第43話「頭取の中国出張――秘書は水城さん一人だけでお願いします」
第43話です。
今回は、中国出張の日程が本格的に動き始めます。
当初は短めの予定だった中国出張ですが、上海・深圳での案件や会議が重なり、正式に五日間へ延長。
同行秘書は、第一秘書・劉川ではなく第二秘書・水城絢乃一人だけとなります。
一方、創は私用で中国へ行くため、桐生へ通常の有給申請を提出。
ところがその直後。
四十二階から突然の内線が。
「頭取から、直接確認したい事項があります」
頭取室へ呼ばれた創に告げられたのは、思いがけない内容でした。
恋人としてではなく。
青嶺中央銀行の若手行員として。
創も正式な中国出張同行候補に選ばれることになります。
水曜日。
午前八時四十分。
青嶺中央銀行本店、四十二階。
頭取室。
「では、もう一度整理しましょう」
欧陽璟瑶・四十五歳。
青嶺中央銀行頭取兼青嶺FG副CEO・東アジア金融戦略統括。
その前には、副頭取の久世宗一郎、第一秘書の劉川景仁、第二秘書の水城絢乃が座っていた。
テーブルには、中国出張の暫定日程表。
一日目、東京から上海へ移動し、青嶺FG中国事業統括会議。
二日目、現地法人、地域銀行連携案件、日系企業との面談。
三日目、上海での会議後に深圳へ移動。
四日目、深圳で法人懇談、現地金融機関、関連会社との協議。
そして業務終了後。
『頭取私用・重慶』
「三日目、詰めすぎですね」
璟瑶が資料を見ながら言う。
「上海から深圳へ移動する前にオンライン会議まで入れると、実質的な休憩がありません」
水城の説明に、久世も頷いた。
「無理ですな。頭取が無理をするのは、いつものことですが」
「副頭取。余計です」
「事実です」
劉川が咳払いをする。
「現地法人から、もう一日追加してほしいとの要望も来ています」
「理由は?」
「地域銀行経由の中国進出支援案件で現地企業を訪問するためです。また、深圳でも日系企業三社との意見交換時間が必要です」
「それなら、三日では足りませんね」
「そもそも業務部分は四日程度の想定でした。それを三日へ圧縮しようとした頭取が悪い」
「……分かりました」
璟瑶は修正を決めた。
「正式な中国出張を五日間にします。上海三日、深圳二日。その後、業務を終了して私用へ切り替えます」
上海と深圳までが業務。
重慶への移動、宿泊、帰国を含む私的行程は全て私費。
出張精算も、五日目の業務終了時点で締める。
「それでよろしいでしょう」
久世が頷いた。
◇◇◇
「水城さんは五日目まで同行してください」
「承知しました。その後は帰国でしょうか?」
「原則として帰国。本店から別の指示があれば上海へ戻ってください」
「重慶滞在中の連絡は?」
「本当に必要な緊急連絡だけお願いします。ただし、私の実家へ来てもらう必要はありません」
「ご家族だけで過ごされるということですね」
「……はい」
完全な嘘ではない。
父と母。
そして、日程が合えば創。
しかし水城は、まだそのことを知らない。
「今回、水城さんへお願いするのは通訳ではありません。中国語での交渉は私自身が行います」
「承知しています」
「スケジュール管理、本店との連絡、会議資料、現地側との事務調整。緊急連絡の一本化をお願いします」
「承知しました」
「劉川さんは本店に残り、久世副頭取や各役員、国内案件からの連絡を集約してください」
「お任せください」
久世は水城へ念を押す。
「出張中、頭取が何でも自分でやろうとしたら止めてください」
「承知しました」
「ちょっと待ってください」
「今回は秘書が同行します。きちんと業務を任せてください」
「秘書を使う、という言い方は好きではありません」
「では、任せる」
「それなら」
水城が小さく笑う。
「任せていただけるよう準備します」
「お願いします」
午前九時二十分。
中国出張は、正式に五日間へ変更された。
その後は、重慶で数日間の私用休暇。
ただし、まだ一つだけ決まっていない。
創が休暇を取れるのか。
璟瑶は調べない。
働きかけない。
創自身の申請結果を待つ。
それが二人の約束だった。
◇◇◇
午前九時五十分。
法人営業第一部。
「宮嶋。少しいいか?」
桐生雅人に呼ばれ、創は小会議室へ入った。
「昨日提出した休暇申請についてだ」
『年次有給休暇申請』
期間は五営業日。
理由は『私用』。
「長めだな。何かあるのか?」
「私用で、中国へ行く予定があります」
「旅行?」
創は少し考えて答える。
