第38話「先輩が帰ってきた――松岡海斗と、あの日渡した『業務確認メモ』」
第38話です。
今回は、後輩・松岡海斗が中心となる回です。
創が東都共栄銀行を退職する最終日に渡した、手書きの『業務確認メモ』。
そのメモを松岡は今でも大切に保管し、規程変更を書き足しながら使い続けていました。
さらに今の松岡は、瀬川悠斗、藤崎翔、桜井美月、白石陸という四人の若手を教える立場へ。
かつて創から教わったことが、今度は松岡から次の後輩へ伝わり始めています。
そして昼には、創が昔から通っていた『お食事処 花乃家』へ。
女将・花村千鶴との久しぶりの再会も描かれます。
創が知らない間にも、城東支店では時間が流れ続けていた――。
そんなことを実感する第38話です。
火曜日。
午後零時二十分。
東都共栄銀行・城東支店。
派遣二日目。
松岡海斗・十九歳は、自分の席から少し離れた場所にいる宮嶋創を何度も見ていた。
かつて、松岡にとって一番身近だった先輩。
今、その胸元にあるのは東都共栄銀行ではなく、青嶺中央銀行の行員証だった。
「……本当に帰ってきたんだな」
小さく呟き、すぐに思い直す。
正確には、帰ってきたのではない。
昨日の朝礼で、創自身が言っていた。
『東都共栄銀行へ戻ってきた元行員ではなく、青嶺中央銀行から派遣された宮嶋創として来ました』
それでも松岡にとっては、宮嶋先輩が城東支店にいるというだけで懐かしかった。
入行したばかりの頃。
松岡は、何をするにも不安だった。
振込。諸届。本人確認。法人書類。端末操作。電話応対。
そんな松岡の隣へ、創は何度も座った。
『分からなかったら聞け』
『でも、その前に一度自分で確認する』
『それでも分からなければ聞けばいい』
『聞くことは悪くない。確認しないまま進める方が危ない』
そして退職の日。
創は数枚の紙をまとめた、手書きの『業務確認メモ』を松岡へ渡した。
最後のページには、三つの言葉があった。
『分からないことを、分からないまま進めない』
『必ず確認する』
『一人で抱えない』
松岡は今も、その言葉を覚えていた。
「松岡」
「はい!」
三谷雅臣が声をかける。
「さっきから宮嶋を見すぎだ。仕事しろ」
「はい!」
創が笑う。
「昔から分かりやすいな」
「先輩が急に帰ってくるからですよ!」
「帰ってきたわけじゃない」
「派遣でも同じです!」
三谷は二人の会話を切るように告げた。
「松岡。午後は今のお前の仕事を宮嶋に見せろ」
「本当にやるんですか?」
「今度は、お前が見られる番だ」
松岡は創を見る。
「緊張しますよ」
「俺も昔、毎日三谷さんに見られてた」
「今も見ている」
「怖い!」
「仕事だ」
◇◇◇
窓口側から、佐伯美咲が声をかけた。
「松岡君、そんなに緊張しなくても大丈夫よ。宮嶋君が辞めてから、ちゃんと頑張ってたじゃない」
小野寺奈緒も頷く。
「最初は端末操作で分からないことがあるたびに、『宮嶋先輩はどこですか』って探してたのに」
「やめてください!」
高瀬真由が続ける。
「今では新人に『そこ、もう一回確認して』って言ってるもんね」
創が驚いて松岡を見る。
「お前、そんなこと言うようになったの?」
「なりますよ!」
窓口主任の柴崎玲奈も微笑んだ。
「宮嶋君。松岡君、あなたが辞めてからかなり頑張ったのよ」
「ミスに気づいた時も、昔は固まってたけど」
河合美穂が言う。
「今は自分から『一旦止めます。確認します』って言えるようになった」
「電話も、新人へ教えられるようになりましたよ」
田所杏奈と橋本七海も口を揃える。
創が城東支店にいた頃から働く七人全員が、松岡の成長を認めていた。
「松岡」
「はい」
「本当に成長したんだな」
「……宮嶋先輩に言われると、三谷さんに言われるより恥ずかしいです」
「何だそれ」
三谷が眉を寄せる。
「だって、俺に一番近くで教えてくれたのは宮嶋先輩なので」
創は少しだけ黙った。
