第72話「午前十時三十分、二つの告白――第一秘書と直属上司だけに明かした結婚」
第72話です。
午前十時三十分。
四十二階では、璟瑶から第一秘書・劉川へ。
十八階では、創から直属上司・桐生へ。
同じ時刻、二つの場所で重要な報告が行われます。
「結婚しました」
そして、その相手が誰なのか。
劉川には、創との結婚と双子妊娠を必要最小限で共有。
桐生には、結婚したことと、その相手が欧陽頭取であることを創自身の口から伝えます。
驚きながらも、それぞれ第一秘書と直属上司として受け止める二人。
昼には、思いがけず五人が同じ社員食堂のテーブルにつくことになります。
水曜日、午前八時十一分。
青嶺中央銀行本店、十八階。
「おはようございます」
宮嶋創は法人営業第一部の席に着き、東央精密製作所の資料を開いた。
今日は午前十時三十分に、直属の上司・桐生雅人へ結婚を報告する。
結婚相手が誰なのかも、自分の口で話すと決めていた。
「宮嶋さん。昨日の比較表、見せて」
相沢拓也が隣へ来る。
「修繕費の集計範囲は揃え直した?」
「前年の対象設備に関する記録が十分に分かれていません。なので、前年の全体額と今年の対象設備関連額を直接比較しない形にしました」
「うん。分からないものを、分かったように書かない。それでいい」
「停止時間の累計五十四時間も、全設備の停止と対象設備が直接の原因と確認できた分を分けています。納期遅延が一日あったことは事実として記載しましたが、設備を更新すれば必ず防げるとは書いていません」
「その方が正確だ」
会話を聞いていた桐生が振り向いた。
「宮嶋。十時半、小会議室だったな」
「はい。お時間をいただいて、ありがとうございます」
「十時二十五分には来い」
「分かりました」
相沢が二人を見比べる。
「個人面談ですか?」
「少し、個人的な報告です」
創が答えると、相沢はそれ以上聞かなかった。
創はパソコンへ向き直った。資料の文字は読める。作業もできる。
それでも、時計を見るたび、指先が少し冷たくなった。
◇◇◇
同じ頃、四十二階。
第一秘書の劉川景仁が、頭取室で予定を確認していた。
「九時に海外法人関連、十時に国内営業戦略の打ち合わせです。十時半からの時間は空けてあります」
「ありがとう」
「水城さんから、私も同席する個別の打ち合わせと聞いています。内容は、その時に伺えばよろしいですか」
「はい。十時半に話します」
「承知しました」
劉川はそれ以上聞かなかった。
第二秘書の水城絢乃が事前に部屋を確保し、予定を調整している。普通の業務連絡ではないらしい。
だが、劉川にはまだ想像もつかなかった。
◇◇◇
午前九時四十二分。
「教育期間は三か月ですか?」
藤崎美優の質問に、創は資料の該当箇所を示す。
「標準ケースでは三か月、保守的なケースでは半年を見ています。ただ、習熟に応じて生産性が回復する時期は銀行側の仮定なので、顧客から確認した事実とは欄を分けました」
「見やすくなったね」
「ありがとうございます」
創は時計を見る。十時十二分。
「宮嶋」
桐生が声をかけた。
「緊張してるのか」
「……少し」
「俺が怒るような報告?」
「遅くなったことで、注意は受けると思います」
桐生は創をしばらく見た。
「分かった。十時半に聞く」
「はい」
桐生のいつもどおりの声が、かえって創を緊張させた。
◇◇◇
午前十時二十五分。
四十二階では、水城が頭取室への取り次ぎを止めた。劉川が入り、扉が閉まる。
璟瑶は頭取席ではなく、応接用のソファに座っていた。
「劉川さん。今日は、通常の業務報告ではありません」
「承知しました」
「ただ、これからの秘書業務に関係する話です」
劉川も姿勢を正す。水城は璟瑶の隣に座り、口を挟まずに待った。
同じ時刻。
十八階の小会議室では、創が桐生と向かい合っていた。
「失礼します」
「座って。個人的な報告って、何だ?」
創は一度、深く息を吸う。
壁の時計が十時三十分を指した。
◇◇◇
「劉川さん。私、結婚しました」
璟瑶が告げると、劉川の動きが止まった。
「……ご結婚、ですか」
「先週の金曜日に、婚姻届が正式に受理されました」
「それは……おめでとうございます」
「ありがとうございます」
劉川は驚きながらも、まず祝福した。それから、璟瑶の次の言葉を待つ。
