第42話「頭取から突然の報告――中国へ出張、そのまま重慶へ帰省します」
第42話です。
今回は、青嶺中央銀行の重役会議から始まります。
中国・東アジア金融戦略、地域銀行連携、海外法人案件、国内法人営業、システム投資――。
頭取として通常の議題を一つずつ進めた後、璟瑶から役員たちへ突然の報告が。
「近く、中国へ出張します」
上海、深圳で青嶺FG関連の業務を終えた後は、そのまま数日間だけ重慶へ帰省する予定です。
ただし、出張と私用は費用も日程も完全に分離。
さらに今回の同行秘書には、第一秘書・劉川ではなく第二秘書・水城絢乃を指名します。
一方その頃、重慶。
母・美智子の頭には、昨日娘がうっかり口にした一つの名前が残っていました。
「創……」
夫・崇岳へ話そうと思えば話せる。
それでも美智子は、娘自身が話す日を待つことにします。
火曜日。
午前八時三十分。
東京都千代田区大手町。
青嶺中央銀行本店、四十階。
重役会議室。
「それでは、始めましょう」
長い楕円形のテーブル、その中央。
青嶺中央銀行頭取・欧陽璟瑶、四十五歳。
昨夜、母との電話でうっかり「創」という名前を口にした女性とは思えないほど、その表情は完全に頭取のものへ戻っていた。
出席者は、副頭取の久世宗一郎、専務取締役の御子柴泰成をはじめとする役員陣。
第一秘書・劉川景仁。
第二秘書・水城絢乃。
今日の議題は、中国・東アジア金融戦略、全国地域銀行連携、海外法人金融、国内法人営業、人材交流、システム投資、経営管理。
そして最後に。
まだ誰も知らない、頭取からの報告が予定されていた。
◇◇◇
「まず、中国・東アジア金融戦略から」
国際部門担当の陳高明が資料を開く。
「今月、華東地区と華南地区で複数の案件が重なっています」
スクリーンには、上海、深圳、蘇州、広州。
青嶺FGの中国現地法人。
日系企業と中国企業。
協調融資、為替、設備投資、サプライチェーン再編。
「上海では、銀行、証券、リース三社合同の中国事業統括会議を予定しています」
議題は、日系企業の中国国内投資、中国企業の日本進出支援、人民元決済、サプライチェーン再編、地域銀行との中国支援連携。
「最後の項目は特に重要です」
璟瑶が言う。
「地域銀行単独では、中国現地で十分な支援体制を持てない場合があります。青嶺が現地窓口、為替、融資、法務専門家などの機能を補う」
「はい」
「ただし、地域銀行の顧客を青嶺が奪うように見える形にはしないでください」
顧客との関係を保つのは地域銀行。
青嶺中央銀行は、中国で必要となる機能を提供する。
「その役割分担を崩さないでください」
「承知しました」
深圳では、半導体、電子部品、物流を中心に現地法人六社との意見交換が予定されていた。
そのうち二社は、地域銀行から紹介された企業である。
「紹介元の地域銀行にも同席してもらいますか?」
「はい」
「当然です。青嶺だけで話を進めないでください」
久世が補足する。
「中国から東南アジアへのサプライチェーン再編も確認が必要ですな」
「そうですね」
璟瑶は頷いた。
「全てが中国から移るわけではありません。中国に残す工程、移転する工程、二重化する工程。それぞれ違います」
企業ごとに必要となる資金も変わる。
移転資金だけではない。
既存設備の更新、運転資金、物流拠点。
「『中国から移す』という言葉だけで、案件を単純化しないでください」
◇◇◇
午前九時十分。
全国地域銀行連携本部の瀬戸口陽介がオンラインで報告する。
『今月、地域銀行三行から海外支援に関する相談が五件来ています。中国二件、タイ一件、ベトナム二件です』
「企業規模は?」
『売上五十億円未満が三社、百億円超が二社です。ただ、一件について、地域銀行側から青嶺へ完全移管した方が早いのではないかという意見が出ています』
「駄目です」
璟瑶は即答した。
会議室が静まる。
「早いという理由で青嶺へ完全移管し続ければ、地域銀行側に海外支援の経験が蓄積されません」
長年付き合ってきた銀行から、突然「あとは青嶺へ」と言われれば、顧客も不安になる。
「地域銀行の担当者は残す。青嶺の専門家と現地拠点が一緒に入る。共同で経験を作ってください」
『承知しました』
海外法人金融では、中国華東地区の協調融資が報告された。
新たな参加候補行が、人民元建て五年の融資を提示している。
「融資条件は悪くありません。ただ、売上回収口座を参加行へ移すことが条件になっていますね」
