第71話「誰まで話す?――夫婦になった二人が決めた“秘密を知っていい人”」
第71話です。
正式に夫婦となった創と璟瑶。
しかし銀行内では、まだほとんど誰もその事実を知りません。
水城だけが把握している中、二人は今後、誰まで真実を共有するべきなのかを本格的に話し合います。
候補となるのは、
第一秘書・劉川景仁。
創の直属上司・桐生雅人。
そして人事・総務上の正式手続きを担当する御子柴泰成専務。
一方で、他の重役や相沢、黒瀬、琴葉にはまだ知らせない方針です。
「隠すため」ではなく、「夫婦と仕事を守るため」に必要な人へ話す。
二人の秘密のあり方が、少しずつ変わり始めます。
火曜日、午前八時十三分。
青嶺中央銀行本店、法人営業第一部。
「おはようございます」
宮嶋創は席に着き、東央精密製作所の資料を開いた。
結婚後、二度目の出勤日。部署では何も変わっていない。
「宮嶋さん。昨日直した資料、もう一度見たよ」
相沢拓也が隣に立つ。
「どうでした?」
「かなりよくなった。ただ、設備の停止時間が気になる。過去一年で累計五十四時間とあるけど、全部が今回の更新対象設備のせい?」
創は資料を見直した。
「……そこまでは確認できていません。全設備の停止時間と、対象設備が直接の原因だった時間を分けるべきでした」
「そう。今の書き方だと、五十四時間すべてが対象設備の問題に見える」
「修正します」
「東条社長が話していた、若手社員の教育負担も残して。ただし、設備を更新すれば負担がなくなる、とまでは書かないで」
「新設備を覚える負担もありますからね。両方書きます」
少し離れた席で聞いていた桐生雅人が声をかけた。
「そこまで直せたら、七十五点くらいになるかもな」
「昨日は七十三点でしたよね。二点だけですか」
「一日二点上がれば十分だろ」
「毎日上がるとは限りませんよ」
相沢が言い、周囲が少し笑った。
創も笑ってパソコンに向き直る。
桐生は創の直属の上司だ。資料の数字を見逃さず、創自身の仕事を評価してくれる。
けれど、創が結婚したことをまだ知らない。相手が青嶺中央銀行の頭取であることも。
入籍を決めた段階で相談できればよかった、と創は思う。ただ、相手が頭取である以上、誰に何を伝えるかを二人で決める時間が必要だった。
それでも、いつまでも黙っていていいわけではない。
「宮嶋さん、手が止まってる」
「すみません。すぐ直します」
相沢に促され、創は仕事へ意識を戻した。
◇◇◇
午前十時四十七分。
四十二階では、欧陽璟瑶が華瑞国際産業集団の融資案を確認していた。
検討中の総枠は人民元八十億元。ただし、その内訳は新エネルギー設備が四十億元、運転資金が二十五億元、物流会社の買収が十五億元と、性質の異なる三つの使途に分かれる。
「総額で一括管理しないでください。同じ八十億元でも、返済原資もリスクも違います」
担当者が頷く。
「使途別の管理案を作成中です」
「担保、コベナンツ、返済原資をそれぞれ検証してください。資料も三つに分けて見せてください」
「承知しました」
担当者が退出すると、水城絢乃が残った。
「頭取。昨日お話しした限定共有の件ですが」
「劉川さんのことね。今日、創と話す」
「ありがとうございます。もう一件、人事・総務の手続きについてです」
水城は言葉を選んだ。
「今回、頭取の配偶者が同じ銀行に勤務しています。通常の婚姻に伴う届出だけでなく、創さんの評価や配置への関与をどう防ぐかも整理が必要です。責任者には、御子柴専務へ限定して相談するのが適切だと思います」
「長谷部さんではなく?」
「実務担当者の確認は別途必要になります。ただ、方針を決める責任者としては御子柴専務です。情報を扱う人も、手続きに必要な範囲に絞れます」
「御子柴さんは重役だよ。そこに話すのと、役員会に話すのは違う?」
「違います。職務上の相談であって、役員会への報告ではありません。現時点でほかの役員に広く伝える必要はないと考えます」
璟瑶は少し考えた。
「それも創と相談する」
「はい」
水城は予定表を閉じてから、璟瑶を見た。
「今日の体調はいかがですか」
「朝、少し気持ち悪かった。でも今は大丈夫」
「ほかに気になる変化は?」
「今のところない。何かあれば言うよ」
「お願いします」
「水城さん、最近は秘書なのか看護師なのか分からない」
「秘書です」
即答に、璟瑶が笑った。
