第44話「二十一歳の恋人を連れて帰ります――母だけが気づいていた帰省の理由」
第44話です。
中国出張を翌日に控え、璟瑶はついに母・美智子へ本当の帰省理由を少しだけ明かします。
「今回は、一人じゃない」
名前も年齢も職業も、まだ秘密。
それでも美智子の返事は――。
「やっぱり」
すでに母には、かなり気づかれていたようです。
一方、創も和久と恵美子へ中国行きを報告。
五日間は青嶺中央銀行の正式な中国出張。
その後は有給へ切り替え、璟瑶の故郷・重慶へ向かいます。
今度は創が、恋人の両親へ挨拶する番。
しかも相手は、元青嶺中央銀行頭取・欧陽崇岳。
「元頭取だろうが父親だろうが、自分の言葉で答えろ」
父からそう送り出された創。
いよいよ、中国へ出発します。
中国出張前日。
木曜日。
午後七時四十二分。
青嶺中央銀行本店、四十二階。
頭取室。
「問題ありません」
欧陽璟瑶・四十五歳は、最後の決裁書へ署名した。
「水城さん。明日の集合時刻は?」
「成田空港、午前七時二十分です」
第二秘書・水城絢乃が日程を確認する。
「宮嶋さんは法人営業第一部から、直接空港へ向かいます」
「分かりました」
上海到着後、午後三時から青嶺FG中国事業統括会議。
二日目は中国現地法人との戦略会議、地域銀行連携案件、日系企業との面談。
三日目に上海から深圳へ移動。
四日目は法人懇談。
五日目は現地金融機関との協議を行い、午後五時三十分を目安に公式出張を終了する。
「そこから頭取は私用へ切り替え、重慶へ向かわれます」
「はい」
「緊急案件は久世副頭取経由。それ以外は帰国後に対応します」
「そのように手配しています」
「ありがとう。今日は以上です」
「お疲れさまでした」
午後七時五十二分。
水城が退室すると、頭取室は静かになった。
璟瑶は私用スマートフォンを手に取る。
明日から五日間、中国で仕事。
その後は重慶へ帰省する。
今回は一人ではない。
「……そろそろ言わないと」
母の欧陽美智子は、すでにかなり察している。
以前の電話では、璟瑶がうっかり「創」という名前まで口にしてしまった。
それでも、二十一歳の日本人男性であり、自分の恋人だとは伝えていない。
璟瑶は覚悟を決め、母へ電話をかけた。
◇◇◇
中国・重慶。
日本より一時間遅い、午後六時五十三分。
『もしもし?』
「お母さん」
『璟瑶。明日でしょう?』
「覚えてたの?」
『娘が中国へ帰ってくるのに、忘れる母親がいる? 最初は上海、その後は深圳でしょう?』
「うん。それから重慶」
『仕事は何日?』
「五日間」
『前より伸びたのね』
「案件が増えたから」
『相変わらず、帰省の前まで仕事を詰めるのね』
「私が増やしたわけじゃない」
『本当?』
「……半分くらい」
『やっぱり』
いつもなら、このまま仕事の話が続く。
しかし今日は、別の本題があった。
「お母さん」
『何?』
「重慶へ帰る時……今回、一人じゃない」
一秒の沈黙。
『やっぱり』
「……やっぱりって何?」
『やっぱりは、やっぱりよ』
「驚かないの?」
『誰なのか、何歳なのか、何をしている人なのか。聞きたいことはたくさんあるわ』
「じゃあ、どうして聞かないの?」
『今聞いたら、あなたは逃げるでしょう?』
「……逃げない」
『その沈黙で分かるわ』
美智子は小さく笑った。
『だから、会ってから聞く。それに前の電話で「創」と言ったでしょう?』
璟瑶は額を押さえた。
「覚えてたのね……」
『忘れるわけないでしょう。でも、その人が誰なのかはまだ知らない』
「うん」
『だから、あなたの口から聞くまで待っています』
「ありがとう」
『紹介したい人なのね?』
「うん」
『大切な人?』
「うん」
『仕事上の相手ではなく?』
「違う」
『そう。では、楽しみにしています』
璟瑶は少し戸惑った。
「会う前から反対したり、心配したりしないの?」
