第65話「昔の部屋をどうする?――二人が選んだ“残す”という答え」
第65話です。
今回は、新居へ移る前に残っていた大きな問題。
「今のマンションをどうするか」
について、創と璟瑶が久しぶりのB5で話し合います。
新居へ完全に移るなら、普通は解約。
それでも創にとって今の部屋は、一人暮らしを始めた場所であり、璟瑶との思い出がたくさん残る大切な場所でもあります。
二人が選んだ答えは、
「残す」
でした。
そして創は、長年お世話になってきた管理人・高木修一、美奈子夫妻へ璟瑶を恋人として正式に紹介します。
月曜日、午後六時三十八分。
青嶺中央銀行本店、法人営業第一部。
「お先に失礼します」
宮嶋創が席を立つと、相沢拓也が資料から顔を上げた。
「お疲れ。東央精密の件、明日の午前に一度整理しよう」
「はい。お願いします」
奥の席から、桐生雅人も声をかける。
「宮嶋。今日は帰れ。続きは明日考えろ」
「分かりました。お先に失礼します」
フロアを出た創は、エレベーターで地下へ向かった。
社員証をかざし、暗証番号を入力する。
四、五、二、一、一、四。
地下五階――B5。
二人だけが知る、銀行の地下にある秘密の部屋だった。
認証を抜けて扉を開けると、ソファに欧陽璟瑶が座っていた。ジャケットを脱ぎ、頭取の顔を少しだけ緩めている。
「久しぶり」
「何が?」
「ここ。最近、新居や病院でいろいろあったから」
「確かに、しばらく来てなかったね」
創はネクタイを緩め、隣に腰を下ろした。
「疲れた?」
「少し。午後は眠かったけど、水城さんに二十分休ませられた」
「よかった」
「また水城さんを褒める」
「だって正しいから」
璟瑶が小さく笑う。
今日ここへ来たのは、会いたかったからだけではない。
「創。マンションのこと、そろそろ決めないと」
「うん」
成城の新居は、すでに引き渡しを終えている。家具の搬入も始まり、二人の生活拠点は間もなくそちらへ移る。
そうなれば、創が現在暮らしている賃貸マンションをどうするか、決めなければならなかった。
「普通に考えたら、解約だよね」
「うん。新居があるんだから、退去して一本にする。それが一番自然だと思う」
「創は、それでいい?」
創はすぐに答えなかった。
「……迷ってる」
「やっぱり?」
「家賃がもったいないのは分かってる。新居があるのに残す意味があるのかって、自分でも思う。でも……手放したくない」
あの部屋は、創が初めて一人で生活を築いた場所だった。
そして、璟瑶が何度も訪れた場所でもある。
転職が決まった夜。青嶺中央銀行への入行前夜。中国へ向かう前と、帰国した夜。
妊娠の可能性を知り、双子かもしれないと告げられ、二人の心拍を確認したあと、両家の両親へ電話をかけた場所。
二人の人生が動くたび、あの部屋がそばにあった。
「新居が嫌なわけじゃない。むしろ早く一緒に暮らしたい。でも、あの部屋が完全になくなると思うと、少し寂しい」
「私もだよ」
「え?」
「あの部屋、私も好き。狭いけど」
「そこは言わなくていい」
「でも、好き」
璟瑶は創の手を取った。
「あそこでは、頭取じゃなくて、創の恋人でいられた。B5もそうだけど、マンションはもっと生活そのものだったから」
「じゃあ……残す?」
「創が無理なく家賃を払えるなら、私は残していいと思う。ただし、新居の維持費や生活費、これから双子に必要になるお金まで見た上で」
「藤堂先生にも確認しよう。家賃は今までどおり俺が払う。それなら、新居の持分を八対二にして手元資金を残した意味もある」
「無理はしないでね」
「分かってる」
思い出だけで家計を圧迫するつもりはない。
数字を確認し、契約上の問題も整理する。それでも維持できるなら、残す。
二人の方針は固まった。
「管理人の高木さんにも相談しよう」
「信頼できる人?」
「俺が入居した時から世話になってる。奥さんにも何度か夕飯に呼んでもらった」
