第68話「婚姻届を出しに来ただけなのに――市役所で会ってはいけない二人に会いました」
第68話です。
今回は、いよいよ創と璟瑶が婚姻届を提出するため、市役所へ向かいます。
創は午後半休。
璟瑶も水城へ事情を伝え、必要な書類をすべて揃えて別々に市役所へ。
あとは静かに婚姻届を提出するだけ――のはずでした。
しかし、市役所には創の中学・高校時代の同級生で市民課勤務の小野寺結衣。
さらに幼馴染の瀬川航平。
そして父・和久の友人である市民生活部長・片桐正臣まで偶然居合わせます。
「え、宮嶋くん?」
「創じゃん」
次々と声をかけられ、秘密の結婚手続きは一気に慌ただしいものになります。
金曜日、午前八時十二分。
「おはようございます」
宮嶋創は、いつもどおり青嶺中央銀行本店の法人営業第一部に出勤した。
ただし、今日は午後半休を取っている。申請は承認済みで、理由は部署に話していない。
「宮嶋。東央精密の件、午前中にできるところまで進めて。残りは月曜でいいから」
「はい」
相沢拓也に答えると、奥から桐生雅人も声をかけた。
「休みに仕事を持って帰るなよ」
「持って帰りません」
創は席に着き、資料を開いた。
午後に向かう先は市役所。持っていくのは仕事ではなく、婚姻届だった。
◇◇◇
同じ頃、四十二階の頭取室。
水城絢乃が予定表を確認していた。
「頭取、本日は十二時半まで本店にいらっしゃって、十三時以降は私用です。午後の予定は入れていません」
「ありがとう」
水城は声を落とした。
「今日、宮嶋さんと婚姻届を出されるんですね」
「うん」
「おめでとうございます」
「まだ受理されてないよ」
「では、先に申し上げておきます」
璟瑶は照れたように笑った。
「必要書類は、市役所にも事前に問い合わせた。相馬先生にも確認してもらったよ」
「承知しました。もう一つだけ、本店から宮嶋さんと一緒には出ないでくださいね」
「分かってる。創は半休を取って先に出る。私はあとから別に向かう」
「ありがとうございます」
「結婚する日まで、水城さんに注意されてる」
「私も少し気になっています」
「でも、水城さんらしい」
璟瑶が言うと、水城もようやく微笑んだ。
◇◇◇
午前十一時五十七分。
創は東央精密の資料を共有フォルダに保存し、相沢に引き継いだ。
「ここまで確認しました。続きは月曜に進めます」
「了解。今日はもう上がっていいよ」
「お先に失礼します」
社員証を鞄にしまい、創は本店を出た。
駅近くのカフェで軽く昼食を済ませた頃、璟瑶からメッセージが届く。
『本店を出た』
『了解。先に市役所の近くへ行ってる』
『私も少ししたら行く』
『緊張してる?』
少し間を置いて、返信が来た。
『かなり』
創は笑って打つ。
『俺も』
昨日、美智子と恵美子に証人欄を書いてもらった。必要な書類も二人で確認した。
あとは市役所へ行くだけ。
創は、そのつもりだった。
◇◇◇
午後一時二十六分。
戸籍の届出窓口があるフロアで待っていると、自動ドアから璟瑶が入ってきた。
落ち着いた色の服にロングコート。帽子、眼鏡、マスクも着け、髪をまとめている。普段の「欧陽頭取」とは、ずいぶん印象が違った。
「……一瞬、分からなかった」
「今日は目立たない方がいいでしょう」
「うん。普通に見える」
「それ、褒めてる?」
「今日は褒めてる」
創が婚姻届の入ったファイルを持ち、璟瑶が必要書類を持っている。
「本当に出すんだね」
「今さらやめる?」
「やめない」
「俺も」
二人で番号札を取り、席に向かおうとした。
「……宮嶋くん?」
右から聞こえた声に、創の足が止まる。
振り向くと、職員証を下げた若い女性が立っていた。
「小野寺……?」
「やっぱり! 久しぶり!」
小野寺結衣。創の中学・高校時代の同級生で、現在はこの市役所の市民課に勤めている。
市役所勤務だと知っていたのに、ここで会う可能性を考えていなかった。
結衣の視線が、創の持つファイルへ移る。
「……婚姻届?」
「小野寺、声を落として」
「ごめん。宮嶋くん、結婚するの?」
創が答えを探した、その時だった。
「創じゃん」
今度は左から声がした。
創は目を閉じる。
「……航平」
瀬川航平。幼稚園から小学校まで、ほとんど毎日のように一緒に遊んだ幼馴染だ。手には住民票の番号札を持っている。
「久しぶり。何してんの?」