すると、松岡が何かを思い出したように立ち上がる。
「先輩。昨日話したメモ、持ってきます」
机の引き出しから透明なファイルを取り出し、その中の冊子を創へ差し出した。
「俺、今でも使っています」
表紙には、創の手書きでこう記されていた。
『松岡用 業務確認メモ』
「……本当に残ってる」
ページの端は折れ、何度も開いた跡がある。
付箋も増えていた。
『2026年4月改訂』
『現在の規程では変更』
『新人へ説明する時は、最初に目的を伝える』
『自分で分からない場合 三谷さん/倉持課長』
「松岡。書き込みが増えてる」
「俺が足しました」
「規程が変わったところも直したの?」
「古いまま使ったら、先輩に怒られるじゃないですか」
「俺、そんなに怒った?」
「怒るというより、『確認した?』って顔で言うんですよ」
「三谷さんじゃん!」
「人のせいにするな」
最後のページには、創が書いた三つの言葉が残っていた。
その下に、松岡自身の字で一文が加えられている。
『後輩が困っていたら、自分だけ分かって終わらない』
「これ、松岡が書いたの?」
「はい」
「どうして?」
「俺にも後輩ができたので」
「後輩?」
三谷が横から言う。
「宮嶋、お前は浦島太郎だな」
「三年くらいで大げさですよ。何人いるの?」
「四人です」
「四人!?」
今年入行し、預金・窓口後方事務を担当する瀬川悠斗・十八歳。
人当たりがよく、先へ進みたがる営業推進担当の藤崎翔・十九歳。
本人確認や諸届を学んでいる窓口研修中の桜井美月・十八歳。
法人営業補助として融資資料も作り始めた白石陸・二十歳。
「直属ではありませんけど、年齢が近いのでよく聞きに来ます」
「松岡が教えてるんだ」
「俺も宮嶋先輩に、そうしてもらいましたから」
三谷が腕を組む。
「宮嶋。お前、知らないところでちゃんと残したな」
「俺は辞める時、松岡が困らないように書いただけです」
「それで十分だ」
三谷は静かに言った。
「教えた相手が、次の誰かへ教える。仕事っていうのは、そういうものだ」
創は、使い込まれたメモを見つめた。
自分がいなくなった後も。
そこに書いたものは、止まらずに先へ進んでいた。
◇◇◇
午後零時三十五分。
倉持俊介が声をかける。
「お前たち、昼へ行かないのか?」
「行きます」
「宮嶋。今日は昔の店へ行くぞ」
創はすぐに分かった。
「まだあるんですか?」
「ある。女将さんが、お前を必ず連れてこいと言っていた」
「……行きます」
城東支店から徒歩六分。
昔から行員たちが利用している定食屋。
『お食事処 花乃家』
創、三谷、松岡、倉持、佐伯、小野寺の六人で暖簾をくぐる。
「いらっしゃ――」
女将の花村千鶴・五十八歳が、創を見て言葉を止めた。
「……創ちゃん?」
「お久しぶりです」
「創ちゃん!?」
「その呼び方、まだ続くんですか?」
千鶴はカウンターから出てくると、創の顔を確かめるように見た。
「本当に創ちゃん? いつ帰ってきたの?」
「帰ってきたというより、派遣です」
三谷が創の胸元を示す。
千鶴は青嶺中央銀行の行員証を見つめた。
「東都共栄を辞めて青嶺へ行ったと聞いたけど、本当に青嶺の人になったのね」
「なりました」
「立派になったじゃない」
「まだ普通の若手です」
「二十一歳なんて、私から見たらまだ子どもよ」
「社会人五年目です!」
「二十一は二十一」
佐伯が笑いながら説明する。
「宮嶋君、青嶺の本店で法人営業をしてるんですよ。地域銀行への派遣も経験して、今度は城東支店へ来たんです」
「出世した?」
「してません!」
「そこは全然」
「三谷さん!」
店内に笑いが広がった。
「創ちゃん、昔よく食べてたものでいい?」
「まだあるんですか?」
「あるよ」
「じゃあ、それで」
出てきたのは、鶏の照り焼き定食。
ご飯、味噌汁、小鉢、漬物、サラダ。
そして創のご飯だけ、昔と同じく少し多い。
「女将さん、これ大盛りですよね?」
