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第49話「いつもの私じゃない――眠気、だるさ、そして大好きだった匂いがつらい」


第49話です。


重慶で迎えた翌朝。


璟瑶の眠気とだるさは、昨日よりも明らかに強くなっていました。


さらに。


大好きだったはずの重慶料理。


油や香辛料の匂いを嗅いだだけで、軽く気分が悪くなってしまいます。


そんな娘の変化に、真っ先に気づいたのは母・美智子でした。


「璟瑶、最近……生理は?」


その一言で、璟瑶も創も完全に停止。


二人が思い出したのは、宮嶋家への家族紹介を終えた、あの夜でした。


まだ何も決まっていません。


ただ、可能性を完全には否定できない。


四十五歳の璟瑶にとって、そこには大きな期待と、同じくらい大きな不安がありました。



 中国・重慶。


 欧陽家。


 翌朝、午前七時十一分。


「……朝?」


 欧陽璟瑶・四十五歳は、差し込む光の中で目を開けた。


 時計は七時を過ぎている。


 普段なら、もう身支度を終え、その日の予定を確認している時間だ。


 しかし、身体が重い。


 布団から出なければと思うのに、動きたくない。


「何、これ……」


 昨夜は早く寝た。


 昨日は昼寝までした。


 それでも目は重く、身体に鉛が入ったようだった。


「出張疲れ……?」


 上海、深圳。


 五日間にわたる会議、移動、企業訪問、金融機関との協議。


 確かに予定は詰まっていた。


 だが、これまでにも厳しい海外出張は経験している。


 こんなに強い眠気が続いたことがあっただろうか。


 そう考えているうちに、璟瑶は再び目を閉じた。


◇◇◇


 午前七時三十四分。


「璟瑶、朝よ」


「……うん」


 母・欧陽美智子に起こされ、璟瑶はようやく身体を起こした。


「顔色が少し悪くない?」


「寝起きだから」


「昨日も一日中眠そうだったでしょう」


「出張疲れよ」


 昨日から、同じ答えばかりだった。


 美智子は娘の額に手を当てる。


「熱はなさそう。でも、元気でもないわね」


「四十五歳の娘に、朝からそんなことしなくても」


「娘は娘よ」


「……起きる」


「無理しないで」


「大丈夫」


「その言葉、昨日から聞き飽きたわ」


 午前七時五十分。


 食卓には、すでに宮嶋創・二十一歳が座っていた。


「おはよう」


「おはよう。……眠そう」


「第一声がそれ?」


「目、半分閉じてる」


「閉じてない」


「閉じてる」


「昨日、水城さんに睡眠時間を全部報告した罰を与える」


「何、その罰」


 創は笑ったが、すぐに真剣な顔へ戻る。


「本当に大丈夫? だるい?」


「少し」


「昨日より?」


「……少しだけ」


「やっぱり」


「寝れば治ると思う」


 そこへ美智子が朝食を運んできた。


「今日は創さんに合わせて、辛さをかなり控えたわよ」


「ありがとうございます」


 温かな料理から、油、花椒、ニンニク、香辛料の匂いが立ち上る。


 いつもなら、璟瑶が好む香りだった。


「……っ」


 突然、璟瑶が口元を押さえた。


「璟瑶?」


 創がすぐに立つ。


「どうした?」


「匂い……今日、強くない?」


 美智子の動きが止まる。


「昨日も同じことを言っていたわね」


「でも、今日はもっと……」


 璟瑶の顔がわずかに青い。


「気持ち悪い?」


「軽く。吐きそうなほどじゃないけど」


「なら食べない方がいい」


 美智子も香辛料の強い皿をすぐに遠ざけた。


「今日は白粥にしましょう」


「お母さん、そこまでしなくても」


「いいから」


 白粥と卵、香りの弱い副菜が並ぶ。


 璟瑶が一口食べた。


「これは大丈夫」


「そう」


 美智子は座らず、しばらく娘を見つめていた。


 強い眠気。


 身体のだるさ。


 食欲の変化。


 今まで好きだった香辛料の匂いへの嫌悪感。


 昨日から浮かんでいる可能性がある。


 しかし、症状だけで判断はできない。


 出張疲れや胃腸の不調、環境の変化でも説明できる。


 娘は四十五歳。


 不用意に期待や不安を抱かせたくはない。


 それでも、一つ確認しなければ先へ進めない。


「璟瑶」


「何?」


「少し個人的なことを聞いてもいい?」


「何?」


「嫌なら、すぐに答えなくていいわ。ただ、体調のことだから確認したいの」


 美智子は言葉を選び、静かに尋ねた。


「最近、生理は?」


「……」


 時間が止まった。


 璟瑶の箸が完全に止まり、創も動けなくなる。


「お母さん。どうして急に……」


「急ではないの。昨日から気になっていた」


 美智子は症状を一つずつ挙げる。


「朝起きても、また眠る。昨日は朝も昼も寝て、夜も早く休んだ。今日も起きるのがつらかった。身体もだるい。昨日は好きな香辛料を重いと言って、今朝は匂いだけで気分が悪くなった」


