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第74話「結婚しても案件は待ってくれない――東央精密、七十三点のその先へ」


第74話です。


結婚を知っても、桐生の指導は何も変わりません。


「昨日の話と、この融資案件は別だ」


その言葉通り、創は東央精密製作所の設備更新案件を一人の若手行員として見直していきます。


事実と銀行側推定の切り分け。


設備を更新しない場合のリスク。


若手教育の負担。


返済余力と導入後のモニタリング。


そして午後には、璟瑶が桐生を頭取室へ呼びます。


夫だからこそ特別扱いしないでほしい。


その願いに、直属上司の桐生はどう答えるのか。


今回は仕事を中心に、創が「頭取の夫」ではなく「宮嶋創」として評価される回です。



 金曜日、午前八時七分。


 青嶺中央銀行本店、十八階。法人営業第一部。


「おはようございます」


 宮嶋創が席に着いて間もなく、桐生雅人が資料を持ってきた。


「昨日の東央精密のストレスケース、見せてくれ」


「はい」


 創は画面を開く。先週金曜日に結婚し、水曜日には桐生に相手が欧陽頭取だと伝えた。昨日は人事担当の御子柴専務に、婚姻を正式に申告した。


 だが、桐生の関心は今日も東央精密製作所の案件にある。


「受注が五パーセント落ちて、設備立ち上げ時の生産性が七割にとどまる。二つを同時に置いたんだな」


「はい。標準ケースと比べて、返済余力はかなり縮小します。ただ、直ちに資金繰りが破綻する水準とは置いていません」


「『置いていません』?」


 創は言い直した。


「現時点の仮定では、そこまでは示されていません。ただ、受注や習熟の推移によって結果は変わるので、断定はできません」


「そう。それを資料にも書け」


 桐生は該当箇所を指で押さえる。


「銀行側の仮定を、顧客が保証した事実みたいに見せるな。お前、そこがまだ少し甘い」


「直します」


 桐生は声を落とした。


「それと、先日の個人的な話と、この案件は別だからな」


「はい」


「俺が誰と結婚したか知ったからって、資料の出来が変わるわけじゃない。昨日七十七点でも、今日の中身が悪ければ下がる」


「分かっています」


「なら、仕事に戻れ」


「はい」


 創は資料を持って席に戻った。


 厳しい言葉なのに、少し嬉しかった。桐生が見ているのは、頭取の夫ではない。若手法人担当の宮嶋創だ。


 ◇◇◇


 午前八時四十三分。


「宮嶋、この五十四時間、まだ目立ちすぎる」


 相沢拓也が、設備停止に関する表を指した。


「過去一年の累計停止時間です」


「何の設備の?」


「……全設備です」


「今回の更新対象設備が直接原因だったのは、何時間?」


「まだ完全には切り分けられていません」


「だったら五十四時間を、その設備を更新しない場合の損失として使えるか?」


「使えません」


 創は資料の見せ方を改めた。


 過去一年の全設備における停止は、短時間のものを含め約十回、累計約五十四時間。ただし、そのすべてが今回の更新対象設備によるものではない。


 今年度の修繕費のうち、対象設備に関連すると現時点で確認できるのは約四百九十万円。前年の約六百八十万円は全設備の修繕費であり、同じ範囲の数字として直接比較はできない。


 数字のそばに、何を確認できていて、何を確認できていないかを書く。


 さらに創は、東条社長たちから聞いたことと、銀行側が考えたことを分けた。古い設備は熟練者の経験に頼る場面が多く、若手が異常時の対応を覚える負担もある。主要取引先への納期が一日遅れた実績もある。


 だが、設備を更新すれば納期遅延が必ずなくなるわけではない。更新を見送れば停止時間が必ず増えるとも言えない。


「これならどうでしょう」


 創が見せると、相沢はページをめくった。


「前よりいい。古い設備を悪者にして、新しい設備を万能みたいに書いてない」


「はい」


「銀行に都合のいい物語を作らない。それは大事だ」


 相沢は次の欄で手を止めた。


「ただ、人が足りない」


「人、ですか」


「新設備が入った直後、誰が若手に操作を教える?」


「メーカーの担当者と、社内の熟練者です」


「熟練者は通常の生産も担当してるよな。その負担は?」


 創は答えられなかった。


「顧客に確認します」


 東央精密の経理総務担当、小田切昌弘に電話をかけた。聞きたいことを先に整理し、メーカーによる初期研修、その後の習熟期間、社内の教育担当、通常業務への影響を一つずつ確認する。


