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第73話「秘密の結婚でも、届け出は必要です――人事・総務への正式申告」


第73話です。


秘密の結婚でも、銀行員として必要な手続きまで隠すわけにはいきません。


今回、正式に報告するのは人事担当の御子柴泰成専務ただ一人。


家族構成変更届、新住所、緊急連絡先、税・社会保険、福利厚生、そして最も重要な利益相反管理まで。


さらに、創の配偶者が同じ銀行の頭取であるからこそ、評価・異動・昇進には通常以上に厳しい線引きを設定します。


名字は二人とも変更なし。


扶養関係もなし。


そして役員会にも報告しません。


秘密を守りながら、必要なルールはきちんと守る。


今回は、銀行員らしい現実的な「結婚後の正式手続き」の回です。



 木曜日、午前八時九分。


 青嶺中央銀行本店、法人営業第一部。


「おはようございます」


 宮嶋創が席に着くと、桐生雅人が資料を一枚差し出した。


「東央精密の保守ケース、もう一段見てくれ。設備導入後、生産性が一時的に七割まで落ちた場合だ」


「分かりました」


「それと、受注が五パーセント落ちるケースも重ねる。融資希望額は一億円だ。甘く見るなよ」


「はい」


 昨日、創はこの上司に結婚を報告した。


 相手が欧陽頭取だと聞いた桐生は、十秒近く言葉を失った。それでも最後には、「お前への評価は一ミリも変えない」と言った。


 その言葉どおり、今日も指示は厳しい。創には、それがありがたかった。


「宮嶋」


 隣の席から相沢拓也が声をかける。


「午後、何か予定ある?」


「少し、本店内で手続きがあります」


「じゃあ午前中に、ここまで進めよう」


「はい」


 何の手続きか、相沢には言わない。


 結婚を秘密にすることと、銀行への必要な申告をしないことは違う。今日は、そのための時間を取っていた。


 ◇◇◇


 午前九時三十四分。四十二階、頭取室。


「御子柴専務との面談は、十四時三十分から確保しました」


 水城絢乃の報告に、欧陽璟瑶が頷く。


「ありがとう。劉川さんは?」


「予定は把握していますが、同席はしません。私も最初のご案内だけです。申告の内容は、頭取と宮嶋さんから直接お話しください」


 劉川景仁は昨日、二人の結婚と璟瑶の双胎妊娠を知った。だが、今日新たに事情を知るのは、専務取締役兼人事担当の御子柴泰成だけだ。


「共有する範囲も確認させてください」と水城は続けた。「婚姻の事実、お相手、住所や緊急連絡先など、手続きに必要な情報。妊娠については、今日の申告には含めない。それでよろしいですね」


「うん。妊娠のことは、必要になった時に改めて考える」


「承知しました」


 誰に、何を伝えるか。


 夫婦になった二人が決めた線を、水城も越えない。


 ◇◇◇


 午後二時二十七分。


 人事部門の小会議室に入った創は、先にいた璟瑶に一礼した。


「欧陽頭取、お疲れさまです」


「宮嶋さん、お疲れさまです」


 水城もいる。ここは銀行だ。いつもの呼び方を変えない。


 やがて御子柴が入室した。水城は必要な案内だけ済ませ、席を外す。扉が閉まり、室内には三人が残った。


「限定性の高い人事案件と聞いています」と御子柴が言った。「申告の内容を伺っても?」


 創は膝の上で手を一度握り、それから御子柴を見た。


「婚姻に伴う家族情報の変更を申告させてください。先週金曜日に、婚姻届が正式に受理されました」


「ご結婚ですか。それはおめでとうございます」


「ありがとうございます」


 御子柴の視線が、同席する頭取へ移る。


「お相手についても、ここで伺うということですね」


「はい」と璟瑶が答えた。「宮嶋さんの配偶者は、私です」


 御子柴は動かなかった。


 創が心の中で六秒ほど数えたところで、御子柴は眼鏡を外した。レンズを拭き、掛け直す。


「確認させてください。法人営業第一部の宮嶋創さんと、欧陽璟瑶頭取が、法的に婚姻された」


「はい」と二人が答える。


「……分かりました。驚くのはここまでにします」


 御子柴は手元の資料を開いた。


「ここからは、人事担当として伺います」


 ◇◇◇


 最初に話したのは、申告内容を誰が扱うかだった。


「通常の婚姻届出でも、処理に必要な担当者は情報を確認します。今回は配偶者が同じ銀行の頭取ですから、閲覧の範囲と手順を慎重に決めます」


「役員会にも共有されますか」と創が尋ねた。


「現時点で、この婚姻を役員会に報告する予定はありません。私から他の役員へ伝えることもしません。ただ、実務担当者や監査・コンプライアンス部門に職務上の確認が必要になれば、必要性を判断して対応します」