「相手について、劉川さんに必要な範囲でお伝えします」
「はい」
「宮嶋創さんです」
「……宮嶋さん?」
「法人営業第一部の、宮嶋創さんです」
劉川が水城を見る。水城は静かに頷いた。
「キャリア採用で入行した、二十一歳の宮嶋さんですか」
「はい」
「頭取と、宮嶋さんが……」
劉川は言葉を区切り、もう一度確かめた。
「ご結婚されたんですね」
「そうです」
「少し、整理する時間をください」
「もちろん」
劉川は息を整えた。
◇◇◇
同時刻、十八階。
「桐生さん。報告が遅くなって申し訳ありません。結婚しました」
桐生は創を見た。
「結婚?」
「はい。先週の金曜日に婚姻届が受理されました」
「……まず、おめでとう。ただ、その話ならもっと早く相談してほしかった」
「おっしゃるとおりです」
「遅れた理由を聞いていいか」
「相手が同じ銀行に勤めています。誰にどこまで伝えるか、二人で決める必要がありました」
桐生の眉がわずかに動く。
「同じ部署?」
「違います」
「相手は、誰だ」
創は桐生の目を見た。
「欧陽璟瑶頭取です」
桐生は動かなかった。
会議室の外を誰かが通り過ぎる足音がする。その音が消えても、桐生はまだ黙っていた。
「……もう一回、確認する」
「はい」
「お前が結婚した相手は、うちの頭取?」
「はい。欧陽頭取です」
桐生は椅子の背に体を預けた。
「そうか。……いや、まだ全然整理できてない」
「すみません」
「結婚したことを謝るな。報告が遅れたことは、あとで話す」
桐生は額に手を当てる。
「まず、仕事に関わることから確認させてくれ」
◇◇◇
四十二階。
「頭取が宮嶋さんの採用、配置、評価、給与に私的な影響を与えたことはありませんね?」
劉川の問いに、璟瑶は頷いた。
「ありません。最終面接には頭取として同席しましたが、交際を理由に合否へ個人的な働きかけはしていません。配属やその後の評価、待遇にも介入していません」
「承知しました。その経緯も含め、人事手続きの担当者が必要な範囲で確認できる形にした方がいいですね」
「そう考えています」
劉川は一つ頷く。
璟瑶は続けた。
「もう一件あります。私は妊娠しています」
「……はい」
「双子です。二人とも心拍は確認できています」
今度は劉川が目を閉じた。
数秒後、水城へ顔を向ける。
「水城さん。今日、情報量が多くありませんか」
「私も初めて伺った時は、そう思いました」
璟瑶が申し訳なさそうに笑う。
「すみません」
「いえ。必要な話です」
劉川の表情が、第一秘書のものに戻った。
「今後、通院や体調に合わせて、出張や長時間の会議を調整する必要がありますね」
「はい」
水城が答える。
「私だけでは対応しきれない場面が出てきます。第一秘書の劉川さんにも、予定を組む前提を知っていただきたかったんです」
「理解しました。業務上必要な範囲だけ扱います。ほかに共有が必要になった時は、先に相談します」
「お願いします」
劉川は璟瑶へ向き直った。
「改めて、ご結婚おめでとうございます。お身体のことも、秘書として支えます」
「ありがとうございます」
璟瑶の表情が少し緩んだ。
◇◇◇
十八階。
桐生の確認も続いていた。
「宮嶋。家で顧客情報や、今扱っている東央精密の資料を話すことは?」
「ありません。銀行の資料も持ち帰りません」
「今後、自分の案件を頭取に直接相談するつもりは?」
「ありません。業務上の経路を守ります」
「分かった。夫婦でも、顧客情報と仕事上の判断は別だ。そこは徹底しろ」
「はい」
桐生は創を見つめた。
「もう一つ。俺は今日この話を聞いたからといって、お前の評価を変えない」
「……はい」
「頭取の夫だから点を上げることも、下げることもない。お前が作った資料と、お前が聞いてきた顧客の話を見る」
「ありがとうございます。それが一番ありがたいです」
「今日の東央精密は七十四点だったな」
「はい」
「この話を聞いたあとも、七十四点だ」
創の肩から、ようやく力が抜けた。
「あと、個人的なことを俺から相沢たちに話すつもりはない。ただ、正式な届出が必要なところは、二人で手順を確認しろ」
「はい。水城さんとも相談しています」
「分かった」
桐生は少し間を置いた。
「しかし、頭取か……」
「俺も、言うまでかなり緊張しました」
「緊張しない方がおかしい」
二人は小さく笑った。
