第47話「元頭取の父と二十一歳銀行員――これは面接ではなく、家族の食卓です」
第47話です。
欧陽家で迎える、創にとって初めての朝。
前日の夜は、璟瑶が子どもの頃から使ってきた風呂を借りることになり、思わぬやり取りも。
そして翌朝。
璟瑶と美智子が朝食を準備する間、創と崇岳は二人きりになります。
ところが始まったのは――。
「法人融資で、君なら何を見る?」
まるで面接のような銀行談義。
美智子と璟瑶から、
「面接じゃありません」
と止められながらも、創は東都共栄銀行、瑞央銀行、青嶺中央銀行で学んだことを自分の言葉で語ります。
「どれか一つの銀行だけが正解ではないと思います」
その言葉に、崇岳の創を見る目も少しずつ変わっていきます。
一方。
璟瑶には、これまでとは違う強い眠気が続いていました。
中国・重慶。
欧陽家。
宮嶋創・二十一歳が、この家で迎える初めての夜。
夕食の席でも、欧陽崇岳・七十二歳の質問は続いていた。
「宮嶋君」
「はい」
「法人融資で最も重要なことは何だと思う」
「あなた」
妻の欧陽美智子・六十八歳が、すぐに止める。
「何だ」
「さっきから質問ばかりでしょう」
「会話だ」
「銀行員同士の?」
「……」
元・青嶺中央銀行頭取。
その隣には、現頭取である娘の欧陽璟瑶・四十五歳。
「お父さん。創は今日、恋人として来てるの」
「分かっている」
「だったら融資審査しないで」
「融資審査ではない」
「面接?」
「違う」
美智子が創へ微笑む。
「創さん。無理に答えなくていいからね」
「ありがとうございます」
「あなたは、娘の恋人と普通に食事してください」
「普通に……」
崇岳は少し考え、改めて創を見た。
「宮嶋君」
「はい」
「好きな食べ物は?」
「……そっち!?」
思わず声を上げた創に、璟瑶が吹き出す。
「ふふっ……」
「それでいいのよ」
「普通の会話は難しいな」
「そっちの方が難しいの!?」
「長年、銀行員だったからな」
「それ、言い訳になってない」
張り詰めていた食卓の空気が、少しずつ解けていった。
◇◇◇
料理は創に合わせ、辛さを控えたものが中心だった。
「これ、おいしいです」
「辛すぎない?」
「これは大丈夫です」
「昨日より、かなり弱くしてもらったから」
「昨日が強すぎたんだよ!」
「普通よ」
「璟瑶基準ではね」
美智子が笑う。
しかし璟瑶は、普段なら好んで食べる香辛料の強い料理に、ほとんど箸を伸ばしていなかった。
「璟瑶、それ好きじゃないの?」
「好きよ」
「全然食べてない」
「今日は少し重いかも」
「胃が?」
「違うと思う。気持ち悪いというほどでもないし」
「なら無理しないで」
「うん」
五日間の中国出張。
上海と深圳を移動し、会議を重ね、そのまま重慶へ来た。
疲れて当然だ。
その場では、誰も深く追及しなかった。
午後九時二十分。
夕食が終わると、美智子が創へ声をかけた。
「創さん、お風呂を先に使う?」
「いいんですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
「私も入ろうかな」
璟瑶の一言に、創の顔が一気に赤くなった。
「え……?」
「私も一緒に」
「無理!」
「どうして?」
「ここ、実家!」
「私の実家よ」
「だからだよ!」
「昔から使ってるお風呂なのに」
「それを聞いたら余計に無理!」
美智子が口元を押さえて笑う。
「創さん、顔が真っ赤よ」
「すみません!」
「謝らなくていいの」
「じゃあ、日本へ帰ったら?」
「……日本に帰ってから!」
「分かった」
満足そうに頷く璟瑶。
無言の崇岳。
創は恐る恐る、その顔を見た。
「……すみません」
「なぜ謝る」
「なんとなくです!」
「あなた、怖い顔をしないの」
「してない」
「してるわよ」
創は逃げるように浴室へ向かった。
湯船に浸かり、静かに室内を見渡す。
「ここを、璟瑶が子どもの頃から使ってたのか……」
創が知る璟瑶は、冷静で強く、世界を飛び回る銀行頭取だ。
けれど、彼女にも子どもだった時代がある。
この家で暮らし、この風呂に入り、この街で育った。
「来てよかったな……」
創は、自然とそう思った。
◇◇◇
風呂を出ると、客室が用意されていた。
「創さんは、今日はここで。璟瑶は隣の部屋よ」
「ありがとうございます」
「別々?」
「当たり前でしょう」