 御子柴は、画面を操作する前に二人を見た。


「人事システムでどこまで表示を制限できるかは、設定を確認します。できないことまで約束はしません。そのうえで、担当者を絞り、アクセス記録も確認できる形にします」


「お願いします」と璟瑶が言う。


 完全に誰にも見せず、正式な手続きだけ済ませることはできない。二人も、それは分かっていた。求めているのは、必要のない人にまで広げないことだった。


 御子柴は一項目ずつ確認を始めた。


 婚姻日。配偶者の氏名。現在の住所。


「氏名は、お二人とも変更なしですね」


「はい」


「はい」


「宮嶋創さん、欧陽璟瑶さん。そのままで登録します」


 違う名字が並ぶ画面を、創は少し不思議な気持ちで見た。金曜日に夫婦になった事実は、何も変わらないのに。


 新住所には、成城の家を届け出る。旧居の賃貸契約は創が引き続き維持するが、会社の住宅補助は受けていない。御子柴は主たる住所と制度の利用状況を確認し、家の持分や購入資金については、この人事手続きで必要な情報ではないとして尋ねなかった。


「次は緊急連絡先です。宮嶋さんの第一連絡先は、現在、お父様になっています」


「配偶者に変更します。父は第二連絡先として残してください」


「分かりました。頭取側にも、宮嶋さんを追加しますか」


「お願いします」


 御子柴は頷いた。


「連絡がつかない場合の経路も含めて、手順を確認しておきます」


 続いて、税、社会保険、福利厚生。


「婚姻しただけで、どちらかが自動的に相手の扶養に入るわけではありません。お二人とも勤務を続けているので、健康保険や厚生年金は現在の資格を継続する前提です。税や手当は、それぞれの要件と規程に沿って確認します」


「結婚祝金は……俺も対象ですか」


 創が聞くと、御子柴は顔を上げた。


「規程上、対象となる行員なら通常どおりです」


 創は思わず璟瑶を見る。


「私を見ないで」と璟瑶が小声で言った。「決めるのは規程だから」


「そのとおりです」と御子柴。「頭取の配偶者だから増額もしませんし、辞退を求めることもしません」


「はい。通常どおりでお願いします」


 創の返事に、御子柴の口元がわずかに緩んだ。


 ◇◇◇


 確認項目が利益相反管理に移ると、部屋の空気が引き締まった。


「婚姻そのものが問題なのではありません。頭取の権限が、宮嶋さんの評価や配置に影響し得る。その可能性を、手続きとして管理します」


「私は、創の個別の人事判断に関与しません」と璟瑶が答える。「評価、昇進、異動、給与、特別選抜。どれもです」


 御子柴は頷きつつ、確認を加えた。


「採用時の最終面接には、頭取として同席されていますね」


「はい。その職務上の参加は事実です。ただ、個人的な理由で合否に介入したことはありません」


「承知しました。採用時の手続きも含め、記録を確認します。今後も宮嶋さんの評価は通常の管理職ルートで行い、頭取には個別判断から外れていただく。その運用を明確にします」


 創は静かに頭を下げた。


「俺からも、璟瑶……」


 そこで言葉が止まる。


「失礼しました。欧陽頭取に人事上の便宜を求めたことはありません」


 御子柴は一瞬だけ、二人を見比べた。


「家では、璟瑶さんなんですね」


「……はい」


「そこは記録しなくていいです」と璟瑶が言う。


「しません」


 三人が小さく笑う。緊張がほどけたのは、ほんの一瞬だった。


「もう一つ、はっきりさせます」と御子柴が続けた。「優遇しないことと、不利益を与えないことは両方必要です。頭取の配偶者だからという理由で、宮嶋さんにだけ厳しい評価をするのも公平ではありません」


 創は昨日の桐生の言葉を思い出した。


『上げることもない。下げることもない』


 直属の上司と人事担当者が、同じ線を引いてくれている。


 それが、創には心強かった。


 次は情報の遮断だった。


「夫婦でも、顧客情報や職務上知った未公表の情報は共有できません。宮嶋さんの担当案件を頭取が家庭で聞くことも、頭取が知った経営上の情報を宮嶋さんへ話すことも避けてください」


「はい」と創が答える。「東央精密の案件も、家では話していません」


「私も、経営会議や与信案件の内容を創には話しません」と璟瑶が言った。


 御子柴は、二人それぞれに適用される個人証券取引の社内規程も確認した。結婚そのものによって違反が生じるわけではない。だが、家庭で偶然知ってしまう情報を含め、未公表情報の取り扱いには今まで以上に気を配る必要がある。