「はい」
「融資参加と口座移管は分けて交渉してください。協調融資の見返りとして、顧客の資金決済を過度に拘束しないこと」
「承知しました」
◇◇◇
午前十時十五分。
国内法人営業。
「東央精密製作所の設備投資案件です」
創が関わる案件名が出ても、璟瑶の表情は変わらない。
「現場では、投資しない場合の設備停止、外注費、採用、技能承継への影響を検証中です」
「反対側は?」
「現状維持によって守れるものも整理しています」
「いいですね。投資する理由だけを集めれば、結論ありきになります」
投資しない選択にも合理性があるのか。
両方を並べて判断する。
「そのまま進めてください」
「承知しました」
この資料を作る若手行員が創であることを、役員たちは意識していない。
璟瑶も個別評価には触れず、通常の銀行案件として扱った。
続いて、東都共栄銀行への若手相互派遣の終了報告。
「制度評価は良好。重大事象はなく、前職派遣特有の情報管理上の論点も整理できました」
「個人評価は?」
「所属部門と人材交流室で処理します」
「それでお願いします」
創の評価を、自分へ特別に上げさせない。
それもまた、璟瑶が守る線だった。
システム投資では、法人融資申請の入力時間が一七%短縮した一方、差し戻し率が二%増えていた。
「速くなっても差し戻しが増えたなら、本当に改善したとは言えません」
「入力項目を削りすぎた可能性があります」
「全部を元に戻すのではなく、差し戻し原因となった項目だけを特定してください」
経営管理では、海外拠点のセキュリティ費用が予算を上回っていた。
「必要な支出なら、予算超過だけを理由に削らない。セキュリティを単純な経費削減対象にしないでください」
「承知しました」
◇◇◇
午前十一時四十五分。
通常議題が全て終了する。
「では、以上ですかな」
久世が資料を閉じかけた。
「いえ。最後に、私から日程に関する報告があります」
役員たちの視線が璟瑶へ集まる。
「近く、中国へ出張します」
国際部門担当の陳が顔を上げた。
「今回は上海と深圳を中心に、青嶺FG関連会議、現地法人、取引先、地域銀行連携案件をまとめて確認します」
「上海の事業統括会議と、深圳の法人懇談は現在調整中です」
「では、そこをまとめましょう」
「承知しました」
久世が尋ねる。
「期間は?」
「業務として四日程度を想定しています」
璟瑶は一度間を置いた。
「その後、数日間、重慶へ帰省します」
何人かの役員がわずかに目を上げる。
「ご実家へ?」
「はい。父と母のもとへ帰る予定です」
「頭取が中国出張後に、そのまま休暇とは珍しいですな」
久世は少し嬉しそうだった。
「私も休暇は取ります」
「それは結構です」
「副頭取、今かなり嬉しそうですね」
「頭取が休むのは貴重ですから」
会議室に小さな笑いが起きる。
「ただし、出張部分と私用部分は、費用も日程も明確に分けます」
上海と深圳までが業務出張。
そこから重慶への移動、帰省中の宿泊、私的な移動は全て私費。
出張終了時刻も記録する。
「当然、そのように処理します」
◇◇◇
「同行者は?」
久世が尋ねる。
「秘書は、水城さん一人にお願いします」
「……私ですか?」
「はい」
第一秘書の劉川ではなく、第二秘書の水城を選ぶ。
「今回、中国語対応と現地交渉は私自身で行えます。必要なのは予定管理、本店との連絡、緊急調整、資料管理です」
「承知しました」
「劉川さんには本店へ残り、頭取不在時の国内案件と役員連絡を集約してもらいます」
「合理的ですな」
水城が重慶まで同行するわけではない。
正式な出張部分まで随行し、その後は必要に応じて一日程度、本店との連絡窓口を担当する。
「私の実家へ同行してもらう予定はありません」
「承知しました」
「帰省中、私は頭取として常時業務対応するつもりもありません」
今度は、役員たちが少し驚いた。
「緊急時は久世副頭取へ。それでも私の判断が必要な場合のみ、秘書を通してください。通常案件は権限内で処理するか、私の復帰後へ回してください」
「承知しました」
「休暇中まで、全て私へ持ってこないでください」
黒崎常務が小さく呟く。
「普段から、もう少しそうしていただけると……」
「黒崎常務。今、何か言いました?」
「いいえ」
再び笑いが起きた。
久世が会議を締める。
「国際部門、秘書室、経営企画の三者で、本日中に出張日程案を作成してください。重慶への帰省は私用として処理します」
