第54話「父さん、母さん――今度は二人から、大切な報告があります」
第54話です。
今回は、創・黒瀬・琴葉それぞれの一日を、仕事面からしっかり描きます。
創は法人営業第一部で東央精密製作所や新規企業案件に向き合い、新しく登場する部署メンバーたちとも仕事を進めていきます。
黒瀬は中小企業金融部で資金繰り支援。
琴葉は個人営業企画部で、店舗向けFAQや資産運用商品の説明改善。
昼休みには、それぞれの部署メンバーを連れて三人が社員食堂で偶然合流します。
そして夜。
創と璟瑶は宮嶋家へ。
「父さん、母さん。大切な報告があります」
日本でも確認された妊娠反応陽性。
まだごく初期ではありますが、二人は和久と恵美子へ、その可能性を正式に伝えます。
日本・東京。
青嶺中央銀行本店。
午前七時三十六分。
宮嶋創・二十一歳は、社員証をゲートへかざした。
昨日、高峰レディースクリニックで受けた再検査。
結果は、日本でも妊娠反応陽性。
ただし、まだごく初期で、赤ちゃんの状態をはっきり確認できる段階ではない。
今日の仕事が終わったら、欧陽璟瑶・四十五歳と一緒に、両親へ報告する。
「……まずは仕事」
創は自分に言い聞かせ、法人営業第一部へ向かった。
◇◇◇
午前七時四十九分。
「おはようございます」
「おはよう。宮嶋、昨日の午後は大丈夫だった?」
チームリーダーの桐生雅人が尋ねる。
「はい。ありがとうございました」
「では今日は、東央精密の続きから」
「分かりました」
指導担当の相沢拓也も声をかける。
「朝のミーティング後、資料を一度見せて」
「はい」
「午後には企業訪問が一本追加されるかもしれないよ」
藤崎美優が教える。
「先方から急な相談が入ったの。宮嶋君も同席候補」
「分かりました」
この日のフロアには、いつもの桐生、相沢、佐伯、藤崎、長谷川、北川に加え、別案件で外出していたメンバーも揃っていた。
副チームリーダーの榎本和也・三十九歳。
製造業を長く担当している神谷直樹・三十四歳。
物流や卸売に強い高瀬悠真・三十一歳。
若手の小宮山陸・二十六歳、水野拓海・二十三歳、片瀬美咲・二十四歳。
融資実行前の書類管理を担う白川奈緒・三十三歳。
IT、サービス業、スタートアップを担当する三浦沙耶・二十八歳。
法人営業第一部の朝は、一気に賑やかになっていた。
午前八時三十分。
朝のミーティングが始まる。
「東央精密製作所は相沢と宮嶋。午後に榎本が補足レビュー。神谷は北陽化成、高瀬は東都物流、三浦はクラウドリンク。白川は融資実行三件の最終確認」
桐生が予定を割り振る。
「小宮山と宮嶋は、午後の新規相談に入って」
「はい」
「承知しました」
創は一日の予定を頭の中で整理する。
午前は東央精密。
午後は新規企業相談。
その合間に中国出張報告の修正。
夕方に案件を整理し、夜は家族への報告。
「宮嶋、詰め込みすぎるなら言って」
「大丈夫です」
「無理している人ほど『大丈夫』って言うからな」
桐生の言葉に、チーム内で笑いが起きた。
「今のところは、本当に大丈夫です」
「ならいい」
◇◇◇
午前八時五十四分。
創、相沢、榎本の三人は、小会議室で東央精密製作所の資料を広げた。
従業員八十六名。
売上約二十四億円。
導入設備は一億八百万円。
借入希望額は一億円。
「現状維持案と設備投資案を比較しました。ただ、東条社長の意向を十分に反映できていないと指摘を受けたので、修正しています」
榎本が尋ねる。
「どこを加えた?」
「東条社長が重視しているのは、新しい設備そのものではなく、品質、納期、若手採用、主要取引先からの信用維持ではないかと整理しました」