「宮嶋さんに、頭取室や役員室の資料への特別なアクセス権を付けることもありません」


「当然です」


「頭取も、宮嶋さんの部署の資料を配偶者として見ることはありませんね」


「ありません」


 御子柴は確認欄に印を付けた。


 ◇◇◇


 午後三時十八分。


 御子柴は最後の画面を閉じた。


「本日確認すべき主要な届出は、ここまでです。事務処理の反映や閲覧制限の設定は、確認を続けます」


 婚姻に伴う家族情報と住所の変更。緊急連絡先。税・社会保険と福利厚生の確認。人事権限の分離と情報管理。


 一つずつ終えたからこそ、「全部済んだ」という言葉では片づけない。今後も守り続ける運用が残っている。


「人事担当として、お伝えします」


 御子柴が二人に向き直った。


「周囲に結婚を公表しないことと、銀行に必要な申告をしないことは、別です。今日、お二人から直接話していただけてよかった」


「秘密にしているからこそ、必要な手続きはしたかったんです」と創が言った。


「それで正しいと思います」


 御子柴は資料を閉じ、少しだけ表情を和らげた。


「改めて。ご結婚、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


 二人が同時に答えた。


「ただし、宮嶋さん」


「はい」


「明日、廊下で会っても、私は今までどおり接します。一行員の宮嶋創さんとして」


「それでお願いします」


「頭取も、よろしいですね」


「それ以外では困ります」


 御子柴が頷いた。


 会議室を出ると、廊下で水城が待っていた。


「いかがでしたか」


「必要な申告はできたよ」と璟瑶が答える。


 創も頷く。


「では、失礼します。欧陽頭取」


「お疲れさまです、宮嶋さん」


 夫は十八階へ、妻は四十二階へ戻る。


 それぞれの仕事が待っていた。


 ◇◇◇


 午後三時三十七分。


 創が席に戻ると、相沢が顔を上げた。


「おかえり。結構かかったな」


「手続きが多くて」


「何の?」


 創が答えを探すより先に、桐生が口を開いた。


「相沢。個人的な手続きまで聞かなくていい」


「あ、すみません」


「宮嶋、東央精密の続きだ。七割ケースに受注減を重ねた数字、見せてくれ」


「はい」


 創は資料を開いた。


 桐生は結婚のことを知っている。それでも、今見ているのは創の仕事だけだ。


 午後四時四十八分。四十二階でも、水城と劉川が璟瑶から申告を終えたことだけを聞いた。妊娠について御子柴には伝えていないと確認し、二人はそれ以上の話を広げなかった。


 夫婦関係の事情を直接共有した銀行内の四人――水城、劉川、桐生、御子柴。


 正式な処理に必要な担当者は、必要な情報を扱う。それでも、事情を知る人を興味本位で増やさない。二人が選んだ方針は変わらなかった。


 ◇◇◇


 午後六時五十一分。成城の新居。


 先に帰った創を、少し遅れて帰宅した璟瑶が見つけた。


「ただいま」


「おかえり」


 家では「欧陽頭取」も「宮嶋さん」もいない。


 夕食後、二人はソファに並んだ。


「宮嶋創と欧陽璟瑶」と創が言う。「名字が違っても、銀行の記録にも夫婦って載るんだな」


「うん。金曜日から、ずっと夫婦だけどね」


「分かってる。今日、また実感した」


 璟瑶が笑う。


「創、結婚祝金は何に使う?」


「まだ支給されてもいないのに?」


「考えるだけなら、いいでしょう」


 創は少し考えた。


「二人で、形に残るものを買う?」


「いいね。高くなくても」


「うん。今日のことも、思い出せるようなもの」


 創は璟瑶の手を握った。


「ちゃんと届け出て、よかった」


「私も」


「秘密を守るために、必要なルールを破ったら意味がないから」


 璟瑶は握られた手を、そっと握り返す。


 結婚を誰に話すかは、これからも二人で決める。


 だが、銀行員として守るべき線は、今日、正式に引いた。人事は公平に。情報は混ぜずに。必要な支えは、必要な人から受ける。


 明日も桐生は、創に東央精密の資料を差し戻すかもしれない。七十七点の先は、創自身が仕事で進むしかない。


 そして璟瑶も、頭取として朝の会議に出る。


 銀行では、今までどおり。


 家に帰れば、夫と妻。


 二人はその両方を、守っていく。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、創と璟瑶が婚姻に伴う人事・総務上の正式手続きをすべて済ませました。


御子柴専務だけに限定して結婚を報告し、家族構成、新住所、緊急連絡先、税金、社会保険、福利厚生などを一つずつ確認。


二人とも改姓しないため、名刺や行員証、社内アカウントなどの変更はありません。


また、それぞれ独立した収入があるため扶養扱いにもせず、家族手当や社宅・家賃補助も規程上は非該当となりました。


そして何より重要なのが、利益相反管理です。


璟瑶は今後も創の評価・異動・昇進・配属に一切関与しない。


逆に、創も「頭取の夫だから」という理由で優遇も不利益も受けない。


夫婦であっても、仕事上の情報は混ぜない。


その線引きを正式に形にしました。


これで銀行内で真実を知るのは、水城、劉川、桐生、御子柴の四人だけ。


次回は再び東央精密製作所の設備投資案件へ。


桐生が結婚の事実を知った今でも、創への評価は本当に変わらないのか。


七十七点のその先へ進みます。


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