「……何でもない」
創が小声で呟く。
「今日は別々でいい」
「創、聞こえた」
「わざと」
「早く寝ろ」
「はい!」
崇岳の声に、創は即答した。
午後十時四十分。
慣れない中国。
初めての重慶。
恋人の実家。
隣の部屋には璟瑶。
さらに向こうには、元頭取である父親。
「……寝られる気がしない」
そう思っていたが、五日間の出張疲れには勝てなかった。
創は数分で眠りに落ちた。
◇◇◇
翌朝。
午前六時十二分。
創は普段どおりの時間に目を覚ました。
顔を洗い、服を整えて居間へ向かう。
「おはようございます」
「おはよう」
「……!」
すでに崇岳が座り、新聞とタブレットを交互に見ていた。
「早いな」
「普段も、このくらいなので」
「銀行員だな。座れ」
「失礼します」
台所から、美智子と璟瑶の声が聞こえる。
「お母さん、それどこ?」
「上の棚」
「これ?」
「その隣」
「あった」
居間には、創と崇岳の二人だけ。
創は心の中で呟く。
――来た。
崇岳がタブレットを置いた。
「宮嶋君」
「はい」
「昨日、少し聞き足りなかった」
「……はい」
「ある企業が一億円の設備投資を希望している。ただし、投資後の売上増加見込みは不確実だ。君なら何を見る」
やはり始まった。
創は姿勢を正す。
「投資目的、設備の必要性、現在の設備状況、投資後の生産能力、受注見込み、返済原資、既存借入、自己資金を確認します」
「それだけか」
「いいえ。投資しない場合も見ます」
「ほう」
「設備を更新しなければ、修繕費、故障、部品供給、納期、取引先への影響などのリスクが増えるかもしれません。投資しないことが、必ずしも安全とは限らないからです」
「誰から学んだ」
「東都共栄銀行の城東支店へ派遣された時、元上司から教わりました」
「三谷という人間か」
「はい」
「確認だけではなかったんだな」
「はい」
崇岳は次の質問へ移る。
「地域銀行と青嶺が同じ顧客を支援する場合、どちらが主導権を持つ」
「案件によります」
「曖昧だな」
「でも、一律に青嶺が持つべきだとは思いません」
「なぜだ」
「地域銀行が長年その企業との関係を築いてきたなら、青嶺が規模だけで奪うべきではないからです」
「では、青嶺は何をする」
「海外、大型融資、為替、専門人材、M&Aなど、地域銀行だけでは不足する機能を補います」
「それが常に正しいか?」
「……いいえ」
「なぜ」
創が答えようとした瞬間、台所から璟瑶の声が飛んだ。
「創。そんなに背筋を伸ばさなくていいから」
「でも、お父さんが完全に面接してる」
「面接ではない」
「お父さん、それを世間では面接って言うの」
さらに美智子の声も飛ぶ。
「あなた! 朝ご飯前に面接しない!」
「面接ではない」
「昨日も聞いたわよ!」
創が思わず笑う。
「宮嶋君」
「はい!」
「笑うところか」
「すみません!」
「創、リラックスして。家族の朝だから」
「元頭取が真正面にいるから無理!」
「父親でもある」
「それが一番緊張する!」
「創さん、そのとおりよ」
「お母さんまで!?」
空気が和らいだ。
それでも創は、崇岳へ向き直る。
「先ほどの答えを続けてもいいですか?」
「もちろん」
「俺は東都共栄銀行へ派遣されて、改めて思ったことがあります」
「何だ」
「どれか一つの銀行だけが正解ではない、ということです」
◇◇◇
「東都共栄銀行では、銀行員としての基本を教えてもらいました。一件ずつ確認すること。分からないまま進めないこと。お客さまの話を聞くこと。それが俺の土台です」
「うん」
「青嶺中央銀行では、法人営業、地域銀行連携、海外支援を通じて、一つの企業をより広く見ることを学び始めました。瑞央銀行では、企業だけではなく、地域、雇用、取引先、その先まで見ることを教えてもらいました」
創は一度、息を吸う。
「だから、青嶺が正しくて東都共栄が古いとか、大手が正しくて地域銀行が足りないとか、そういうことではないと思います」
崇岳は黙って聞いている。
「銀行ごとに強みや役割、お客さまとの距離が違います。東都共栄にしかできない支援がある。瑞央銀行だから分かる地域がある。青嶺だから提供できる機能がある」
「……」
「どこか一つを正解にするより、それぞれの良いところをどう組み合わせるか。その方がお客さまのためになると思います」
居間が静かになった。
台所では、璟瑶の手も止まっている。
