第45話「初めての中国、初めての重慶――彼女が生まれ育った街へ」
第45話です。
いよいよ、創にとって初めての中国へ。
五日間の正式出張では、璟瑶は完全に青嶺中央銀行頭取として行動。
創も若手行員として地域銀行連携や現地企業支援を学びます。
そして五日目。
正式業務が終了した瞬間から、
「頭取」と「宮嶋さん」
ではなく、
「璟瑶」と「創」
へ。
二人が向かう次の場所は、璟瑶の故郷・重慶。
長江、嘉陵江、坂の街、夜景、そして辛い重慶料理。
初めて見る恋人の故郷に創は目を奪われます。
ただ、その車内で。
璟瑶は普段より何度もあくびをしていました。
「最近、ちょっと眠いのよね」
まだ二人は、それを単なる出張疲れだと思っています。
金曜日。
午前六時五十八分。
成田国際空港、国際線出発ロビー。
宮嶋創・二十一歳は、キャリーケースを横に置き、鞄の中身を確認していた。
「パスポート、財布、会社端末、充電器、資料……」
全てある。
それでも、もう一度。
「パスポート――」
「宮嶋さん」
「はい!」
突然声をかけられ、創は勢いよく振り返った。
立っていたのは、今回の中国出張へ同行する第二秘書・水城絢乃、三十一歳。
「おはようございます」
「お、おはようございます」
「何をそんなに真剣に確認していたんですか?」
「パスポートです」
「何回?」
「……四回くらい」
水城は少し笑った。
「初めての海外出張ですから、緊張しますよね」
「かなり」
「国内派遣は二度経験しています。仕事はいつも通りで、場所が中国になっただけだと考えてください」
「その違い、かなり大きくないですか?」
「ふふっ」
午前七時八分。
「おはようございます」
その一言で、二人の姿勢が同時に変わった。
欧陽璟瑶・四十五歳。
青嶺中央銀行頭取。
黒いパンツスーツに白いブラウス。長い髪はきっちりとまとめられている。
ここにいるのは、創の恋人である璟瑶ではない。
完全な頭取だった。
「水城さん、おはようございます」
「おはようございます、頭取」
「宮嶋さん」
「はい。おはようございます、頭取」
二人の目が一瞬だけ合う。
しかし、笑わない。
触れない。
恋人らしい空気は一切出さない。
水城も何も気づかなかった。
「搭乗手続きは?」
「全員、完了しています。上海浦東国際空港への到着は、現地時間午後一時十分を予定しています」
「到着後はホテルではなく、直接会議場所へ向かいます」
「車両も手配済みです」
璟瑶は創へ向き直る。
「宮嶋さんは、最初の中国事業統括会議には同席しません」
「承知しています」
「中国現地法人の若手行員、法人営業担当者、地域銀行への出向経験者との実務意見交換へ参加してください。夕方に合流します」
「承知しました」
同じ出張団でも、全ての会議へ参加できるわけではない。
経営、取締役、現地法人、金融機関。
扱う機密も権限も違う。
創は、自分に必要な範囲だけで業務に参加する。
「何か質問はありますか?」
水城に尋ねられ、創は困ったように答えた。
「覚えたはずの中国語の挨拶が、全部飛びました」
璟瑶の口元が一瞬だけ動いた。
「業務では、無理に中国語を使う必要はありません。必要な場面には通訳や日本語対応スタッフがいます」
「はい」
「中途半端に分かったふりをしないこと。それが一番大切です」
「分かりました」
創は、元上司の三谷雅臣を思い出した。
『分からないことを、分からないまま進めない』
場所が中国になっても、銀行員としての基本は同じだった。
◇◇◇
午前八時。
搭乗。
飛行機が滑走路を離れ、日本から中国へ向かう。
創にとって、初めての海外。
初めての中国。
初めての正式な海外出張。
しかも、同行するのは自分の勤務先の頭取だった。
創、水城、璟瑶の座席は、それぞれ離れている。
仕事中なのだから当然だった。
創は会社端末で、今回の役割を確認する。
『地域銀行連携案件における若手現場視点の確認』
『国内法人営業と中国現地支援の接続理解』
『中国現法若手スタッフとの意見交換』
『現地企業視察後の報告』
『帰国後の社内共有』
これは旅行ではない。
五日間は、完全な仕事。
しかし、それが終われば重慶。
璟瑶の実家。
元頭取の父と、日本人の母への家族紹介が待っている。