「家族ぐるみ?」
「うん。高木修一さんと美奈子さん。子どもが三人いて、五人揃ってる時に俺も一緒に鍋を食べたことがある」
「そこまでお世話になってるなら、私もきちんと会いたい」
「何て紹介する?」
「創の恋人として」
創は驚いて璟瑶を見た。
「いいの?」
「創が信頼している大事な人たちでしょう。なら、私もちゃんと挨拶したい」
「……分かった」
◇◇◇
午後七時四十六分。
二人はマンション一階の管理人室を訪ねた。
「こんばんは」
「おお、創君。今日は遅いな」
高木修一、五十八歳。その隣には、妻の美奈子がいた。
「あら、創君。そちらの方は……」
璟瑶が丁寧に頭を下げる。
「こんばんは。欧陽璟瑶です」
二人の動きが止まった。
「欧陽……?」
「もしかして、青嶺中央銀行の欧陽頭取?」
「はい、そうです」
修一と美奈子が同時に創を見る。
「創君、どういうこと?」
創は一度息を吸い、璟瑶の隣に立った。
「きちんと紹介したくて。俺の恋人です」
「……恋人?」
「はい。欧陽璟瑶さんが、俺の恋人です」
数秒の沈黙のあと、美奈子が口元に手を当てた。
「まあ……」
「いや、創君。すごいな」
「何がですか」
「何がって……」
「あなた、余計なこと言わなくていいでしょう」
美奈子に肘でつつかれ、修一が口を閉じる。璟瑶は楽しそうに笑った。
「大丈夫です。驚かれると思っていましたから」
「だって、創君はずっと一人だと思ってたもの」
「今も、周りにはほとんど話していません。仕事にも関係することなので、秘密にしていただけると助かります」
修一の表情が引き締まった。
「分かった。俺たちからは誰にも言わない」
「もちろんよ」
「ありがとうございます」
二人で頭を下げると、美奈子が優しく尋ねた。
「今日は紹介だけ?」
「いえ、相談があります。実は、成城に新しい家を買いました」
「じゃあ、ここを出ていくの?」
創は一瞬黙り、それから首を横に振った。
「できれば、この部屋を残したいんです」
四人は管理人室脇の応接スペースへ移った。
「新居へ移ったあとも、契約を続けたいです。家賃はこれまでどおり払います。生活拠点が変わることも届け出ます。その上で、時々戻って使いたいと思っています」
「そんなにこの部屋が好きだったの?」
美奈子に聞かれ、創は頷いた。
「初めて自分で生活を始めた場所です。それに、高木さんたちにもずっとお世話になりました。俺たち二人の思い出も、たくさんあります」
美奈子が璟瑶を見る。
「欧陽さんも残したい?」
「はい。新居はこれからの私たちにとって大切な家です。でも、新しい場所を選ぶために、ここまでなくす必要はないと思っています」
修一は少し考え、頷いた。
「分かった。管理会社に契約条件を確認する。契約者も家賃の支払いも変わらず、時々使用するなら、大きな問題はないと思う。ただ、正式な返事は確認してからだ」
「ありがとうございます」
「俺たちは、創君が残ってくれる方が嬉しいけどな」
美奈子も微笑む。
「最初に来た時は、まだ本当に若くて。今も若いけど」
「今も二十一歳です」
四人に笑いが広がった。
高木家の三人の子どもも、それぞれ元気に働いているという。
長女の彩花は広告会社、長男の悠斗はシステム関係、次男の颯太はメーカーの営業職。
「前に家族五人が揃った時、創君も一緒に鍋を食べたよな」
「はい。悠斗さんと颯太さんとはカードもしました」
「二人とも本気で負けて悔しがってたわね」
「颯太さん、かなり強かったです」
「また五人揃ったら来るか?」
「いいんですか?」
「もちろん。今度は欧陽さんもぜひ」
美奈子に誘われ、璟瑶が少し照れながら頷いた。
「はい。ぜひ」
「二人は、いつか結婚するの?」
不意の問いに、創と璟瑶は顔を見合わせた。
婚姻届はまだ出していない。具体的な日程も決まっていない。
けれど、答えは同じだった。
「はい。そのつもりです」
「私も、そのつもりです」