『相手の年齢も仕事も国籍も知らないのに、何を反対するの?』
「それはそうだけど」
『ただ、あなたが自分から家へ連れてきたいと思った。その事実は大きいわ』
今まで、そんな人はいなかった。
『だから、まず会います。話はそれから』
「……うん」
◇◇◇
その時、電話の向こうから男性の声がした。
『美智子。電話は璟瑶か?』
父・欧陽崇岳、七十二歳。
元青嶺中央銀行頭取。
『そうよ』
『いつ帰るんだ。一人か?』
璟瑶が固まる。
美智子は楽しそうに言った。
『本人に聞けば?』
「お母さん!」
電話が崇岳へ渡される。
『璟瑶』
「……お父さん」
『元気か』
「うん」
『中国出張は五日間。上海と深圳。その後、重慶だな?』
「そう」
『何日滞在する?』
「数日」
『それで、誰が来るんだ』
いきなり核心だった。
「誰って?」
『一人ではないんだろう? 部下か』
「違う」
『秘書か』
「違う」
『取引先か』
「絶対に違う」
『では誰だ』
璟瑶は少し考えた。
電話では言わない。
創を隣に立たせ、自分の口で伝えたい。
「会ってから説明する」
『名前は?』
「内緒」
『年齢』
「内緒」
『仕事』
「内緒」
『国籍』
「内緒」
『全部内緒なら、何を聞けばいい』
「今は何も聞かなくていい。会ってから!」
崇岳は納得していない。
『美智子。お前は何か知っているのか』
『知らないわよ』
『名前も?』
一瞬だけ、美智子が詰まる。
知っているのは「創」という名前だけ。
しかし娘との約束を守り、夫には言わなかった。
『娘が自分で話すと言っているんだから、待ちなさい』
『……』
『元頭取だからといって、何でも先に聞き出さない』
『元頭取は関係ない』
『では父親として待つ』
『……分かった』
昔から父は強い。
しかし、母はもっと強かった。
「お父さん。本当に、会ってから全部話す」
『分かった』
「怒らない?」
『内容による』
「それが一番怖い」
『怒られるようなことなのか?』
「違う」
『なら、堂々と来い』
その言葉に、璟瑶は少し黙った。
「……うん」
『待っている。飛行機には気をつけろ。仕事も詰めすぎるな』
「お父さんにだけは言われたくない。頭取時代はもっとひどかったって、お母さんから聞いた」
『美智子』
『本当でしょう』
電話の向こうで夫婦の言い合いが始まる。
「じゃあ、明日早いから切るね」
『部屋は二つ用意してあるわ』
「もう?」
『母親だから』
「……ありがとう」
『待っています』
通話を終えた璟瑶は、椅子へ深くもたれた。
「……言った」
全てではない。
それでも。
『今回は一人ではない』
『紹介したい大切な人がいる』
そこまでは伝えた。
母は気づいている。
父はまだ、相手が二十一歳の日本人で、青嶺中央銀行の若手行員だとは知らない。
「創……頑張ってね」
◇◇◇
同日。
午後八時十二分。
宮嶋家。
「ただいま」
「おかえり。急にどうしたの?」
久しぶりに実家へ帰った創を、母・宮嶋恵美子が迎えた。
「少し話がある」
「璟瑶さん?」
「何で分かるの!」
「最近、あなたの大事な話は、だいたい璟瑶さん関係だから」
「母親、怖い」
「失礼ね」
リビングでは、父・宮嶋和久がテレビを消した。
「どうした?」
創は両親の前へ座り、深呼吸する。
「中国へ行くことになった」
「仕事?」
「半分」
最初の五日間は、青嶺中央銀行の正式な中国出張。
「頭取、水城さんという秘書、俺の三人で行く」
「璟瑶さんと?」
「仕事だから!」
「分かってるわよ」
「その顔は絶対、別の意味だった!」
和久は冷静に確認する。
「なぜお前が選ばれた?」
「瑞央銀行と東都共栄銀行への派遣経験。地域銀行連携と情報管理の評価です」
「頭取の指名では?」
「違う。そこは俺も最初に確認した」
久世副頭取が同席し、三部門で候補を選定。
最終候補二人から、創が選ばれた。
「それならいい」
和久は頷く。