「お願いします」
役員たちが退室した後、久世だけが残った。
「久しぶりの帰省ですな」
「はい」
「お父上はお元気ですか?」
「元気すぎます。今でも青嶺中央銀行へ意見を言ってきます」
「元頭取ですからな。元銀行員というものは、完全には抜けません」
璟瑶は思わず創を思い浮かべた。
「創も――」
言いかけて止める。
「頭取?」
「何でもありません」
「ゆっくりしてきてください」
「まだ出張前です」
「先に申し上げておきます」
「ありがとうございます」
◇◇◇
午後零時十分。
頭取室。
璟瑶は劉川と水城を交え、改めて出張体制を確認した。
「水城さん。同行は可能ですか?」
「日程次第ですが、問題ありません」
「正式出張の終了まで同行してください。その後、必要なら一日程度、本店との連絡窓口をお願いします」
「重慶のご実家には、ご家族だけで?」
「……基本的には、そうです」
嘘ではない。
父と母。
そして日程が合えば、創。
しかし今は、水城へ伝える必要はなかった。
「帰省中に秘書業務を増やすつもりはありません。出張部分だけ、しっかり支えてください」
「承知しました」
「劉川さんは、本店側の連絡集約をお願いします」
「お任せください」
資料は日本語、中国語、英語の三言語で準備する。
中国企業との会談では、璟瑶が中国語で直接話す。
通訳は置かず、日本側出席者のために、必要最小限の日本語対応スタッフだけを同席させる。
こうして中国出張の日程が本格的に動き始めた。
一日目、上海。
青嶺FG中国事業統括会議。
二日目、現地法人と地域銀行連携案件を確認後、深圳へ移動。
三日目、法人懇談と現地金融機関との協議。
四日目、最終会議。
そこで業務出張は終了。
その後は私用に切り替え、数日間、重慶へ帰省する。
創の休暇が取れるかは、まだ分からない。
璟瑶から桐生や人事へ働きかけることはしない。
創自身が通常の手続きで申請し、その結果を待つ。
◇◇◇
同じ頃。
中国・重慶。
日本より一時間遅い、午前十一時過ぎ。
欧陽家のリビング。
窓の向こうには、重慶の坂道と住宅、高層建築、その奥に薄く山並みが見える。
欧陽美智子・六十八歳は、お茶を飲みながら昨日の電話を思い出していた。
『創と同じこと言ってる』
「……創」
四十五歳の娘は、これまで仕事ばかりだった。
青嶺中央銀行。
中国と日本。
東アジア金融。
出張。
役員会。
頭取。
恋愛について聞くことは、ほとんどなかった。
しかし最近、私用の電話が増えた。
声も柔らかい。
『今度、帰れるかもしれない』
『部屋は二つ』
そして。
『創』
「……」
男性。
おそらく日本人。
ただの同僚なら、娘はあんな言い方をしない。
「言おうかしら……」
廊下の向こうにある書斎を見る。
夫の欧陽崇岳・七十二歳。
元青嶺中央銀行頭取。
現在は完全に引退し、重慶で暮らしている。
ただし、毎朝経済紙を読み、中国、日本、アメリカの市場を確認し、時には現在の銀行経営へ意見を述べる。
「美智子」
呼ぼうとする前に、崇岳が書斎から出てきた。
「お茶をもらえるか?」
「どうぞ」
向かいへ座った崇岳が、美智子の顔を見る。
「昨日、璟瑶から電話があったんだろ?」
「どうして分かったの?」
「電話の後から、ずっと変な顔をしている」
「私が?」
「四十年以上夫婦をしている。分かる」
銀行の数字には鋭い。
娘の恋愛には鈍い。
しかし、妻の変化には気づく。
「璟瑶は帰ってくるのか?」
「帰れるかもしれないって。中国で仕事もあるみたい」
「上海か?」
「詳しくは聞いてない」
「深圳かもしれんな。今の青嶺は華南案件が増えている」
「あなた、引退したんでしょう?」
「している。ニュースを見ているだけだ」
「璟瑶にも意見を言ってるでしょう」
「意見だ」
「それを口出しと言うの」
崇岳はわずかに目を逸らした。
美智子は、昨日の名前を言うか迷った。
『創という人がいるみたい』
今伝えれば、夫は必ず聞く。
誰だ。
何歳だ。
何をしている。
どこで知り合った。
日本人か、中国人か。
しかし美智子自身も答えを知らない。
何より、娘は「父にはまだ言わないで」と頼んだ。
「昨日、璟瑶は他に何か言ったか?」
「帰れるかもしれない。それだけ」
「……そうか」
全てを話していないだけで、嘘ではない。
崇岳はお茶を飲みながら言う。
「帰ってくるなら久しぶりだ。仕事をあまり持ち込ませるな」