「……」
創の緊張は、さらに強くなった。
◇◇◇
中国・上海。
現地時間、午後一時十二分。
上海浦東国際空港。
空港の外へ出た創は、初めて中国の空気を吸った。
広い。
人が多い。
周囲では中国語が飛び交い、標識の漢字は読めそうで完全には読めない。
「宮嶋さん。車はこちらです」
「はい」
水城は無駄のない動きで一行を誘導する。
現地スタッフが璟瑶を迎えた。
(欧阳行长,欢迎来到上海。)
「欧陽頭取、上海へようこそお越しくださいました」
璟瑶は流暢な中国語で返す。
(谢谢。辛苦大家了。我们先按计划去会议地点。)
「ありがとうございます。皆さん、お疲れさまです。まずは予定どおり会議場所へ向かいましょう」
「……」
創は思わず璟瑶を見つめた。
中国人なのだから、中国語を話すのは当然。
それでも、仕事で中国語を使う璟瑶を見るのは初めてだった。
「宮嶋さん、どうしました?」
水城に尋ねられ、創は正直に答える。
「頭取は、本当に中国人なんだなと思って」
「……当然です」
「そうですよね。すみません」
◇◇◇
午後三時。
璟瑶と水城は、青嶺FG中国事業統括会議へ出席した。
銀行、証券、リース、国際部門、現地経営陣が集まる会議である。
一方の創は別室へ向かった。
中国現地法人の若手スタッフ三人。
青嶺中央銀行の海外法人営業担当者。
地域銀行への出向経験者。
五人との実務意見交換だった。
「青嶺中央銀行の宮嶋創です。今回は地域銀行連携における若手行員の現場視点を確認するため、同行しています」
日本人駐在員の加納俊也・三十二歳が応じる。
「よろしく。瑞央銀行と東都共栄銀行への派遣も経験したそうだね」
「はい。東都共栄銀行は前の勤務先です」
「二十一歳で面白い経験をしているね」
「自分でも最近、そう思います」
続いて、中国人若手行員の李晨浩・二十八歳が、流暢な日本語で説明する。
「日本の地域銀行から、中国事業に関する相談が増えています」
「どのような相談が多いですか?」
「中国拠点を継続するか、縮小するか。一部機能を東南アジアへ移すか、といった相談です」
「撤退か継続かという二択ではない?」
「そうです」
設備投資。
運転資金。
為替。
現地決済。
人件費。
税務。
サプライチェーン。
親会社との資金関係。
「全部が関係するんですね」
「海外支援では、一つだけを見ることはできません」
瑞央銀行で学んだのは、企業だけではなく地域を見ること。
海外へ出れば、その視野はさらに広がる。
現地従業員、物流、為替、親会社、地域銀行、青嶺中央銀行、中国現地法人。
全てがつながっていた。
午後六時。
ホテルで合流した璟瑶が、頭取として尋ねる。
「宮嶋さん。初日はどうでしたか?」
「かなり勉強になりました。日本国内では設備投資と運転資金を中心に見ていましたが、海外では為替、現地雇用、親会社、物流、決済まで同時に見なければ判断できません」
「そうですね。ただし、全てを一人で判断する必要はありません」
現地法人。
為替担当。
法務。
地域銀行。
それぞれの専門家に役割がある。
「一人で全部抱えないことも忘れないでください」
「承知しました」
水城には、頭取と若手行員による通常の業務会話にしか見えなかった。
二人が恋人だとは、思いもしない。
◇◇◇
出張二日目。
上海。
午前中、璟瑶は中国現法の戦略会議へ出席。
創は地域銀行経由の中国進出支援案件について、必要な範囲に限定した事前説明を受けた。
午後は、地域銀行担当者と青嶺の現地法人スタッフに同行し、日系企業の製造現場を視察する。
「設備を更新した場合だけではなく、今の設備を使い続けた場合、部品供給や停止リスクはありますか?」
「あります」
「部品は現地で調達できますか?」
「一部は可能ですが、全てはできません」
創は城東支店で訪問した森崎工機と、三谷の言葉を思い出した。
『投資しない場合も見ろ』
その考え方は、中国でも変わらなかった。
夕方の簡易報告。
「宮嶋さん。今日の視察から何を持ち帰りますか?」
「情報ではなく、考え方です」
「具体的には?」
「中国でも、投資する理由だけでなく、投資しない場合の影響を見る。ただし日本国内より、部品供給、為替、物流などの外部要因が多いと感じました」
