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第63話「元頭取、東京へ――崇岳が再会した水城家の二人」


第63話です。


今回は、欧陽崇岳が重慶から一時帰国します。


目的の一つは、かつて青嶺中央銀行で共に働いた水城隆一・邦彦兄弟との再会。


三人は都内の料亭で、昔の銀行改革や人事、若手育成について語り合います。


その一方で、璟瑶と水城は何も知らないまま本店で勤務中。


さらに朝には、璟瑶から創へ少し濃い「行ってらっしゃい」のキスも。


そして夜。


崇岳は創のマンションを訪れ、創・璟瑶と三人で夕食を囲むことになります。



 火曜日、午前六時二十一分。


 創の自宅マンション。


 キッチンでは、味噌汁を温める小さな音がしていた。


「今日も眠い?」


「うん。昨日と同じくらい」


「気持ち悪さは?」


「今のところ大丈夫」


 創と璟瑶は、いつものように二人で朝を迎えていた。


 昨日、水城には、双子の二人とも心拍が確認されたことを正式に伝えた。


 そして水城から提案されたのが、第一秘書の劉川景仁にも必要最小限の事情を共有すること。


 昨夜、二人で話し合ったものの、まだ最終的な結論は出していない。


「今日、帰りは遅くなる?」


「多分、いつもどおり十八時台。璟瑶は?」


「十九時前には終わる予定」


「予定?」


「水城さんが管理してるから」


「見張られてる?」


「似たようなもの」


 創は笑いながら朝食を整えた。


◇◇◇


 午前七時十一分。


 先に出勤する創が玄関へ向かう。


「じゃあ、行ってきます」


「待って」


 振り返った創の頬を、璟瑶が両手で包んだ。


「行ってらっしゃい」


 そのまま、唇が重なる。


 一度離れたあと、もう一度。


 今度は少し長い。


「……朝から濃くない?」


「行ってらっしゃいのキス。普通でしょう?」


「普通じゃない」


「私には普通」


「仕事中に思い出しそう」


「思い出してもいいけど、仕事には集中して」


「それ、無理じゃない?」


 璟瑶は楽しそうに笑った。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 玄関を出た創は、廊下で数秒立ち止まる。


