第62話「水城さん、今度は確定です――二人とも心拍が確認されました」
第62話です。
月曜日の朝。
創と璟瑶はいつも通り創のマンションで朝食を取り、その後は別々に出勤します。
創は電車で。
璟瑶は少し離れた場所から、水城が待つ黒塗りの車で本店へ。
ところが本店内で偶然再会し、さらに同じエレベーターへ。
周囲には大勢の行員がいる中、璟瑶が創の右手をそっと恋人繋ぎで握ってしまいます。
そして午前中。
璟瑶は頭取室へ水城を呼び、
「二人とも心拍が確認できました」
と、双子妊娠について正式に報告します。
それを受けた水城から、今度は第一秘書・劉川への必要最小限の共有が提案されます。
月曜日、午前六時十二分。
創の自宅マンション。
炊飯器を開けると、キッチンに白い湯気が立った。
「創、ご飯は少なめでお願い」
「分かった。卵は食べられそう?」
「今日は多分、大丈夫。スクランブルエッグを少し」
「了解」
土曜日、二人は成城の一軒家を購入する方針を正式に決めた。
けれど、引き渡しはまだ先。
今朝も二人は、創のマンションで朝を迎えていた。
璟瑶はダイニングの椅子に座り、眠そうに目を細めている。
「昨日、八時間くらい寝たよね?」
「寝た。でも眠い」
「今日も無理しないで」
「分かってる」
「会議が多すぎたら、水城さんが減らしてくれるよ」
「創、水城さんを信頼しすぎじゃない?」
「実際、止めてくれるでしょう?」
「……そうだけど」
食卓には少なめのご飯、味噌汁、スクランブルエッグ、ほうれん草が並んだ。
焼き鮭は匂いが気になるかもしれないため、創の側へ寄せてある。
「今日は何があるの?」
「午前は重役会議と中国融資案件。午後は地域銀行、人事、海外部門」
「多い」
「頭取としては普通」
「璟瑶の普通は、最近ちょっとおかしい」
「頭取だから」
「でも今は双子だから」
「それを言われると弱い……」
創は少し笑った。
「今日は水城さんに話す?」
「うん。妊娠の可能性じゃなくて、双子妊娠として診てもらっていること。二人とも心拍を確認できたことも伝える」
「その方が予定を組みやすいと思う」
「私もそう思う」
◇◇◇
午前六時五十八分。
朝食を終え、二人は仕事へ向かう準備をした。
璟瑶が鏡の前で髪を整えると、眠そうだった表情が消える。
「もう頭取の顔になった」
「何、それ」
「さっきまで眠そうだったのに、今は完全に仕事の顔」
「創も銀行員の顔になってるよ」
二人は同時には外へ出ない。
先に創が玄関を開けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
「璟瑶も」
創は駅まで歩き、いつもの電車で大手町へ向かった。
その約十分後、璟瑶もマンションを出る。
建物から少し離れた場所には、黒塗りの車と水城絢乃が待っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
「体調はいかがですか」
「眠い」
「では、車内で十五分だけでも目を閉じてください」
「朝一番からそれ?」
「はい」
「秘書判断?」
「はい」
「……分かった」
璟瑶は素直に後部座席へ乗った。
◇◇◇
午前七時四十七分。
青嶺中央銀行本店。
役員・来客用入口へ到着した璟瑶は、数人の行員から挨拶を受けた。
「おはようございます、頭取」
「おはようございます」
少し離れた場所から、別の行員たちの会話が聞こえる。
「頭取、もう普通に会議へ戻ってるらしいよ」
「中国から帰ったばかりなのに、本当によく働くよね」
璟瑶は振り返らない。
隣を歩く水城が小声で尋ねる。
「聞こえましたか」
「聞こえた」
「では今日は、働きすぎないでください」
「今それを言う?」
「今だから申し上げました」
◇◇◇
同じ頃、創も地下鉄を降り、本店へ入った。
今日取り組むのは、東央精密製作所の設備投資案件と、中央精機サービスの新規案件。
頭を仕事へ切り替え、十八階へ向かう。
廊下の角を曲がったところで、正面から璟瑶と水城が現れた。
一瞬だけ、三人の視線が重なる。
「おはようございます」
「おはようございます」
「おはようございます、宮嶋さん」
完全に仕事上の挨拶だった。
すでに六人ほどが待つエレベーターホールへ進み、到着したエレベーターへ順番に乗る。
合計十一人。
創は左側の壁際。
璟瑶は右前方。
水城はそのさらに前に立った。
扉が閉まる。
「……?」
突然、創の右手に指先が触れた。
見ると、璟瑶が前を向いたまま、身体の陰で手を伸ばしている。
その指が創の指を探し、絡んだ。
「……」