美智子が、そんな娘を見て小さく笑った。
「宮嶋君」
「はい」
「誰かに教えられた言葉か」
「違います。自分で派遣に行って、そう思いました」
「青嶺の地域銀行連携方針を暗記しただけではない?」
「違います。青嶺へ入る前は、地域銀行との連携をほとんど考えたこともありませんでした」
崇岳の口元が、わずかに緩む。
「そうか。なら、いい」
「……終わりですか?」
「質問はまだある」
「やっぱり!」
「お父さん!」
「ただし」
崇岳の声が少し変わった。
「今の答えは良かった」
「……ありがとうございます」
「銀行員としてはまだ若い。経験も足りない」
「はい」
「だが、自分がいた銀行、今いる銀行、派遣先。そのどれかを簡単に否定せず、それぞれの役割を見ようとする姿勢は悪くない」
創は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし、褒められてすぐ調子に乗るな」
「はい!」
「お父さん。一言多い」
「銀行員には必要だ」
「今は家族でしょう?」
「朝ご飯ができたわよ」
美智子の一言で、面接――ではなく、父親と娘の恋人との会話は強制終了した。
◇◇◇
朝食には、白粥、卵、野菜、点心が並んだ。
「創さん、お粥は食べられる?」
「はい。むしろありがたいです」
「昨日、辛いものを頑張ったものね」
「頑張りました」
「そこまで?」
「そこまで!」
笑いながら食べる創とは対照的に、璟瑶の箸はゆっくりだった。
香辛料を使った副菜を一口食べ、わずかに眉を寄せる。
「璟瑶、食欲がないの?」
「ある」
「本当?」
「うん。でも、これ……今日は匂いが強くない?」
美智子が皿へ顔を近づける。
「いつもと同じよ」
「そう?」
「気持ち悪い?」
創が心配そうに尋ねる。
「そこまでじゃない。出張疲れが残ってるだけ」
「五日間、予定を詰めすぎたんじゃないか」
「お父さんに言われたくない」
「なぜだ」
「頭取時代、もっと詰めてたでしょう」
「仕事だ」
「私も仕事」
「二人とも、よく似てるわね」
「似てない」
父と娘が同時に答える。
「ほら」
創が笑った。
朝食後、普段の璟瑶なら食器を運び、荷物を整理し、外出の予定を確認する。
しかし今日は、すぐにソファへ座った。
「璟瑶、眠い?」
「……少し」
「また?」
「うん」
「寝ていいよ」
「今日はお母さんと買い物でしょう?」
「昼からでいいわ。午前中は休みなさい」
「大丈夫」
「大丈夫な人は、そんなに目が半分閉じない」
「閉じてない」
「閉じてる」
創も同意する。
「閉じてる」
「創まで……」
璟瑶はソファへ身体を預けた。
「十分だけ」
「うん」
数分後には、完全に眠っていた。
「早い……」
「本当に疲れてるのかな」
「多分ね」
美智子は娘の寝顔を見つめる。
「この子、昔からこんなに眠る子じゃなかったのよ」
「昼寝が嫌いだったんですか?」
「時間がもったいないって、子どもの頃から言っていたわ」
「子どもの頃から!?」
「今と同じでしょう?」
「同じです」
崇岳も新聞から顔を上げる。
「試験前は、寝ろと言っても夜中まで勉強していた」
「やっぱり昔からなんですね」
だからこそ、今の眠気が少し気にかかる。
ただの出張疲れかもしれない。
それでも美智子の声には、わずかな心配が混じっていた。
午前十時四十分。
璟瑶が目を覚ます。
「……え?」
時計を見て固まった。
「私、こんなに寝た?」
「一時間半」
「起こしてよ」
「気持ちよさそうだったから」
「買い物は?」
「午後にしたわ」
「大丈夫なのに」
「大丈夫じゃないから休ませたの」
璟瑶は立ち上がった。
その瞬間、わずかに身体の重さを感じる。
「どうした?」
「何でもない」
「本当に?」
「うん」
◇◇◇
午前の後半。
創と崇岳は庭へ出た。
重慶の朝は、少し湿り気を含んでいる。
「宮嶋君」
「はい」
「昨日、璟瑶と将来結婚したいと言ったな」
「はい」
「覚悟はあるか」
今度は銀行の質問ではない。
一人の父親からの問いだった。
「あります」
「二十四歳差だ。君が三十歳の時、璟瑶は五十四歳。君が四十歳なら六十四歳だ。今の『好き』だけでは済まない問題も増える」
「分かっています」
「本当に?」
「全部を想像できているとは言えません」
創は正直に答えた。