「なぜ『可能性』なんだ?」
「本人が、そこまではっきり明言していないからです。次の面談で確認したいと思っています」
「いいね。決めつけていない」
相沢が頷く。
「銀行側の提案は、どこまで作る?」
「設備投資を前提にせず、必要額、返済負担、稼働効果を整理します。同時に、現状維持の場合の修繕負担も示します。銀行が結論を決めるのではなく、東条社長の判断材料を増やす形です」
「方向はいい。ただ、数字をもう一段詰めよう」
榎本が修繕費を見る。
「今年だけでなく、過去の推移は?」
「三年前が七百八十万円、二年前が九百六十万円、前年が千二百四十万円。今年は現時点ですでに八百万円を超えています」
「老朽化による増加が、どの程度含まれている?」
「そこは確認不足です」
「では追加確認項目へ入れよう」
「はい」
相沢が笑う。
「確認が、ちゃんと入口になってるね」
「東都共栄時代に、三谷さんから教わった言葉です」
「前職の経験は強みだ」
榎本が続ける。
「ただし、前職のやり方をそのまま正解として持ち込むのは違う。今の宮嶋は、青嶺の視点とうまく組み合わせ始めている」
「ありがとうございます」
◇◇◇
午前十時三十分。
席へ戻ると、水野拓海が声をかけてきた。
「宮嶋さん、中国はどうでした?」
「いきなり?」
「昨日は聞けなかったので」
「仕事を先に終わらせたら、昼に話すよ」
「本当ですか? では頑張ります」
片瀬美咲が笑う。
「水野、中国のお土産が目当てでしょう」
「違います」
「顔に出てる」
「またそれ!」
「それ、最近流行ってるんですか?」
創が思わず反応すると、片瀬が首を傾げた。
「何が?」
「何でもないです」
◇◇◇
同じ頃。
中小企業金融部では、黒瀬颯真・二十七歳が城北フーズの資金繰りを見直していた。
チームリーダーの真壁隆志に加え、事業再生に強い大庭智也、製造業担当の坂口裕介、不動産と担保評価に詳しい森下航らが案件を支える。
同年代の早川健人。
若手の柴田悠人。
審査経験の長い松本由佳。
事業承継担当の西野真帆。
倉田美月、相川莉奈、小泉七海も、それぞれの案件を進めていた。
「黒瀬、城北フーズの資金繰り表は直した?」
「はい。売掛金の回収月が一か月ずれていたので修正しました」
「結果は?」
「当初は二千万円の資金不足を見込んでいましたが、修正後は最大三千二百万円不足する可能性があります」
「先方の希望額は三千万円だったな」
「はい。ただ、全てを悲観的に見る必要はないので、標準ケースと慎重ケースの二つを作りました」
大庭が頷く。
「顧客の希望額をそのまま融資額にするわけではない。本当に必要な金額を一緒に考えることが大事だ」
「はい」
休憩前、早川が黒瀬へ声をかける。
「昼、宮嶋に会えるかな」
「いるんじゃない?」
「中国の話を聞きたい」
「昨日、お菓子もらっただろ」
「お菓子だけじゃ足りない」
「欲張りだな」
◇◇◇
別フロア。
個人営業企画部では、水無瀬琴葉・二十六歳が店舗向けFAQの最終調整を進めていた。
企画チーム長の藤沢麻衣。
副チーム長の古川直人。
資産運用商品担当の小野翔平。
デジタル顧客導線を担当する牧野雄大。
住宅ローン担当の井川蓮。
若手の田辺陸斗。
白石彩香、小松菜月、大崎理沙、藤本玲奈、三宅紗季。
各担当が、店舗から寄せられた照会を整理している。
「水無瀬さん、今回一番多い質問は?」
「お客さまの目的を確認する前に、商品説明へ進んでよいかという照会です」
「回答は?」
「原則として、先に目的、運用期間、資金使途、損失許容度を確認する流れを明示します」
藤本玲奈が資料の一文を指す。