「サービス」
「昔と同じ!」
「若いんだから食べなさい」
松岡が笑う。
「先輩、愛されてますね」
「お前もだろ」
「海斗も最近はちゃんと食べるようになったよ」
「女将さん!」
「昔は緊張すると食欲をなくして――」
「宮嶋先輩の前でやめてください!」
創が笑う。
「お前も俺と同じじゃん」
「違います!」
「似てるな」
三谷が言う。
「先輩と後輩だから」
昼食中、話題は自然に昔の創へ移った。
「創ちゃん、入行一年目に財布を忘れたの覚えてる?」
「待ってください」
「食べ終わってから気づいて、顔を真っ青にしてた」
「あった!」
「私もいた!」
佐伯と小野寺まで加わる。
「『明日払います』って何度も頭を下げてね。次でいいと言ったのに、翌朝、開店前にお金を持ってきた」
「もう忘れてください!」
「先輩らしいですね」
「うるさい」
「責任感は今も変わらんな」
倉持が笑った。
久しぶりなのに、まるで昨日もここで昼食を取ったような会話だった。
ふと、創は自分の行員証を見る。
『青嶺中央銀行』
それに気づいた千鶴が尋ねた。
「創ちゃん。寂しい?」
「え?」
「その名札。前と違うから」
創は少し考えた。
「変な感じはします。でも、嫌ではありません」
「そう」
「東都共栄銀行を辞めたことは後悔していません。でも、ここにいたことも後悔していません」
千鶴は優しく笑った。
「じゃあ、ちゃんといい転職をしたんだね」
「……はい」
「昔の場所を嫌いにならず、新しい場所も好きになれたなら、それでいいんじゃない?」
「女将さん、たまにすごくいいこと言いますね」
「たまには余計!」
「痛っ!」
軽く腕を叩かれ、全員が笑った。
店を出る時、千鶴が言う。
「青嶺へ戻っても、たまには来なさい」
「はい」
「銀行が変わったくらいで、顔を出しちゃいけない理由なんてないでしょう?」
創は笑って頷いた。
「また来ます」
◇◇◇
午後一時四十分。
城東支店。
松岡は四人の若手を創へ紹介した。
「瀬川悠斗、藤崎翔、桜井美月、白石陸です」
「宮嶋創です。今は青嶺中央銀行にいますが、以前はここで働いていました」
瀬川が元気よく答える。
「松岡さんから聞いています!」
「何を?」
「宮嶋先輩は確認に厳しいって」
創は松岡を見る。
「お前、俺の何を教えてるの?」
「いいところです!」
午後の業務が始まる。
松岡は、住所変更手続きに取り組む桜井の隣に立った。
「桜井さん。何を確認する?」
「本人確認書類、届出印、住所です」
「他には?」
「……」
松岡はすぐに答えを教えなかった。
「一度、手順表を見よう。どこまで自分で分かるか確認してみて」
「はい」
創は少し驚いた。
かつて自分が松岡へ伝えた言葉と同じだった。
『すぐ答えを聞く前に、一度自分で確認する』
しかし、ただの真似ではない。
松岡は桜井が自分で答えへたどり着けるよう、順番に問いかけていた。
次に藤崎が声をかける。
「松岡さん。法人先へ不足書類の電話をしてもいいですか?」
「何が足りない?」
「決算書です」
「何期分?」
「……確認します」
「電話する前に必要事項を全部整理しろ。一度の電話で済むように」
「分かりました」
瀬川が持ってきた振込依頼書にも、松岡はすぐ答えを言わない。
「俺が答える前に、依頼書と端末をもう一度見比べて。一致してる?」
「あ……支店番号が違います」
「なら、処理を止めて確認」
「はい」
創は思わず声をかけた。
「松岡。いいじゃん」
「何がですか?」
「教え方」
松岡は少し照れる。
「先輩の真似です」
「違う。俺は昔、もっと早く答えを言ってた」
「そうだな」
離れた場所から三谷の声が飛ぶ。
「三谷さん、聞いてるんですか?」
「聞こえる」
松岡は創のメモを指した。
「『一人で抱えない』『必ず確認する』。ずっと使っていたら、自分が教える時もそうなりました」
「……」
「それに、後輩には俺と同じ失敗をしてほしくないので」
