第48話「水城さんにだけ話そう――頭取と若手行員、初めて銀行の人へ明かす秘密」
第48話です。
重慶での私的滞在中も、頭取である璟瑶には本店から最低限の連絡が入ります。
その調整役を務めるのは、水城絢乃。
しかし、璟瑶の強い眠気や疲労。
そして、創と璟瑶が同じ重慶にいる理由。
秘密を守り続けるほど、逆に秘書としての判断が難しくなっていきます。
夜。
二人は初めて、本気で相談します。
「水城さんにだけ……話した方がいいと思う?」
そして創が出した答えは、
「必要な範囲なら、隠したまま無理をさせる方が危ない」
というものでした。
初めて銀行側の人間へ明かす秘密。
ただし伝えるのは、たった一つだけです。
中国・重慶。
欧陽家。
翌日、午前九時十二分。
欧陽璟瑶・四十五歳は、ソファに座ったまま目を閉じていた。
「璟瑶?」
宮嶋創・二十一歳が声をかける。
「寝てない」
「今、完全に寝てた」
「三秒だけ」
「三秒でも寝てる」
璟瑶はゆっくり目を開けた。
「本当に最近、眠いのよね」
「昨日も朝と昼、両方寝てたよね」
「出張疲れ。五日間、予定が詰まってたから」
「そうかもしれないけど……」
熱はなさそうで、受け答えも普段どおり。
それでも、いつもより明らかに眠そうで、身体も重そうに見える。
その時、璟瑶の業務端末が鳴った。
「水城さん」
「仕事?」
「多分」
璟瑶は姿勢を正し、頭取の声へ切り替えた。
「はい」
『頭取、お休み中に申し訳ありません』
「大丈夫です。内容は?」
『中国現法から提出された出張報告について、久世副頭取から確認です。頭取確認が必要な箇所と、通常の部門処理でよい箇所を切り分けたいとのことです』
「原則、通常部門で処理してください。休暇中に私が確認する必要があるものだけ、久世副頭取と劉川さんで絞ってください」
『承知しました』
「個別与信や企業評価は、各所管部門の通常決裁へ。帰国まで待てるものは待たせてください」
『承知しました。もう一点だけ』
「何でしょう」
『頭取、お身体は大丈夫ですか?』
創が顔を上げる。
「どうして?」
『昨日から、お電話の声が少しお疲れのように聞こえましたので』
「出張疲れです。問題ありません」
『そうですか』
「何かあれば、こちらから連絡します」
『承知しました。失礼いたします』
通話が終わる。
「水城さんにも分かるくらい?」
「声が?」
「うん」
「そんなに変だったかな」
「俺は毎日一緒にいるから、逆に分からない部分があるのかも」
「大丈夫だと思う」
「その言い方が一番心配」
「心配しすぎ」
「恋人だから」
璟瑶は少し笑った。
「ありがとう」
◇◇◇
水城絢乃・三十一歳。
青嶺中央銀行第二秘書。
頭取が私的帰省へ切り替えてからは、必要以上に連絡しないよう徹底している。
しかし、頭取という立場上、完全に連絡を断つことはできない。
久世宗一郎副頭取。
劉川景仁第一秘書。
そして水城。
三人が緊急性を判断し、必要最低限の連絡だけを取り次いでいた。
一方で、水城の中には小さな違和感が生まれていた。
中国出張前、宮嶋創は私用で中国へ行くための有給を申請していた。
その直後、正式な中国出張の若手同行者に選ばれた。
出張終了後も宮嶋は中国に残り、同じ時期に頭取は重慶へ帰省している。
一つずつなら、偶然として説明できる。
しかし、それが重なっている。
加えて、頭取の強い疲労と眠気。
秘書として、どこまで休養を優先させるべきなのか。
必要以上に私生活へ踏み込むべきではない。
だが、必要な情報が少なすぎることも、秘書業務ではリスクになる。
◇◇◇
同日の午後。
東京・青嶺中央銀行本店。
四十二階、秘書室。
「水城さん。頭取には連絡できた?」
劉川が尋ねる。
「はい。業務上は問題ありません。ただ、かなりお疲れのようでした」
「出張が詰まっていたからね。重慶では休んでもらった方がいい」
「そうですね」
「久世副頭取にも、通常案件は頭取へ上げないよう再度共有しておく」