「この『安心して』という表現は、消した方がいいと思う」
「元本保証があるように誤認される可能性があるから?」
「そう。説明を分かりやすくすることと、都合よく見せることは違うから」
「分かりました。修正します」
白石が琴葉へ声をかける。
「昼、一緒に行こう。宮嶋君がいたら、中国の話も聞きたい」
「黒瀬も同じことを言ってそう」
「なら、みんなで座る?」
「うん」
◇◇◇
正午。
青嶺中央銀行本店、二十一階。
社員食堂。
創は、小宮山、水野、片瀬、北川と一緒に席を探していた。
「宮嶋さん、中国の話、約束ですよ」
「覚えてる。食べながらね」
「水野、ずっと楽しみにしてたよね」
「してません」
「顔に出てた」
「またそれ!」
そこへ黒瀬の声が飛ぶ。
「宮嶋、こっち空いてるぞ」
黒瀬の隣には、早川、柴田、相川、小泉。
さらに反対側から、琴葉、白石、小松、三宅、田辺も現れた。
「すごい人数になったね」
「部署交流会みたい」
近くの長いテーブルを二つ使い、三部署の若手が一緒に昼食を取ることになった。
「宮嶋さんたち、同期なんですか?」
水野が驚く。
「俺と黒瀬と琴葉は、キャリア採用の同期だよ」
「でも、年齢が全然違いますよね」
「そこを言う?」
黒瀬は二十七歳。
琴葉は二十六歳。
創は二十一歳。
「宮嶋さん、俺より二歳下なんですか?」
柴田が目を見開く。
「ずっと同じくらいだと思ってました」
「宮嶋、老けて見えるから」
「違う!」
「落ち着いて見えると言ってあげて」
「琴葉、ありがとう」
話題は、それぞれの仕事へ移った。
「今日は何をしてた?」
「城北フーズの資金繰り。売掛金の入金月がずれていて、必要資金が千二百万円ほど変わった」
「それは大きいね」
「数字が合っていても、月が違えば資金繰りは全部変わるから」
「勉強になります」
水野が聞き入る。
「何で宮嶋の後輩へ講義してるんだろう、俺」
「琴葉は?」
「店舗向けの資産運用FAQを直してた。分かりやすくしようとして、逆にリスクが薄く見える表現があったから」
「個人営業企画って、そういう仕事もするんですね」
片瀬が感心する。
「店舗で説明しにくい部分を、本部側で直す仕事も多いよ」
「創は?」
「東央精密の設備投資案と現状維持案を比較してた」
「中国から戻って、すぐ国内案件だね」
「出張はもう終わったから」
黒瀬が本題へ戻す。
「それで、中国はどうだった?」
「上海と深圳で実務を見て、国内より確認することが一気に増えると感じた。為替、物流、現地雇用、決済、親会社、地域銀行。全部つながってる」
「そのうち海外営業へ行きそう」
「行かない。今は法人営業を覚えるだけで精いっぱい」
琴葉が創の顔を見る。
「でも、やっぱり前より何か変わった」
「またそれ?」
「余裕が出た感じ?」
黒瀬も同意する。
創の内心には、まったく余裕などない。
今夜、両親へ妊娠の可能性を報告しなければならない。
「気のせいだよ」
「絶対、何かある」
「中国に知り合いがいるって、昨日言ってたし」
「まだその話を引っ張るの?」
「引っ張る」
「私も少し気になる」
「二人とも仕事へ戻って」
「逃げた」
「逃げたね」
「逃げてない!」
周囲から笑いが起きた。
短い昼休み。
それでも、創、黒瀬、琴葉の同期としての関係が、三部署の若手へ少しずつ知られ始めていた。
◇◇◇
午後一時十五分。
創は小宮山と、新規相談へ入った。
来店したのは、中央精機サービス株式会社。
従業員四十三名。
設備保守と部品加工を行う中小企業だ。
相談内容は、運転資金と新たな加工設備の導入。
代表取締役・坂上隆文と経理責任者・野村真紀が、小会議室へ入る。