 電話を終えた創は、メモを相沢に見せた。


「メーカーの初期研修後も、社内で一か月程度、重点的な習熟期間を見込んでいるそうです。西沢製造部長を中心に、ベテラン二名が教える予定です」


「生産への影響は?」


「教育体制は確認できました。ただ、ほかの社員の業務負担がどの程度増えるかは、まだ数値化されていません」


「じゃあ、そこも分けて書け」


「はい」


 確認できたことと、これから起こり得ること。


 分けるたびに資料は慎重になる。けれど、創にはその方が、東央精密に対して誠実だと思えた。


 ◇◇◇


 午前十時二十一分。四十二階、頭取室。


 欧陽璟瑶は華瑞国際産業集団の融資枠に関する資料を見ていた。


「八十億元を一つの案件として評価しないでください。新エネルギー設備の四十億元、運転資金の二十五億元、物流会社買収の十五億元。それぞれ返済原資もリスクも違います」


 第一秘書の劉川景仁が頷く。


「使途ごとに担保と契約条件を分けて整理しています」


「買収対象会社の収益見通しは、少し楽観的です。陳さんのチームに、下振れした場合も見てもらってください」


「承知しました」


 璟瑶が次の資料へ手を伸ばそうとすると、水城絢乃が予定表を閉じた。


「頭取。十時四十五分から十五分、休憩を取ります」


「まだ大丈夫」


「大丈夫かどうかを聞いたのではありません」


 劉川も顔を上げる。


「私も、水城さんに賛成です」


「二対一はずるい」


「多数決ではありません」と水城。「休憩の予定です」


 璟瑶は小さく笑い、資料から手を離した。


 無意識に、もう片方の手が腹部の近くへ行く。仕事着の上からは、まだほとんど分からない。それでも家で着替える時には、以前よりほんの少し丸くなった気がしていた。


 二つの小さな命が、そこにいる。


 ◇◇◇


 午前十一時四十八分。


「宮嶋、最新版を持ってこい」


 桐生は創の資料を受け取り、最初から順に目を通した。


「五十四時間の扱いは直したな。修繕費も比較できる範囲を明記した。更新後の教育負担も入ってる」


「はい」


「七割の生産性と、受注五パーセント減が重なった場合は、どう読む?」


「標準ケースなら返済余力を確保できます。ただ、立ち上がりの遅れと受注減が重なると、余力は大きく縮小します。融資実行後も、導入の進み具合と受注状況を確認する必要があります」


「設備を入れない場合は?」


「借入負担は避けられます。一方、現設備の修繕や停止のリスク、熟練者への依存は残ります。ただし、それらが必ず増えるとは断定しません」


「入れる場合は?」


「老朽設備に由来する負担を減らせる可能性があります。ただ、新たな借入に加えて、教育や習熟までの生産性低下、維持費が生じます」


「どっちが正解だ?」


 創は少し考えた。


「銀行が決めることではありません。会社が選ぶ投資について、銀行は返済可能性とリスクを確かめます。そのうえで、東央精密が更新を選ぶ理由を、資料で説明できるようにするべきだと思います」