◇◇◇
午後零時三十五分。
創は修正した資料を桐生に渡した。
「累計五十四時間は全設備に関する停止時間として記載し、対象設備が直接の原因と確認できた分は別にしました」
「うん。こっちの方が正確だ」
桐生は次の数字を指す。
「修繕費の比較は? 前年の六百八十万円と、今年の八百三十万円」
「今年の八百三十万円は現時点での全体額で、うち対象設備に関連するのが約四百九十万円です。前年は、同じ範囲の数字をまだ揃えられていません」
「なら、その二つをそのまま比較するな」
「はい。集計範囲を揃えるか、比較できないことを明記します」
「数字は並べるだけじゃ駄目だ。同じ意味の数字を並べるんだ」
創はメモを取った。
「分かりました」
「今日の資料は悪くない。七十四点」
「七十五点の話は?」
「今の比較が直ったらな」
「さっきより厳しくなってませんか」
「甘くする理由がない」
創は苦笑した。
桐生なら、結婚相手を知っても同じように資料を見てくれるだろうか。
そうであってほしい。そして、そのためにも自分の口で伝えたい。
創は資料を抱えて席に戻った。
◇◇◇
午後六時四十六分。
先に帰宅して夕食の準備をしていた創が、玄関へ出る。
「おかえり」
「ただいま」
「会議、多かった?」
「少し疲れた。でも体調は落ち着いてる」
創の表情を見て、璟瑶が先に付け加えた。
「朝は少し気持ち悪かったけど、今は平気。気になる変化もない」
「水城さんにも同じことを聞かれた?」
「聞かれた」
「二人とも心配だから」
「管理されてるみたい」
「守られてる、って言って」
「……分かった。守られてる」
璟瑶が笑った。
夕食を終え、二人はリビングのソファに並んだ。
「今日、水城さんと話した」
璟瑶が切り出す。
「劉川さんへの共有?」
「それと、御子柴専務への相談」
璟瑶は、手続きと利益相反への対応が必要になることを説明した。
創は最後まで聞き、頷いた。
「御子柴さんには、責任者として知ってもらう必要があると思う。俺の評価や異動に、璟瑶が関わらないことを明確にしたい」
「私もそう思う。ただ、役員会に結婚を報告するつもりはない」
「うん。必要な担当者への手続きと、広く公表することは別だね」
次に、璟瑶は第一秘書の話をした。
「劉川さんには、そろそろ伝えたい」
「俺も賛成。水城さんが不在の時も、予定や緊急時の対応ができるようにした方がいい」
「伝えることは絞ろう」
二人は一つずつ確かめた。
創と璟瑶が夫婦になったこと。璟瑶が双子を妊娠し、経過観察中であること。緊急時、創が連絡先になること。
「そこまでなら、第一秘書の仕事に必要だと思う」
「うん。B5のことは話さない」
「新居の詳しいことも、必要がなければ話さない」
二人の考えは揃った。
「それで、桐生さんは?」
璟瑶に聞かれ、創は姿勢を正した。
「俺から報告する。結婚したことも、相手が璟瑶だということも」
「本当に、私の名前まで?」
「うん」
創は手を組んだ。
「遅くなったことは謝る。本当なら、入籍を決めた段階で直属の上司に相談したかった。でも、相手が同じ銀行の頭取だから、共有する範囲を決める前に話せなかった」
「創だけのせいじゃないよ。二人で決めたことだから」
「分かってる。でも、桐生さんには俺自身の言葉で伝えたい」
今後、家庭の事情で休暇や勤務の調整が必要になるかもしれない。加えて、創の直属の上司が、あとから別の経路で配偶者の名を知るのは避けたかった。
「『結婚しました。相手は欧陽頭取です』って言う」
「桐生さん、固まると思う」
「俺もそう思う」
二人は顔を見合わせて、少し笑った。
「怖い?」
「怖い。でも、桐生さんは俺の仕事をちゃんと見てくれてる。知った途端に甘くする人じゃない」
「もっと厳しくなるかも」
「それは困る。でも、甘くなるよりいい」
璟瑶は頷いた。
「分かった。私も賛成する」
「ありがとう」
創はメモ用紙を一枚取り、共有する相手と内容を書き出した。
水城はすでに事情を知っている。劉川には第一秘書として必要な三点。桐生には、直属の上司として結婚と配偶者が頭取であること。御子柴には、人事手続きと利益相反への対応を相談する。
「相沢さんや黒瀬、琴葉には、今は話さない」
「うん。ほかの役員にも広げない」
璟瑶はメモを見てから、創に尋ねた。
「これでいい?」
「うん。必要になった時は、また二人で見直そう」