「お願いします」
水城は少し迷ってから尋ねた。
「劉川さん。一つ確認してもよろしいですか?」
「何?」
「宮嶋さんは、まだ中国ですよね?」
「私用休暇中だと聞いている」
「重慶にいる可能性が高いと思います」
劉川は一瞬考えた。
「本人が休暇申請でそう言っていた?」
「中国滞在までは、部署の引継ぎ資料と緊急連絡先の確認で共有されています。詳細は確認していません」
「なら、それでいい。有給休暇中の行き先を秘書室が詮索する必要はない」
「はい」
水城も頷いた。
追うべき情報ではない。
それでも、頭取と宮嶋が同じ重慶にいる可能性は高い。
その考えだけは消えなかった。
◇◇◇
中国時間、午後九時十七分。
崇岳と美智子がそれぞれの部屋へ戻り、居間には創と璟瑶だけが残った。
「今日、かなり眠かった?」
「うん。昼も一時間くらい寝た」
「謝らなくていいよ」
「せっかく重慶へ来たのに」
「体調が悪いなら、休む方が大事」
「創は優しいね」
「今さら?」
「今さら」
創は隣へ座る。
「水城さん、気づいてたね」
「秘書だから。普段の声をずっと聞いてるもの」
璟瑶はしばらく考え、創を見る。
「一つ相談していい?」
「うん」
「水城さんにだけ、私たちのことを話した方がいいと思う?」
「……俺たちが恋人だって?」
「うん」
創はすぐには答えなかった。
銀行内では、誰にも明かしていない。
久世副頭取も、御子柴専務も、人事も知らない。
劉川も、創の上司や同僚、同期も知らない。
初めて銀行側の人間へ伝える。
その意味は大きい。
「どうして水城さんに話そうと思ったの?」
「今回、私たちは正式出張から私用へ切り替えた。でも私は、完全に頭取ではなくなることはできない。緊急連絡は最低限入る」
「うん」
「その時、水城さんは私の状態を把握する必要がある。でも今、私のそばに誰がいるのか知らない。創と一緒に動いていることも知らない」
「急な連絡や移動、休養が必要になった時、説明が不自然になる?」
「そう。それに水城さんは秘書として、私へ無理をさせないよう調整する。でも情報が足りないまま判断させる方が危ない気がする」
創は長く考え、頷いた。
「俺も、話した方がいいと思う」
「本当に?」
「秘密を守ることは大事。でも、そのために水城さんへ不自然な説明を重ねたり、必要な調整まで難しくしたりする方が危ない」
「うん」
「ただし、全部は話さない」
「B5のことは言わない」
「そこで会ってることも、泊まったことも言わない。結婚や子どもの話も、俺の家族が知ってることも、今は必要ない」
「重慶で家族へ紹介したことは?」
「今、二人で重慶にいる理由として、そこまで伝える」
「分かった」
璟瑶が少し笑う。
「創、銀行員らしくなったね」
「褒めてる?」
「かなり」
「じゃあ、水城さんにだけ話そう」
「うん。私から言う」
◇◇◇
中国時間、午後九時四十二分。
日本時間、午後十時四十二分。
遅い時間だが、水城は今夜の秘書連絡当番として、必要時に対応できる状態にある。
璟瑶は秘書連絡用のセキュア回線を開いた。
『はい、水城です』
「遅い時間にごめんなさい。今、少し話せますか?」
『はい』
「仕事ではありません。ただ、秘書業務にも関係する話です」
『承知しました』
「一人ですか?」
『はい』
「イヤホンをお願いします」
『少々お待ちください……大丈夫です』
璟瑶は創を見る。
創が小さく頷いた。
「水城さん。これから話すことは、現時点では行内の誰にも共有していません」
『はい』
「久世副頭取も、劉川さんも、人事も知りません」
『……承知しました』
「それでも今回、秘書として必要な範囲だと、私と宮嶋さんで判断しました」
『宮嶋さん?』
「今、創もここにいます」
『……』
電話の向こうが静かになる。
「水城さん」
『はい』
璟瑶は一度目を閉じ、はっきり告げた。
「宮嶋さんと私は、私生活では恋人です」
『……』
無音。
一秒。
二秒。
三秒。
さらに数秒。
「水城さん?」
