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第57話「水城さん、もう一つだけ――それと、私たちは一緒に暮らします」


第57話です。


今回は、銀行側で唯一二人の関係を知る水城へ、さらに大切な秘密が共有されます。


「私、妊娠している可能性があります」


まだごく初期で、確定的なことは何も言えない。


それでも、今後の予定調整や体調管理を考え、璟瑶は必要最小限の範囲で水城へ伝えることを決めます。


さらにもう一つ。


創と一緒に暮らすため、新居を探していることも報告。


驚く水城ですが、すぐに秘書として切り替え、自宅住所の扱いや送迎方法、出勤時の動線まで考え始めます。


銀行側で秘密を知る人物は――まだ、水城ただ一人です。



 日本、東京。


 青嶺中央銀行本店。


 午前七時二十七分。


 四十二階、頭取室。


「おはようございます」


「おはよう」


 欧陽璟瑶は、いつもより少し早く頭取室へ入った。


 第一秘書の劉川景仁と、第二秘書の水城絢乃は、すでに今日の予定を確認している。


「午前は九時から執行会議、十時半から中国融資案件、十一時半から全国地域銀行連携です」


 劉川に続き、水城が午後の予定を読み上げる。


「十三時半からデジタル融資、十四時半から人事制度、十六時から海外部門、十七時から役員個別報告です」


 璟瑶は予定表を見つめた。


「今日も一件、減らしてない?」


「減らしました」


「また?」


「はい」


 劉川が苦笑する。


「頭取、そろそろ諦めた方がいいと思います」


「二人とも最近、私に厳しくない?」


「体調管理も秘書業務です」


「その言葉、便利ね」


「はい。便利です」


 水城は淡々と答えた。


 昨日、社員食堂で創に尋ねた。


『頭取の体調について、追加で把握した方がいいことはありますか』


 創は、本人から話せる範囲で十分だと答えた。


 つまり、まだ何かあるのかもしれない。


 それでも水城は聞かなかった。


 頭取本人が話すまで待つ。それが秘書として守るべき距離だと考えていた。


◇◇◇


 午前八時五十五分。


 執行会議では、華瑞国際産業集団から届いた追加資料が議題に上がった。


 人民元八十億元の融資相談。


 設備投資四十億元、運転資金二十五億元、物流企業の買収資金十五億元。


 璟瑶の指示どおり、資料は三つに分けて提出されている。


「既存債務の一覧は確認できましたか」


 国際部門担当の陳高明が答える。


「はい。現地銀行四行、外資系二行との取引があります」


「担保の重複は?」


「一部あります」


「では、そこを先に整理してください。与信枠を議論する前に、既存担保、他行契約、コベナンツをすべて確認します」


「承知しました」


 久世宗一郎が資料を見ながら言う。


「先方はかなり早い回答を希望しています」


「早いことと、雑に進めることは違います。必要な確認を飛ばさない範囲で、速く進めましょう」


「はい」


 会議は滞りなく進んだ。


 誰も知らない。


 中央に座る頭取が昨夜、二十一歳の恋人と新居について話していたことを。


 三階建てか四階建て。


 5LDK、あるいは6LDK。


 二つの子ども部屋、防音室、広い浴室。


 そして、まだ姿の見えない命の可能性。


 今日、それを銀行側で初めて伝える相手は、水城ただ一人だった。


◇◇◇


 会議終了後、久世が璟瑶を見る。


「頭取、昨日より顔色がいいですね」


「ありがとうございます」


「ただし、無理はしないでください」


「最近、みんな同じことを言いますね」


「みんな心配しているんです」


「分かりました。ちゃんと休みます」


 久世が目を見開いた。


「本当に?」


「どうして驚くんですか」


「頭取が素直に休むと言ったので」


 御子柴泰成まで口を挟む。


「やっぱり中国で何かありました?」


「何もありません」


 半分は本当で、半分は違う。


 恋人を両親へ紹介した。


 そして、妊娠している可能性を知った。


 璟瑶にとっては、人生を変えるほど大きな出来事だった。


◇◇◇


 午後五時四十分。


 最後の役員報告が終わった。


「本日の予定は以上です」


 劉川が資料をまとめる。


「私は秘書室へ戻ります。水城さん、残件をお願いします」


「はい」


 扉が閉まり、頭取室には璟瑶と水城だけが残った。


「頭取、何かございますか」


「水城さん。少し時間、いい?」


「もちろんです」


「仕事というより、私生活の話」


 水城はすぐに察した。


「宮嶋さんに関することですか」


「うん」


 水城は扉の状態と在室表示を確認し、声を落とした。


「伺います」


 璟瑶は机の上で両手を重ねる。


「もう一つだけ、知っておいてもらった方がいいことがある」


「はい」


「私、妊娠している可能性があります」


「……」


 水城の動きが止まった。


「え……」


「まだごく初期で、確定的なことは言えない。重慶で検査して陽性。日本でも産婦人科を受診して、妊娠反応は陽性だった。でも、超音波ではまだはっきり確認できる段階じゃない」