「でも、それだけでそういうこととは限らないでしょう」


「もちろんよ」


 美智子は即答した。


「症状だけで妊娠とは決められない。出張疲れ、睡眠不足、胃の疲れ、環境の変化。ほかにも原因はいくらでもある。妊娠していたとしても、早い時期から症状が出るとは限らない」


「……」


「だから、妊娠していると言っているんじゃない。ただ、可能性を考えるなら、まず生理がどうなっているか確認しないと分からないでしょう?」


 璟瑶は視線を落とした。


◇◇◇


 創は思い出していた。


 宮嶋家へ璟瑶を紹介した夜。


 二人は将来について話した。


 結婚。


 そして、子ども。


『もし可能なら、一人。できれば二人』


 そう話した夜、二人は恋人として身体を重ねた。


 創の顔が赤くなる。


 璟瑶も同じことを思い出したのか、頬がわずかに熱を持っていた。


 その反応だけで、美智子にはかなりのことが伝わった。


 だが何も追及せず、必要なことだけ尋ねる。


「最後はいつだった?」


「お母さん……」


「ごめん。でも、正確に思い出して」


 璟瑶はスマートフォンのカレンダーを開いた。


 仕事の予定が隙間なく並んでいる。


 宮嶋家を訪ねた日。


 中国へ出発した日。


 上海、深圳、重慶。


 指で日数を数えていく。


「……」


 やがて表情が変わった。


「どうしたの?」


「予定を過ぎてるかも」


「どのくらい?」


「数日」


「普段の周期は安定してる?」


「かなり。多少ずれることはあるけど、そんなに多くない」


「璟瑶……」


 創が名前を呼ぶ。


 璟瑶は創を見た。


「まさか……」


「まだ『まさか』の段階よ」


 美智子が落ち着かせる。


「決まったわけではない」


「でも、可能性はある?」


「否定はできない。ただ、時期によっては検査しても正確に分からないことがある。眠い、だるい、匂いがつらい。その症状だけで結論を出さず、適切な時期に確認するの。必要なら医療機関へ行く」


「……うん」


◇◇◇


 璟瑶はスマートフォンを握ったまま、自分のお腹へ目を落とした。


 四十五歳。


 その年齢が、大きく胸に浮かぶ。


 妊娠は若い頃より簡単ではない。


 もし妊娠していても、安心だけでは済まない。


 自分の身体のことも、慎重に診てもらう必要がある。


 それを理解していても、胸の中に小さな期待が生まれていた。


「もし……」


「うん」


「本当にいたら」


 創の心臓が強く鳴る。


「創は、嬉しい?」


「……」


 軽く「嬉しい」とだけ答えていい話ではない。


 璟瑶は四十五歳。


 創は二十一歳。


 まだ結婚していない。


 仕事、生活、家族、銀行内での秘密と利益相反管理。


 すべてが一度に動く可能性がある。


 それでも創は、はっきり答えた。


「嬉しい」


「怖くない?」


「怖いよ」


「……」


「俺は二十一歳で、父親になることを具体的に想像できてない。仕事もまだ覚えることばかりだし、璟瑶の身体も心配。年齢のことも分かってる。だから、何も怖くないとは言えない」


 璟瑶は黙って聞いている。


「でも、本当に俺たちの子どもがいるなら、嬉しい。それに、璟瑶一人へ背負わせたくない。一緒に考える」


「……」


「まだ決まってない。期待しすぎるのも怖い。でも、可能性があるなら、ちゃんと確認しよう」


「うん」


 璟瑶の目がわずかに潤む。


 美智子が娘へ尋ねた。


「あなたはどうなの? 嬉しい?」


「嬉しい」


 璟瑶は長い沈黙のあと、本音を口にした。


「本当にそうなら、すごく嬉しい。でも、怖い。四十五歳だから、期待して違った時も怖い。妊娠していたら、無事に育ってくれるのか、自分の身体は大丈夫なのか……創を巻き込んでしまわないか」


