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第70話「妻になった頭取、夫になった若手行員――それでも銀行では今まで通り」


第70話です。


婚姻届が正式に受理され、夫婦になった創と璟瑶。


それでも翌営業日の青嶺中央銀行では、何も変わりません。


四十二階では「欧陽頭取」。


法人営業第一部では「宮嶋さん」。


勤務中は今まで通り、完全に別々です。


ただ、水城だけは二人が正式に夫婦になったことまで把握。


今後の人事、住所、緊急連絡先などの手続きを必要最小限で進めながら、第一秘書・劉川への限定共有についても再び話し合うことになります。


そして昼休み。


偶然同じエレベーターに乗った二人。


触れられないはずの勤務時間中に、璟瑶はほんの少しだけ創の手を握ってしまいます。



 月曜日、午前六時三十七分。


 成城の新居で、宮嶋創と欧陽璟瑶は朝食を取っていた。


 金曜日に婚姻届が正式に受理され、週末を二人で過ごした。今日は、夫婦になって初めて同じ銀行へ出勤する日だ。


「創。今日から、結婚した状態で銀行に行くんだね」


「うん。でも銀行では今までどおり」


「創は宮嶋さんで、私は欧陽頭取」


「そう」


 ご飯、味噌汁、焼き鮭、卵焼き。朝の食卓はいつもと変わらない。


 ただ、端に置かれた封筒が、創の目を何度も引いた。婚姻届が受理されたことを確認した書類の控えが入っている。


「また見てる」


「まだ実感があるような、ないような」


「昨日は何回『妻』って言った?」


「数えてない」


「私は数えてる」


「何回?」


「教えない」


 璟瑶が笑い、創もつられて笑った。


 午前七時十一分。創は先に家を出る。


「行ってきます」


「待って」


 玄関まで来た璟瑶が、創の頬を両手で包んだ。唇が重なり、一度離れてから、もう一度短く触れる。


「……朝から長いよ」


「妻だから」


「その使い方、便利すぎない?」


「銀行ではしないよ」


「本当に?」


「本当に」


 創はまだ少し赤い顔のまま、玄関を出た。


 駅へ歩きながら、ひとり呟く。


「仕事に集中しないと」


◇◇◇


 午前八時十四分。


 青嶺中央銀行本店、法人営業第一部。


「おはようございます」


 創が席に着くと、相沢拓也が東央精密製作所の資料を指した。


「宮嶋。十時に桐生さんが確認する。設備更新の前提を、もう一度整理しておいて」


「分かりました」


 投資額は約一億八百万円。融資希望額は一億円。


 更新した場合と、しない場合。どちらにも費用とリスクがある。創は標準ケースと保守的なケースを並べ、返済余力に加え、新設備の保守費や社員の教育費、導入直後の生産性低下を確認した。