恋人つなぎ。
創の心臓が一気に速くなる。
ここは銀行のエレベーターで、周囲には大勢の行員がいる。
前に立つ水城も、間違いなく気づいている。
それでも璟瑶は離さなかった。
途中の階で行員が乗り降りし、十六階では法務部の女性行員が璟瑶のすぐ横へ立つ。
「おはようございます、頭取」
「おはようございます」
つないだ手は身体の陰に隠れていたが、創の背中には冷たい汗が流れた。
十八階へ到着する。
「失礼します」
創は降りようとした。
しかし、まだ手を握られている。
「頭取」
水城が小さく呼ぶ。
その一言で、璟瑶はようやく指を離した。
「失礼します」
創はもう一度頭を下げ、エレベーターを降りた。
扉が閉じたあと、その場で三秒ほど固まる。
「何だったんだ……」
「宮嶋?」
「はい!?」
背後には相沢拓也がいた。
「朝から何してる?」
「エレベーターが混んでて、少し疲れました」
「朝から? 若いのに大丈夫?」
「大丈夫です」
その頃、上昇を続けるエレベーターの中では、水城が前を向いたまま低い声で注意していた。
「頭取。今の行動は非常に危険です」
「分かってる」
「では、なぜ握ったんですか」
「銀行で会ったら、触りたくなった」
「勤務中です」
「……はい」
「今後、同じことはしないでください」
「分かりました」
水城は小さく息を吐いた。
「私は第二秘書です。恋人関係の隠蔽担当ではありません」
「それ、創にも前に言われた」
「正しい指摘です」
◇◇◇
午前八時十五分。
法人営業第一部。
創はすぐに仕事へ戻った。
東央精密から届いた修繕費の内訳を確認する。
前年の修繕費千二百四十万円のうち、更新対象設備に関するものは六百八十万円。
今年も、現時点の八百三十万円のうち四百九十万円を占めている。
「相沢さん、想定より対象設備の割合が高いです」
「ただし、新設備に更新すれば六百八十万円すべてが消えるわけじゃない」
「はい。新しい設備にも保守費と点検費がかかります」
創は資料へ追記した。
『現行修繕費の全額を削減効果としない』
『新設備の保守・点検費を差し引いた純効果を算出』
桐生雅人も声をかける。
「標準ケースと保守的なケースを両方作れ。納期遅延回避の効果も、根拠がなければ無理に金額へ置き換えるな」
「分かりました」
朝のエレベーターで起きたことは一度封印する。
今は東央精密の案件へ集中した。
◇◇◇
午前九時。
四十階の重役会議室では、華瑞国際産業集団への人民元八十億元の融資相談が進んでいた。
「設備投資四十億元、運転資金二十五億元、買収資金十五億元。三つは完全に分けましたか」
「はい」
陳高明が答える。
「設備投資の採算性は、原材料価格、販売単価、稼働率の三つを下振れさせた感応度分析を作ってください」
「承知しました」
久世宗一郎が資料を見る。
「運転資金二十五億元は、少し大きくありませんか」
「私もそう思います。在庫、売掛金、支払いサイトの実態をもう一度確認してください」
会議が一時間ほど続いたところで、璟瑶は自ら告げた。
「五分間、休憩します」
久世が驚いたように笑う。
「頭取、自分から休憩を入れるようになりましたね」
「最近、みんなそれを言いますね」
役員たちが席を離れたところで、璟瑶は個人用スマートフォンを確認した。
創からメッセージが届いている。
『体調どう? 眠気やつらさがあったら無理しないで。会議中なら返信はいらない』
『今、重役会議中』
すぐに既読がついた。
『ごめん。返信いらないって書いたのに』
『休憩中だから大丈夫。眠気は少しあるけど、つらくはない』
『よかった。でも無理しないで。水城さんの言うことを聞いて』
「……」
璟瑶の口元がわずかに緩んだ。
「何か?」
水城が斜め前から尋ねる。
「何でもない」
「宮嶋さんですか」
「どうして分かるの?」
「顔です」
そこへ劉川景仁が飲み物を持って戻った。
「何のお話です?」
「休憩時間についてです」
水城が即答する。
劉川は不思議そうな顔をしたが、それ以上は尋ねなかった。
◇◇◇
午前十一時三十八分。
会議を終え、頭取室へ戻った璟瑶は水城を呼び止めた。
「少し時間、いい?」
「前回伺った件ですか」
「うん」
劉川には、次の会議資料を準備してもらうことにした。
扉が閉まり、二人きりになる。
「水城さん。二人とも心拍を確認できました」
「……二人とも?」
「うん。双子の二人それぞれに心拍があった。今は双胎妊娠として、経過を診てもらってる」
水城は数秒間、言葉を失った。
「本当に双子なんですね」