「巻き込むって言わないで」


「でも――」


「二人のことでしょう?」


 創はまっすぐ璟瑶を見る。


「子どもがいるなら、俺にも関係がある。璟瑶だけの問題じゃない」


「創……ありがとう」


 美智子は二人を見守りながら、静かに言った。


「今、一番大切なのは答えを決めないことよ」


「……」


「妊娠しているとも、していないとも、今は決めない。まず身体を休める。時期を見て確認する。必要なら病院へ行く。それでいいの」


「うん」


「それから、お父さんにはまだ言わない方がいいと思う」


「お父さんに?」


「まだ可能性だけだから。崇岳は一度知ったら、ものすごく心配するわ」


「想像できる」


「本人たちが確認する前に、周りが期待したり心配したりすることが一番の負担になる。だから今は、璟瑶、創さん、私の三人だけ」


「俺も、それがいいと思います」


「うん。お父さんにはまだ言わない」


 その時、廊下から足音が聞こえた。


 三人が同時に黙る。


「おはよう」


 崇岳が入ってきた。


「……何だ。三人とも、どうした?」


 最初に答えたのは美智子だった。


「璟瑶が少し、出張疲れみたい」


「またか?」


「うん」


 崇岳が娘を見る。


「大丈夫か」


「大丈夫」


 三人の表情が微妙に固まる。


「本当に?」


「うん」


「なら今日は外出するな。休め」


「お父さん?」


「身体を壊してまで動く必要はない。頭取でも、休む時は休め」


 璟瑶が少し笑った。


「分かった」


「珍しく素直だな」


「体調が悪いから」


 創は笑いをこらえた。


◇◇◇


 午前九時二十分。


 璟瑶は秘書連絡用端末を手に取った。


「水城さんにどこまで伝える?」


 創が尋ねる。


「恋人のことは、もう知ってる。でも妊娠の可能性まで伝える必要はないと思う」


「私もそう思うわ」


 美智子が頷く。


「体調不良。それだけで十分」


 璟瑶は水城へ連絡した。


『おはようございます、頭取』


「水城さん。今日は少し体調が良くありません」


『昨日より悪いですか?』


「少し」


『具体的な症状は?』


「眠気、だるさ、胃の不快感」


『熱はありますか?』


「ありません。吐き気も軽い程度です」


『承知しました』


「帰国まで、本店の通常案件はなるべく回さないでください。緊急時だけお願いします」


『久世副頭取と劉川秘書にも、そのように調整します』


「理由は体調不良だけ。それ以上の説明は不要です」


『もちろんです』


 水城が真剣な声で続ける。


『医療機関の受診が必要であれば、遠慮なく現地支援を手配します』


「ありがとう。でも今は、休んで様子を見ます」


『分かりました』


「宮嶋さんが近くにいるから」


 一瞬の間のあと、水城の声が少し柔らかくなる。


『それなら、少し安心しました』


「俺が見ています」


『宮嶋さん、お願いします』


「はい」


『頭取。今日だけは、本当に何もしないでください』


「何もしない?」


『仕事を、です』


 創が横から口を挟む。


「今、絶対に『何もしない』だけ聞いて喜んだでしょう」


「創!」


『……ふふっ』


「水城さんまで!」


『失礼しました。本店側はこちらで止めます』


「お願いします」


 通話を終える。


「これで今日は休めるね」


「うん」


「今日は、じゃないわ」


 美智子が訂正する。


「身体が戻るまで休むの」


「……分かった」


◇◇◇


 午前十時。


 璟瑶はソファに横になり、創が毛布をかけた。


「創」


「何?」


「もし、妊娠してなかったらどうする?」


 創は少し考える。


「残念とは思うかもしれない。でも、それで終わり」


「……」


「璟瑶が悪いわけでも、何かに失敗したわけでもない」


「四十五歳だから、簡単じゃないのは分かってる。だから期待するのが怖い」


「なら今は、半分だけ期待しよう」


「何それ」


「半分は『嬉しいかもしれない』と思って、もう半分は『まだ分からない』と思っておく」


 璟瑶が小さく笑う。


「創らしい」


「確認するまで決めない」


「今は銀行と関係ないでしょう」


「もう癖だから」


 美智子は少し離れた場所から二人を見ていた。


 四十五歳の娘。


 二十一歳の恋人。


 年齢も人生の段階も違う。


 それでも今、二人は同じ不安と可能性の前に並んでいる。


「璟瑶、寝なさい」


「うん」


「創さんも少し休んで」


「俺は元気です」


「あなたも五日間、中国出張へ行っていたでしょう?」