「いいですね」
「ありがとうございます」
頭取と行員。
その境界は、二日目も崩れなかった。
◇◇◇
三日目。
上海。
午前中は、青嶺中央銀行、地域銀行、中国現地法人によるオンライン会議。
創も若手同行者として参加した。
「この連携は、地域銀行のお客様を青嶺中央銀行のお客様へ置き換えるためのものではありません」
璟瑶が冒頭で明確に告げる。
「地域銀行が顧客との関係を維持し、青嶺が中国側の機能を補完する。その役割を崩さないでください」
創は静かに聞いていた。
自分が参加していなかった日本の重役会議でも、璟瑶は同じことを言っていた。
巨大銀行だから、全ての顧客を奪うのではない。
地域銀行と青嶺中央銀行が、それぞれの強みを使う。
午後、一行は航空便で上海から深圳へ移動した。
高層ビルが並ぶ近代的な街。
「上海とは、かなり雰囲気が違いますね」
「そうですね」
「頭取は、深圳へよく来られるんですか?」
「中国業務を担当していた頃は何度も来ました。今も年に数回訪れることがあります」
創は改めて感じる。
自分の知らない璟瑶が、まだたくさんいる。
恋人になるよりずっと前から。
中国、日本、東アジアの金融現場で経験を積み重ね、今の頭取になった。
◇◇◇
四日目。
深圳。
璟瑶は中国語、英語、日本語を切り替えながら、法人懇談へ臨んだ。
創は経営会議には参加せず、若手実務担当者との意見交換と現地工場の視察へ向かう。
設備。
物流。
倉庫。
製造現場。
「宮嶋さん、どう?」
同行する国際部門の三枝悠斗・二十九歳が尋ねた。
「情報量が多すぎます。海外法人営業では、普段から全部見ているんですか?」
「全部は無理だよ」
「やっぱり?」
「だから現地法人、審査、為替、法務などの専門部署を使う。一人で全て分かる銀行員なんていない」
「では、担当者は何を見るんですか?」
「何が問題なのかを見つけることじゃないかな」
自分で答えられなくても。
誰に確認すべきかを判断できる。
創は、同期の水無瀬琴葉から言われた言葉を思い出す。
『前より、人に聞くのが上手くなった』
これまで学んだことが、少しずつ一つにつながっていった。
◇◇◇
五日目。
深圳。
中国出張最終日。
璟瑶と水城は、現地金融機関の経営陣との協議へ参加した。
創は別室で、五日間の同行報告をまとめる。
『地域銀行が国内顧客との関係を維持し、青嶺中央銀行が海外拠点、為替、現地金融、専門機能を補完することに連携の意義がある』
『海外法人支援では、設備投資だけでなく、物流、現地雇用、為替、部品供給、決済、親会社との資金関係まで見る必要がある』
『一人の担当者が全てに精通する必要はない。ただし、何が論点で、誰へ確認すべきかを把握する力は必要である』
そして最後に、一文を加えた。
『海外でも、「確認」は入口である』
創は少し笑う。
三谷が読めば、きっと言うだろう。
『やっと分かったか』
◇◇◇
午後四時五十分。
最終報告会。
「五日間、ありがとうございました」
璟瑶は現地スタッフへ頭を下げた。
「各案件は東京へ持ち帰り、担当部署で必要な判断を整理してください。全てを私が直接決める必要はありません」
現地で判断できるものは現地で。
本店承認が必要なものは、通常の決裁経路へ。
「宮嶋さん。若手同行報告は、帰国後に法人営業第一部と全国地域銀行連携本部へ提出してください」
「承知しました」
「水城さん。本店への終了報告をお願いします」
「承知しました」
午後五時三十二分。
中国出張の全公式日程が終了した。
「頭取。ここから私用休暇へ切り替わります」
「はい」
「宮嶋さんも年次有給休暇へ移行。私は今夜ホテルで待機し、明朝、上海経由で帰国します」
「お願いします」
創は水城へ一礼した。
「五日間、ありがとうございました」
「こちらこそ。初めての海外出張はどうでしたか?」
「頭の中がいっぱいです。でも、かなり勉強になりました」
「それならよかったです」
水城は璟瑶へ向き直る。
「休暇中の緊急連絡は、久世副頭取、劉川秘書、私の三経路に限定します。通常案件は送りません」
「ありがとう」
「ご実家で、ゆっくりしてきてください」
「そうします」
「宮嶋さんも中国に残るんですよね?」