「知人に会いに行きます」
「業務ではなく、完全な私用?」
「はい」
桐生は業務予定を確認する。
「東央精密製作所の案件は、この日程なら前週までに主要論点を整理できるな」
「はい」
「相沢への引継ぎは?」
「本人へ相談し、了承を得ています」
「休暇中の緊急連絡は?」
「原則、不要にしていただきたいです」
桐生は少し笑った。
「それでいい。仕事を休むための休暇だからな。海外へ行ってまで、法人営業第一部のメールを開くな」
「分かりました」
「休暇を承認する。ただし、出発前に担当案件をきれいに整理しておけ」
「ありがとうございます」
正式承認。
頭取の介入は一切ない。
人事への圧力もない。
通常の行員が通常の手続きで申請し、所属長が業務状況を確認して認めた休暇だった。
創は、そのことが少し嬉しかった。
◇◇◇
「休み、通った?」
デスクへ戻ると、教育担当の相沢拓也が尋ねた。
「通りました」
「中国だろ?」
「何で知ってるんですか?」
「引継ぎの時、お前が言った」
「そうでした」
佐伯遼も会話へ加わる。
「海外旅行?」
「完全な旅行というより、中国の知人に会いに行きます」
「中国語は話せるの?」
藤崎美優に聞かれ、創は首を振った。
「ほとんど話せません。今から最低限勉強します」
「知人との会話は?」
「日本語が通じます」
「どこへ行くの?」
「重慶です」
「重慶! 辛い料理!」
「やっぱり最初はそこなんですね」
相沢が真顔で言う。
「火鍋は覚悟しておけ。昔、出張で食べた翌日、胃が――」
「それ以上はやめてください!」
笑いが起きる。
誰も知らない。
創が会いに行く「知人」が、自分たちの銀行の頭取である欧陽璟瑶の両親だということを。
◇◇◇
午前十一時五十七分。
創は、正式に休暇が通ったことを璟瑶へ伝えようと考えていた。
しかし勤務中。
連絡は退勤後にするつもりだった。
その時、デスクの内線電話が鳴った。
表示は、四十二階。
「法人営業第一部、宮嶋です」
『宮嶋さん。頭取秘書室の水城です』
創の背筋が伸びる。
「お疲れさまです」
『頭取から、宮嶋さんへ直接確認したい事項があります。十二時十五分に四十二階へお越しください』
「俺にですか?」
『はい。受付で私か劉川がご案内します』
「承知しました」
通話を終えると、相沢が創を見る。
「四十二階?」
「はい」
「何をした?」
「俺も知りません!」
藤崎まで驚く。
「頭取室? 何かやらかした?」
「やってません!」
桐生は落ち着いていた。
「呼ばれたなら行ってこい。戻ったら必要な業務報告だけでいい」
「承知しました」
創には、嫌な予感があった。
おそらく中国に関する話。
だが、なぜ頭取室へ直接呼ばれるのか。
◇◇◇
午後零時十三分。
四十二階。
「宮嶋さん。お待ちしていました」
水城と劉川に案内され、創は頭取室へ入った。
室内には、璟瑶だけではなく久世副頭取もいる。
水城と劉川もそのまま同席した。
完全な業務の場だった。
「宮嶋さん。座ってください」
「失礼します」
テーブルに置かれた資料。
『中国出張・若手行員同行案』
「頭取、これは?」
「私から説明しましょう」
久世が資料を開いた。
「今回の頭取の中国出張は、現地案件の増加に伴い五営業日へ延長されました」
上海。
深圳。
地域銀行連携。
海外法人営業。
現地企業支援。
「そこへ現場視点を入れるため、若手行員一名を同行させる案が出ています」
創は嫌な予感の正体を理解した。
「候補が、俺ですか?」
「そうです」
創は璟瑶を見る。
璟瑶の表情は、完全に頭取だった。
「これは、頭取が俺を選んだのですか?」
当然の疑問。
璟瑶は静かに答える。
「その確認が必要だと考えたため、久世副頭取にも同席してもらっています」
「今回の候補選定は、頭取個人の指名ではありません」
久世が続けた。
全国地域銀行連携本部。
法人営業第一部。
国際部門。
三部門で条件を整理した。
法人営業経験。
地域銀行への派遣経験。
他金融機関との人材交流経験。
情報管理上の問題がないこと。
若手行員として現場視点を報告できること。
創は全ての条件に該当していた。
「候補者は他にもいましたか?」
「四人です。最終候補は二人」
「もう一人は?」
「中小企業金融部の若手行員です。ただ、瑞央銀行と東都共栄銀行、双方への派遣経験では宮嶋さんが上回りました」
「東都共栄銀行での情報管理評価も、候補理由に含まれていますか?」
「はい。良好な評価を受けています」