「受注が増えているのですが、人手が足りません。設備を一台入れれば、一部を自動化できます。ただ、運転資金も減らしたくないんです」
「設備の金額は?」
小宮山が尋ねる。
「約四千二百万円です。できれば三か月以内に導入したい」
創が顔を上げる。
「三か月という希望は、受注増加だけが理由ですか?」
「それに、ベテラン社員二人が来年定年を迎えます」
「その二人が担当する工程は、今回の設備で置き換える部分と近いですか?」
「全部ではありませんが、かなり重なります」
小宮山と創が視線を交わす。
「では、資金だけではなく、人員、技能承継、設備の三つを一緒に見る必要がありますね」
「そうなんです」
野村が付け加える。
「設備を導入しても、操作を覚える人が必要です」
「導入すれば、すぐ人手不足が解消するわけではないんですね」
「はい」
約一時間の面談後、小宮山が創へ言った。
「ベテラン二人の定年を聞けたの、よかったよ。俺は設備金額ばかり見てた」
「俺も中国へ行く前なら、見落としたかもしれません」
「出張の経験が、もう役立ってるな」
「少しだけです」
◇◇◇
午後五時十五分。
創は面談内容を桐生へ報告した。
「設備は四千二百万円ですが、二名の定年、技能承継、人手不足が同時に課題になっています」
「設備を買えば解決する?」
「しません。操作教育も必要ですし、定年前に技能をどこまで引き継げるかも確認が必要です」
「いい。明日、小宮山と論点を整理して」
「はい」
午後六時。
残務とメールを確認し、資料を所定の場所へ保存する。
PCをログオフすると、スマートフォンに璟瑶からメッセージが届いていた。
『仕事、終わりそう?』
『あと少し』
『私は準備できた』
『迎えに行く?』
『近くで合流しましょう』
『分かった』
『無理して残業しないで』
『頭取命令?』
『恋人命令』
『それは強い』
創は笑い、午後六時二十二分に退勤した。
「今日はよく動いたな」
相沢が声をかける。
「明日は中央精機の続き、頼むよ」
「はい」
「気をつけて帰れ」
「ありがとうございます」
ここからは銀行員ではなく、一人の男性として向き合う時間だった。
◇◇◇
午後七時十分。
都内の住宅街で、創と璟瑶が合流する。
璟瑶は落ち着いたコートとマスク姿だった。
「お疲れさま」
「ありがとう。体調は?」
「今日は比較的いい。朝は少し吐き気があったけど、今は大丈夫」
「眠気は?」
「昼に二時間寝た」
「本当に眠いんだね」
「うん」
「今日、両親へ話せそう?」
「話したい。日本でも陽性を確認できたから。ただ、まだごく初期だということも、きちんと伝えたい」
「うん」
創は少し緊張した顔になる。
「恋人を紹介した時より緊張する」
「どうして?」
「今回は、もしかしたら子どもがいるかもしれないって話だから」
璟瑶が創の手をそっと握る。
「私も緊張してる」
「一緒だね」
「うん」
◇◇◇
午後七時三十五分。
宮嶋家。
「ただいま」
「お邪魔します」
「いらっしゃい」
母・宮嶋恵美子が玄関へ出てきた。
「璟瑶さん、体調は大丈夫?」
「今日は比較的、大丈夫です」
「無理してない?」
「してません」
「本当に?」
創が苦笑する。
「母さん、美智子さんと全く同じ質問してる」
「母親なら心配するでしょう」
居間では、父・宮嶋和久が待っていた。
「二人で来たということは、何か話があるんだな」
「うん。大事な話がある」
四人はテーブルを囲んだ。
恵美子がお茶を出そうとすると、璟瑶が申し訳なさそうに止める。
「今、匂いに少し敏感で……」
「ごめんなさい。水の方がいい?」
「はい。ありがとうございます」
