第50話「もしかして、私たちの子ども――重慶で知った新しい可能性」
第50話です。
眠気、だるさ、軽い吐き気。
そして、生理予定日の遅れ。
美智子の勧めで、璟瑶はついに妊娠の可能性を確かめることになります。
市販の検査薬では陽性。
さらに重慶市内の医療機関でも妊娠反応は陽性となります。
ただし、まだごく初期。
喜びだけでなく、不安も大きい時期です。
四十五歳の璟瑶。
二十一歳の創。
そして、まだ確かな未来とは言い切れない小さな可能性。
「子どもがいても、いなくても、結婚したい気持ちは変わってない」
創はそう伝え、二人でこの先に向き合うことを決めます。
一方、日本では璟瑶不在の青嶺中央銀行も通常通り動き続けています。
中国・重慶。
欧陽家。
午前六時五十三分。
「……また眠い」
欧陽璟瑶・四十五歳は、昨夜かなり早く眠った。
それなのに身体は重く、布団から起き上がるだけでも時間がかかった。
「……うっ」
胃の奥に、軽いむかつきがある。
強い吐き気ではない。
それでも、明らかにいつもの朝とは違った。
昨夜、母・美智子から尋ねられた言葉が蘇る。
『最近、生理は?』
璟瑶はスマートフォンのカレンダーを開き、もう一度日付を数えた。
「……やっぱり遅れてる」
普段は大きく乱れない周期が、今回は数日遅れている。
「まさか……」
嬉しい。
けれど、怖い。
四十五歳。
もし本当に妊娠しているなら、単純に喜ぶだけではいられない。
自分の身体。
仕事。
今後の生活。
そして、無事に育ってくれるのか。
璟瑶は自分のお腹へ、そっと手を当てた。
「……いるの?」
まだ何も分からない。
返事があるはずもない。
それでも、問いかけずにはいられなかった。
◇◇◇
午前七時十三分。
廊下へ出ると、宮嶋創・二十一歳がすでに起きていた。
「おはよう」
「おはよう。……また顔色が悪い」
「そう?」
「気持ち悪い?」
「少し。朝は昨日より強いかも」
創の表情がすぐに曇る。
「美智子さんを呼ぶ?」
「そこまでじゃない。でも、今日……確認しようと思う」
創には、その意味がすぐに分かった。
「検査?」
「うん」
一瞬、二人とも息を止める。
「怖い?」
「すごく」
「俺も」
「でも、このままずっと考えている方が、もっと怖い」
「うん。確認しよう」
そこへ美智子が台所から出てきた。
「二人とも起きていたのね」
「おはようございます」
「璟瑶、また気分が悪い?」
「少し」
「では、朝は無理に食べない。それから今日、確認しましょう」
「私も、そう思ってた」
「最初に市販の検査薬を使う。その結果にかかわらず、必要なら病院で相談しましょう」
「時期が早くても分かるんですか?」
創の問いに、美智子は慎重に答える。
「早ければ、検査薬だけで全てを決めない方がいいわ。陽性なら医療機関へ。陰性でも時期によっては後日再確認する。それくらい慎重でいいの」
「病院は分かる?」
「昔から知っている総合病院があるわ。産婦人科もあって、日本語対応も相談できる」
「俺も一緒に行きます」
「もちろん」
「崇岳には?」
三人が少し黙る。
「まだ言わない」
璟瑶が答えた。
「何も分からないうちに話しても、余計に心配させるだけだから」
「俺も、それがいいと思います」
◇◇◇
午前七時四十八分。
父・欧陽崇岳を含む四人で朝食を囲む。
「璟瑶、今日はどうだ」
「まだ少しだるい」
「なら寝ろ」
「朝から?」
「休暇だろう。休むための休暇だ」
「珍しく正しいことを言うわね」
「珍しくは余計だ」
創が小さく笑う。
「宮嶋君」
「はい」
「今日は璟瑶へ無理をさせるな」
「分かりました」
「私は子どもじゃない」
「知っている。だが、父親から見れば娘だ」
「私と同じことを言ったわね」
「夫婦だからな」
「そういう時だけ」
璟瑶も少し笑った。
しかし、食べられたのは香りの弱い白粥を少しだけ。
食欲は、普段の半分ほどしかなかった。
◇◇◇
午前八時三十五分。
崇岳が書斎へ入った直後、美智子が静かに声をかける。
「今、やりましょうか」
「……うん」
美智子は前日、念のため市販の妊娠検査薬を準備していた。
「お母さん、準備が早すぎない?」
「昨日、あなたたちの顔を見たから」
創の顔が赤くなる。
「何の顔ですか」
「分かるでしょう?」
「お母さん。今はそこへ触れないで」
「はいはい」
検査を終え、結果を待つ。
ほんの数分が、ひどく長く感じられた。
創は何度も時計を見る。
「創、手を握ってもいい?」
「もちろん」