美智子は思わず笑った。
「あなたが言うの?」
「なぜだ?」
「頭取だった頃、家でもずっと資料を読んでいたでしょう」
「昔の話だ」
「璟瑶は完全にあなた似よ」
「それは少し困るな」
「今さら?」
二人は笑った。
それでも美智子の心には、「創」という名前が残り続けていた。
◇◇◇
昼食の準備をしながら、美智子は考える。
もし創が娘の恋人なら、どんな人だろう。
四十代。
同年代。
あるいは少し年下。
仕事関係の金融人かもしれない。
だが、ただの同僚なら、娘はわざわざ部屋を二つ用意してほしいとは言わない。
『今は、それ以上聞かないで』
間違いなく、何かがある。
「……誰なのかしら」
興味はある。
それでも美智子は、自分へ言い聞かせた。
「璟瑶が自分で話すまで待とう」
それが母としてできることだった。
崇岳へ話せば、元銀行家の人脈で調べかねない。
「それは絶対に駄目」
頭取ではなく、娘の欧陽璟瑶として、自分の言葉で話させたい。
「美智子、昼はまだか?」
「もうすぐです」
「何を作っている?」
「麻婆豆腐」
「辛いか?」
「普通です」
「もっと辛く」
「あなた、七十二歳なんだから少し控えなさい」
崇岳は不満そうな顔をする。
美智子は笑いながら、ふと思った。
もし璟瑶が本当に誰かを連れて帰るなら。
その人は、辛いものが食べられるだろうか。
まだ知らない。
宮嶋創・二十一歳。
日本人。
青嶺中央銀行法人営業第一部の若手行員。
娘より二十四歳年下の恋人。
そんな相手だとは、想像すらしていなかった。
◇◇◇
午後五時四十分。
青嶺中央銀行本店、頭取室。
「頭取。中国出張の第一案ができました」
水城が日程表を差し出す。
上海二泊。
深圳二泊。
その後。
『頭取私用』
『重慶 三日間』
璟瑶の視線が止まった。
「三日間では短いですか?」
「……一旦、三日で」
「承知しました」
三日あれば、父と母へ創を紹介できる。
家で食事をし、重慶の街を少し案内することもできるだろう。
「頭取。重慶で何か特別な予定が?」
璟瑶はわずかに微笑んだ。
「家族に会うだけです」
「承知しました」
今は、それだけ伝えればいい。
◇◇◇
その夜。
璟瑶は創へメッセージを送った。
『中国出張がかなり具体的になってきた』
『本当に?』
『上海と深圳。その後、重慶』
『俺はまだ有給申請してない』
『通常の手続きで申請して』
『頭取から桐生さんへ圧をかけない?』
『かけません』
『人事にも?』
『言いません』
『俺の有給残数も?』
『調べません』
『よし』
『何で私が試験されてるの?』
『コンプライアンス確認』
『厳しい彼氏』
『銀行ではね』
璟瑶は少し笑った。
そして、もう一つ入力しかける。
『昨日、お母さんにあなたの名前をうっかり言った』
しかし、送信せずに消した。
今伝えれば、創は余計に緊張する。
重慶へ行く日程が正式に決まってから話せばいい。
中国。
上海。
深圳。
そして重慶。
頭取としての出張と、娘としての帰省。
二つは明確に分ける。
その重慶では。
父・欧陽崇岳は、まだ何も知らない。
母・欧陽美智子は、一つだけ知った。
『創』
という名前。
美智子は夫へ話すこともできた。
しかし、話さなかった。
娘自身が伝える時を待つために。
数日後。
重慶の欧陽家、その玄関に。
欧陽璟瑶と並んで、二十一歳の宮嶋創が立つ。
その日は、少しずつ近づいていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、璟瑶の中国出張が正式に動き始めました。
上海と深圳では頭取として青嶺FG、中国現地法人、地域銀行連携、海外法人案件を確認。
そして業務終了後は完全な私用へ切り替え、故郷・重慶へ帰省します。
「出張部分と私用部分の費用・日程は明確に分けます」
創との関係が絡むからこそ、璟瑶自身が線引きを徹底する形となりました。
同行するのは第二秘書・水城絢乃ただ一人。
ただし、この時点の水城はまだ、重慶に創もやって来ることも、二人が恋人同士であることも知りません。
そして重慶では、美智子が昨日聞いてしまった「創」という名前を崇岳へ伝えるか悩みます。
しかし最後は、
「璟瑶が自分で話すまで待とう」
と決断。
何も知らない父・崇岳。
すでに何かを察し始めている母・美智子。
そして、少しずつ固まっていく中国への日程。
第43話へ続きます。