 桐生は赤ペンを置いた。


「七十九点」


「……七十九ですか」


「二点上がった」


「あと一点ですね」


「その一点を簡単だと思うな」


 横で聞いていた相沢が笑う。


「八十点が欲しくて資料をいじり始めると、逆に下がるぞ」


「分かっています。点数のためじゃなく、案件のために直します」


「ならいい」と桐生が言った。「まだ足りないのは、導入後に何をもって成功と判断するかだ」


 設備が入れば終わりではない。停止時間、修繕費、生産性、納期、若手の習熟。何を、いつ、誰に確認するのか。


 創はメモを取った。


「融資後の確認項目まで、具体化します」


「できたらまた見せろ」


「はい」


 結婚しても、案件は待ってくれない。


 七十九点は、創が聞き、調べ、考えた分だけ上がった点数だった。


 ◇◇◇


 昼休みの社員食堂で、創は相沢、佐伯遼、北川玲奈と席を囲んだ。


「東央精密、何点になった?」と佐伯が聞く。


「七十九点です」


「もうそこまで来たの?」と北川が驚く。


「まだ一つ、大きな宿題があります」


「桐生さん、八十は簡単に出さないからな」


 創は箸を置いて、少し笑った。


「出してもらうものじゃないです。資料が良くなった結果、ついてくる点数なので」


 相沢が頷く。


「それ、忘れるなよ」


「はい」


 この席では、誰も創の結婚について話さない。


 桐生が相手を知っていることも、ほかの三人は知らない。ただ四人の行員が、融資案件の話をしていた。


 ◇◇◇


 午後一時五十六分。


 璟瑶は資料を閉じ、水城に声をかけた。


「桐生さんと、少し話せるかな」


 水城はすぐには予定表を開かなかった。


「頭取として、ですか。それとも、宮嶋さんの奥様として?」


「……直属上司に、一度だけ伝えたいことがある」


「内容を伺っても?」


「私との関係を気にせず、創を指導してほしい。それだけ」


 水城は慎重に言葉を選んだ。


「お気持ちは分かります。ただ、頭取から『厳しく指導してほしい』と伝えることも、桐生さんへの働きかけになり得ます」


「うん」


「案件の内容や、人事評価を聞くことも避けてください」


「分かってる。話したら、あとは桐生さんに任せる」


 水城は頷いた。


「では、短い時間でお取りします」


 午後二時三分。内線を受けた桐生は、創の席を一度だけ見た。創は画面に向かって、導入後の確認項目を整理している。


 桐生は何も言わず、榎本和也に留守を頼んで四十二階へ向かった。


 エレベーター前で、同じ年に入行した同期四人と会う。財務企画部の西岡俊介、法人審査第二部の牧田亮介、市場企画部の倉橋美紀、人材開発部の安西香織だ。


「四十二階? 頭取に呼ばれたの?」と倉橋が尋ねる。


「ああ」


「何やった?」と牧田。


「何もしてない」


「その返事、呼び出された高校生みたい」と安西が笑った。


 エレベーターの中で話題は若手の育成に移った。


「宮嶋って、まだ二十一だろ。審査に回ってくる資料で名前を見たよ」と牧田が言う。


「まだ一人で任せる段階じゃない。でも伸びてる」


 桐生が答えると、西岡が目を丸くした。


「お前が『伸びてる』って言うなら、相当だな」


「甘やかさないけどな」


 四十二階に着く。四人は別の方向へ歩いていった。


 誰も、今話していた若手行員が頭取の夫だとは知らない。


 ◇◇◇


 午後二時十二分、頭取室。


 応接席で桐生と向かい合うと、璟瑶は率直に切り出した。


「急にお呼びして、すみません。宮嶋さんのことで、一度お話ししたくて」


「はい」


「私の夫だということを気にせず、これまでどおり接していただきたいんです。間違えたら指摘して、分からないことがあれば教えてほしい」


 桐生は少し考え、背筋を伸ばした。


「頭取。内容は理解しました。ただ、今後の仕事上の指導は、私に任せていただけますか」


「もちろんです」


「『厳しくしてください』という言葉でも、頭取から直接言われれば、私の判断に影響する可能性があります」


 璟瑶は水城を見た。水城は何も言わず、頷く。


「そうですね。ごめんなさい」


「お気持ちは分かります。ですが、宮嶋は私の部下です。仕事ができていなければ指摘しますし、良くなればその分を認めます。ご主人だからではなく、宮嶋本人の仕事を見ます」