「朝からあれは反則……」


◇◇◇


 午前八時十二分。


 青嶺中央銀行本店、法人営業第一部。


「おはようございます」


「おはよう。宮嶋、東央精密の修正版を桐生さんが見たいって」


「すぐ持っていきます」


 創はPCを立ち上げ、仕事の顔へ切り替えた。


 それでも一瞬、朝の口づけが頭に浮かぶ。


「宮嶋」


「はい!?」


「資料、開けてる?」


「開いてます。大丈夫です」


 相沢が不思議そうに見る。


「今日、朝から変だぞ。寝不足?」


「寝不足ではありません」


 創は無理やり意識を資料へ戻した。


 同じ頃、四十二階の頭取室では、水城が璟瑶の予定を確認していた。


「十時から地域銀行戦略会議、十一時半から人事、午後は海外拠点とのオンライン会議です。十五時以降に二十分の休憩を確保しています」


「二十分は長くない?」


「長くありません。双胎妊娠として経過観察中です」


「分かってる」


「でしたら問題ありません」


 けれど、この時の璟瑶も水城も知らなかった。


 同じ東京に、中国・重慶から一人の男性が戻ってきていたことを。


 璟瑶の父であり、青嶺中央銀行の元頭取でもある欧陽崇岳、七十二歳だった。


◇◇◇


 午前十一時五十分。


 東京都中央区明石町。


 老舗料亭、つきじ治作。


 庭と池を望む静かな個室に、三人の男性が座っていた。


「久しぶりだな」


 崇岳の正面にいるのは、水城隆一、六十四歳。


 水城絢乃の父であり、崇岳が頭取だった時代に青嶺中央銀行の執行役員を務めた人物。現在は金融系企業の顧問をしている。


 その隣には、隆一の弟で絢乃の叔父、水城邦彦、六十一歳。


 かつて青嶺中央銀行の取締役を務め、現在は完全に引退している。


「本当にお久しぶりです、欧陽頭取」


「もう頭取でも会長でもない。崇岳でいい」


「そう言われても、二十年以上そう呼んできましたから」


「癖は抜けないか」


「抜けません」


 三人は笑い合った。


 季節の前菜、椀物、刺身が静かに運ばれてくる。


「隆一は今も顧問だったな」


「月に数回、会議へ出る程度です」


「邦彦は?」


「完全に引退しました。朝は散歩、夕方は読書です」


「健康的だな」


「重慶と東京を行き来している七十二歳に言われたくありません」


「今日は別の用事もある」


「ご家族のことですか」


「ああ」


 崇岳はそれ以上話さなかった。


 娘の恋人も、双子の妊娠も明かさない。


 隆一も深く尋ねなかった。


 昔からそういう男だったからこそ、崇岳は信頼していた。


◇◇◇


「この三人がそろうと、システム統合の頃を思い出しますね」


 邦彦の言葉に、隆一が頷く。


「地方銀行の共通基盤構想。行内の反対がすごかった」


「当然だ。銀行のシステムを変えることは、業務そのものを変えることだからな」


「あの時、崇岳さんは言いました。システムを新しくすることが目的ではない。行員と顧客の両方が楽にならなければ意味がない、と」


「そんな立派な言い方をしたか?」


「何度もしました」


 話題は人事制度や若手育成へ移った。


「年功だけでも、成果だけでも駄目だった。短期成果ばかり追えば、無理な融資や販売が起きる。だからプロセスや確認、育成も評価へ入れた」


「若手育成には、かなり厳しかったですね」


「若手が失敗したら、本人より先に上司へ『何を教えた』と聞く頭取でした」


「若手だけを怒っても育たないからな」


 隆一が静かに尋ねる。


「今の青嶺は、若手もかなり変わっているようですね。璟瑶さんから何か聞いていますか」


「娘から銀行の話はほとんど聞かない」


「絢乃も同じです。昔から仕事のことは何も話しません」


 隆一は少し考えてから続けた。


「ただ最近、絢乃が頭取のことを以前より気にしているようで」


「そうか」


 崇岳は表情を変えなかった。


 内心では理由を知っている。


 絢乃は、璟瑶と創の関係も、双子の妊娠も知る唯一の銀行内部の人物だからだ。


「先日、絢乃が家に来た時、頭取は働きすぎだから少し休ませたいと言っていました」


「第二秘書なら普通では?」


 邦彦が言う。


「そうだが、以前より強く気にしている感じがする」


「良い秘書なんだろう」


「それは間違いありません」


 崇岳はお茶を飲み、それ以上何も言わなかった。


◇◇◇


 午後。


 法人営業第一部では、創が東央精密の東条信之社長へ電話をかけることになった。


「今回は宮嶋が主に聞いてみよう」


 相沢が言う。


「前回より資料を見すぎないこと。相手の答えを拾って、もう一段深く聞くことを意識して」


「分かりました」


 午後三時。


 東条社長との電話がつながった。


『宮嶋さん、お世話になっています』


「こちらこそお世話になっております。今日は前回お話しいただいた、『社員を守りたい』という点をもう少し伺ってもよろしいでしょうか」


『いいですよ』


「若手とベテラン、どちらを特に意識されていますか」


『両方ですが、最近気になるのは若い社員ですね』