 副チームリーダーの榎本和也が画面を覗く。


「保守ケースは、導入後三か月の稼働を八割で見てる?」


「はい。さらに七割に下がる場合も、別に出しました」


「いい。二つを並べて説明できるようにしよう」


 後ろから桐生雅人の声がする。


「設備を入れれば全部解決する、という資料にはするなよ」


「はい。投資負担も、立ち上がりの遅れも書いています」


「なら、見せて」


 創は資料を持って立ち上がった。


 金曜日に結婚した。それでもここでは、東央精密の案件を任された若手行員だ。


 誰も創を「頭取の夫」とは呼ばない。それが、二人の望んだ仕事の形だった。


◇◇◇


 同じ頃、四十二階の頭取室。


 第一秘書の劉川景仁が、璟瑶に予定を伝えていた。


「九時に経営会議。十一時に海外与信、午後二時から人材戦略会議です。十六時半には予備時間を設けました」


「予備時間?」


 隣にいた第二秘書の水城絢乃が答える。


「休憩も含みます」


「また?」


「またです」


 劉川が少し笑った。


「最近、水城さんは頭取に厳しいですね」


「頭取の予定を管理するのが秘書の仕事ですから」


「働きすぎるという点では、私も同意します」


「二人とも同じことを言う」


「正しいからです」


「味方がいない」


 璟瑶は小さく息をついた。


 目の前の劉川は、まだ知らない。


 璟瑶が三日前に結婚し、その夫が同じ本店の十八階で働いていることも。双子の妊娠を慎重に見守っていることも。


 行内で事情を知るのは、今も水城だけだった。


 午前九時の経営会議では、地域銀行の資本政策が議題に上がった。


「この収益見通しの前提は?」


 璟瑶の質問に、取締役の榊原征司が答える。


「地域銀行側が提出した来年度計画です」


「計画をそのまま判断材料にしないでください。標準ケースと下振れケース、両方を見たい」


 続いて、人員配置の話になる。


「効率化の数字だけを追って、現場の離職を増やすような削減はしません。若手を育てる余力も残してください」


 副頭取の久世宗一郎が確認する。


「育成枠は維持する方針ですね」


「はい。必要なら増やします」


 週末に妻となった璟瑶が、月曜日には変わらず頭取として判断していた。


◇◇◇


 午前十時十二分。


 桐生は創の資料を読み終え、ペンで一か所を示した。


「前は六十五点。その次が七十点。今日は七十三点」


「三点ですか」


「上がったんだから、少しは喜べ」


 相沢も横で笑う。


「若手社員へのヒアリングはよかった。古い設備特有の操作を覚える負担がある、という話を拾えたからな」


「ありがとうございます」


「ただし、社長が話した事実と、銀行側の推測がまだ混ざってる。ここを分けろ」


「はい。確認できた内容と、更新によって改善する可能性がある部分を分けます」


「それができたら、もう一段上がる」


 創は資料を受け取り、自分の席へ戻った。


 結婚後最初の営業日でも、上司の評価はいつもどおり厳しい。そのことが少し嬉しかった。


◇◇◇


 午前十一時四十八分。


 劉川が別室で電話に対応している間に、水城は頭取室の扉を閉めた。


「頭取。金曜日の婚姻届は、正式に受理されたんですね」


「うん」


 璟瑶が頷く。


 水城は丁寧に頭を下げた。


「改めまして、ご結婚おめでとうございます」


「ありがとう。銀行でそう言ってくれるのは、水城さんだけだね」


「今のところは」


 水城は席に着き、少し真面目な声になった。


「今後、婚姻に伴う行内の届出を確認する必要があります。宮嶋さん側も同様です。住所や緊急連絡先など、変更が必要な項目を一つずつ整理しましょう」


「誰が知ることになる?」


「手続きによって担当部署や確認者は異なります。私だけで済ませることはできません。ただ、必要な情報を、必要な担当者に限って扱う方法は確認できます」


 璟瑶は頷いた。


「創の仕事に影響させたくない」


「その点も重要です。頭取の配偶者であることを理由に、宮嶋さんの評価や配置、待遇を動かさない。そのために必要な対応も、正式に整理した方がいいと思います」


「お願い」


「はい」


 水城は一拍置いた。


「それから、劉川第一秘書への共有について、もう一度ご検討いただきたいです」