「まあ。じゃあ結婚式をするなら教えてね」
「招待します」
創は迷わず答えた。
「高木さんも美奈子さんも、二人とも来てください」
「私からもお願いします。創がずっとお世話になってきた方ですから」
美奈子の目がわずかに潤む。
「そういうことを言われると弱いのよ」
「まだ式も決まってないだろ」
「でも、招待してくれるって言ってるじゃない」
「分かった、分かった」
修一は照れたように笑い、それから創へ告げた。
「新居へ移っても、たまには戻ってこい。人が使わない部屋は傷む。窓を開けて、水も流せ」
「はい」
「私も一緒に来ます」
璟瑶が言うと、美奈子は満足そうに頷いた。
「それなら安心ね」
◇◇◇
午後八時二十八分。
二人は部屋へ戻った。
小さなリビング。ダイニングとキッチン。寝室。窓際の本棚と、見慣れたソファ。
成城の新居とは比べものにならないほど狭い。
それでも二人にとっては、ほかのどこにも代えられない場所だった。
「残せそうだね」
「うん。正式には管理会社の確認待ちだけど……よかった」
「そんなに嬉しい?」
「思ってたより、ずっと嬉しい」
「新居があるのに?」
「新居があるからかもしれない」
「どういう意味?」
創は部屋を見渡した。
「新居は、これから四人で思い出を作る場所。ここは、俺と璟瑶の二人が始まった場所。両方残ってる方がいい」
「私もそう思う」
璟瑶が創の肩に寄りかかる。
「結婚式に招待するって言っちゃったね」
「いいでしょう。高木さんたちは絶対に呼びたい」
「彩花さんたち三人も?」
「できれば。俺、本当にお世話になったから」
「じゃあ、高木家は五人全員、招待候補だね」
「うん」
結婚式の日程どころか、婚姻届を出す日さえ決まっていない。それでも招きたい人が、また増えた。
「新居に住み始めても、月に一度くらいここへ泊まりに来る?」
璟瑶が尋ねる。
「二人で?」
「うん。昔に戻るみたいに」
「いいね。でも、双子が生まれたあとは?」
「四人で来る?」
「狭いよ。ベビーベッド二つ置いたら、それだけで終わる」
二人は顔を見合わせて笑った。
「じゃあ、いつか子どもたちを両親に預けられるようになったら、二人で来よう」
「デートみたいに?」
「そう。夫婦になっても、恋人に戻る場所」
「それ、いいね」
このマンションは、やがて二人の生活の中心ではなくなる。
成城の新居が、創と璟瑶、そして二人の子どもたちが暮らす家になる。
けれど、新しい家を選ぶことは、昔の家を捨てることではない。
新しい思い出を作ることは、これまでの思い出を消すことでもない。
家計と契約を確認し、問題がなければ残す。家賃は創が払い、定期的に二人で戻ってくる。
それが、二人で選んだ答えだった。
「創」
「何?」
「この部屋、残せてよかった」
「うん」
「私、ここが好き」
「狭いけど?」
「またそれ言う」
笑った璟瑶が、創の肩へもう少し深く身を預ける。
その夜、二人は、自分たちの始まりの部屋を手放さないと決めた。
そして次は、四人で暮らす新しい家で、本当の生活が始まる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、創のマンションを手放さず残すことになりました。
新居は、これから四人で新しい思い出を作っていく場所。
一方で今のマンションは、創と璟瑶の関係が育ってきた大切な場所です。
高木夫妻も二人の事情を受け入れ、契約継続について協力してくれることになりました。
さらに創は、将来の結婚式には高木夫妻を招待すると約束。
長女・彩花、長男・悠斗、次男・颯太も含め、高木家は創にとって家族に近い存在になっています。
そして次回、第66話。
いよいよ成城の新居での生活が本格的に始まります。
まだ空いている二つの子ども部屋。
新しく作る趣味室。
広い浴室。
そして、二人にとって初めての「四人家族になるかもしれない家」での夜です。




