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第66話「一緒に暮らし始めました――四人家族になる家の最初の夜」


第66話です。


いよいよ、成城の新居で本格的な生活が始まります。


創の本や花札、カードゲーム、ボードゲームは趣味室へ。


璟瑶の書斎も整い、二人の生活空間が少しずつ完成していきます。


一方、二つ並んだ子ども部屋はまだほとんど空っぽのまま。


そして夜には、第47話から続いていた、


「日本に帰ったら一緒にお風呂」


という約束も、ようやく叶うことに。


広い浴槽で互いの髪を洗いながら、まだ性別も分からない双子の名前や、どんな子に育ってほしいのかを穏やかに話します。



 火曜日、午後六時四十二分。


 世田谷区成城の新居で、宮嶋創は玄関の鍵を開けた。


「ただいま」


 返事はない。璟瑶はまだ仕事から帰っていない。それでも、自分の口から自然に出た言葉に、創は少し驚いた。


 今日から、ここが帰る家になる。


 三階建ての5LDK+S。二十九畳のLDKには、昼間のうちにソファやダイニングテーブル、食器棚が入った。まだ段ボールは残っているが、空っぽだった部屋に、ようやく生活の輪郭が見え始めていた。


 以前のマンションは、契約を続ける方向で管理会社の確認を待っている。思い出の品や時々使うものは、あちらに残した。


 それでも、二人の暮らしの中心は今日からこの家だ。


「……やるか」


 創は袖をまくり、『趣味室』と書かれた箱を開けた。


◇◇◇


 一階のサービスルームは、防音施工を終えて創の趣味室になっていた。


 壁一面の本棚に、小説、歴史、金融や資格の本を並べる。下段にはカードゲームとボードゲーム。中央には四脚の椅子を置いたテーブル。


 最後に、古い花札の箱を取り出した。


 小学生の頃から家族で使ってきたものだ。先日、璟瑶は「新居の一番いい棚に置こう」と言っていた。


 創は少し笑い、目の高さにある棚の中央へ置く。


「これで文句ないだろ」


 ふと、テーブルの四脚の椅子が目に入った。


 いつか子どもたちが大きくなれば、四人でここに座るかもしれない。花札を教えて、何度も「もう一回」とせがまれるかもしれない。


「……まだ早いな」


 照れくさくなって、創は次の箱に手を伸ばした。


 午後七時十一分。玄関の電子錠が鳴る。


「ただいま」


 階段を下りると、仕事帰りの欧陽璟瑶が立っていた。秘書車は家の前に停めず、決めておいた場所で降りて歩いてきた。新居で暮らし始めるにあたって、二人と水城で決めた運用だ。