「仕事と私生活は曖昧にするな」
「分かってる」
「それで、残り半分は?」
創は姿勢を正した。
「五日間の出張が終わった後、有給休暇に切り替えて重慶へ行く」
「重慶?」
「璟瑶の実家」
数秒の沈黙。
恵美子が笑った。
「来たわね。今度は、あなたが緊張する番」
「もうしてる」
「璟瑶さんも、うちへ来る前は服、髪、手土産を何度も確認したんでしょう?」
「した」
「今度はあなたが同じことをするのね」
「もうしてる!」
「早いわね」
創が会う相手は、元青嶺中央銀行頭取・欧陽崇岳。
「父さん。普通に名前を言わないで」
「知っているんだから仕方ない」
「俺、あの人に娘の恋人として会うんだよ。二十一歳で、二十四歳差」
「そうだな」
「生きて帰れる?」
「家族紹介で死ぬな」
◇◇◇
和久は、少し真剣な声になる。
「創。一つ覚えておけ」
「うん」
「相手が元頭取でも父親でも、聞かれたことには自分の言葉で答えろ」
「……」
「よく見せようとするな。分からないことを適当に答えるな」
銀行で大切にしている確認と同じ。
「質問をきちんと聞いて、考えて、自分で答えろ」
「うん」
「それで反対されたら?」
その可能性はある。
年齢差。
国籍。
頭取と若手行員。
簡単に受け入れられる関係ではない。
「逃げない」
「うん」
「反対する理由をちゃんと聞く。それでも俺は璟瑶と付き合いたいって、自分で言う」
「なら、それでいい」
恵美子からも一つ、お願いがあった。
「創。璟瑶さんを一人にしないでね」
「自分の実家なのに?」
「そういう意味じゃない」
璟瑶は、創以上に緊張するはず。
自分の両親へ、二十四歳年下の恋人を紹介するのだから。
「自分が怖い、緊張する。それだけじゃなく、璟瑶さんのこともちゃんと見てあげなさい」
「分かった」
手土産についても相談する。
母・美智子には和菓子。
父・崇岳には少し上等な日本茶。
「中国でお茶文化のある人へ日本茶って、変じゃない?」
「日本から持っていくから意味があるんだろう」
「なるほど」
「服はスーツではなく、ジャケットくらいでいいんじゃない?」
「璟瑶にも同じことを言われた」
「なら、その人の言うことを聞きなさい」
「母さんと璟瑶、最近意見が合いすぎ!」
「いいことじゃない」
「俺の逃げ道がなくなる!」
◇◇◇
三人で夕食を取りながら、創は話せる範囲で出張予定を説明した。
上海と深圳で、地域銀行や現地企業に関する業務を行う。
五日目の業務終了後から、完全な私用へ切り替える。
「出張中は、頭取とずっと一緒でも恋人になるなよ」
「ならない。銀行では頭取と宮嶋さん」
「それならいい」
恵美子が笑う。
「仕事が終わったら?」
「創と璟瑶」
「よろしい」
「何の確認!」
午後九時三十二分。
創は帰る準備をする。
玄関で、和久が肩を軽く叩いた。
「仕事はしっかりやってこい」
「うん」
「重慶では逃げずに挨拶してこい」
「分かった」
「璟瑶さんのご両親へ、よろしく伝えて」
恵美子が続ける。
「日本側の家族も、二人のことを真剣に考えていますって」
創は驚いて母を見る。
「そこまで言っていいの?」
「もちろん」
和久も頷いた。
「不安が全て消えたわけではない。ただ、お前たちが遊びではないことは分かった。それは向こうのご両親にも伝えていい」
「……ありがとう」
「帰ってきたら、家族紹介の結果を全部報告すること」
「仕事じゃないよ?」
「母親への報告義務です」
「そんな規程ない!」
「今日作りました」
「頭取より厳しい!」
笑いに包まれながら、創は宮嶋家を後にした。
◇◇◇
午後十時十二分。
自宅。
創はキャリーケースを開く。
五日分のスーツ、シャツ、ネクタイ。
革靴。
会社指定端末と充電器。
パスポート。
重慶で着る私服とジャケット。
手土産は、明日空港で購入する。
そこへ璟瑶から電話が入った。
『今、帰った?』