「古い設備特有の扱いが、若手の負担になっているのでしょうか」


『そうですね。ベテランは設備の癖を知っています。でも若手は、なぜこう動くのかというところから覚えなければいけない』


 創はすぐに記録する。


『若手社員に旧設備固有のノウハウ習得負担』


『設備更新によって標準化・教育負担軽減の可能性』


 ただし、決めつけない。


「ありがとうございます。設備を更新すれば必ず解決するとは限りませんので、教育方法も含めて確認させてください」


『お願いします』


 通話を終えると、相沢が頷いた。


「今の聞き方は良かった。前回は『社員』で止まったけど、今回は『誰なのか』まで聞けた」


「ありがとうございます」


 桐生が横から言う。


「まだ七十点」


「前回より五点上がった」


「上がったならいいだろ」


「はい」


 創も少し笑った。


◇◇◇


 午後三時四十五分。


 頭取室。


「頭取、休憩です」


「あと五分だけ」


「今です」


「水城さん、厳しい」


「ありがとうございます」


「褒めてない」


「承知しています」


 璟瑶は諦めて椅子の背へ身体を預けた。


「眠いですか」


「少し」


「十五分、目を閉じてください」


「仕事が残ってる」


「十五分で銀行は潰れません」


「言い切るね」


「はい」


 水城は当然知らない。


 自分が頭取を休ませているその時間に、父と叔父が、璟瑶の父である元頭取と昔話をしていることを。


◇◇◇


 午後三時十分。


 会食を終えた崇岳たちは、料亭の前で別れた。


「また会おう」


「もちろんです。次に重慶へ行く時は連絡します」


「私は引退して暇ですから、いつでも」


「引退した人間三人なら、次も昼でいいな」


 三人は笑い、それぞれの車へ向かった。


 崇岳は娘へ連絡しようとして時計を見る。


 まだ勤務時間中だ。


「夜でいいか」


◇◇◇


 午後六時二十五分。


 創が退勤すると、相沢が声をかけた。


「宮嶋。今日の社長への聞き方、良かったよ」


「ありがとうございます。明日、内容を整理します」


 帰りの電車で、璟瑶と夕食の相談をする。


『今日は十九時前に終われそう』


『よかった。夕飯は?』


『軽いうどんがいい』


『分かった』


 その少し後、仕事を終えようとしていた璟瑶の個人用スマートフォンが鳴った。


 表示は『父』。


「もしもし、お父さん?」


『今、仕事は終わったか』


「終わるところ」


『今日、東京に来ている』


「え? 聞いてない」


『言ってないからな』


「それは聞いてないよ……」


『今夜、創君の家へ行ってもいいか。駄目ならホテルへ戻る』


 璟瑶はすぐに創へ連絡した。


『崇岳さんが東京に!?』


「うん。今夜、家へ行ってもいいかって」


『もちろんいいよ。でも部屋、片づいてたかな』


「綺麗だから大丈夫」


『じゃあ、来てもらおう』


◇◇◇


 午後七時三十七分。


 インターホンが鳴った。


「来た」


「緊張してる?」


「彼女の父親が家に来るんだから、普通に緊張する」


 璟瑶が笑い、玄関を開けた。


「こんばんは」


「こんばんは。急に悪かったな」


「いえ、どうぞ」


 崇岳が創のマンションを訪れるのは初めてである。


 しかし三人で夕食を囲むのは、これが初めてだった。


「狭くてすみません」


「なぜ謝る。二人で暮らすなら十分だったんだろう」


「今は四人になるかもしれないから、新居を買うの」


「聞いている。藤堂と相馬を紹介したのは私だからな」


 創は頭を下げた。


「ありがとうございました。お二人とも、とても丁寧に説明してくださいました」


「昔から信用できる人間だ」


 三人は薄味の鶏肉と野菜を入れたうどんを囲んだ。


◇◇◇


「それで、お父さんは今日、東京で何をしてたの?」


 璟瑶が尋ねる。


「昔、一緒に働いた人間と会っていた」


「誰?」


「水城隆一と邦彦」


「……え?」


 創も箸を止めた。


「水城って……」


「絢乃さんの父親と叔父だ」


「今日、会ってたの?」


「ああ。つきじ治作で」


「私、何も知らなかった」


「言ってないからな」


「水城さんも知ってるんですか」


「多分、知らない」


「今日も普通に仕事してたから、知らないと思う」


 崇岳がわずかに口元を緩める。


「隆一が言っていた。最近、絢乃が頭取を随分気にしているようだと」


「……」


 創と璟瑶は同時に固まった。


「安心しろ。私は何も話していない」


「お父さん、楽しんでるでしょう」


「楽しんでない」


「顔が笑ってる」


 創は念のため確認する。


「水城さんのお父様は、俺たちの関係も双子のことも知らないんですね」


「知らない。一言も話していない」


「よかった……」


「絢乃さんが知っていて、本人の父親が知らないなら、私が勝手に伝える理由はない」


「ありがとうございます」


 崇岳は璟瑶を見る。


「ただ、良い秘書なんだな」


「うん。本当に助けられてる。最近は特に」


「きちんと休ませられてるか?」