最後に桐生が言った。
「報告が遅れたことは、次から気をつけろ。でも今日、自分で話しに来たのはよかった。結婚、おめでとう」
「ありがとうございます」
創は深く頭を下げた。
◇◇◇
午前十時五十五分。
小会議室から戻った創を、相沢が見た。
「終わった? 怒られた?」
「少し注意は受けました」
桐生が横から言う。
「個人的な報告だ。それ以上は聞くな。仕事に戻るぞ」
「了解です」
創も自分の席に戻り、東央精密の資料を開いた。
桐生はパソコンを起動する前に、一度だけ創の背中を見る。
頭取の夫。
まだその言葉には驚いている。けれど、仕事中の創は、昨日と同じ宮嶋だった。
◇◇◇
午後零時二十四分。
社員食堂で、創と桐生は昼食の席を探していた。
近くにいた水城が挨拶し、その先のテーブルに座る璟瑶と劉川が見える。
「こちら、二席空いています」
劉川が声をかけた。
桐生が一瞬だけ創を見る。
「よろしいんですか」
「どうぞ。若手法人担当の現場の話も聞きたいところでした」
璟瑶の返事は、いつもどおり頭取としてのものだった。
「失礼します」
桐生が座り、創も続く。
璟瑶、水城、劉川、桐生、創。
五人が同じテーブルに着いた。
周囲の行員には、頭取が現場の話を聞くため、法人営業のチームリーダーと若手行員を昼食に招いたように見える。
実際、話題は仕事だった。
「桐生さん。若手法人担当の育成で、今いちばん難しいのは何ですか」
璟瑶が尋ねる。
「数字を見るのは、みんな覚えます。ただ、数字がそうなった理由を顧客に聞くところで差が出ます」
「訪問を増やすだけでは足りませんか」
劉川の問いに、桐生は首を横に振った。
「同じ質問を百回するだけでは、聞けることは増えません」
璟瑶が創へ向き直る。
「宮嶋さんは、設備投資の案件を見る時、何を気にしていますか」
創は一瞬だけ緊張し、仕事の言葉で答えた。
「投資をした場合の効果だけでなく、投資しない場合に残る課題と、導入によって新しく生じる負担の両方です。教育期間や稼働率、維持費も確認しています」
「桐生さん、実際の資料では?」
「最近、ようやく両方を見られるようになってきました。今は七十四点です」
「あと六点で八十点ですね」
「簡単に言わないでください」
創が反射的に返し、すぐに姿勢を正した。
「……失礼しました」
桐生の目が一瞬だけ動く。劉川も水城も、何も言わない。
璟瑶は静かに頷いた。
「率直な意見として受け取ります。六点分、どこを改善するかが大切ですね」
「はい」
創はそれ以上、私的な言葉を出さなかった。
話は、顧客から聞いた事実と銀行側の推測の分け方、キャリア採用者への教え方へと移る。
「前職の経験があるからといって、今の銀行のルールを説明しなくていいわけではありません」
桐生が言う。
「宮嶋さんはどうでした?」
「前の銀行で覚えたことが、そのまま通用すると思わないようにしました。確認経路も、決裁権限も、一つずつ聞き直しました」
「そこは宮嶋の強みです。慎重すぎる時もありますが」
水城が口元を緩める。
「慎重だという話は、私も聞いたことがあります」
「……誰からですか」
創が尋ねると、水城は涼しい顔で答えた。
「秘密です」
璟瑶は水を飲み、笑いを隠した。
約四十分、ほとんどが仕事の話だった。周囲にも、頭取による現場ヒアリングにしか見えない。
席を立つ少し前、璟瑶が声を落とす。
「桐生さん。今日、宮嶋さんから報告がありましたか」
「……個人的な報告を受けました」
「私も劉川さんに、個人的な報告をしました」
劉川と桐生の視線が一瞬だけ合った。
二人とも、相手も事情を知ったのだと理解する。
けれど、それ以上は口にしない。
「午後の仕事に戻りましょう」
璟瑶の言葉で、五人は席を立った。
◇◇◇
十八階へ戻る途中、桐生が創へ小声で聞いた。
「昼、緊張したか」
「かなり」
「俺もだ。……さっきの『簡単に言わないでください』は気をつけろよ」
「はい」
法人営業第一部では、相沢が興味深そうに二人を迎えた。
「頭取と何を話したんですか?」
「若手の育成と、設備融資の見方です」
創が答えると、桐生が付け加えた。
「宮嶋は頭取に、あと六点は簡単じゃないと言ってた」
「言っちゃったんですか」
相沢が笑う。
「流れで……」
創も苦笑した。
