第51話「日本へ帰ろう――三人ではなく、“四人”になるかもしれない帰国便」
第51話です。
重慶を離れる朝。
美智子は、かつて自分が璟瑶を妊娠した時にお世話になった元産婦人科医・高峰澄江へ電話をします。
現在は引退している澄江に代わり、娘で現役産婦人科医の高峰澪奈が璟瑶を診ることに。
ただし、璟瑶が青嶺中央銀行頭取であることも、創との関係も、必要な医療関係者以外には絶対に広げない。
その約束をしたうえで、日本での再診準備が始まります。
そして重慶では、崇岳が創へ初めて父親として、
「娘を頼む」
と告げます。
まだ二人は知らない。
璟瑶のお腹の中には、一つではなく――二つの小さな命が宿り始めていることを。
中国・重慶。
欧陽家。
帰国当日、午前五時五十八分。
外はまだ薄暗い。
宮嶋創・二十一歳と欧陽璟瑶・四十五歳が眠っている頃、一階の居間では、欧陽美智子・六十八歳がスマートフォンを手にしていた。
画面に表示されている名前は――高峰澄江。
七十九歳。
東京都内にある高峰レディースクリニックの元院長で、現在は完全に引退した元産婦人科医。
四十五年以上前、美智子が日本で暮らしていた頃から、妊娠や出産、身体の相談に乗ってくれた医師だった。
美智子が二十三歳で初めて璟瑶を授かった時、不安を抱える彼女を支えたのも澄江だった。
その澄江の娘、高峰澪奈・四十九歳も産婦人科医だ。
現在は高峰レディースクリニックの院長を務め、周産期医療、高年妊娠、双胎妊娠にも多く携わってきた。
昨夜、璟瑶から頼まれていた。
『日本へ戻ったら、お母さんが本当に信頼できる病院で診てもらいたい』
『でも、私が頭取だということで、余計な人に知られたくない』
『創との関係も、妊娠の可能性も、必要な人以外には広げたくない』
美智子は一度深く息を吸い、発信ボタンを押した。
日本は午前六時五十八分。
数回の呼び出し音のあと、懐かしい声が聞こえた。
『はい』
「澄江先生?」
『……美智子さん?』
「ご無沙汰しています。朝早くに申し訳ありません」
『いいのよ。あなたがこんな時間に電話してくるなんて、何かあったの?』
「娘のことで」
『璟瑶ちゃん?』
「はい」
四十五歳になり、日本有数の銀行で頭取を務める璟瑶。
それでも澄江にとっては、今も「璟瑶ちゃん」だった。
「先生。これから話すことは、誰にも言わないでいただけますか」
『もちろん。医師を引退しても、人の秘密を話すようにはならないわよ』
「ありがとうございます」
美智子は意を決して伝える。
「璟瑶が、妊娠している可能性があります」
『……璟瑶ちゃんが?』
「中国の市販検査薬で陽性。その後、重慶市内の病院でも妊娠反応が陽性でした。ただ、まだごく初期です」
澄江の声が、すぐに医師のものへ変わった。
『最後の月経は?』
「本人が把握しています」
『出血や強い腹痛は?』
「ありません。軽い吐き気と、強い眠気、だるさがあります」
『分かった』
「今日、日本へ戻ります。帰国後、もう一度診てもらいたいんです」
『それがいいわね』
「先生はもう、診察されていないですよね」
『とっくに引退したわよ。七十九歳で現役を続けたら、娘に怒られるわ』
美智子が少し笑う。
「澪奈先生は、今も院長ですよね?」
『ええ。四十九歳。すっかり私以上に働く医者になったわ』
「澪奈先生に診ていただけませんか」
『……』
「通常の患者として、正式に受診します。ただ、璟瑶が青嶺中央銀行の頭取だということで、情報が院内に必要以上に広がらないようお願いしたいんです」
『当然でしょう』
「それから、付き添いの男性がいます」
『お相手?』
「はい。その関係についても、診療に必要な人以外には知られないようにしてほしいんです」
『分かった。ただし、璟瑶ちゃん本人も了承しているのね?』
「昨夜、本人から頼まれました」
『なら、私から澪奈に連絡する』
「ありがとうございます」
『でも、診察も検査も記録も、通常の医療としてきちんと行う。特別扱いで検査を飛ばしたり、結果を変えたりはしないわよ』
「もちろんです」
『配慮するのは、個人情報を必要以上に広げないこと。それだけ』
「はい」
美智子は安堵の息を吐いた。
「先生。昔、私が璟瑶を妊娠した時、毎回同じことを聞きましたよね」
『赤ちゃんは大丈夫ですか、って』
「はい」