「おかえり。疲れた?」


「少し。でも今日は早く帰れた」


「水城さんのおかげ?」


「水城さんのおかげ」


「さすが」


「また褒める」


 璟瑶が靴を脱ぎ、広い玄関を見渡す。


「今日から、本当にここなんだね」


「うん。今日からここ」


 璟瑶は創を見て、もう一度言った。


「ただいま」


「おかえり」


 たったそれだけのやり取りが、新しい家に最初の温かさを灯した。


◇◇◇


「創、本当に全部持ってきたの?」


 趣味室へ入った璟瑶は、埋まり始めた本棚を見上げた。


「全部じゃないよ。旧居に残した本もある」


「これで?」


「これで」


 璟瑶は棚の中央で足を止める。


「花札。ちゃんと一番いい場所にある」


「璟瑶がそう言ったから」


「嬉しい」


「今度、こいこい教えるよ」


「私、強いかも」


「まだルールも知らないのに?」


「覚えれば強い」


「その自信、どこから来るの」


 二人で笑ってから、隣の書斎も見た。大きなデスクと璟瑶が選んだ椅子、鍵付きの収納。個人の読書や勉強に使う場所で、銀行の顧客資料や機密情報は持ち込まない。


 椅子に座った璟瑶が、満足そうに頷く。


「いい。すごく使いやすそう」


「そのまま銀行の仕事を始めないでね。ここは家だから」


「分かってる」


「本当に?」


「創、仕事のことになると私を信用しないよね」


「働きすぎに関しては、実績があるから」


「ひどい」


 口ではそう言いながらも、璟瑶は笑っていた。


 三階に上がると、並んだ二つの子ども部屋はまだ空のままだった。


「ここには、まだ何も置かない?」


「うん。必要なものは、先生にも相談しながら、その時々に考えよう」


 一方の扉を開け、もう一方も開ける。ほぼ同じ広さの部屋が二つ。


「いつか一人ずつ使うのかな」


「そうなるといいね」


「部屋をどっちにするかで喧嘩するかも」


「その時はじゃんけん?」


「銀行らしく入札にする?」


「やめて。子ども部屋だよ」


 笑いが収まると、璟瑶はそっとお腹に手を当てた。


「本当に、二人ともこの部屋を使える日が来るといいね」


「うん。一回、一回、先生に確認してもらいながら、そこまで行こう」


「そうだね」


 空の部屋を未来で急いで埋めることはしない。それでも、ここに二つの心拍を確認した子たちの居場所がある。今はそれだけで十分だった。


◇◇◇


 新居で最初の夕飯は、簡単なうどんにした。


 創が鍋を見て、璟瑶が野菜を切る。


「疲れてるんだから、座ってていいよ」


「これを切ったら座る」


「分かった」


 広いダイニングテーブルの、二人は隣同士に座った。


「二人だと、テーブルが余るね」


「そのうち子ども用の椅子が二つ並ぶかもしれない」


「両家の両親が揃ったら八人だ」


「にぎやかになりそう」


「うん。すごく」


 夕飯を片づけた頃、創は少し言いづらそうに璟瑶を見た。


「今日、前に話した約束……覚えてる?」


「一緒にお風呂に入る約束?」


「先に言わないでよ」


「創こそ、ずっと覚えてたんでしょう」


「覚えてた。浴槽も広いし……今日、入る?」


「うん」


「今でもちょっと恥ずかしいけど」


「じゃあ、やめる?」


「やめない」


 璟瑶は楽しそうに笑った。


 広い浴室で、二人は交代で髪を洗った。


「力、強くない?」


 璟瑶の髪を洗いながら創が聞く。


「ちょうどいい。もう少し右」


「ここ?」


「そこ」


「注文の多いお客さんだな」


「丁寧にお願いします」


 次は璟瑶の番だった。


「創、髪が柔らかいね」


「そう?」


「子どもたちも似るかな」


「璟瑶に似たら、綺麗な髪になると思う」


「今、褒めた?」


「褒めたよ」


 二人で湯船に浸かる。向かい合って座っても余裕があった。


「名前、考えた?」


 璟瑶が尋ねた。


「双子の? まだ性別も分からないから、決めてない。でも、候補くらいなら考えてもいいかも」


「日本でも中国でも、呼びやすい名前がいいね」


「漢字も、難しすぎない方がいいかな」


 創が男の子なら「悠」、璟瑶が女の子なら「凛」と、思いついた名前を一つずつ挙げる。二人ともまだ候補でしかない。組み合わせを決めるのも、ずっと先だ。


「それより、どんな子に育ってほしい?」


 創が聞くと、璟瑶は少し考えた。


「元気で、自分の考えを持てる子。銀行員になってほしいとか、頭取になってほしいとかは思わない」


「即答だね」