「市役所に来てる」
「見れば分かる。何の用?」
「瀬川くん、あんまり見ちゃ駄目」
結衣が止めるより早く、航平もファイルの表紙に気づいた。
「婚姻届? お前、結婚するの?」
「声、大きい」
「あ、ごめん」
周囲の何人かが振り向き、創はファイルを胸元へ寄せた。
「俺も、ただ住民票を取りに来ただけなんだけど」
「俺も婚姻届を出しに来ただけだよ」
「認めた」
「もう隠せないからね」
結衣は仕事の表情に戻った。
「私、知り合いだから、窓口での対応は別の職員にお願いするね。業務で知った個人情報は外で話さないから、そこは安心して」
「ありがとう。本当に助かる」
「でも、同級生としては気になる」
「今は聞かないで」
「勤務中だから聞かない。えらいでしょ」
航平は璟瑶へ向き直り、軽く頭を下げた。
「初めまして。創の昔の友達、瀬川航平です」
「初めまして。よろしくお願いします」
璟瑶は名乗らなかった。航平も追及せず、創へ小声で尋ねる。
「年上?」
「今は聞くな」
「はい」
隣で璟瑶が笑いをこらえている。創が「笑わないで」と囁いた時、背後からまた声がした。
「宮嶋創くんか?」
「……今日は何なんだ」
創がゆっくり振り返る。
立っていたのは、市民生活部長の片桐正臣。父・和久の古くからの友人で、創も幼い頃から知っている人だった。
「片桐さん。お久しぶりです」
「やっぱり創くんだ。和久は元気か?」
「元気です」
片桐の視線が創の手元に移る。
「……婚姻届?」
創は観念した。
「はい。今日、提出します」
「そうか。いや、驚いた。和久たちは知ってるのか?」
「知ってます。母が証人です」
「恵美子さんが? そうか」
片桐は璟瑶にも丁寧に会釈した。
「初めまして。創くんの父の友人、片桐です」
「初めまして。よろしくお願いします」
璟瑶が名前を言わなくても、片桐は聞かなかった。
「私が立ち入ることじゃないな。担当職員にきちんと確認してもらって」
「ありがとうございます」
「和久には、創くんに会って結婚を聞いた、とだけ話してもいいか?」
「それは大丈夫です。相手のことは、まだ内々にしたくて」
「分かった。そこは話さないよ」
片桐は創を見て頷いた。
「自分で決めたなら、大事にしなさい。おめでとう」
「ありがとうございます」
片桐が去ると、創は長く息を吐いた。
「市役所に来ただけで、三人も会うとは思わなかった……」
「まだ増えるかもな」
「航平、やめて」
「宮嶋くん、そろそろ番号が呼ばれるよ」
結衣に促され、創と璟瑶は待合席へ戻った。
◇◇◇
午後一時五十二分。
番号が呼ばれ、二人は高瀬真理子という職員の窓口へ進んだ。
「婚姻届ですね。書類をお預かりします」
創が届書を渡し、璟瑶が事前に確認して用意した書類を出す。
高瀬は届書と添付書類、訳文、本人確認の内容を一つずつ確かめた。証人欄には、美智子と恵美子の名前が並んでいる。
創の手は膝の上で固く握られていた。
「緊張してる?」
璟瑶が小声で聞く。
「してる。書き間違いがあったらどうしようって」
「二人で何度も確認したでしょう」
「それでも心配」
「創らしいね」
高瀬が確認のため席を外す。
待つ間、創はカウンターの向こうにいる結衣と目が合った。結衣は別の来庁者に対応しながら、小さく親指を立てる。
「小野寺、応援してくれてる」
「いい友達だね」
ロビーには、住民票を受け取ったはずの航平もまだいた。目が合うと、口の動きだけで「頑張れ」と言う。
創は手ぶりで「帰れ」と返した。
「何してるの?」
「航平に帰れって」
「伝わった?」
「笑ってるから、多分」
やがて高瀬が戻ってきた。
「お待たせしました。現時点で大きな不備はありません。届書と書類をお預かりします。必要な確認を終えた上で、受理についてご案内します」
二人は揃って息を吐いた。
「ありがとうございます」
婚姻届が、創の手から職員へ渡る。
昨日まで家のテーブルにあった紙が、今は二人の将来を決める手続きの中にある。
「創」
「何?」
「出したね」
「うん。出した」
まだ正式な受理の確認は残っている。
それでも、この日に二人で提出したことは確かだった。
◇◇◇
窓口を離れると、休憩に入った結衣がロビーの端から声をかけた。
「宮嶋くん、終わった?」
「書類を預かってもらった」
「そっか。じゃあ、提出おめでとう」
結衣は璟瑶にも頭を下げる。