「はい。私用で少し」
「そうですか。お気をつけて」
水城は、それ以上聞かなかった。
頭取と宮嶋が、同じ重慶へ向かうとは思っていない。
水城を乗せた車がホテルへ向かい、見えなくなる。
創と璟瑶の周囲から、銀行関係者がいなくなった。
午後五時四十七分。
「……創」
五日ぶりに呼ばれた名前。
創も笑う。
「璟瑶。お疲れさま」
「お疲れさま」
たったそれだけで、二人の間の空気が変わった。
「やっと終わった」
「仕事でしょう?」
「分かってる。でも五日間、ずっと『頭取』『宮嶋さん』だった」
「そうね」
「同じ中国にいて、近くにいるのに、ずっと他人みたいだった」
「他人ではないでしょう。銀行では頭取と行員だっただけ」
「今は?」
璟瑶は柔らかく笑った。
「恋人」
「よし」
「何がよしなの?」
「戻った」
◇◇◇
その夜。
二人は深圳から空路で重慶へ向かった。
重慶江北国際空港。
飛行機を降りた創は、初めて重慶の空気を吸う。
少し湿った空気。
夜の光。
山と坂。
「璟瑶、すごい」
「何が?」
「街」
車へ乗ると、創は窓の外を見続けた。
高低差のある道路。
何本もの橋。
斜面に立つ高層ビル。
山と都市が幾重にも重なっている。
「東京と全然違う」
「重慶は、坂、橋、川、山。その全てが街の一部なの」
「あれは?」
「長江」
暗い水面に、街の光が反射している。
「これが長江……」
「もう一つは?」
「嘉陵江」
「覚えていたの?」
「勉強した」
「えらい」
「家族紹介前だから!」
「関係ある?」
「全部ある!」
創は、窓の外へ釘付けになった。
「璟瑶は、ここで育ったんだね」
「幼い頃は、日本と中国を行き来した時期もあった。でも重慶は、私にとって家なの」
その言葉を聞いた瞬間。
創の目に映る街が、少し違って見えた。
ここは、恋人が生まれ育った場所なのだ。
◇◇◇
「お腹は空いた?」
「少し。重慶らしいものが食べたい」
「本当に? 辛いわよ」
「覚悟してる」
「火鍋は?」
「いきなり最終ボス!」
璟瑶は、辛さをある程度調整できる馴染みの料理店へ創を連れていった。
二人きりの個室。
「まずは重慶小面」
「辛い?」
「普通に辛い」
「もう逃げたい」
「重慶らしいものを食べたいと言ったでしょう?」
赤い油。
唐辛子。
花椒の香り。
創が一口食べる。
「……っ! 辛い!」
「知ってる」
「舌が痺れる!」
「花椒ね」
「璟瑶、普通に食べてる!」
「重慶人だから」
「強すぎる!」
璟瑶は笑った。
しかし一瞬だけ、箸が止まる。
「どうした?」
「何でもない」
「辛い?」
「まさか。少し疲れただけ」
「五日間ずっと会議と移動だったからね。疲れて当然だよ」
「そうね」
この時、二人はまだ、ただの出張疲れだと思っていた。
◇◇◇
食後、車は重慶の夜景の中を走る。
洪崖洞方面に広がる、立体的な光景。
山、川、道路、鉄道、高層ビル。
全てが重なって見える。
「何これ……写真で見たことはあるけど、実物はもっとすごい」
「きれいでしょう?」
創が車内から写真を撮ろうとする。
「創、窓に反射してる」
「本当だ」
「明日、きれいに見える場所へ連れていく」
「家族紹介の後?」
「当然」
「先にそっちか……」
「忘れようとしないで」
中心部を離れ、住宅地が増えていく。
「あと二十分くらい」
創が急に黙った。
「どうしたの?」
「現実に戻って、緊張してきた」
「大丈夫。私がいるから」
「うん」
「父も、創を殺したりしない」
「基準がそこなの!?」
璟瑶が笑う。
その後、小さなあくびをした。
「珍しい」
「私だってあくびくらいするわよ」
「俺の前では、あまり見たことない」
「今日は朝が早かったから」
数分後。
また、あくび。
「二回目」
「数えないで」
「眠い?」
「少し。最近、何となく眠いのよね」
「いつから?」
「出張が始まる少し前から」
「仕事が忙しかったからじゃない?」
「多分」
「身体がだるい?」
「少し。でも熱はないし、風邪でもないと思う」
「明日は休んで。昼寝してもいいから」
璟瑶は創を見る。
「私の実家で私が昼寝したら、創は父と二人きりになるけど?」
創の顔が固まる。
「絶対に起きてて」
「さっきと言ってることが違う」