「まだ妊娠初期で、これからも慎重に見ていく必要がある。四十五歳という年齢も、双胎であることもあるから」
水城の表情がゆっくりと柔らかくなる。
「頭取。今度は言わせてください」
「何?」
「おめでとうございます」
璟瑶の目がわずかに潤んだ。
「ありがとう」
「前回は、妊娠の可能性という段階でしたので、お祝いを申し上げてよいか迷いました。でも今回は、二人とも心拍を確認できたこと自体をお祝いしてよいと思います」
「うん。嬉しい」
水城はすぐに秘書の顔へ戻った。
「では今後、予定管理をさらに慎重にします」
「さらに?」
「これまでは妊娠の可能性を前提にしていました。今後は、双胎妊娠の経過観察中という前提で考えます。長時間の連続会議、早朝・深夜業務、会食、海外移動をこれまで以上に精査します」
「仕事ができなくなるほど削らないでね」
「必要な仕事をしていただくために、不要なものを削ります」
「それ、少し怖い」
「秘書判断です」
「またそれ……」
水城はかすかに微笑んだあと、慎重に切り出した。
「頭取。一つご相談があります」
「何?」
「そろそろ劉川第一秘書にも、宮嶋さんとの関係と妊娠について、必要最小限を共有した方がよいのではないでしょうか」
璟瑶は黙った。
「すべてを話す必要はありません。B5についても不要です。ただ、劉川さんは第一秘書として、頭取の日程や体調、緊急時の代理調整に関わります」
「例えば?」
「私が出張や休暇で不在の日です。事情を知らない劉川さんが、従来どおりの予定を組んでも不思議ではありません。毎回私を経由して調整するより、第一秘書が必要最小限を知っている方が安全です」
「創との関係まで必要?」
「妊娠だけ共有する方法もあります。ただ今後、通院の付き添い、新居、緊急連絡など、宮嶋さんが関わる場面は増えます。そのたびに、なぜ宮嶋さんなのかを隠し続けるより、第一秘書だけは知っている方が実務上安全です」
水城の説明には筋が通っている。
それでも、璟瑶一人で決めることではなかった。
「分かる。でも今、一人では決めたくない」
「もちろんです。宮嶋さんと相談してください。私は提案しただけです」
「今日、帰ってから話す」
「承知しました。それまでは劉川さんを含め、誰にも話しません」
「ありがとう」
◇◇◇
正午過ぎ。
社員食堂では、創が黒瀬と琴葉に囲まれていた。
「宮嶋、今日ちょっと疲れてない?」
「朝、エレベーターが混んでたから」
「それだけで、そんな考え込んだ顔になる?」
「なってない」
黒瀬が身を乗り出す。
「恋人?」
「どうして全部そこにつなげるの?」
「恋人がいるって知ったから」
琴葉も尋ねる。
「昨日、会った?」
「……会った」
「どこで?」
「言わない」
「何した?」
「言わない」
「泊まった?」
「言わない」
「何なら言うんだよ」
「会ったことだけ」
「本当に徹底してるね」
創の頭には、朝のエレベーターで触れた璟瑶の手が浮かんでいた。
「今、何か思い出した?」
「何も」
「絶対思い出した」
「黒瀬、城北フーズはどうなった?」
「話を変えたな」
そう言いながらも、黒瀬は仕事の話へ戻った。
◇◇◇
午後、創は東央精密の資料を仕上げた。
標準ケースでは修繕費を約六割削減。保守的なケースでは四割削減。
ただし、どちらにも新設備の保守・点検費を計上する。
榎本和也が資料を確認する。
「初年度の教育コストが抜けてる。それから、新設備が導入翌日から百パーセント稼働する前提も駄目だ」
「初期稼働率を八十パーセント程度にしたケースを追加します」
「それでいい」
相沢も資料へ目を通した。
「設備を更新しないリスクを強く書きすぎてる。銀行が設備を買わせたい資料に見える」
「投資する場合の借入負担、教育コスト、立ち上がりの下振れをもっと前へ出します」
「投資するリスクと、しないリスク。同じ重さで示して」
「はい」
桐生も創へ告げる。
「案件を見るほど更新が必要に見えてくる。だからこそ、反対側を意識して見ろ。結論を急ぐな」
「分かりました」
創は勤務時間が終わるまで、案件に集中した。
◇◇◇
午後六時十八分。
退勤した創のスマートフォンに、璟瑶からメッセージが届いた。
『水城さんに話した』
『二人の心拍のこと?』
『うん。おめでとうって言ってくれた』
『よかった』
少しして、もう一通届く。
『あと、相談したいことがある。家で話す』
『分かった』
◇◇◇
午後七時十一分。
「ただいま」
「おかえり」
先に来ていた璟瑶は、創の部屋のソファに座っていた。
創は上着を脱ぐ前に言う。
「まず、朝のことで一つ」
「何?」