「改めまして、小野寺結衣です。宮嶋くんとは中学と高校が一緒でした」
「今日はありがとう。別の方に対応をお願いしてくれて、助かりました」
「仕事ですから」
結衣は少しだけ同級生の顔になった。
「一つだけ聞いていい?」
「内容による」
「幸せ?」
創は璟瑶を見た。眼鏡とマスクの奥で、その目が笑っている。
「うん。幸せ」
「なら、私はそれでいい。ほかは聞かない」
「ありがとう」
「仕事に戻るね。宮嶋くんも、結婚生活頑張って」
「まだ受理の確認待ちだし、その言い方は気が早くない?」
「気持ちだけ先に」
結衣は笑って戻っていった。
「いい友達だね」
「うん。観察力が高いから、ちょっと怖いけど」
「半分しか褒めてない」
今度は航平が駆け寄ってきた。
「創。俺もおめでとうだけ言って帰る」
「住民票、もう受け取ったんだろ?」
「友達の大事な日なんだから、少しくらい待つだろ」
「……ありがとう」
航平は璟瑶へ向き直る。
「創、昔から慎重すぎるところがあります。面倒だったらすみません」
「知ってます。とても慎重です」
「ですよね」
「何で二人で納得してるの?」
航平は笑い、今度こそ出口へ向かった。
「創、また飯に行こうな」
「うん。それは行こう」
見送った創は肩を落とす。
「疲れた」
「婚姻届より、知り合いに会った方で?」
「小野寺、航平、片桐さん。一日に三人だよ」
「創、顔が広いんだね」
「今日に限って広すぎる」
璟瑶は、また笑った。
◇◇◇
午後二時四十七分。
市役所を出た二人は、人目のある場所で立ち止まった。
「帰りも、少しだけ別々にしようか」
「うん。水城さんも安心すると思う」
「今日は創が焦るところ、たくさん見た」
「俺は全然楽しくなかった」
「でも、二人で婚姻届を出せた」
創は璟瑶を見る。
「……それは、すごく嬉しい」
「私も」
手はつながない。キスもしない。ただ目を合わせ、それぞれ別の方向へ歩き出した。
成城の新居には、創が先に帰った。三十分ほどして、璟瑶の「ただいま」が聞こえる。
「おかえり」
玄関で迎えると、璟瑶がふと思い出したように言った。
「今日、創の知り合い三人には、私の名前を言わなかったね」
「うん。片桐さんは相手のことを聞かないと言ってくれたし、航平も深く聞かなかった。小野寺は職員として知ったことを話さないと言ってた」
窓口の担当者には、手続きに必要な本人情報を渡している。けれど創の知人たちへ、私生活を詳しく説明する必要はない。
「結衣さん、いつか気づきそうだけど」
「俺も少し思った。でも今日、こちらから話す必要はないよ」
「そうだね」
ソファに並ぶと、璟瑶はテーブルの上を見た。
「婚姻届、もう手元にないんだね」
「出したからね」
「少し寂しい」
「受理の確認が取れたら、次は正式に夫婦だよ」
「創が夫で、私が妻」
「……まだ、その言い方には慣れない」
「私も」
二人は照れくさくなって笑った。
市役所へ婚姻届を出しに行っただけの一日。
けれど創は、同級生の小野寺結衣、幼馴染の瀬川航平、父の友人である片桐正臣と、思いがけず再会した。
三人とも、創が結婚しようとしていることは知った。相手については、詳しく聞かないでいてくれた。
二人の秘密は、今のところ守られている。
そして婚姻届は、正式な確認を待っている。
その知らせが届けば、創と璟瑶は恋人から夫婦になる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、婚姻届を出しに来ただけなのに、創の知り合いが次々と現れる回となりました。
中学・高校の同級生で市民課勤務の小野寺結衣。
幼稚園から小学校までの幼馴染・瀬川航平。
そして、父・和久の友人で市民生活部長を務める片桐正臣。
三人とも創が結婚することには気づきましたが、隣にいた女性が青嶺中央銀行頭取・欧陽璟瑶だとはまだ分かっていません。
結衣も職員として個人情報を守り、正式な受付は別の職員へ。
璟瑶の中国籍に関する必要書類も事前確認していたため、婚姻届は無事に預けることができました。
ただし、秘密を知る可能性のある人物は少しずつ増えています。
そして次回、第69話。
婚姻届が正式に受理される中、創と璟瑶は結衣や航平にどこまで話すのかを考えることになります。
ついに二人は、法律上も「夫」と「妻」になります。