「本人が選べばいい。仕事も、住む国も」


「俺もそう思う」


「創は?」


「肩書だけじゃなく、その人自身を見られる子、かな」


 璟瑶が静かに微笑んだ。


「創みたい」


「そうかな」


「私が頭取だと知ったあとも、創は変わらなかった」


「だって、璟瑶は璟瑶だから」


「……そういう子、いいね」


 しばらくして、創は付け加えた。


「あと、失敗を怖がりすぎない子」


「それ、創自身にも言ってあげて」


「……考えすぎる時があるのは認める」


「私も働きすぎるところは似てほしくない」


「もし似たら、水城さんみたいな人が必要になるかも」


「子どもにも秘書をつけるの?」


 二人の笑い声に、湯が小さく揺れた。


 日本に帰ったら一緒にお風呂へ入ろう――あの約束を、ようやく叶えられた。


 その間に妊娠を知り、双子だと分かり、二人の心拍を確認し、家まで買った。約束をした時には想像もできなかった夜だった。


◇◇◇


 午後十時十六分。


 新しい寝室で横になると、創はしばらく天井を見ていた。


「変な感じがする」


「私も。マンションでも、B5でもない」


「ここが、俺たちの家なんだね」


「うん」


「二人だけじゃなくて」


「……四人になれたらいいね」


「うん」


 創は璟瑶のお腹に、服の上からそっと手を置いた。


「おやすみ」


「誰に?」


「三人に」


「私も入ってる?」


「入ってるよ」


「じゃあ、私は創に。おやすみ」


「おやすみ」


 四人で暮らすかもしれない家の、最初の夜が静かに更けていった。


◇◇◇


 翌朝、水曜日。


 初めて新居から出勤する朝、二人は朝食を取りながら時間を確かめた。


「俺は七時十五分に出る。駅まで歩いて電車」


「私は七時三十五分。家から少し離れた指定場所で車に乗る」


 新居の前に秘書車は呼ばない。出勤時間も道順も、毎日決まった一つの形にはしない。


「なんだかスパイみたいだね」


「家の外では、少し気をつけないと」


「でも、家の中では普通に暮らしたい」


「うん。だからここでは、普通の私たちでいよう」


 午前七時十四分。玄関で短いキスを交わす。


「家の中だから、これは大丈夫?」


「大丈夫。銀行に着いたら頭取と宮嶋さん」


「了解。行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 創が駅へ向かい、二十分ほどして璟瑶も別の道を歩き始めた。


 指定した場所には、水城絢乃が待っていた。


「おはようございます。新居からの初出勤ですね」


「おはよう。まだ少し変な感じ」


「道中、問題はありませんでしたか?」


「大丈夫。創は先に出た」


「承知しました。今後も、時間や経路が一つに固定されないよう調整します」


「うん。……銀行のエレベーターでも、もう手は握らない」


「ぜひお願いします」


 水城の真面目な返事に、璟瑶は苦笑した。


 創は電車で、璟瑶は車で、同じ銀行へ向かう。


 外では、守るべき線がある。


 けれど帰れば、趣味室には創の本と花札があり、書斎には璟瑶の椅子がある。二つの子ども部屋は、まだ空のままだ。


 それは寂しさではなく、これからのための余白だった。


 二人の新しい生活が、今日から始まる。


 そして近いうちに、もう一つ、二人で決めなければならないことがある。


「私たち、まだ婚姻届を出してないよね」



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、ついに新居生活が本格的に始まりました。


創の趣味室。


璟瑶の書斎。


そして、まだ何も置かれていない二つの子ども部屋。


今は空っぽでも、そこにはこれから四人家族になる未来が少しずつ重なっていきます。


夜には、第47話から続いていた「一緒にお風呂」の約束もようやく実現。


双子の名前候補や、どんな子に育ってほしいのかを話しながら、二人は少しずつ父親と母親になる実感を深めていきました。


翌朝からは、新居からの別々の出勤も開始。


創は電車。


璟瑶は少し離れた場所から秘書車。


同じ家から同じ銀行へ向かっていても、秘密を守るために時間も経路もずらします。


そして次回、第67話。


新居での生活が始まったからこそ、ついに二人は避けて通れない話をします。


「私たち、まだ婚姻届出してないよね」


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