『申し訳ありません。少し整理する時間をください』
「もちろん」
再び沈黙が続いた。
『宮嶋さんと頭取が、私生活では交際されている』
「そうです」
『……だから今回、宮嶋さんも重慶にいるんですね』
「はい」
『正式出張終了後、宮嶋さんは年次有給休暇へ。頭取は私的帰省へ。そして、お二人で重慶へ来た』
「そうです」
水城が長く息を吐く。
『全部つながりました』
「ごめんなさい」
『謝らないでください。これまで私に言わなかったこと自体は、問題だと思っていません。必要がなければ、聞くべきではない情報です』
「ありがとう」
『今回教えていただいた理由は、頭取の体調と秘書業務の調整ですね』
「そのとおりです」
水城は驚きを残しながらも、秘書の思考へ切り替えた。
『確認させてください。この情報は、私から久世副頭取、劉川秘書、人事、その他の部署へ共有しない』
「はい」
『業務上、明確な利益相反や緊急性のある事象が生じない限り、私のところで止める』
「はい」
『宮嶋さんの評価、配属、昇進、給与には、頭取は関与しない』
「これまでも関与していません」
『今回の中国出張も頭取指名ではなく、三部門による選考』
「はい」
『承知しています』
水城はさらに整理する。
『私が知る私生活上の情報は、お二人が恋人であり、現在、私的に同じ重慶へ滞在しているところまで』
「それでお願いします」
『それ以上は聞きません。B5など――』
「……」
水城の言葉が止まる。
創と璟瑶は顔を見合わせた。
『申し訳ありません。余計な推測をしかけました』
璟瑶が小さく笑う。
「そこも聞かないでください」
『はい。今の発言は忘れます』
「お願いします」
◇◇◇
『宮嶋さんもいらっしゃるんですよね』
「はい、います」
『この立場でお話しするのは初めてですね』
「そうですね」
『一点だけ。宮嶋さんも、この開示に同意されていますか?』
「はい。俺も、必要な範囲では水城さんに知ってもらった方が安全だと思いました」
『理由を聞いても?』
「秘密を隠し続けるために、水城さんへの不自然な説明を増やしたり、必要な調整を難しくしたりする方が危ないと思ったからです」
『……』
「だから、俺たちが恋人だということだけ知ってもらいたいです。それ以上の私生活については、今は話さない。その形でお願いします」
『承知しました』
水城の声が少し柔らかくなった。
『正直、まだ完全には整理できていません』
「ですよね」
『中国出張中のお二人は、まったく交際しているように見えませんでした』
「仕事中でしたから」
『頭取は一度も宮嶋さんを特別扱いしていませんでした。むしろ、ほかの若手より質問が厳しかったような……』
「それ、俺も思ってました」
「創」
「事実」
電話の向こうで、水城が小さく笑った。
『少し安心しました』
「何が?」
『これまで見てきた頭取と宮嶋さんの仕事上の距離が、演技ではなく、本当に守られていたことです』
「そこは絶対に崩しません」
『承知しました』
「水城さん。このことを守ってもらえますか?」
『もちろんです。ただし、今後、明確な利益相反や法務、人事、コンプライアンス上の問題が生じた場合は、お二人へ先に相談します』
「それでお願いします」
「俺も、それでいいです」
『承知しました』
これで話は終わる。
二人がそう思った時、水城が続けた。
『それから、秘書として確認があります』
「何でしょう」
『頭取は今日、何時間くらい休まれましたか?』
「……そこ?」
『重要です』
創が横から答える。
「朝に一時間半」
「創」
『朝、一時間半』
「昼も一時間くらい」
「創!」
『昼、一時間』
「夕方もソファで二十分くらい」
「もう!」
水城が少し黙る。
『頭取。普段より、かなり眠っていませんか?』
「出張疲れです」
『その可能性はあります。ただ、帰国までは通常業務を極力入れないようにします』
「そこまでしなくていい」
『します』
「水城さん」
『秘書として必要です』