水が置かれ、創は父と母を見た。
「この前、璟瑶の体調が少し変だって話したよね。眠気とだるさが続いてるって」
「うん」
「重慶で、妊娠検査をした」
和久が静かに尋ねる。
「結果は?」
「陽性だった」
恵美子が息を止める。
今度は璟瑶が、自分の口で続けた。
「中国だけでは分からないので、日本へ戻ってから産婦人科を受診しました。日本でも妊娠反応は陽性でした」
「では……」
「先生からは、妊娠している可能性が非常に高いと言われています。ただ、まだごく初期で、赤ちゃんをはっきり確認できる段階ではありません。一週間前後で、もう一度診てもらう予定です」
数秒の沈黙。
恵美子の目が潤む。
「璟瑶さん、こっちへ来て」
「え?」
恵美子は立ち上がり、璟瑶をそっと抱きしめた。
「まだ何も決まっていないのは分かってる。でも今、一人で怖かったでしょう?」
「……はい。嬉しいです。でも、怖いです」
「四十五歳なので、無事に育ってくれるのか、自分の身体は大丈夫なのか。仕事をどうするのかも考えてしまって……」
「今、全部考えなくていいの。まず身体を大切にしましょう」
「ありがとうございます」
璟瑶の涙が落ちた。
◇◇◇
和久は創へ向き直る。
「創。お前はどう思ってる」
「嬉しい。でも怖い。本当に父親になるかもしれないって、まだ実感がない。分からないことばかりだよ」
「それでいい」
「え?」
「二十一歳で、父親の経験があるわけじゃない。分からないことがあるのは当たり前だ」
和久は穏やかだが、真剣な声で続ける。
「ただ、分からないままにするな。調べろ。医師や親、経験のある人へ聞け。二十一歳だからと、全部一人で背負おうとするな」
「うん」
「もう一つ忘れるな。妊娠で身体の負担を受けるのは、璟瑶さんだ。自分の不安ばかり見ていたら駄目だぞ」
「分かってる」
「なら行動しろ。まだ父親になるかは分からない。でも恋人として、今できることはあるだろう」
「病院には一緒に行く。仕事で無理をしていたら止める。俺にできることは全部する」
「それでいい」
恵美子が隣へ座り直す。
「それで二人は、これから住む場所をどうするの?」
「え?」
「創の部屋は広くないでしょう。璟瑶さんと暮らして、もし赤ちゃんが生まれたら、もっと狭くなる」
「昨日、全く同じ話をした」
「でしょう?」
璟瑶が少し笑う。
「二人で一軒家を探そうかと話し始めています」
「いいじゃない。そろそろ一緒に暮らしてもいいと思う」
「やっぱり?」
「今までは、銀行で関係を知られないために別々に住む理由も分かった。でも、これから璟瑶さんの体調が変わり、一人でいる時間が増えたら心配でしょう?」
「昨日、創の部屋で一人で休んでいたんです。合鍵で入って」
「もう同棲の一歩手前ね」
「母さん、楽しそう」
「少しは楽しみよ。でも、身体が最優先。それは忘れないで」
「はい」
◇◇◇
「家を買うなら、費用はどうする?」
和久が現実的な点を尋ねる。
「俺も出す。璟瑶に多めに負担してもらうことになるけど、無理のない範囲で自分も出したい」
「それでいい。完全な折半にこだわるな。収入も資産も違う。負担を同じ金額や比率にすることが、必ずしも公平とは限らない」
「私も同じ考えです。でも創は、全て私が払うのは嫌だと」
「二人の家だから、俺も出したい」
「なら無理のない範囲で出せ。ただし見栄を張るな。家を買って生活が苦しくなれば意味がない」
「分かった」
恵美子が楽しそうに尋ねる。
「どんな家を探すの?」
「まだ条件を挙げている段階ですが、一軒家で5LDKくらい。広いリビング、二人で使えるキッチン、書斎、庭、防犯設備……それから大きなお風呂です」