『今度は、娘さんが同じ不安を抱えているのね』
「……はい」
『分かった。澪奈に頼んでおく』
「ありがとうございます」
『期待しすぎない。でも、怖がりすぎない。まだ最初なのだから、一つずつ確認すればいい。璟瑶ちゃんにも、そう伝えて』
「分かりました」
通話を終えた美智子は、スマートフォンを胸元に置いた。
「不思議ね……」
四十五年前、自分を支えた医師。
今度は、その医師の娘が、自分の娘を支えようとしている。
◇◇◇
日本時間、午前七時十二分。
高峰澄江は、娘へ電話をかけた。
『お母さん? こんな朝からどうしたの』
「澪奈。紹介したい患者さんがいるの」
『引退してから、ほとんど患者紹介なんてしていなかったでしょう』
「だから、大事な人なの」
『誰?』
「昔、私が診た患者さんの娘。四十五歳で、妊娠の可能性がかなり高い。中国で妊娠反応が陽性。ただし、まだごく初期」
『分かった』
「それと、この患者さんは立場のある人だから、院内の情報管理を徹底して」
『職業に関係なく、全患者についてそうするものよ』
「知ってる。でも、名前を見ただけで気づく人がいるかもしれない」
『そこまで知られている人なの?』
「青嶺中央銀行頭取、欧陽璟瑶さん」
『……え?』
「驚くのは今だけにして」
『分かった』
「付き添いの男性が来る可能性も高い」
『夫?』
「必要なら本人へ聞いて。詮索はしないで」
『しない。診療上必要な範囲に担当者を絞って対応する。本人から連絡をもらえれば予約を調整するわ』
「ありがとう」
『その人のお母さんが、昔の患者さん?』
「桜井美智子さん」
『ああ……名前は何度か聞いたことがある』
「その娘さんよ。お願いね」
『任せて』
◇◇◇
午前七時四十分。
璟瑶が居間へ入ってきた。
「お母さん、おはよう」
「おはよう」
「電話してた?」
「うん」
「日本の病院?」
「そう」
少し遅れて、創も入ってくる。
「おはようございます」
「おはよう、創さん」
「どうだった?」
美智子は二人へ説明した。
「昔、私を診てくださった高峰澄江先生に連絡したの。先生はもう引退されているけれど、娘の高峰澪奈先生が高峰レディースクリニックの院長をしている」
「澪奈先生に診てもらえるの?」
「本人から正式に予約することが前提よ。特別扱いではなく、通常の患者として受診する。ただ、情報が必要以上に広がらないようお願いしておいた」
璟瑶の表情が少し和らぐ。
「ありがとう」
「美智子さんが璟瑶を妊娠していた時、澄江先生に診てもらったんですか?」
「そうよ」
「今度は、その先生の娘さんが璟瑶を診る……親子同士、二世代ですね」
「不思議でしょう?」
「うん」
璟瑶も小さく笑った。
「日本へ戻ったら、必ず受診しなさい」
「分かってる」
「仕事を先にしない」
「……分かった」
「今、間があった」
「気のせい」
「創さん、監視をお願いします」
「任せてください」
「創!」
笑いが生まれる。
だが、誰も現状を軽く考えてはいない。
妊娠反応は陽性。
しかし、まだごく初期。
慎重な確認が必要だった。
◇◇◇
午前九時十分。
朝食には白粥、蒸し野菜、卵、果物が並んだ。
香りの強い料理はない。
「今日は食べられそう?」
「うん。大丈夫」
「よかった」
崇岳が食卓を見回す。
「辛いものがないな」
「今日はこれでいいの」
「そうか」
「璟瑶、帰国便は何時だ」
「午後。昼前には空港へ向かう」
「宮嶋君」
「はい」
「食後、少し庭へ付き合え」
「分かりました」
「お父さん、面接しないでよ」
「今日は銀行の話はしない」
「本当に?」
「しない」
創は少しだけ安心した。
◇◇◇
午前九時五十分。
創と崇岳は、湿り気を含む重慶の朝の庭を歩いていた。
「宮嶋君」
「はい」
「昨日聞いたことが、まだ現実のように思えない」
「俺もです」
「君もか?」
「妊娠反応が陽性と聞いても、本当にいるのかはまだ分からない。でも可能性は高い。その間にいるような感じです」
「そうか」
二人はしばらく黙って歩いた。
やがて崇岳が立ち止まり、創を見る。
「私は、まだ君を完全に知っているわけではない。顔を合わせて数日だからな」
「はい」
「だが、一つ頼みたい」
「……はい」
「娘を頼む」
創は目を見開いた。
これまで銀行や将来について鋭く問い続けてきた元頭取。
今ここにいるのは、ただ娘を心配する父親だった。