「つまり、まだ正式な業務命令ではない?」
「現在は本人意思の確認段階です。所属部門と人事の承認後、正式決定します」
◇◇◇
「宮嶋さん」
璟瑶が、頭取として創へ告げる。
「もし今回の同行を、私との私的な関係による特別扱いだと少しでも感じるなら、断って構いません」
水城と劉川は「私的な関係」の意味を知らない。
だが、創には十分伝わった。
「同行する場合、中国出張中の私は頭取。あなたは法人営業第一部の若手行員です。それ以外の関係はありません」
「はい」
「私的な行動、相談、特別な接触は一切なし。あなたの個人評価にも、私は関与しません」
「評価はどこが?」
「国際部門、法人営業第一部、全国地域銀行連携本部の三部門です」
「承知しました」
創は、もう一つ伝える。
「先ほど、私用で中国へ行くために申請した有給休暇が正式に承認されました」
ほんの一瞬だけ、璟瑶の目が柔らかくなった。
しかし、すぐに頭取へ戻る。
「そうですか」
久世が制度上の扱いを説明した。
「正式出張五日間の後、そのまま私用休暇へ切り替えることは可能です」
出張部分の費用は銀行負担。
その後の重慶滞在は本人負担。
航空券も、業務分を超える追加費用は創が負担する。
宿泊も五日目までは会社手配、それ以降は個人手配。
「分かりました」
創は少し考えた後、姿勢を正した。
「頭取。今回の中国出張への同行候補を受けます」
「……」
「正式な業務として受けます。ただし、所属部門と人事の承認を前提に」
「その通りです」
璟瑶は創を見た。
「一つ、言葉を訂正してください」
「何でしょう?」
「『私と中国へ行く』ではありません」
「……」
「青嶺中央銀行の中国出張団へ同行する、です」
創は少し笑いそうになりながら答える。
「承知しました」
「そこを間違えないでください」
「はい」
「では、正式手続きを進めます」
◇◇◇
午後一時。
法人営業第一部。
「戻りました」
「どうだった?」
桐生に聞かれ、創は必要な範囲だけ答える。
「中国出張の同行候補になりました」
部署内の動きが止まった。
「は?」
相沢が目を丸くする。
「さっき、私用で中国へ行くって言ってたよな?」
「言いました」
「今度は仕事でも?」
「はい」
「何それ!」
「俺が一番思ってます!」
桐生は選定理由を確認する。
「瑞央銀行と東都共栄銀行への派遣経験。地域銀行連携と情報管理の評価か?」
「はい」
「頭取による指名では?」
「ありません。久世副頭取同席の上、三部門選考と説明を受けました。最終候補は二人です」
「それなら分かった」
相沢が呆れたように笑う。
「宮嶋、本当に海外へ行くじゃん」
「仕事では行かないって言った直後なのに!」
「予言が当たったな」
「やめてください!」
北川玲奈が尋ねる。
「中国語、間に合います?」
「最低限は覚えます」
藤崎が得意そうに言う。
「你好」
「それくらい知っています!」
「谢谢」
「それも!」
「再见」
「もう帰らせないでください!」
笑いによって、創の緊張も少し和らいだ。
◇◇◇
午後三時四十分。
国際部門、法人営業第一部、全国地域銀行連携本部、人事による確認が終了した。
「宮嶋」
「はい」
「正式承認だ」
桐生が告げる。
「中国出張五営業日。若手同行者として決定した」
「ありがとうございます」
「ただし、遊びではない」
「分かっています」
「帰国後は、法人営業第一部と全国地域銀行連携本部の両方へ報告すること」
「承知しました」
「出張後の休暇も予定通り使っていい。業務終了後は、お前の時間だ」
「ありがとうございます」
こうして創は、正式に中国へ行くことになった。
五日間は業務。
その後は私用で重慶へ向かい、璟瑶の両親と会う。
◇◇◇
その夜。
午後八時十五分。
創の一人暮らしの家。
二人はテーブルを挟んで向かい合っていた。
「頭取。今日の昼は本当に驚きました」
「私も驚きました」
「呼んだのはあなたでしょう!」
「正式決定は私一人でしていません」
「それは分かってるけど」
創は不安を口にする。
「周囲から見たら、俺は頭取の中国出張へ同行して、そのまま同じ中国で休暇を取る。怪しく見えない?」
「だからこそ、今まで以上に線引きが必要です」
業務中は「頭取」と「宮嶋さん」。
移動、食事、会議、全て公式日程に従う。
私的な時間は一切混ぜない。
「五日目の業務終了時点で、完全に切り替える」
「うん」
「そこからは、創」
「璟瑶」
