた違う。創がもう一度、私を選んでくれた気がする」
『選ぶよ。何回でも』
「……ずるい」
創は璟瑶の頬の涙を拭い、そっと抱き寄せた。彼女のお腹を圧迫しないようにしながら、唇を重ねる。
離れたあとも、二人はすぐには言葉を見つけられなかった。
◇◇◇
その夜。
新居の浴室には、湯気が静かに立っていた。二人は無理のない姿勢で浴槽に入り、向かい合う。
璟瑶が湯の上に左手を持ち上げた。
「創、見て」
浴室の灯りを受けて、薬指の指輪が淡く光る。
創も左手を並べる。
『二つとも、ちゃんとある』
「今日、何回も確かめちゃう」
『俺も』
璟瑶は創の手を取った。指輪のある薬指同士が、そっと触れる。
「創が選んでくれた指輪」
『二人で選んだ指輪だよ。璟瑶が好きって言ってくれたから、これにした』
「そこも好き」
璟瑶が身を寄せる。創はお腹に負担がかからないように受け止め、互いに顔を近づけた。
「もう一回、言って」
『何を?』
「さっきの」
『これからも、俺の妻でいてください』
「はい」
返事のあと、璟瑶から唇を重ねた。
「んっ……」
一度離れる。水音の向こうで、二人の息だけが近い。
創が今度は自分から口づける。
「……ん」
唇が離れる時、小さく音がした。
「ちゅ……」
璟瑶が目を開け、創を見つめる。
「まだ足りない」
『さっきも、ずっとキスしてたよ』
「今日は、もう一度プロポーズしてもらった日だから」
『そういう理由?』
「うん」
創は笑って、また唇を重ねた。
「んっ……」
離れて、もう一度。
「……ん」
今度は璟瑶が創の頬に手を添え、ゆっくり口づけを返す。唇が触れるたびに、小さな音が湯気の中へ消えていった。
「ちゅ……」
何度も重ねて、ようやく二人は額を寄せた。
「創」
『何?』
「幸せ」
『俺も』
璟瑶は左手をもう一度持ち上げる。
「明日の朝、起きても指輪があるんだね」
『あるよ。今日だけじゃない』
二人はしばらく、湯の上で手を重ねたまま、指輪を眺めていた。
◇◇◇
入浴後、創が髪を乾かしていると、璟瑶がふと手元を見た。
「月曜日、どうしよう」
『指輪?』
「二人とも同じ日に、急に薬指につけて出勤したら……」
『気づく人はいるよね』
「劉川さんはもちろん知ってる。でも、ほかの人まで結びつけたら困る」
相談の末、勤務中は当面つけず、家と休日にはつけることにした。銀行へ持ち歩いて紛失する心配もあるため、出勤前に家で外して、ケースにしまう。
『帰ってきたら、俺が璟瑶の指輪をつけるよ』
「じゃあ私は、創のをつける」
『毎日?』
「毎日」
隠さなければならないことが、少し寂しくないわけではない。
それでも、帰宅した時に互いの指輪をはめる時間は、二人だけの小さな楽しみになる気がした。
午後八時過ぎ、創は両親にも電話をかけた。
『母さん。今日、璟瑶にもう一回プロポーズした』
「創、もう結婚したでしょう?」と恵美子が驚く。
後ろから和久の声も聞こえた。
「どうしてまたプロポーズしてるんだ?」
『したかったから』
しばらくの沈黙のあと、和久が笑った。
「……まあ、それならいいか」
恵美子は返事まで聞きたがり、創が「これからも妻でいますって言ってくれた」と答えると、隣の璟瑶が顔を赤くして手で隠した。
「本人が聞いてるところで、そこまで話さないで……」
結局、璟瑶も電話に代わり、改めて二人から祝福を受けた。
◇◇◇
午後九時二十八分。
寝室の灯りを落としても、二人はまだ指輪を外さなかった。
ベッドで並んで横になる。創が手を伸ばすと、璟瑶が左手を重ねた。二つの指輪が、かすかに触れる。
「明日起きても、ある?」
『ある』
「月曜日は外す?」
『出勤前に。帰ったらまた、二人でつけよう』
「うん」
璟瑶は創の手を持ち上げ、指輪に触れた。
「創が十八歳から働いて貯めたお金が、ここに入ってるんだね」
『大げさだよ』
「大げさじゃない。創が重ねてきた時間で、私たちの指輪を買ってくれた」
『……大事にしてくれる?』
「もちろん。創のことも、指輪のことも」
創は照れて、璟瑶の手を握り直した。
婚姻届はもう受理されている。銀行への申告も終えた。二人は今日、法律上新しく夫婦になったわけではない。
ただ、もう一度言葉にして、もう一度互いを選んだ。
創は指輪のついた左手で、璟瑶の手を包む。
『おやすみ、妻』
「おやすみ、夫」
その夜、二人は互いの薬指に指輪をはめたまま、同じベッドで眠った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は創と璟瑶の結婚指輪、そして二度目のプロポーズのお話でした。
創が選んだのは、前職の東都共栄銀行時代に自分で働いて貯めたお金で買える、派手すぎない結婚指輪。
値段ではなく、これから何年も二人で身につけられるものを選びました。
夜には創が手料理を作り、そのあと改めて璟瑶へプロポーズ。
「はい。創の妻でいます」
その返事とともに、二人は互いの左手薬指へ指輪をはめました。
ただし銀行では、二人が同時に結婚指輪を着ければ勘づかれる可能性があります。
そのため当面は勤務中だけ外し、帰宅後や休日には再び互いにつけ合うことに。
また今回は、水城、劉川、桐生、御子柴がそれぞれ二人の結婚についてどう感じているのかも描きました。
驚きはあっても、仕事では何も変えない。
それぞれの立場から二人を支える四人です。
次回は第76話。
創が二人の若手行員を連れて外回りへ。
そして、東都共栄銀行時代から知る「花乃家」の女将にだけ、結婚したことを打ち明けます。