恵美子が創を見る。
「大きなお風呂?」
「何で俺を見るの?」
「二人で入れるくらいの浴槽が欲しいんです」
「璟瑶!」
「あら」
和久も顔を逸らし、笑いをこらえている。
「父さん、笑ってる?」
「笑ってない」
「絶対笑ってる!」
重い話の中に生まれた小さな笑いが、四人の緊張を解いていった。
◇◇◇
午後九時前。
「今日は泊まっていく?」
恵美子が尋ねる。
「今日は創の家へ戻ります」
「一人にならないなら安心ね。創、ちゃんとそばにいて」
「分かった」
「璟瑶さん。何かあれば夜でも連絡して。遠慮しないでね」
「ありがとうございます」
「次の診察は?」
「一週間前後です。俺も付き添います」
「結果が分かったら連絡してくれ。ただし、急がなくていい。二人が落ち着いてからでいいから」
「うん」
玄関で、恵美子はもう一度璟瑶を抱きしめた。
「頭取だからではなく、一人の女性として、きちんと休んでね」
「……はい」
「では、また」
創が靴を履く。
「創」
「何?」
「分からないままにするなよ」
和久の言葉に、創は頷いた。
「うん」
◇◇◇
外へ出ると、夜の空気は少し冷たかった。
「創」
「何?」
「いいお父さんとお母さんだね」
「うん。厳しいけど優しい」
「崇岳さんと美智子さんも同じだよ。崇岳さんは、かなり厳しかったけど」
「元頭取だから、銀行員を見ると質問したくなるのよ」
「本当に面接みたいだった」
二人は笑いながら歩く。
「家、本当に探そうか」
「うん。私も創と一緒に暮らしたい」
「俺も」
創は少し先で立ち止まり、璟瑶を見る。
「もし本当に赤ちゃんがいるなら、三人で暮らせる家を探そう」
「うん」
まだ二人は「三人」だと思っている。
だが、璟瑶のお腹の中に宿っているのは、一つではない。
ごく小さな二つの命。
未来の男の子と女の子。
その事実が分かるのは、もう少し先だ。
朝は銀行員として仕事をした。
昼は同期たちと、それぞれの仕事について語り合った。
午後は顧客の設備、人材、技能承継という課題へ向き合った。
そして夜。
創は一人の男性として、大切な恋人と新しい命の可能性を両親へ報告した。
まだ父親ではない。
それでも創は、父親になるかもしれない未来の入口に立っている。
璟瑶もまた、頭取ではなく、母親になるかもしれない一人の女性として、家族の支えを受け入れ始めた。
次に二人が向き合うのは、銀行で続く日常。
そして少しずつ現実になっていく、二人と新しい家族が暮らす家。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、銀行員として働く創・黒瀬・琴葉、それぞれの仕事をたっぷり描きました。
同じキャリア採用同期でも、法人営業、中小企業金融、個人営業企画と、三人がまったく違う場所で成長していることが少しずつ見えてきています。
そして夜。
創と璟瑶は、和久と恵美子へ妊娠の可能性を正式に報告しました。
「二十一歳だから分からないことがあるのは当たり前だ。分からないままにするな」
和久の言葉を受け、創も少しずつ“父親になるかもしれない自分”と向き合い始めます。
さらに恵美子からは、
「そろそろ一緒に暮らした方がいいんじゃない?」
という後押しも。
二人の新居探しは、いよいよ現実のものになっていきます。
ただし二人はまだ、「三人で暮らす家」を考えています。
その未来が本当は“四人”になるかもしれないことを、まだ誰も知りません。
次回、第55話。
璟瑶が頭取業務へ復帰。
そして創は、黒瀬と琴葉へ初めて――「恋人がいる」とだけ打ち明けます。