「どうしてみんな同じことを聞くの?」


「働きすぎるから」


 創が即答する。


「そのとおりだ」


「味方がいない……」


 三人の間に笑いが起こった。


◇◇◇


 崇岳は、双子についても改めて尋ねた。


「医師は何と言っている?」


「二人とも心拍を確認できた。でも、まだ初期だから慎重に経過を見るって」


「それでいい。一回ずつ確認すればいい」


「俺もそう思っています。先のことを考えすぎても、今は分からないので」


 今度は崇岳が創へ尋ねる。


「仕事はどうだ」


「楽しいです。まだ分からないことは多いですけど、今は設備投資案件を担当しています。今日も社長へ追加の聞き取りをしました」


「若手のうちから顧客へ直接聞けるならいい。上司の評価は?」


「まだ七十点です」


「何点満点だ」


「百点です。前は六十五点だったので、五点上がりました」


「十分だ。一気に百点になる方が怖い」


「俺もそう思います」


 璟瑶は二人を見比べる。


「銀行員同士、話が合うね」


「私は元銀行員だ」


 崇岳はそう言ったが、その表情は少し楽しそうだった。


◇◇◇


 午後九時。


 崇岳が立ち上がる。


「ホテルへ戻る」


「泊まっていけば? 狭いけど」


「ホテルは取ってある。それに明日の昼便で重慶へ帰る」


「もう帰るの?」


「用事は済んだ」


「私を見るために来たんじゃないの?」


「それもある」


「それも?」


「一番かもしれない」


 璟瑶は柔らかく笑った。


「お父さん、ありがとう」


「礼を言うことじゃない」


 玄関で、創も頭を下げる。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ、急に悪かった」


 崇岳は最後に創を見る。


「娘を頼む」


「はい。ただ、一人で抱え込まないようにします」


「それでいい」


 崇岳はホテルへ戻り、翌日には重慶へ帰る。


◇◇◇


 午後九時十二分。


 玄関が閉まり、部屋には創と璟瑶だけが残った。


「今日はすごい一日だったね」


「何が?」


「朝は璟瑶に濃いキスをされて、昼は仕事。その間に崇岳さんが水城さんのお父さんと叔父さんに会って、夜はこの家に来た」


「確かに情報が多い」


「水城さん、明日知ったら驚くだろうね」


「自分の父親と叔父が元頭取に会ってたんだから、かなり驚くと思う」


「話す?」


「うん。お父さんも隠す必要はないって言ってたし」


「でも、崇岳さんは俺たちのことを何も話してない」


「うん。秘密は守ってくれた」


 璟瑶がソファへ座ると、疲れた表情が浮かんだ。


「眠い?」


「少し」


「もう休もう」


 創が隣へ座ると、璟瑶はその肩へ寄りかかった。


「今日、お父さんが来てくれて嬉しかった」


「俺も緊張したけど、楽しかった」


「明日、帰っちゃうね」


「新居ができたら、今度は泊まってもらえる」


「双子が生まれたら、もっと頻繁に来るかも」


「崇岳さんが双子を抱いたら、どんな顔するかな」


「多分、固まる」


 二人は笑った。


 今日、元頭取の欧陽崇岳は東京へ戻っていた。


 璟瑶も、水城も知らないまま。


 青嶺中央銀行で二人が働いている間、崇岳はかつて自分を支えた水城隆一と水城邦彦に再会していた。


 語られたのは、システム改革、人事制度、若手育成、そして現在の青嶺。


 けれど、一番大きな秘密は語られなかった。


 絢乃が璟瑶と創の関係を知っていること。


 双子の妊娠を知る、唯一の銀行内部の人物であること。


 崇岳は、そのすべてを守った。


 そして夜には、元頭取ではなく一人の父親として、娘とその恋人が暮らす小さなマンションを訪れた。


 豪華な家でも、大きな食卓でもない。


 それでも三人で囲んだうどんには、確かな家族の時間があった。


 翌日、崇岳は重慶へ戻る。


 その前に、水城は父と叔父が崇岳に会っていたことを知るだろう。


 そして二人は、第一秘書の劉川へ何を伝えるのかを決めていく。


 秘密を守りながら、必要な人へ少しずつ頼るために。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、崇岳と水城家の兄弟が久しぶりに再会しました。


水城隆一は絢乃の父。


水城邦彦はその叔父。


崇岳の頭取時代を知る三人だからこそ語れる、銀行改革や若手育成の思い出が中心となりました。


そして隆一から、


「最近、絢乃が頭取を随分気にしている」


という言葉も。


事情を知っている崇岳だけが、内心少し笑うことになります。


ただし、絢乃が璟瑶と創の関係や双子妊娠を知っていることは一切明かしていません。


夜には崇岳が創のマンションを訪れ、三人で穏やかな夕食。


翌日には再び重慶へ戻ります。


次回、第64話。


今度は創が璟瑶へ、


「前の銀行の同期会、行ってもいい?」


と尋ねます。


約八十人の同期たちとの久しぶりの再会です。


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