「はい。必ず大切にします」
「大切にするだけでは足りない時もある」
「はい」
「必要なら止めろ。無理をしているなら休ませろ。あれは昔から、何でも一人で決めようとする娘だ」
「知っています」
「もう分かったのか」
「かなり」
崇岳が初めて少し笑った。
「そうか。なら、頼む」
「はい」
創は深く頭を下げた。
◇◇◇
午前十一時十五分。
帰国の準備を終えた二人のキャリーケースが、玄関に並んでいた。
美智子は娘を抱きしめる。
「また帰ってきなさい」
「うん」
「今度は、もう少しゆっくり」
「そうしたい」
美智子は娘の耳元で念を押す。
「日本へ戻ったら必ず診てもらうこと。一人で抱え込まないこと。創さんに頼ること。必要なら私にも電話すること」
「全部分かった」
「本当に?」
「本当に」
「俺も見ています」
「お願いします」
「お母さんと創、最近すぐ協力する」
「いいことじゃない」
笑った美智子の目に、少し涙が浮かんでいた。
創は両親へ深く頭を下げる。
「崇岳さん、美智子さん。本当にありがとうございました」
「また来てね」
「はい」
「宮嶋君」
「はい」
「庭で話したことを忘れるな」
「はい」
「娘を頼む」
「必ず」
璟瑶の瞳も潤む。
「お父さん。私、自分で日本へ帰れるから」
「知っている」
「なら、創に頼まなくても」
「父親として言いたかった」
「……ありがとう」
二人を乗せた車が、ゆっくりと門を離れる。
美智子と崇岳は、姿が見えなくなるまで玄関前で見送っていた。
◇◇◇
重慶江北国際空港。
午後一時二十分。
「頭取、お疲れさまです」
第二秘書・水城絢乃が待っていた。
「お疲れさま」
「宮嶋さんも、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
ここから二人は、再び頭取と若手行員の距離へ戻る。
水城は、二人が恋人であることを知る唯一の銀行関係者。
しかし、妊娠の可能性までは知らない。
把握しているのは、頭取が体調を崩していることだけだった。
「頭取、体調はいかがですか?」
「昨日より少し良いです」
「本当ですか?」
「本当」
水城は創を見る。
「宮嶋さん。客観的に見て、いかがですか?」
「どうして創に聞くの?」
「秘書として客観情報が必要です」
「昨日よりは少し良いと思います。ただ、眠気はまだあります」
「創!」
「承知しました。帰国便では、できるだけお休みください」
「……分かった」
「東京到着後も、明日は休暇を維持しています。通常業務は入れていません」
「ありがとう」
「宮嶋さんは、明日から通常勤務ですね」
「はい。法人営業第一部へ出勤します」
「承知しました」
頭取は休む。
行員は通常勤務へ戻る。
恋人同士であっても、同じ扱いにはしない。
水城は、その線引きを守った。
◇◇◇
帰国便。
業務出張は終わっているが、水城も同じ便に乗っている。
露骨に隣同士へ座ることはない。
ただ、水城は事情を知った上で、わずかに配慮していた。
窓側に璟瑶。
一席空け、通路側に創。
水城は少し後方の席に座る。
飛行機が離陸し、重慶の街が小さくなっていく。
「帰っちゃうね」
璟瑶が小声で言う。
「また来よう」
「うん。今度はもっとゆっくり」
「そうしよう」
数分後、璟瑶は目を閉じた。
「寝ていいよ」
「まだ離陸して二十分くらい」
「眠いんでしょう?」
「……うん」
「なら寝て」
シートを少し倒した璟瑶が、創を見る。
「日本へ戻ったら、病院へ一緒に来て」
「もちろん」
「仕事、休める?」
「必要なら普通に有給か半休を申請する。だから頭取権限は使わないで」
「使わない」
「絶対?」
「絶対」
「おやすみ」
「おやすみ」
璟瑶はすぐに眠った。
一時間。
二時間。
途中で一度水を飲み、再び眠る。
創は、その寝顔を静かに見ていた。
四十五歳。
青嶺中央銀行頭取。
仕事では誰より強く、冷静な女性。
今はただ、疲れて眠る恋人。
そして、もしかすると母親になる人。
創の視線が、璟瑶のお腹へ移る。
見た目には、まだ何の変化もない。
「本当にいるのかな……」
小さく呟く。
創も璟瑶も、そこに一つの命が宿っているかもしれないと思っている。
美智子も崇岳も同じだ。
誰にも、まだ確かなことは分からない。
そして誰も知らない。