 水城は深く息を吸った。


「そうですか……」


「驚いた?」


「かなり驚きました」


 水城は率直に答え、すぐに秘書の表情へ戻った。


「今後、業務上必要になる可能性があります。情報を整理させてください」


「うん」


「現時点で、この情報を銀行側の誰が知っていますか」


「水城さんだけ」


「久世副頭取、劉川第一秘書、人事も?」


「誰も知らない」


「宮嶋さんの上司も?」


「桐生さんも相沢さんも知らない。黒瀬さんと水無瀬さんは、創に恋人がいることだけ知ってる。でも、相手が私だとは知らない」


「承知しました」


 水城は慎重に確認する。


「つまり、頭取と宮嶋さんの関係を知り、さらに妊娠の可能性まで把握している銀行側の人間は、私だけですね」


「そう」


「現時点では誰にも共有しません。業務上必要になった段階で、頭取と宮嶋さんに相談したうえで範囲を決めます」


「ありがとう」


「ただし、体調が急変し緊急対応が必要になった場合は、医療関係者や業務代行を担う役員へ、必要最小限の情報を共有する可能性があります」


「その時はお願いします」


 水城は少し迷ってから、静かに尋ねた。


「頭取。おめでとうございますと申し上げていいのか、迷っています」


 璟瑶の目がわずかに潤む。


「私も迷ってる。嬉しいけど、怖い。今はまだ、おめでとうって言われるのも少し怖い」


「では今は、お身体を大切にしてくださいとだけ申し上げます」


「ありがとう。それが一番嬉しい」


 短い沈黙のあと、璟瑶が続けた。


「それと、もう一つある」


「まだあるんですか」


 水城の表情に、わずかな警戒が浮かぶ。


「私、創と一緒に暮らそうと思ってる」


「……同居ですか?」


「うん。もう家を探してる。一軒家で、三階か四階。5LDKから6LDKくらい。防音と防犯を重視してる」


「頭取」


「何?」


「一度に伝える情報が多すぎます」


「ごめん」


 水城は額へ手を当てた。


「中国で恋人関係だと伺い、帰国後は妊娠の可能性、さらに同居と新居ですか」


「そう」


 十秒ほど黙ったあと、水城は完全に秘書へ切り替わった。


「分かりました。では、新住所の取り扱いを最初から慎重に考える必要があります」


「そこを相談したかった」


◇◇◇


「現在の頭取の住所は、秘書室、総務、運転担当など、業務上必要な一部の部署が把握しています」


 水城が説明する。


「新居を頭取名義、または共有名義にすれば、住所変更の手続きは必要です。完全に秘密にはできません」


「それは分かってる。でも、行内へ広く知られるのは避けたい」


「住所情報は全行員が自由に閲覧できるものではありません。必要部署に限定して処理できます。ただし、問題は送迎です」


「やっぱり、そこよね。毎日、秘書車が家の前まで来るのは避けたい」


「はい。宮嶋さんが同居しているなら、偶然見られる可能性もできるだけ下げるべきです」


「方法はある?」


「基本は公共交通機関を利用する。秘書車が必要な日だけ、駅や指定地点から乗車する。深夜や緊急時に自宅への直接送迎が必要なら、住所を知る運転担当者を少人数に限定します」