紙の一番下に、創は書き足した。
『必要な人に、必要なことだけ伝える』
何も知らない人を増やすためではない。これから必要になる支えを、二人と双子のために整える。そのための線引きだった。
◇◇◇
話が一段落すると、璟瑶がソファに背を預けた。
「創。お腹、少し変わったと思う?」
創は本人の顔を見てから、部屋着の上からそっと視線を下ろす。
「言われてみると、少しだけ」
「やっぱり?」
「毎日一緒にいるから、すぐには気づかなかった」
「これからもっと変わるんだろうね」
「触ってもいい?」
「うん」
創は服の上から、そっと手を置いた。
何か動きを感じるわけではない。それでも、そこに二つの小さな命がいることを、二人は診察で確かめている。
「今日は本当に大丈夫?」
「うん。気になることがあれば、先生に相談するし、創にも言う」
「分かった」
璟瑶は創の手に自分の手を重ねる。
「今日の仕事、何点だった?」
「七十四点」
「昨日より一点上がった」
「朝は七十五点になりそうだったのに。数字の集計範囲を揃えてなかった」
「桐生さん、ちゃんと見てるね」
「うん。だからこそ、報告したい」
「頑張って」
「璟瑶も、劉川さんに話すんでしょう」
「私も緊張してる」
二人は少し考えてから、同時に口を開いた。
「同じ日にする?」
「同じ日にしようか」
創が続ける。
「俺は桐生さんに時間をもらう。璟瑶は水城さんに、劉川さんとの時間を調整してもらう」
「午前十時半は?」
「聞いてみる。二人とも都合が合えば、その時間に」
同じ日の、同じ時刻。
別々の場所で、それぞれ自分の言葉で話す。
終わって家に帰ったら、どうだったかを報告し合おう。それも二人で決めた。
◇◇◇
午後十時五十三分。
寝室の灯りを落とし、創と璟瑶はベッドに横になった。
「今日は真面目な話をたくさんしたね」
「夫婦会議だった」
「家まで銀行みたいにしないで」
「でも、二人で決められてよかった」
「うん」
創が寝返りを打つと、璟瑶が少し近づいた。
「創」
「何?」
「今日はもう勤務中じゃないよね」
「家だからね」
「じゃあ、キスしていい?」
創は笑って、璟瑶の頬に手を添えた。
唇が重なり、一度離れて、また触れる。急がない、穏やかなキスだった。
「朝の分も?」
「それは何回分?」
「数えてない」
「ずるい」
璟瑶が笑い、創も笑う。
創は布団を整え、璟瑶が楽な姿勢で横になれるよう少し距離を取った。
「明日、緊張するね」
「うん」
「でも、隠すためだけじゃなく、守るために話すんだよね」
「そう。劉川さんも桐生さんも、必要な範囲だけ」
「御子柴さんへの相談は、そのあと手順を決めよう」
「うん」
すべてを誰にも言わないことが、秘密を守る唯一の方法ではない。
仕事を続ける璟瑶を支えるために。創が一人の行員として評価され続けるために。そして、これからの家族のために。
二人は、話す相手を自分たちで選んだ。
「おやすみ、夫」
「おやすみ、妻」
翌朝、午前十時半。
四十二階では、璟瑶が第一秘書の劉川に向き合う。
別の階の小会議室では、創が直属の上司・桐生に向き合う。
二人の秘密を守るための、新しい一歩が始まる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、創と璟瑶が銀行内での情報共有範囲を正式に決める回となりました。
水城に続いて真実を伝える候補は、
第一秘書・劉川景仁。
直属上司・桐生雅人。
人事担当の御子柴泰成専務。
それ以外の重役や同僚には、現時点では知らせません。
創も、本来ならもっと早く直属上司へ結婚を報告すべきだったと認めました。
ただし相手は、同じ銀行の頭取。
普通の結婚報告と同じようには進められなかった事情もあります。
仕事では東央精密製作所の融資案件をさらに修正し、桐生から厳しくも的確な指導を受けた創。
だからこそ、自分の口から真実を伝えたいという気持ちも強くなりました。
そして新居では、璟瑶のお腹がほんの少しずつ丸くなり始めています。
大きな体調変化はないものの、双子は確かに成長しています。
夜には夫婦として穏やかな時間を過ごし、翌日に備える二人。
次回、第72話。
午前十時三十分。
四十二階では璟瑶から劉川へ。
法人営業第一部では創から桐生へ。
同じ時刻、二つの場所で秘密が明かされます。