「昼寝禁止!」
「ひどい彼氏」
「命がかかってる」
「大げさね」
二人は笑った。
それでも璟瑶の目には、いつもより強い眠気が残っていた。
本人も創も、五日間の出張疲れだと思っている。
宮嶋家で将来や子どもの話をし、その夜を二人で過ごしてから一〜二週間。
璟瑶の身体に起きているかもしれない小さな変化へ、二人はまだ結びつけていなかった。
◇◇◇
「創、見えてきた」
住宅地の奥。
広い庭と門を備えた、落ち着いた大きな家。
「……あれ?」
「私の実家」
「普通の家って言ってなかった?」
「普通でしょう?」
「どこが!?」
「宮殿ではないわよ」
「比較対象がおかしい!」
豪華絢爛ではない。
中国の伝統的な要素と、美智子の日本的な好みが自然に混ざった住宅だった。
車が門を通る。
「無理。帰りたい」
「ここまで来て?」
「ホテルへ」
「駄目」
「近くの宿」
「駄目」
「車で寝る」
「もっと駄目」
璟瑶は創の手を握った。
今はもう、頭取と行員ではない。
「創。大丈夫」
「……うん」
「私も緊張してる」
握られた手が少し冷たい。
「自分の実家なのに?」
「自分の実家だからよ。父と母に恋人を紹介するのは、私も初めてなの」
「……俺も、ちゃんと璟瑶の隣にいる」
「ありがとう」
車が止まった。
運転手が到着を告げる。
(到地方了。)
「到着しました」
璟瑶が礼を言う。
(谢谢。)
「ありがとうございます」
二人はキャリーケースを降ろした。
門の向こう。
玄関には明かりがついている。
そして扉が開いた。
◇◇◇
玄関に現れたのは、欧陽美智子・六十八歳。
美智子は娘を見た後、その隣に立つ若い日本人男性へ目を向けた。
「璟瑶」
「……お母さん」
創は背筋を伸ばし、練習した中国語で挨拶する。
(阿姨好。初次见面,我叫宫岛创。)
「こんにちは。初めまして、宮嶋創と申します」
美智子は一瞬驚き、すぐに日本語で優しく答えた。
「初めまして。宮嶋創さん?」
「……!」
創が固まる。
「どうして俺の名前を?」
「お母さん!」
美智子は楽しそうに笑った。
「前の電話で、自分から『創』と言ったでしょう?」
創は璟瑶を見る。
「言ったの?」
「……うっかり」
「聞いてない!」
「名前だけよ!」
「ふふっ。やっぱり、あなたが創さんなのね」
「……はい」
「ようこそ、重慶へ」
「ありがとうございます」
その時、家の奥から低い男性の声がした。
「美智子。来たのか」
足音が近づく。
欧陽崇岳・七十二歳。
元青嶺中央銀行頭取。
崇岳は娘を見た後、その隣に立つ創へ視線を移した。
一秒。
二秒。
三秒。
「誰だ」
創の喉が乾く。
璟瑶も小さく息を吸った。
ついに、この瞬間が来た。
「お父さん。お母さん」
璟瑶は創の隣に立つ。
「紹介したい人がいるの」
崇岳は黙ったまま、創を見ている。
「この人は――」
宮嶋創・二十一歳。
日本人。
青嶺中央銀行の若手行員。
そして、欧陽璟瑶より二十四歳年下の恋人。
五日間の中国出張は終わった。
ここから、本当の意味での重慶家族紹介編が始まる。
さらに、誰もまだ気づいていない。
車内で何度も出たあくび。
いつもより強い眠気。
わずかな身体のだるさ。
その小さな変化の意味に、数日後、母・美智子が最初に気づくことになる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、五日間の中国出張と、重慶到着までを描きました。
上海、深圳で創が学んだのは、海外法人支援では設備投資だけでなく、為替、物流、雇用、決済、親会社との関係まで広く見る必要があるということ。
それでも基本は同じ。
「確認は入口」
これまで三谷や瑞央銀行で学んできたことが、中国でもつながり始めています。
そして業務終了後。
二人はついに、璟瑶の故郷・重慶へ。
母・美智子にはすでに「創」という名前を知られていましたが、父・崇岳はまだ何も知りません。
玄関で向けられた、
「誰だ」
の一言。
次回、いよいよ璟瑶自身の口から、創が二十一歳の恋人であることが明かされます。
そしてもう一つ。
最近続いている璟瑶の眠気とだるさ。
まだ小さな変化ですが、この重慶滞在中に少しずつ意味を持ち始めます。
第46話へ続きます。