「うん。父さんと母さんにも話した」
『どうだった?』
「母さんには、『今度はあなたが緊張する番ね』って言われた」
『恵美子さんらしい』
「父さんには、元頭取でも父親でも、聞かれたことに自分の言葉で答えろって」
『……うん』
「それから二人とも、璟瑶のお父さんとお母さんへ伝えていいって」
『何を?』
「日本側の家族も、俺たちのことを真剣に考えていますって」
電話の向こうが静かになる。
「璟瑶?」
『……嬉しい』
「うん」
『本当に嬉しい』
創は少し笑った。
「そっちは、美智子さんに電話した?」
『した。一人ではないと言ったら、「やっぱり」って』
「もう完全にばれてる!」
『かなり』
「崇岳さんには?」
『まだ何も知らない』
「本当に?」
『今日、「誰が来るんだ」と聞かれた』
「何て答えたの?」
『会ってから説明する』
「璟瑶!」
創の顔が引きつる。
「俺、玄関で全部初披露されるの?」
『そう』
「無理!」
『頑張って』
「他人事!」
『私も隣にいる』
「本当に?」
『絶対に逃げない』
創は一度、深く息を吸う。
「じゃあ行く」
『うん』
「明日から、まず五日間は仕事」
『頭取と宮嶋さん』
「その後は?」
『創と璟瑶』
「そして重慶」
『うん』
少しの沈黙。
「俺、緊張してるけど、行けるのは嬉しい」
『……』
「璟瑶が育った場所を見られる。お父さんとお母さんに会える。それに、恋人として紹介してもらえる」
『創』
「何?」
『ありがとう』
「こっちこそ」
最後に二人は、境界をもう一度確認した。
「空港では?」
『頭取』
「ホテルでも?」
『頭取』
「会議、移動、食事」
『全て頭取』
「五日目の業務終了後は?」
璟瑶の声が柔らかくなる。
『璟瑶』
「分かった」
『おやすみ』
「おやすみ」
◇◇◇
同じ頃。
中国・重慶。
「美智子。結局、誰が来るんだ?」
崇岳はまだ問い続けていた。
「知らない」
「男か?」
「知らない」
「女か?」
「知らない」
「日本人か、中国人か」
「知らない」
「銀行関係か?」
「知らない」
「何なら知っている?」
美智子は少し笑う。
「璟瑶が、その人を大切にしていること」
「本人から聞いたのか?」
「聞いてない」
「では、なぜ分かる?」
「母親だから」
崇岳は黙った。
「会ったら、いきなり銀行の面接みたいに質問しないでよ」
「しない。家族として聞く」
「それ、もっと怖いんじゃない?」
美智子は笑い、崇岳は少し不満そうな顔をする。
二人はまだ知らない。
娘が連れてくる相手は、宮嶋創・二十一歳。
二十四歳年下の日本人。
青嶺中央銀行の若手行員。
雨の日に傘を貸したことから出会い、璟瑶から告白した恋人。
その全てが、数日後、欧陽家の食卓で明かされる。
まずは明日。
頭取・欧陽璟瑶。
第二秘書・水城絢乃。
若手行員・宮嶋創。
三人を乗せた飛行機が、日本から上海へ飛び立つ。
その先には、中国・重慶。
そして、まだ誰も気づいていない。
この旅の途中で、璟瑶の身体にも小さな変化が表れ始めることを。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、日中両方の家族へ出発前の報告をする回となりました。
璟瑶は美智子へ、
「紹介したい人がいる」
と初めてはっきり伝えます。
美智子はすでに「創」という名前を聞いているものの、娘自身が話すまで崇岳には黙っておくことを選びました。
そして宮嶋家では、今度は創が送り出される側に。
恵美子からは、
「今度はあなたが緊張する番ね」
和久からは、
「聞かれたことに、自分の言葉で答えろ」
という言葉を受けます。
五日間の中国出張では、あくまで「頭取」と「宮嶋さん」。
その後、仕事が終われば「璟瑶」と「創」に戻り、二人で重慶へ。
次回、第45話。
いよいよ中国へ渡り、璟瑶が生まれ育った重慶へ近づいていきます。