指を絡める。
璟瑶の手は冷たく、わずかに震えていた。
「怖い?」
「怖い。創は?」
「心臓がすごい」
「聞こえそう」
「多分、聞こえてる」
やがて美智子が時計を確認した。
「そろそろ見てもいいわ」
璟瑶は動けない。
「私、見られない」
「一緒に見よう」
「……うん」
三人で結果を確認する。
一秒。
二秒。
現れた表示を見て、璟瑶の息が止まった。
創も目を見開く。
「……陽性ね」
美智子が静かに告げる。
「本当に?」
「反応が出てる」
「それって、妊娠してるって……」
「可能性は高いわ。でも、これだけで全て確定ではない。時期もかなり早い可能性があるから、病院へ行きましょう」
「……陽性」
璟瑶は、その言葉を確かめるように繰り返した。
「創。陽性だって……」
「うん」
「私、もしかして……」
創が手を強く握る。
「まだ決めつけない。でも、可能性はある」
「うん」
璟瑶の目が潤む。
美智子は娘の肩をそっと抱いた。
「まずは病院で確認しましょう」
「うん」
◇◇◇
同じ頃。
日本・東京。
青嶺中央銀行本店、四十階。
午前九時十五分。
私用休暇中の頭取に代わり、副頭取・久世宗一郎が重役会議の議長を務めていた。
「まず、中国出張の事後整理から」
国際部門担当の陳高明が報告する。
「上海、深圳の予定案件は全て終了しています。現時点で頭取判断が必要な案件はありません。個別案件は各部門の通常決裁で処理できます」
「それで進めてください。頭取は休暇中です。通常案件を上げないように」
「承知しました」
御子柴泰成専務が尋ねる。
「若手同行者、宮嶋君の報告書は?」
「一次版が届いています。地域銀行、青嶺、海外拠点の役割分担がよく整理されています」
「個人評価を頭取へ上げる必要はありません。通常ラインで処理してください」
「承知しました」
第二秘書・水城絢乃は、静かに聞いていた。
この場で唯一、頭取と宮嶋が私生活では恋人だと知っている。
それでも、話す必要はない。
次の議題は東央精密製作所。
さらにデジタル融資システム。
頭取が不在でも、銀行は通常どおり動いていく。
それが健全な組織の姿だった。
最後に、水城が頭取の体調を報告する。
「現在、出張疲労を含む体調不良のため休養中です。緊急性のある症状は報告されていません」
「帰国予定は?」
「現時点で変更ありません」
「では休ませましょう。通常案件について、各役員から頭取へ直接連絡しないように」
「ありがとうございます」
水城が共有したのは、業務に必要な情報だけだった。
◇◇◇
重慶市内。
午前十時十二分。
美智子、璟瑶、創の三人は、総合病院へ向かう車に乗っていた。
崇岳には「体調確認のため病院へ行く」とだけ伝えた。
同行しようとしたが、美智子が止めた。
「まず私が行く。何か分かったら話すから」
崇岳は不満そうだったが、家に残った。
車内。
璟瑶の手は、まだ震えている。
創がその手を握った。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「うん。俺も怖い」
美智子は前の席から、あえて振り返らなかった。
二人だけで話せる時間を与えるために。
「創。私、四十五歳だよ」
「うん」
「妊娠していたら本当に嬉しい。でも、ちゃんと産めるのか、身体は大丈夫なのか、赤ちゃんは無事なのか……仕事や頭取をどうするのかも分からない」
創はすぐに答えず、言葉を選んだ。
「子どもがいても、いなくても、璟瑶と結婚したい気持ちは変わらない」
「……」
「でも、本当に俺たちの子どもなら、一緒に向き合いたい。俺一人で全部解決することはできない。でも、璟瑶一人にも背負わせたくない」
「創は二十一歳だよ?」
「知ってる」
「私は四十五」
「知ってる」
「二十四歳差」
「計算できる」
璟瑶が一瞬止まり、少し笑った。
「それ、私が告白した時に言った」
「覚えてる」
『二十四歳差ですよ?』
『計算できるわ』
創がまだ彼女の正体を知らなかった頃。
全ては、そこから始まった。
「だから今度は俺が言う。四十五歳でも、頭取でも、中国人でも関係ない。欧陽璟瑶だから一緒にいたい」
璟瑶の目から涙が一粒落ちた。
「……ばか」
「何で?」
「今、泣かせないで」
「ごめん」
前の席で、美智子が小さく笑った。
◇◇◇
午前十時四十五分。
重慶市内の総合医療機関。
産婦人科で、年齢、最終月経、症状、市販検査薬の結果を伝える。
日本語対応のスタッフも同席した。
担当医は、落ち着いた声で説明する。