「分からないことを、分かったふりはしたくありません。将来、大変なことがあると思います。でも、その時に一緒に考えること、逃げないことは決めています」
「銀行員らしいな」
「何がですか?」
「確認できないことまで言い切らない」
「三谷さんの影響かもしれません。それと、父さんに言われたこともあります」
「和久君か」
「はい」
崇岳は静かに頷いた。
「良い父親だ」
「はい」
◇◇◇
その頃、台所では美智子と璟瑶が昼食を準備していた。
「お母さん、その香辛料……」
「これ?」
「今日、匂いがきつい」
美智子の手が止まる。
「昨日も似たことを言っていたわね」
「出張で胃が疲れたのかも」
「吐き気は?」
「ない。少し食べたくないだけ」
「では、別のものにしましょう」
「そこまでしなくていい」
「無理をして、好きなものまで嫌いになる方が嫌でしょう?」
「……分かった」
美智子は娘の横顔を見る。
強い眠気。
身体のだるさ。
食欲の変化。
香辛料の匂いへの違和感。
どれも、それだけでは何も断定できない。
出張疲れ、移動、胃の疲れ。
全部、それで説明できる。
「璟瑶」
「何?」
「最近、生理は――」
そこまで言いかけて、美智子は止めた。
まだ早い。
決めつける必要はない。
「何?」
「何でもない。今日は軽いものを食べなさい」
「分かった」
それでも母親の胸には、小さな引っかかりが残った。
◇◇◇
昼。
四人は再び食卓を囲んだ。
「宮嶋君」
「はい」
「あなた。また質問?」
「違う。今日は食事をする」
「最初からそうして」
璟瑶が笑う。
創も少し安心したように言った。
「崇岳さんにも、銀行の話をしない時間があるんですね」
「宮嶋君」
「はい」
「午後、金融政策について――」
「あなた!」
「お父さん!」
「冗談だ」
「……」
三人が止まる。
「冗談を言うんですか!?」
「言う」
「分かりにくいです!」
美智子が声を上げて笑う。
「創さん、少し慣れてきたでしょう?」
「本当に少しだけです」
これは面接ではない。
元頭取と若手行員の会談でもない。
父、母、娘。
そして娘が連れてきた恋人。
いつか家族になるかもしれない四人が、同じ食卓を囲む時間だった。
昼食後。
午後の買い物を前に、璟瑶はまたソファへ横になる。
「十分だけ」
「朝もそう言ったよ」
「今度は本当に十分」
創が毛布をかける。
美智子は目を閉じた娘を見ながら、静かに尋ねた。
「あなた、こんなに昼寝をする子じゃなかったでしょう?」
「中国出張で疲れただけ」
「そう。ならいいけど」
眠気。
だるさ。
食欲。
香辛料の匂い。
まだ答えを出す段階ではない。
けれど、昨日より確実に、娘はいつもと違っていた。
一方、創は少しだけ崇岳への恐怖が薄れていた。
元頭取としてではなく、璟瑶の父親として話すことができたから。
崇岳の創を見る目も、少しずつ変わっている。
二十一歳。
娘より二十四歳年下。
青嶺中央銀行の若手行員。
最初は、それだけだった。
今は、自分の考えを持つ一人の銀行員として。
そして娘を大切にしようとしている一人の青年として、見始めている。
まだ完全に認めたわけではない。
それでも、確実に一歩は進んだ。
そして同じ家の中で、もう一つの小さな変化も進んでいる。
まだ本人さえ、その意味に気づいていない身体の変化。
次。
その兆候は、もう少しはっきりと姿を現す。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、創と崇岳が少しずつ距離を縮める回となりました。
元頭取として専門的な質問を続ける崇岳に対し、創が語ったのは、
「どれか一つの銀行だけが正解ではない」
という考え。
東都共栄銀行で学んだ基本。
瑞央銀行で知った地域を見る視点。
そして青嶺中央銀行が持つ大きな機能。
それぞれに役割があるからこそ、組み合わせることが大切だと答えた創を、崇岳も初めて銀行員として高く評価します。
その一方で、璟瑶には明らかな変化が。
朝食後に長く眠り、昼にも横になり、普段好きだった香辛料の強い料理も少し重く感じ始めています。
本人はまだ「中国出張の疲れ」だと思っています。
しかし、美智子は母親として少しずつ違和感を覚え始めました。
次回、第48話。
そして今度は、二人が「水城にだけは関係を伝えるべきか」という新たな秘密の問題と向き合うことになります。