あの一瞬だけ、仕事の言葉に夫としての親しさが混ざりそうになった。その反省は、創の胸の中だけにしまった。
四十二階では、水城と劉川が午後の予定を見直していた。
「十六時の会議、資料を先に配れば短くできます」
劉川の提案に水城が頷く。
「お願いします。頭取の休憩時間を確保したいので」
「二人とも、急に連携がよくなってない?」
璟瑶が尋ねる。
「同じ前提を持てましたから」
「私一人で休憩を確保するより、二人の方が確実です」
「……話さなければよかったかも」
「もう遅いです」
劉川の返事に、三人で笑った。
◇◇◇
午後三時四十三分。
創は再修正した東央精密の資料を桐生へ渡した。
停止時間の分類、修繕費の比較に関する注記、導入後の教育期間、投資を見送る場合の課題。桐生は一つずつ確かめ、最後のページを閉じた。
「七十七点」
「三点上がった」
「今日の報告を聞いたからじゃないぞ。資料がよくなったからだ」
「分かってます」
桐生は声を少し落とす。
「宮嶋。話してくれてありがとう」
「こちらこそ、聞いていただいてありがとうございました」
「今後、家庭の事情で勤務に調整が必要になりそうなら、早めに相談しろ。ただし、私生活を全部聞くつもりはない」
「はい」
「仕事は今までどおり見る」
「それが一番ありがたいです」
創は深く頭を下げた。
◇◇◇
午後七時十九分。
成城の新居に璟瑶が帰ると、先に帰宅した創が玄関へ出てきた。
「どうだった?」
「創こそ、どうだった?」
同時に聞いて、二人は笑った。
「桐生さん、十秒くらい固まった」
「劉川さんは、結婚で一回、相手が創だと聞いてもう一回、双子で完全に止まった」
「そっちの方が情報量、多いもんね」
リビングへ移り、創は桐生との話を伝えた。
「報告が遅れたことは注意された。でも事情は理解してくれた。評価も変えないって」
「今日の資料は?」
「七十七点。上がった理由もちゃんと説明してくれた」
「よかった」
「劉川さんは?」
「驚いてた。でも、すぐに予定の調整を考え始めた。水城さんも、これからは一人で抱えなくて済む」
「二人とも、話してよかったね」
「うん」
昼食の席で桐生と劉川が一瞬顔を見合わせたことを思い出し、二人はまた笑う。
「あの二人、お互いに知ったって気づいたよね」
「たぶん。でも、誰も口には出さなかった」
銀行内で二人の事情を知る人は、水城、劉川、桐生の三人になった。
次は、御子柴専務への相談と、必要な人事手続きが待っている。
「秘密にしたいからって、必要な届出まで止めるわけにはいかないね」
創が言う。
「うん。創の評価を守るためにも、正式に整理しよう」
璟瑶は創の手に自分の手を重ねた。
今日、二つの場所で、二つの報告をした。
劉川は第一秘書として、璟瑶を支えるために受け止めた。
桐生は直属の上司として、創の仕事を変わらず評価するために受け止めた。
知る人は増えた。それでも、銀行での呼び方は変わらない。
「頭取」
「宮嶋」
明日も二人は、それぞれの職場でそう呼ばれる。
そして家に帰れば、夫と妻だ。
次に向き合うのは、同じ銀行に勤める夫婦として避けて通れない正式な手続きだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、ついに劉川と桐生へ真実が共有されました。
劉川は、
「頭取が結婚した」
「相手が宮嶋創」
「さらに双子を妊娠している」
という情報を一度に聞き、さすがに驚くことに。
それでもすぐに第一秘書として切り替え、今後の通院や出張、会議日程の調整を水城と支えていく姿勢を示しました。
一方の桐生は、創へ「本来ならもっと早く報告してほしかった」ときちんと注意。
その上で、
「俺が知ったからって、お前への評価は一ミリも変えない」
とはっきり約束してくれました。
実際、東央精密の資料も結婚とは関係なく七十七点。
創にとって、それが何よりありがたい対応でした。
昼には璟瑶、水城、劉川、桐生、創の五人が同じテーブルへ。
四十五分ほど一緒にいても、会話の大半は若手育成や設備融資など仕事の話。
周囲の行員たちには、まさかその中に新婚夫婦がいるとは気づかれていません。
秘密を知る銀行内の人は、これで水城、劉川、桐生の三人。
そして次回、第73話。
今度は夫婦として避けて通れない、人事・総務上の正式な申告と手続きへ進みます。