「まず検査を行います。ただし、かなり早い時期の可能性がありますので、今日すべてを確認できるとは限りません」
「分かりました」
「市販検査薬が陽性で、月経も遅れています。妊娠の可能性はあります。検査後、必要に応じて再診しましょう」
「はい」
待つ間も、創は璟瑶の手を握り続けた。
「震えが止まらない」
「俺も」
「もし違ったら、その時は抱きしめて」
「うん」
「もし本当だったら、その時も」
「もちろん」
やがて医師が戻ってきた。
「欧陽さん。今回の検査でも、妊娠反応は陽性です」
「……」
璟瑶の息が止まり、創の手に力が入る。
「ただし、ごく初期です。現時点では、超音波で妊娠の状態をはっきり確認できない可能性があります」
「では……」
「現時点では『妊娠反応陽性のごく初期』と考えてください。妊娠している可能性は高いですが、今後の経過確認が大切です」
「……はい」
「年齢のこともあります。無理をせず、帰国後も継続して診察を受けてください。また、強い腹痛や大量の出血、急な体調悪化があれば、すぐに医療機関へ相談してください」
「分かりました」
「今は、無理に普段どおり動こうとせず、十分に休んでください」
診察室を出たあと、三人は廊下の椅子へ座った。
すぐには誰も話せない。
「可能性、高いって」
「うん」
「でも、まだごく初期で、何があるか分からない」
「うん」
創は腕を広げた。
「おいで」
璟瑶が、その胸へ顔を埋める。
「怖い」
「うん」
「嬉しい」
「うん」
「どうしよう……」
「一緒に考える。俺たち二人で。必要なら、家族にも先生にも頼る。一人で全部決めなくていい」
美智子も立ち上がり、二人をそっと抱いた。
「お母さん……」
「よかったね。でも、まだ慎重に」
「うん」
「大切なのは、赤ちゃんかもしれない命だけではない。あなたの身体も同じくらい大切にするのよ」
「分かった」
◇◇◇
午後一時四十八分。
欧陽家へ帰ると、崇岳が玄関で待っていた。
「どうだった」
三人が止まる。
「お父さん。話がある」
居間へ移動し、四人で座る。
「病気か」
「違う」
「では何だ」
璟瑶の手が震える。
隣の創が、その手を握った。
「私……妊娠している可能性が、かなり高い」
「……」
崇岳が完全に停止する。
二十一歳の恋人を紹介された時以上に、動かない。
「今日、病院へ行った。妊娠反応は陽性。でも、まだごく初期だから、経過を見ないと分からない」
「身体は大丈夫なのか」
崇岳が最初に尋ねたのは、そこだった。
「今は強い異常はない。眠気、だるさ、軽い吐き気くらい。先生からは、無理をせずに経過を確認するよう言われた」
「仕事はどうする」
「まだ決めてない。帰国後、日本でも受診してから考える」
「それでいい」
「銀行をどうするか、聞かないの?」
「今はそんなこと、どうでもいい」
璟瑶が目を見開く。
崇岳は生涯を銀行に捧げてきた元頭取だ。
「頭取は誰かが代われる。仕事は誰かが引き継げる。だが、お前の身体はお前にしか守れない」
「……」
「その中に新しい命があるなら、なおさらだ」
璟瑶の目から涙が落ちる。
「頭取だからと無理をするな。銀行のために身体を使い潰す必要はない。私も昔、それをもっと早く理解すべきだった」
美智子も、少し驚いたように夫を見る。
「今は元頭取としてではなく、父親として言っている。まず身体だ。それ以外は後でいい」
「……うん」
崇岳は創へ向き直った。
「宮嶋君。君は二十一歳だったな」
「はい」
「怖いか」
「怖いです」
「逃げるか」
「逃げません」
創はまっすぐ答える。
「子どもがいても、いなくても、璟瑶さんと結婚したい気持ちは変わりません。でも本当に俺たちの子どもなら、一緒に向き合いたいです」
「……」
「俺には分からないことがたくさんあります。だから調べます。聞きます。人にも頼ります。それでも、璟瑶さんの隣にいたいです」
崇岳は長い間、創を見つめた。
「そうか」
「はい」
「なら、まず娘を休ませろ。仕事をさせるな」
「はい」
「私、頭取なんだけど」
「知っている。だから何だ。頭取でも人間だ」
「今日は仕事禁止」
「創まで」
「私も賛成」
「三対一……」
璟瑶は泣きながら笑った。
美智子が娘を抱きしめる。
「璟瑶。おめでとうと言うには、まだ早いかしら」
「……」
「でも、新しい可能性を知れたことには、言ってもいいと思う」
「うん」
「おめでとう。そして、ゆっくり確認していきましょう」
「……うん」
母と娘が抱き合う。