「お願いします」
「創!」
『宮嶋さん、ありがとうございます。頭取を休ませてください』
「任せてください」
「二人とも!」
水城が、仕事中には見せないような笑い声を漏らした。
『今夜のお話は、私のところで止めます。お二人とも、ごゆっくりお過ごしください』
「ありがとう」
「ありがとうございます」
『失礼いたします』
通話が終わった。
◇◇◇
静かな居間。
「言ったね」
「うん。銀行の人には初めて」
「怖い?」
「少し」
「俺も」
それでも二人は同じことを思っていた。
「水城さんでよかった」
「うん。必要なことだけ確認して、それ以上は踏み込まなかった」
「秘書だからね」
銀行側で二人の秘密を知る者は、水城絢乃ただ一人。
黒瀬も琴葉も知らない。
桐生も、久世副頭取も、劉川も、人事も知らない。
「必要以上には広げない」
「うん」
「でも、必要になった時は、隠すことだけを優先しない」
「そうしよう」
二人は崇岳の言葉を思い出す。
『守るべきは秘密ではなく、公正さだ』
「創、ありがとう。一緒に考えてくれて」
「恋人だから」
璟瑶が微笑む。
「では、寝る」
「まだ十時前だけど」
「水城さんに休めと言われたから」
「急に素直」
「秘書命令」
「頭取より強いんだ」
「今日だけ」
璟瑶が立ち上がる。
その瞬間、少し眉を寄せた。
「どうした?」
「少し胃が重いだけ」
「気持ち悪い?」
「そこまでじゃない。香辛料のせいかも」
「明日は辛いものをやめよう」
「重慶なのに?」
「重慶でも胃は胃」
「……分かった」
廊下の奥では、水を飲みに来た美智子が最後の会話を聞いていた。
「璟瑶、また胃が変なの?」
「少しだけ」
「眠気も続いてる?」
「うん」
美智子は娘の顔を長く見つめる。
「明日、無理に出かけなくてもいいからね」
「大丈夫」
「その言葉、今日何回目?」
「多分、五回以上」
「創」
「数えてないけど、顔に出てる」
「何それ」
美智子は笑った。
けれど、その目には心配が浮かんでいる。
強い眠気。
だるさ。
香辛料を重く感じること。
胃の違和感。
出張疲れだけかもしれない。
しかし母親の中に、別の小さな可能性が一瞬だけ浮かんだ。
まだ口にはしない。
確かめるには早く、決めつけるにはもっと早い。
「今日は早く休みなさい」
「うん」
璟瑶は素直に頷いた。
この夜。
青嶺中央銀行約二万五千人の行員の中で初めて、二人の秘密を知る人物が生まれた。
第二秘書、水城絢乃。
彼女が知ったのは、ただ一つ。
欧陽璟瑶と宮嶋創が、私生活では恋人同士であること。
B5の秘密基地は知らない。
結婚や子どもの話も知らない。
宮嶋家がどこまで承知しているかも知らない。
必要がないから、聞かなかった。
そして、この秘密を知ったことで、水城は秘書として理解した。
頭取が重慶にいる間、必要なのは予定を入れることではない。
休ませることだ。
その疲れが、単なる中国出張の影響なのか。
それとも、別の何かなのか。
翌日。
美智子は母親として、その違和感へもう一歩踏み込むことになる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、二人が初めて青嶺中央銀行の関係者へ交際を明かしました。
その相手は、第二秘書・水城絢乃。
「宮嶋さんと私は、私生活では恋人です」
突然の告白に水城は絶句しますが、すぐに秘書として状況を整理。
中国出張後も創が重慶に残っていた理由が、ようやくすべてつながりました。
ただし水城へ伝えたのは恋人関係だけ。
B5のことも、結婚の話も、子どもの話も伝えていません。
これで銀行側で二人の関係を知る人物は、水城ただ一人となりました。
そしてもう一つ。
璟瑶の眠気、だるさ、胃の違和感は少しずつ強くなっています。
本人はまだ出張疲れだと思っていますが、美智子は母親として別の可能性を感じ始めています。
次回、第49話。
その違和感が、さらに無視できないものへ変わっていきます。