 璟瑶の表情が、少し和らいだ。


「ありがとうございます」


「それと、分からないことを全部、私が教えるわけでもありません」


「え?」


「本人に考えさせて、必要なら顧客に確認させます。そのうえで足りないところを教える。今までと同じです」


 璟瑶は笑った。


「それでお願いします」


 会話はそこで終わるはずだった。だが、璟瑶は一つだけ、聞きたい気持ちを抑えきれなかった。


「……創は、若手行員として成長していますか」


 桐生は即答しなかった。


「正式な評価について、私から頭取に個人的にはお伝えできません」


「はい。そうですよね」


「ただ、部下を教える立場として言えば、本人は学んでいます。以前より、自分の仮定と顧客から聞いた事実を分けられるようになりました」


「そうですか」


 それだけで、璟瑶は十分嬉しかった。


 桐生は続けた。


「社員食堂で以前お話しした、資料につけている点数も、あくまで指導のための目安です。人事評価ではありません」


 璟瑶は、その先を尋ねなかった。


 ところが桐生は、つい口にする。


「今は七十九点です。まだ直すところはありますが」


 璟瑶の顔に、喜びが浮かぶ。


 その表情を見て、桐生は自分の言葉を振り返った。


「……今の点数まで、お伝えする必要はありませんでしたね」


「私も聞くべきではありませんでした」と璟瑶が答える。「創の仕事のことは、ここから先、桐生さんに任せます」


 水城も口を開いた。


「今後は、指導の状況や点数を頭取室から確認しない。それでよろしいですね」


「うん」


「私も、通常の管理職ルートで見ます」と桐生が言う。


 璟瑶は静かに頭を下げた。


「夫を、よろしくお願いします」


「直属上司として、宮嶋をいつもどおり指導します」


「はい。それが一番、ありがたいです」


 ◇◇◇


 午後二時三十六分。


 桐生が十八階に戻ると、創が顔を上げた。


「お疲れさまです」


「宮嶋。導入後の確認項目、できたか」


「はい」


 頭取室での話には触れない。


 創は、設備導入後の一か月、三か月、六か月で確認する項目を示した。停止時間、修繕費、生産性、納期遵守、受注、返済状況。そして若手の習熟状況。


「若手の習熟は、どう測る?」


 桐生が尋ねる。


「メーカー研修を修了したかどうかで――」


「研修を受けたら、一人で操作できるようになるのか?」


「……それだけでは足りません」


「だろ。考え直せ」


「はい」


 厳しい。さっき頭取室で何が話されたのか分からないほど、いつもどおりだった。


 午後四時十二分、創は再び資料を持ってきた。


「単独で操作できる人数と、異常時の対応を習得した人数を確認項目に加えました。東央精密で既に使っている教育記録と合わせられるかは、これから確認します」


「うん。さっきより具体的だ」


 桐生は資料を閉じる。


「七十九点」


「変わらないんですか」


「一か所直しただけで八十点をやると思うか」


「……思いません」


「だったら、次は顧客に確認してこい」


「はい」


 創は資料を受け取り、自分の席へ戻った。


 あと一点が欲しい。だが、点数より先に、東央精密が設備導入後に何を確かめるべきかを、顧客と一緒に考えなければならない。


 ◇◇◇


 午後七時四十一分。成城の新居。


「ただいま」


「おかえり」


 先に帰っていた創が、玄関で璟瑶を迎えた。


「今日は疲れた?」


「少し。でも大丈夫」


 創が体調を尋ねると、璟瑶は今のところ強い痛みや出血はないと答えた。創はほっと息をつく。


 夕食を済ませた午後十時過ぎ、二人は寝室にいた。ゆったりした部屋着の璟瑶を見て、創が言う。


「少し、お腹が丸くなってきた?」


「やっぱり分かる?」


「前より、ほんの少しだけ」


「私もそう思ってた」


 創は「触っていい?」と尋ねた。


「夫なのに、毎回聞くの?」


「聞くよ」


「じゃあ、いいよ」


 服の上から、そっと手を置く。


 まだ胎動が分かる時期ではない。触れたから何かが伝わってくるわけでもない。それでも創は、そこに二人の命がいることを知っている。


「今日、七十九点だったんでしょう?」


 璟瑶の言葉に、創が顔を上げた。


「どうして知ってるの?」


「桐生さんに会ったから」


「……頭取室に呼んだの?」


「うん。一度だけ、私のことを気にせず指導してほしいって伝えたかった」


 創は黙って続きを待った。


「でも桐生さんに言われた。宮嶋への指導は自分に任せてほしいって」


「桐生さんらしい」


「私が何を言っても、上司への働きかけになるかもしれない。そこまで考えてなかった」


 璟瑶は創を見る。


「点数も、聞くつもりじゃなかったのに聞いてしまった。桐生さんも、教えるべきではなかったって。その場で話して、今後は聞かないことにした」


「……うん」


 創は少し考えてから言った。


「今日も、桐生さんは厳しかったよ。七十九点から上げてくれなかった」


「よかった」


「そこ、喜ぶんだ」


「だって、創の仕事を見てくれてるってことでしょう」


「うん。俺も、そう思う」


 創はもう一度、璟瑶のお腹に手を置いた。


 銀行では、七十九点の資料を作った若手行員。


 ここでは、璟瑶の夫で、二人の父親になる男。


 どちらも創自身だ。だからこそ、仕事の一点は自分で取りに行きたい。


 創は璟瑶の隣に横になり、お腹の近くへそっと耳を寄せた。


「聞こえる?」と璟瑶が笑う。


「全然」


「でしょうね」


「でも、近くにいたかった」


 璟瑶が創の髪を撫でる。


「おやすみ、創」


「おやすみ。璟瑶と、二人にも」


 返事はまだ聞こえない。


 それでも、家族になる時間は少しずつ進んでいた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は東央精密製作所の設備更新案件を中心に、仕事回を強めました。


創は事実と推定を明確に分け、五十四時間の設備停止や修繕費の扱い、古い設備と新設備それぞれの教育負担、返済余力まで再整理。


桐生からの評価は七十九点まで上がりました。


それでも八十点には届きません。


結婚相手が頭取だと知った後でも、桐生は一切甘くしない。


その姿勢こそ、創が最も望んでいたものでした。


そして午後には、璟瑶が桐生を頭取室へ。


「私のことは気にせず、夫を普通に指導してください」


そう頼む璟瑶に対して、桐生も「仕事上の指導は自分に任せてほしい」と明確に線を引きました。


夜の新居では、少しずつ丸みが目立ち始めた璟瑶のお腹に、創が服の上からそっと触れます。


銀行では若手行員。


家に帰れば夫であり、もうすぐ双子の父親。


次回は第75話。


すでに夫婦になった二人が、今度は改めて結婚指輪と“二度目のプロポーズ”に向き合います。


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