「それがよさそう」


「もう一つ。宮嶋さんと毎朝、同じ時間に同じ駅から出勤するのも避けた方がいいでしょう」


「そこまで?」


「頭取と若手行員が、毎日同じ改札から現れれば、何度目かには疑問を持たれます」


「確かに。出勤時間か、利用する駅をずらす必要があるね」


「宮嶋さんは通常の電車通勤。頭取は必要に応じて別地点から車を利用する方法が現実的です」


「本店まで三十分から四十五分程度で、青嶺の行員が多い地域は避けたいと思ってる」


「重要な条件です。ただし、人事の住所情報を使って行員の居住分布を調べることはできません」


「もちろん。それは絶対にしない。使うのは一般的な通勤事情や住宅地の情報だけ」


 頭取権限で行員の個人情報を利用しない。


 創との関係のために、銀行の制度を曲げない。


 その線は、二人とも最初から守ると決めていた。


「購入時期は?」


「まだ決めてない。まずは物件を見る段階。でも条件はかなり固まってる」


「どのような条件ですか」


「三階か四階、5LDKか6LDK。広いLDK、子ども部屋二つ、書斎、趣味室、防音、駐車場、庭。それから広いお風呂」


 水城が一瞬止まった。


「広いお風呂?」


「そこは拾わなくていい」


「失礼しました」


 口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。


「かなり本格的ですね」


「創は読書とカラオケとカードゲーム、それに花札が好きなの。だから趣味室を作りたい」


「宮嶋さん、花札が好きなんですか」


「意外でしょう。私も昨日知った」


「一緒に暮らせば、今まで知らなかったことが増えそうですね」


 璟瑶は穏やかに微笑んだ。


「それが楽しみ」


 水城が見たのは、頭取ではなく、一人の恋人の表情だった。


◇◇◇


「新居の費用は、宮嶋さんも負担されるのですか」


「する。創が自分も出すって言ってる。でも完全な折半にはしない。収入も資産も差が大きいから、私が多く負担する」


「安心しました」


「どうして?」


「宮嶋さんなら、半分出すと言いそうなので」


「言った」


「やはり」


「止めた。二人の家だから創にも負担してもらうけど、生活が苦しくなる金額は絶対に出させない」


「それがよいと思います。共有名義なら、税務、登記、贈与の扱いも専門家へ確認してください」


「創ともそう話してる」


 水城が柔らかく笑う。


「随分、きちんと夫婦らしくなりましたね」


「まだ夫婦じゃない」


「でも、そのうち?」


「……そこは聞かなかったことにして」


「承知しました」


 水城は改めて整理する。


「私が把握している情報は三つです。頭取と宮嶋さんが恋人関係にあること。妊娠している可能性があること。そして、新居を探し同居を予定していること」


「うん」


「銀行側で、この三点すべてを知っているのは私だけ。間違いありませんか」


「間違いない。あとはB5――」


 璟瑶は途中で止まった。


 地下五階の秘密基地について、水城には話していない。


「それは今、言う必要ないね」


「はい。業務上必要がないのであれば、私は聞きません」


「ありがとう」


 必要のないところへ踏み込まない。


 それが、水城を信頼できる理由だった。


「住所が決まりましたら、必要な範囲で教えてください。送迎方法と出勤動線を設計します。宮嶋さんの意向も確認したいので、その時は三人で話しましょう」


「うん。ただし勤務時間外に」


「もちろんです」


 水城は一礼した。


「では、今日はもうお帰りください」


「メールを少し確認してから――」


「明日で大丈夫です。秘書判断です」


「またそれ?」


「はい」


 璟瑶は諦めたように笑う。


「分かった。帰る」


「お疲れさまでした」


「水城さん、ありがとう。今日話せて、少し安心した」


「秘密は増えましたが、責任を持って守ります」


「お願いします」


◇◇◇


 午後六時二十三分。


 法人営業第一部で仕事を終えた創のもとへ、璟瑶からメッセージが届いた。


『水城さんに話した』


『どこまで?』


『妊娠の可能性と、新居を探して一緒に暮らすこと』


『大丈夫だった?』


『ものすごく驚いてた。でも、すぐ秘書に戻った』


『水城さんらしい』


『住所や送迎、出勤経路まで考えてくれた』


『早い』


『私たちより早い』


『さすが秘書』


 創は小さく笑う。


『銀行側で知ってるのは、まだ水城さんだけ?』


『うん。久世さんも劉川さんも知らない』


『黒瀬と琴葉も、俺に恋人がいることだけ』


『今はこのままでいいと思う』


『私も』


◇◇◇


 午後七時八分。


「ただいま」