「……やっぱり、その話になるよね」


「今後、通院や体調による日程変更が必要になるかもしれません。私が不在の時、第一秘書が何も知らずに予定を組む状態は避けたいです」


 水城は言葉を選んだ。


「宮嶋さんがご主人であること。頭取が双胎妊娠として経過観察中であること。まずは、その範囲を考えています」


「創と、もう一度相談する」


「お願いします。私から独断では伝えません」


「ありがとう」


「秘密を守ることと、必要な支援を受けること。その両方を考えましょう」


 璟瑶は静かに頷いた。


◇◇◇


 午後零時十九分。


 昼休みになった創は、同じ部署の北川玲奈、佐伯遼、藤崎美優、水野拓海と食堂へ向かった。


 エレベーターの扉が開く。


 奥に、璟瑶と水城がいた。


 一瞬だけ創の足が止まったが、すぐに同僚たちと一緒に頭を下げる。


「お疲れさまです、欧陽頭取」


「お疲れさまです」


 璟瑶の返事も自然だった。


 扉が閉まり、エレベーターが下りていく。


 朝、家の玄関でキスをした人が、数歩先にいる。


 けれど今は、名前で呼ぶことも、二人だけの話をすることもない。


 途中階で行員が数人降り、空間が少し広がった時だった。


 創の手の甲に、指が触れた。


 見なくても分かった。


 璟瑶が、人の陰で創の手を探している。


 創は息を止める。触れた指が絡む。ほんの数秒、二人の手がつながった。


 水城は気づいた。


 前にも同じことがあり、勤務中にはしないよう注意したばかりだ。今回も、見られなかったから問題がないわけではない。


 水城は周囲の行員を一度見て、何も言わなかった。この場で声をかければ、かえって人目を集める。


 食堂の階に着く直前、璟瑶が手を離した。


「どうぞ、お先に」


 佐伯に促され、璟瑶は頭取として礼を言って降りる。


 創も同僚たちと食堂へ向かった。


 誰にも気づかれなかった。水城を除いては。


◇◇◇


 食堂で創は、キャリア採用の同期、黒瀬颯真と水無瀬琴葉を見つけた。同僚たちに断り、二人のテーブルに座る。


「宮嶋、久しぶり。同じ銀行なのに変だな」


「部署が違うと、意外と会わないね」


 琴葉も笑う。


 黒瀬が思い出したように聞いた。


「そういえば、前の銀行の同期会はどうだった?」


「楽しかったよ。五十八人来た」


「そんなに?」


「入行時は八十人くらいいたから」


「彼女がいるって話はしたんでしたっけ?」


 琴葉の質問に、創の箸が一瞬止まる。


 彼女。


 金曜日までは、そうだった。


「うん。大事な人がいるとは話した。それ以上は何も」


「相変わらず秘密が多い」


「そこは許して」


 琴葉は創の顔を見て、首を傾げた。


「でも宮嶋くん、最近少し落ち着いた感じがする」


「仕事に慣れたんじゃない?」


 黒瀬の言葉に、創は「そうかも」と答えた。


 結婚したからだとは言わない。


 その妻が、少し離れた席で昼食を取っていることも。


 黒瀬が城北フーズの資金繰り案件を、琴葉が終わったと思ったら次の改定が来たFAQの話を始める。創は二人の話に耳を傾けた。


 いつもと同じ、同期との昼休みだった。


 少し離れた席では、水城が璟瑶に小声で言う。


「頭取。先ほどのことですが」


 璟瑶の箸が止まる。


「……気づいた?」


「はい」


「ごめん」


「今回は周囲に気づかれていないようです。でも、これで二度目です」


「分かってる」


「お二人が普段、仕事と私生活を分けていることは知っています。それでも、見つかった時に私から説明はできません」


 璟瑶は水城を見た。


「もうしない」


「お願いします。帰宅すれば、お二人で過ごせますから」


「うん」


 水城は味噌汁を一口飲んだ。


 厳しく言うのは、二人が積み重ねてきた線引きを、ほんの数秒のために失ってほしくないからだった。


◇◇◇


 午後、創は東央精密の資料に戻った。


「社長から直接聞いたことと、銀行が考えた効果。見出しから分けよう」


 相沢の指示に、創は頷く。


「はい。確認できた事実を先に置きます」


 四十二階では、璟瑶が人材戦略会議に臨んでいた。


「キャリア採用は、採って終わりではありません。配属後に何を教え、失敗した時に上司がどう支えるかまで見てください」