その身体の中で、ごく小さな二つの命が育ち始めていることを。
将来、男の子と女の子になる命。
まだ名前もなく、性別も分からず、心拍も確認できない。
創と璟瑶は、双子という可能性さえ考えていない。
それでも二人はすでに、四人になる未来へ向かって少しずつ進んでいた。
◇◇◇
同じ頃。
重慶の欧陽家。
「帰ったな」
「うん」
見送りを終えた崇岳と美智子が、静かな居間へ戻る。
「寂しいか」
「少し。あなたは?」
「……少し」
美智子が笑う。
「創さん、どうだった?」
「若い」
「それは分かってる」
「かなり若い」
「それも知ってる。でも?」
崇岳は少し考える。
「悪くない」
「それ、かなり評価してるでしょう?」
「そうでもない」
「銀行員としては?」
「経験は足りない。だが、自分で考える力はある。分からないことを分からないと言える。それは若いうちほど大事だ」
「父親としては?」
崇岳は、しばらく黙った。
「娘を大切にしていることは分かった」
「それなら今は十分ね」
「ああ」
美智子はスマートフォンに残る高峰澄江との通話履歴を見る。
「日本でも、きちんと診てもらえるわ」
「誰に?」
「私が璟瑶を妊娠した時に診てもらった高峰先生。その娘さんが、今は産婦人科医をしているの」
「高峰先生か。名前は覚えている」
「今度は、その娘さんに璟瑶を診てもらう」
「そうか」
崇岳の表情が少し和らいだ。
「それなら、日本へ戻ってからも任せられるな」
「うん」
◇◇◇
帰国便。
数時間後。
「……ん」
「起きた?」
「うん。どのくらい寝てた?」
「二時間以上」
「また? 私、こんなに寝る人じゃないのに」
「今は寝た方がいいんだと思う」
璟瑶は創を見る。
「日本でもう一度診てもらうの、怖い?」
「怖い」
「もし違っていたら、って?」
「それも。もし本当に妊娠していても、それも怖い。どちらでも人生が変わるから」
「私も」
「でも、逃げない」
「うん。一緒に聞こう」
「うん」
少しの沈黙。
「創」
「何?」
「本当に赤ちゃんがいたら、三人になるんだね」
創は穏やかに笑った。
「そうだね」
だが、二人はまだ知らない。
三人ではない可能性があることを。
この帰国便に乗っているのは、水城、創、璟瑶。
そして誰にも見えない、二つの小さな命。
未来の男の子と女の子。
まだ誰にも知られていない双子だった。
◇◇◇
日本到着。
夜の空港。
「頭取、車両を用意しています」
「ありがとう」
「宮嶋さん、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
完全に仕事上の距離へ戻る。
「頭取、中国出張ではありがとうございました」
「宮嶋さん、お疲れさまでした。明日から通常勤務をお願いします」
「はい」
水城は隣で二人を見ていた。
恋人同士だと知っている。
それでも表には一切出さない。
それが二人の選んだ関係だった。
空港の出口で別れ、創は電車で自宅へ。
璟瑶は秘書車両で自宅へ戻る。
今夜は一緒に泊まらず、それぞれ身体を休める。
翌日。
創は法人営業第一部へ通常出勤。
璟瑶は休暇を継続し、高峰レディースクリニックへ正式に予約を入れる。
重慶を出発した二人は、まだ思っている。
『三人になるかもしれない』
しかし、その先には四人家族になる未来が待っていた。
璟瑶の身体の中で、二つの小さな命が静かに育ち始めている。
その事実が明らかになる時は、少しずつ近づいていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、重慶家族紹介編を終えた二人が日本へ帰る回となりました。
美智子は、かつて自分を支えてくれた高峰澄江へ連絡。
今度はその娘・高峰澪奈が、璟瑶の日本での診察を担当することになります。
そして崇岳から創へ伝えられた、
「娘を頼む」
という一言。
元頭取ではなく、一人の父親として創を少しずつ認め始めた証でもあります。
帰国便では、長い眠りにつく璟瑶。
創も璟瑶も、まだ「三人になるかもしれない」と考えています。
しかし実際には――。
まだ誰にも見えない二つの小さな命が、静かに育ち始めています。
将来、男の子と女の子になる双子。
次回、第52話。
創は通常勤務へ。
璟瑶は休暇を取り、日本での再診と新しい生活について考え始めます。