「おかえり」


 璟瑶はすでに創の部屋にいた。


「水城さん、どんな反応だった?」


「恋人、妊娠、同居、新居。情報量が多すぎますって」


「そりゃそうだ」


「でも、すぐに住所や送迎、出勤動線を考えてくれた」


 璟瑶は、水城が提案した方法を説明する。


 基本は公共交通機関。


 秘書車が必要な日は、自宅前ではなく別の場所から乗る。


 二人が毎朝同じ時間、同じ駅から出ないようにする。


「必要だね。俺は普通に電車通勤する。璟瑶は出勤時間が早い日も多いから、自然にずらせると思う」


「休日に一緒に出かけることも考えたら、行員の多い地域を避ける条件はやっぱり重要ね」


「うん」


 創は少し迷ってから尋ねた。


「妊娠のことを聞いて、水城さんは何て?」


「おめでとうございますと言っていいか、迷うって」


「それで?」


「今は、お身体を大切にしてくださいとだけ言いますって」


 創の表情が柔らかくなる。


「やっぱり、いい人だね」


「うん。私も、その言葉で安心した」


 これで銀行の中にも、何かあった時に事情を理解できる人が一人いる。


 けれど、今はそれ以上増やさない。


 久世にも劉川にも、人事にも、創の上司にも話さない。


 黒瀬と琴葉にも、恋人の正体は伏せたまま。


 必要になった時、二人で考える。


 それが今の結論だった。


「家の条件も話したの?」


「少しだけ」


「広いお風呂も?」


「言った」


「言ったの!?」


「大事な条件でしょう?」


「水城さん、どんな顔してた?」


「一秒止まった」


 創は両手で顔を覆った。


「次に会う時、絶対恥ずかしい……」


「大丈夫。秘書だから忘れてる」


「絶対覚えてる!」


 璟瑶は楽しそうに笑った。


◇◇◇


 その夜も、二人は新居候補を調べた。


 三階建て、6LDK。


 防音室とホームエレベーターがあり、浴室は広い。


 駐車場二台分と庭も備え、駅まで徒歩十一分。本店までは約三十七分。


「これ、いいね」


「周辺も静かな住宅地みたい」


「行員が多い地域かどうかは分からないけど、一般に公開されている情報だけで判断しよう」


「うん。個人情報は絶対に使わない」


 頭取の権限は使わない。


 創も行員という立場を利用しない。


 新居探しでも、その線は変わらない。


「今日、水城さんの知ってる秘密が増えたね」


「最初は恋人関係だけだった。今は妊娠の可能性と、同居と新居まで知ってる」


「でもB5は知らない」


「それは言わなくていい。業務に関係ないから」


「必要なことだけ話す。それでいい」


 そして、水城に頼りすぎない。


 水城は二人の秘密を守るためだけにいるのではなく、本来は頭取を支える秘書なのだ。


「自分たちの秘密は、自分たちで守ろう」


「うん」


 璟瑶はそっとお腹に触れた。


「でも、もしこの子が本当にいるなら、仕事のことだけ考えるわけにはいかない」


「だから今日、水城さんに話したのは正解だったと思う」


「私もそう思う」


 二人はまだ、『この子』が一人ではないことを知らない。


 璟瑶の身体の中で静かに育つ、小さな二つの命。


 数日後、二人は初めてその事実を知ることになる。


 そしてその時、『三人で暮らす家』だと思っていた新居の意味も変わる。


 三人ではなく、四人で暮らす家へ。


 今、銀行側ですべてを知るのは水城絢乃ただ一人。


 久世も、劉川も、人事も、桐生も、相沢も知らない。


 黒瀬と琴葉が知るのは、創に恋人がいることだけ。


 銀行では、これまでどおり頭取と若手行員。


 けれど私生活では恋人であり、これから一緒に暮らす家族になろうとしている。


 その準備が、静かに始まっていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、水城へ妊娠の可能性と同居予定が初めて共有されました。


恋人関係。


妊娠の可能性。


新居。


同居。


一度に増えた秘密に水城も驚きましたが、そこは頭取第二秘書。


すぐに、自宅前まで秘書車を乗り入れないことや、必要時は別の乗車地点を使うことなど、実務的な対策を考え始めます。


ただし、共有は必要最小限。


久世副頭取も、劉川第一秘書も、人事も、創の上司も、黒瀬も琴葉も知りません。


そしてB5のことも、水城にはまだ秘密のままです。


次回、第58話。


再び高峰レディースクリニックを訪れる二人。


そこで高峰澪奈から告げられるのは――。


「欧陽さん。一つではありません」


二人が想像していなかった、新しい事実です。


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