 人事担当役員の長谷部章一が資料に書き込む。


 二人は別の階で、それぞれの仕事をした。


 午後五時五十八分、創は退勤する。頭取室にもB5にも寄らず、まっすぐ新居へ向かった。


 午後六時過ぎ、璟瑶も水城に区切りを促されて仕事を終える。


「今夜、宮嶋さんと劉川さんへの共有を相談してくださいね」


「うん。話す」


◇◇◇


 午後七時十二分。


 創が先に帰った新居へ、少し遅れて璟瑶が戻った。


「ただいま」


「おかえり」


 玄関で目が合い、二人とも少し笑う。


「今日、銀行が長かったね」


「うん。昼はごめん」


「手のこと?」


「水城さん、気づいてた」


「やっぱり。次はやめよう」


「うん」


「家に帰れば、いくらでも握れる」


 創が手を差し出すと、璟瑶は素直に重ねた。


「朝もあんなにキスしたのに」


「朝は朝。昼は昼」


「その理屈は通らないよ」


「……分かってる」


 二人で笑い、夕食を作った。


 午後八時四十八分。璟瑶は婚姻届の受理に関する控えと、双子の超音波写真をテーブルに並べた。


 創はしばらく黙って見つめる。


「すごいな」


「何が?」


「最近、俺たちに起きたこと。転職して、中国に行って、妊娠が分かって、双子だと知って、二人の心拍を見た。家を買って、一緒に暮らし始めて、結婚した」


「本当に、いろいろあったね」


「まだ全部、夢みたい」


 璟瑶は写真の端を指でそっと押さえた。


「水城さんが、劉川さんへの共有をまた勧めてくれた」


「うん。どう思った?」


「今は、考える必要があると思ってる。私に急な通院や日程変更があった時、水城さん一人だけが事情を知っているのは負担が大きい」


 創も頷いた。


「最初は、知る人が一人増えたら止まらなくなる気がして怖かった。でも、必要な人に必要なことだけ話すのは、秘密を諦めることとは違うよね」


「私もそう思う」


「今日、決める?」


「もう少し、伝える内容を二人で確かめたい」


「分かった。水城さんも入れて、実務に必要な範囲を整理しよう」


「うん」


 まだ劉川には伝えない。


 けれど、二人の考えは少しずつ前へ進んでいた。


 創は婚姻の控えを見て、それから璟瑶を見る。


「銀行では頭取と行員だけど、ここでは夫と妻なんだね」


「うん。そして、この子たちの父親と母親」


 二人はソファで手を重ねた。


 昼のエレベーターでは、数秒しか握れなかった手。


 この家では、隠さずに握っていられる。


 妻になった頭取と、夫になった若手行員。


 銀行では、これまでどおりそれぞれの仕事をする。家へ帰れば、二人でこれからのことを決めていく。


 そのために次に考えるのは、第一秘書の劉川へ何を、いつ伝えるか。


 夫婦になった二人の、最初の行内での課題だった。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


第61話から続いてきた「双子妊娠初期・新居生活編」は、今回で一区切りです。


新居を選び。


双子の心拍を確認し。


昔のマンションを残すことを決め。


新居での生活を始め。


そして婚姻届を提出して、創と璟瑶は正式な夫婦になりました。


それでも銀行では、


「欧陽頭取」


「宮嶋さん」


のまま。


昼のエレベーターでは、璟瑶が我慢できずにほんの短い時間だけ創の手を恋人繋ぎで握りましたが、水城は二人が普段きちんと公私を分けていることも理解し、今回は見なかったことにしてくれました。


創は社員食堂で黒瀬、琴葉とも久しぶりに昼食。


二人はまだ、創に“彼女”がいると思っています。


まさか、その彼女がすでに妻となり、しかも同じ銀行の頭取だとは知りません。


そして夜。


婚姻届受理の控えと双子の超音波写真を並べながら、二人は改めて自分たちの立場を確認します。


『頭取でもなく、銀行員でもなく、今ここでは夫と妻なんだな』


「うん。そして、この子たちの父親と母親」


恋人から夫婦へ。


そしてこれからは、双子の父と母へ。


次の章では、双子妊娠の経過とともに、第一秘書・劉川への限定共有や、銀行内で秘密をどう守っていくのかがさらに大きなテーマになっていきます。


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