「エレベーター、危ない」
「……分かってる。水城さんにも怒られた」
「俺、心臓が止まるかと思った」
「でも、触りたかった」
「理由、それだけ?」
「それだけ」
創はため息をついた。
「もうしないで」
「はい」
「本当に?」
「本当に。勤務中は頭取と宮嶋さん」
「うん」
二人は並んで座った。
「それで、相談って?」
「水城さんから、そろそろ劉川さんにも必要最小限を伝えた方がいいんじゃないかって言われた」
「俺が恋人だってことも?」
「うん。それから、双子妊娠の経過観察中だということも」
創は黙って考える。
「理由は?」
「第一秘書だから。水城さんがいない時も、予定や緊急対応を調整する。これから通院や新居、緊急連絡で創が関わる場面も増える。どうして宮嶋さんなのかを毎回隠すより、劉川さんだけは知っていた方が安全だって」
「理屈は分かる」
「私も。でも少し怖い」
「秘密を知る人が一人増えるからね」
「うん」
「劉川さんを信頼してる?」
「すごく信頼してる」
「なら、今すぐじゃなくても、何をどこまで伝えるか整理してから話すのは賛成」
「条件は?」
「俺が恋人であること。双子妊娠として経過観察中であること。それだけ」
創は指を折りながら続ける。
「B5は話さない。新居の詳しい住所も、業務上必要になるまで話さない。家族の誰が知っているかも、交際の経緯や時期も話さない」
「第一秘書として必要な情報だけ」
「うん」
「私もそれがいいと思う。水城さんと、もう一度整理してから決める」
「まだ劉川さんには話さない?」
「うん。準備してから」
◇◇◇
軽い夕食を終えると、璟瑶は創の肩へ寄りかかった。
「今日、水城さんにおめでとうって言ってもらえて嬉しかった」
「前は怖かった?」
「妊娠の可能性しか分からなかった時は、少し怖かった。でも今日は二人とも心拍を確認できたことを祝ってくれた。だから素直に嬉しかった」
創は服の上から、璟瑶のお腹へそっと手を置いた。
「二人、今日もここにいる」
「うん。まだ先のことは分からないけど、いる」
璟瑶が創の手へ自分の手を重ねる。
「朝、銀行で触ったこと……怒った?」
「怒った。でも、嫌じゃなかった」
「どっち?」
「嬉しかったけど危なかった。だから、もうしないで」
「はい」
璟瑶は小さく笑った。
今日、水城が把握する情報は更新された。
『妊娠している可能性がある』
ではない。
『双胎妊娠として経過観察中』
『二人とも心拍確認済み』
それでも、銀行内ですべてを知る人物は、まだ水城一人だけ。
久世も御子柴も、劉川も知らない。
桐生、相沢、黒瀬、琴葉も知らない。
ただし、水城は新たな提案をした。
第一秘書の劉川景仁へ、実務上必要な情報だけを伝えること。
二人の答えは、今すぐではない。
しかし、完全な拒否でもなかった。
誰に、何を、いつ伝えるのか。
秘密を守りながら、必要な相手には頼る。
四人家族になる未来が近づくほど、その判断は重要になる。
そして今日、勤務中の二人はいつもどおり、それぞれの仕事へ向き合った。
璟瑶は頭取として中国融資案件を進め、創は若手行員として東央精密の設備投資を検討した。
ただ、エレベーターの中で一瞬だけ、その境界線が揺れた。
だからこそ、二人は改めて約束する。
銀行では頭取と行員。
私生活では恋人であり、双子の両親になろうとしている二人。
未来が変わるほど、守るべき線と、頼るべき人を見極めなければならない。
次に二人が向き合うのは、第一秘書・劉川景仁へ秘密を伝えるかどうか。
銀行内で二人目の理解者を作る決断が、近づいていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、水城が持つ情報が「妊娠の可能性」から、
「双子妊娠として経過観察中」
「二人とも心拍確認済み」
へと更新されました。
水城も今度は素直に、
「おめでとうございます」
と璟瑶へ伝えます。
一方で、双子妊娠となれば予定管理や緊急対応もこれまで以上に重要になります。
そのため水城は、
「そろそろ劉川第一秘書にも必要最小限お伝えした方がよろしいのではないでしょうか」
と提案。
璟瑶はすぐには決めず、まず創と相談することにしました。
現時点では、劉川はまだ何も知りません。
そして朝のエレベーターでは、危うく二人の秘密が表に出そうになる場面も。
恋人であっても、銀行では頭取と行員。
その線引きを改めて確認する一日となりました。
次回、第63話。
今度は中国から一時帰国した崇岳が、かつて青嶺中央銀行で共に働いた水城家の二人と再会します。