「……はい」


「なら休む」


「はい」


 創も別のソファへ座った。


 数分後、璟瑶は眠りに落ちる。


 美智子は娘の寝顔を見つめ、小さく呟いた。


「本当に、いつものあなたじゃないわね」


「美智子さん」


「何?」


「やっぱり、可能性は高いと思いますか?」


 美智子は首を横に振った。


「今は、そういう言い方をしない方がいいわ。症状が揃って見えても、妊娠以外の原因はある。年齢的に周期が変化することもある。だから今は『可能性がある』。それだけ」


「分かりました」


「でも、もしそうだったら、創さん。一人で全部背負おうとしないでね」


「え?」


「二十一歳なら、父親になることについて分からないことが多くて当然。分からない時は聞く。誰かに頼る。それでいいの」


「はい」


「璟瑶も一人で何とかしようとするはず。昔からそういう子だから、止めてあげて」


 創は眠る璟瑶を見つめる。


「分かりました」


◇◇◇


 同じ頃。


 東京・青嶺中央銀行本店。


 四十二階、秘書室。


「劉川さん。頭取は本日、体調不良のため、通常連絡をすべて止めます」


「分かった。久世副頭取には私から伝える。詳細な理由は?」


「体調不良のみです」


「了解。副頭取の権限で処理できるものは、すべてそちらへ。頭取本人の判断が必須の案件だけ、水城さんへ回す」


「承知しました」


 劉川が、水城の顔を見つめる。


「水城さん。何か知っている?」


 水城は一瞬だけ止まった。


「体調不良ということ以外、業務上共有すべき情報はありません」


「……分かった」


 劉川は、それ以上聞かなかった。


 水城は二人の関係を知っている。


 しかし、その秘密を話すことはない。


 頭取の体調不良の原因も知らない。


 そして今は、知る必要もない。


 必要なのは、休ませることだけだった。


◇◇◇


 午後。


 璟瑶は再び目を覚ました。


「……また寝てた?」


「二時間くらい」


「嘘」


「本当」


「私、こんなに寝ないのに……」


「だから言ったでしょう。いつものあなたじゃないって」


 身体を起こしても、まだ少しだるい。


「お腹は空いた?」


「少し」


「何なら食べられそう?」


 璟瑶は考え、答えた。


「……辛くないもの」


 美智子が目を見開く。


「あなたが重慶で、それを言う日が来るとはね」


「私も思わなかった」


 創は少し笑った。


 しかし三人の胸には、同じ可能性が浮かんでいる。


 眠気。


 だるさ。


 匂いへの違和感。


 胃の不快感。


 そして、生理の遅れ。


 複数の変化が重なった。


 それでも、まだ答えではない。


 確認はこれからだ。


 璟瑶の胸には、初めて二つの感情がはっきりと並んでいた。


 期待。


 そして、不安。


『もし、本当にいるなら』


 そう思うだけで、胸が温かくなる。


 同時に。


『もし違ったら』


『妊娠していても、何かあったら』


 そう考えると怖くなる。


 だから今は、結論を急がない。


 期待しすぎない。


 それでも、可能性から目を逸らさない。


 創。


 璟瑶。


 美智子。


 知っているのは三人だけ。


 崇岳には、まだ話さない。


 水城が知っているのも、頭取が体調を崩していることだけ。


 翌日。


 三人は時期を確認しながら、次にどうするべきかを決めることになる。


 焦らず。


 けれど、確かめるために。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、璟瑶の体調変化がいよいよ無視できないものになってきました。


強い眠気。


倦怠感。


香辛料や油の匂いへの違和感。


そして、生理予定日の遅れ。


それでも今の段階では、妊娠しているとはまだ断定できません。


だからこそ、美智子は症状だけで結論を出さず、まずは三人だけで慎重に確認することを選びます。


崇岳にはまだ知らせない。


水城にも「頭取の体調不良」とだけ伝え、妊娠の可能性までは明かしません。


そして創も、


「もし本当に俺たちの子どもがいるなら、嬉しい」


と正直な気持ちを伝えました。


期待したい。


でも、期待しすぎるのも怖い。


四十五歳という年齢も含め、璟瑶の心には喜びと不安が同時に生まれ始めています。


次回、第50話。


いよいよ三人は、この可能性を確かめるために動き始めます。


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