創も目を潤ませていた。
崇岳は、少しだけ顔を逸らしている。
「お父さん、泣いてる?」
「泣いてない」
「目が赤い」
「年齢だ」
「それ、便利ね」
◇◇◇
午後三時十五分。
璟瑶は水城へ連絡した。
『はい、頭取』
「病院へ行ってきました」
『お身体は?』
「現時点で緊急性はありません。ただ、しばらく無理をしない方がいいと言われました。帰国後、日本でも受診します」
『承知しました。では、本店側の予定をさらに軽くします』
「お願いします」
水城は、それ以上聞かなかった。
妊娠の可能性は伝えない。
現時点で秘書業務に必要なのは、頭取が体調不良で休養を要することだけだ。
『宮嶋さんは近くにいらっしゃいますか?』
「いる」
『では、宮嶋さんへ一言。頭取を本当に休ませてください』
「任せてください」
「勝手に答えない!」
『ふふっ』
「水城さんまで……」
『失礼しました』
通話を終えたあと、四人は秘密を共有する範囲を改めて確認した。
妊娠の可能性を詳しく知るのは、創、璟瑶、崇岳、美智子の四人だけ。
水城が知るのは、二人が恋人であることと、璟瑶が体調を崩していることまで。
久世副頭取も、劉川も、人事も知らない。
黒瀬と琴葉も知らない。
親戚にも、まだ話さない。
「お父さん。親戚には言わないで」
「言わない。本人たちの確認が終わっていない段階で、外へ広げる必要はない」
「ありがとう」
「私も日本にいる妹たちには言わないわ」
美智子も約束する。
創が少し迷って尋ねた。
「俺の両親にも、まだ言わない方がいい?」
「もう少し待ってもらっていい?」
「もちろん」
「日本でもう一度診てもらってから、一緒に話したい」
「うん。そうしよう」
◇◇◇
夕方。
重慶の街に、少しずつ明かりが灯り始める。
長江。
嘉陵江。
橋、高層ビル、坂道が重なる立体的な都市。
創は窓の向こうを見ながら呟いた。
「数日前、初めてここへ来た時は、璟瑶のお父さんとお母さんに紹介されることしか考えてなかった」
「私も」
「それが今、もしかしたら三人で日本へ帰るのかなって思ってる」
璟瑶は、そっと自分のお腹に触れた。
「まだ、いるとは完全に確認できていない」
「うん」
「でも、可能性は高い」
「うん」
創は隣へ座る。
「璟瑶。もう一度言ってもいい?」
「何を?」
「子どもがいても、いなくても、俺は璟瑶と結婚したい」
「うん」
「でも本当に俺たちの子どもなら、三人で家族になりたい」
璟瑶は創の肩へ寄りかかった。
「私も」
「うん」
「創。怖い」
「うん」
「でも、嬉しい。すごく嬉しい」
創は璟瑶の手を握った。
この旅が始まった理由は一つだった。
璟瑶の故郷・重慶で、創を父と母へ恋人として紹介すること。
しかし今、その意味は変わり始めている。
恋人を家族へ紹介する旅から。
二人の間に、新しい家族が生まれるかもしれない旅へ。
欧陽璟瑶、四十五歳。
宮嶋創、二十一歳。
二十四歳差。
頭取と若手行員。
誰にも言えない関係は、これからも続く。
妊娠反応は陽性。
ただし、まだごく初期。
この先何が起きるのかは、誰にも分からない。
それでも二人は、一緒に向き合うと決めた。
重慶家族紹介編は、ここで一つの区切りを迎える。
次に待っているのは、日本への帰国。
青嶺中央銀行での通常業務。
守るべき秘密。
そして、慎重に見守っていく新しい可能性。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、重慶家族紹介編の大きな節目となりました。
検査薬、そして医療機関で確認された妊娠反応陽性。
ただし、まだごく初期のため、これから慎重に経過を確認していく必要があります。
そんな中、崇岳が口にしたのは元頭取としての言葉ではありませんでした。
「まず、お前の身体だ」
銀行よりも、仕事よりも、娘の身体を優先する父親としての言葉です。
そして美智子も、娘をそっと抱きしめました。
現時点で詳しい事情を知っているのは、創、璟瑶、崇岳、美智子だけ。
水城は二人が恋人であることと、璟瑶が体調不良であることだけを知っています。
親戚や銀行の他の関係者には、まだ伝えません。
恋人を両親へ紹介するために始まった重慶への旅。
それは最後に、
「二人に新しい家族が生まれるかもしれない旅」
へと変わりました。
次回、第51話。
舞台は再び日本へ。
帰国後、二人は青嶺中央銀行での日常と、この新しい可能性をどう両立させていくのか――新たな章が始まります。