「そう」
創は頷いた。
「水城さんは、まだ何も知らないよね?」
「私たちの関係は知らない。重慶の実家へ一緒に行くことも、まだ伝えていません」
「五日間ずっと近くにいて、気づかれないかな」
「仕事中、普通にしていれば大丈夫です」
「普通って?」
「頭取と行員」
「それなら、俺たちが一番慣れてる」
二人は笑った。
しかし数日後。
水城が二人の秘密を知ることになるとは、まだどちらも想像していなかった。
◇◇◇
「業務後の航空券と移動を確認しましょう」
タブレットを開く。
出張部分は会社手配。
重慶への移動と帰国は自費。
「重慶でのホテルは?」
「実家です」
「俺も?」
「もちろん」
創の顔が引きつる。
「元頭取の家に泊まるの?」
「家族紹介ですから」
「ホテルは?」
「駄目」
「逃げ場がない!」
「ありません」
「最終面接より厳しい!」
持ち物も確認する。
出張用のスーツ。
重慶滞在用の私服。
両親へ挨拶する時は、少し整ったジャケット姿。
「手土産は?」
「いりません」
「いる」
「私が創の家へ持っていきすぎて、恵美子さんに注意されたでしょう?」
「だから俺は学んだ。適量にする」
母・美智子には和菓子。
父・崇岳には日本茶。
創はすぐにスマートフォンへメモする。
「創、かわいい」
「何が?」
「真剣にメモしてるところ」
「忘れたら終わる!」
「面接ではありません」
「俺にとっては面接なの!」
◇◇◇
続いて、最低限の中国語。
「創。まずは『叔叔好』」
「お父さんへの挨拶?」
「そう。お母さんには『阿姨好』」
「初めましては?」
「初次见面」
「難しい……」
「ゆっくりで大丈夫」
「叔叔好」
「不错」
「何?」
「悪くない」
「急に中国語で評価しないで!」
次は自己紹介。
「初次见面,我叫宫岛创」
「長い!」
「自分の名前を言っているだけです」
「日本語じゃ駄目?」
「父も母も日本語を話せます。でも最初だけ中国語」
「点数稼ぎ?」
「家族紹介です」
「絶対、面接だよ……」
二人はまた笑った。
◇◇◇
午後九時。
予定はかなり具体的になった。
上海と深圳で、五日間の正式出張。
頭取・欧陽璟瑶。
第二秘書・水城絢乃。
若手同行者・宮嶋創。
業務終了後は、創と璟瑶だけで重慶へ向かう。
「創」
「何?」
「今日、頭取室で選定経緯を確認してくれて、ありがとう」
「そこは曖昧にしたくなかった」
恋人だから選ばれた。
頭取に特別扱いされた。
創自身も、そう思いたくない。
「私も同じです。だから久世副頭取に同席してもらい、候補選定の経緯を全て説明しました」
「うん」
「創は、自分の経験と評価で選ばれた。それが大事です」
創は少し笑い、仕事の表情を作った。
「では頭取。中国出張、よろしくお願いいたします」
璟瑶も頭取の表情で返す。
「こちらこそ、宮嶋さん。五日間、よろしくお願いします」
「その後は?」
瞬時に恋人の顔へ戻る。
「創。重慶で絶対に逃げないでね」
「……もう怖い」
「まだ何も起きていません」
中国出張は五営業日。
上海三日、深圳二日。
出張団は、頭取、第二秘書、若手行員の三人。
しかし水城は、まだ知らない。
出張終了後、頭取と若手行員が同じ重慶へ向かうこと。
その目的が、璟瑶の両親へ創を恋人として紹介することだという事実を。
重慶では、母・欧陽美智子がすでに「創」という名前を知っている。
一方、父・欧陽崇岳はまだ何も知らない。
二人と秘密の間にあった距離は、少しずつ狭くなっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、中国行きが大きく形を変えました。
璟瑶の中国出張は五日間へ延長。
上海・深圳での正式業務を終えた後、そこから重慶への帰省は完全な私用へ切り替えます。
そして創も、瑞央銀行や東都共栄銀行での派遣経験、情報管理の評価を理由に、正式な業務同行者として中国出張へ参加することになりました。
もちろん、恋人だから選ばれたわけではありません。
久世副頭取も同席したうえで選定経緯を明確にし、業務中はあくまで、
「頭取」と「宮嶋さん」
として行動します。
さらに出張終了後は、創の有給休暇へ切り替えて重慶へ。
そして水城はまだ、二人が恋人同士であることも、その後同じ欧陽家へ向かうことも知りません。
頭取、秘書、若手行員。
三人で向かう中国出張。
その先には、いよいよ欧陽家への家族紹介が待っています。
第44話へ続きます。