創は笑った。
「それ、もうちゃんと先輩じゃん」
松岡は言葉を失った。
かつては、困るたびに「宮嶋先輩」と呼んでいた。
今、松岡の後ろからは。
「松岡さん」
そう呼ぶ声がある。
「はい」
松岡が振り向く。
その姿を見て、創は気づいた。
自分が城東支店を辞めた後も、ここで流れる時間は止まっていなかった。
松岡は成長し、新しい行員が入り、新たな先輩と後輩の関係が生まれている。
自分が残した数枚のメモも、ただ保存されていたのではない。
更新され。
使われ。
次の新人へ受け継がれていた。
◇◇◇
午後三時十五分。
創はメモを松岡へ返した。
「これ、もう俺のメモじゃないな」
「え?」
「半分は松岡のメモだ」
松岡は表紙を見つめる。
「これからも規程が変わったら直して。俺が書いたことが間違っていたら、消していい」
「いいんですか?」
「当たり前だろ」
「でも……」
「松岡。仕事は、昔の先輩の言葉を守ることじゃない」
創は真っすぐ後輩を見る。
「今の正しい手順を確認することだ。俺のメモより、今の規程、今の上司、今の東都共栄銀行を優先して」
「……はい」
それでも松岡は、最後のページを開いた。
『分からないことを、分からないまま進めない』
『必ず確認する』
『一人で抱えない』
「ここだけは残します」
創は少し笑った。
「それは残していい」
◇◇◇
午後五時十五分。
営業終了後。
「松岡」
「はい」
「今日はありがとう」
「俺がですか?」
「うん」
創は城東支店内を見渡した。
「俺、辞めた時、何かをここへ置いてきたような気がしてた」
「……」
「でも今日、違うって分かった」
「何がですか?」
「置いてきたんじゃなくて、残ってた」
「メモが?」
「それも。それから、松岡も」
「俺?」
創は笑う。
「ちゃんと先輩になったな」
松岡は照れくさそうに目を伏せた。
「俺、まだ全然ですよ」
「知ってる」
「ひどい!」
「俺も今日、三谷さんからまだ半人前だって言われた」
「じゃあ俺は、四分の一人前ですか?」
「知らん!」
二人が笑うと、後ろから三谷の声が飛んだ。
「二人とも、喋ってないで片付けろ」
「はい!」
「はい!」
同時に返事をする。
「そこまで似なくていい」
もう、同じ銀行に所属する先輩と後輩ではない。
宮嶋創は青嶺中央銀行。
松岡海斗は東都共栄銀行。
それでも、二人の間から消えていないものがある。
創が残した『業務確認メモ』。
そして、その中で最も大切な三つの言葉。
『分からないことを、分からないまま進めない』
『必ず確認する』
『一人で抱えない』
その言葉は創から松岡へ渡り、今度は松岡から瀬川、藤崎、桜井、白石へ伝わり始めている。
銀行員が銀行を辞めても。
そこで教えたことまで、全て消えるわけではない。
仕事は、人から人へ残っていく。
創は今日、初めてそのことを知った。
派遣は、残り三日。
次に創を待つのは、さらに難しい場面。
元同僚だから。
昔の上司だから。
かつて知っていた顧客だから。
それでも越えてはならない、情報の境界。
東都共栄銀行と青嶺中央銀行。
二つの銀行の間で、創自身の線引きが試されようとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、松岡の成長と、創が残したものが描かれました。
退職の日に渡した『業務確認メモ』。
それは今も松岡の手元にあり、ただ保存されているだけではなく、今の規程に合わせて更新され、実際の仕事で使われ続けていました。
そして今の松岡には、自分を頼ってくる後輩たちがいます。
「後輩が困っていたら、自分だけ分かって終わらない」
その一文は、もう創ではなく松岡自身が加えたもの。
創が教えたことが、そのままではなく、松岡自身の経験を加えながら次の世代へつながっていました。
また、昔通っていた『花乃家』では、女将・花村千鶴とも再会。
銀行は変わっても、昔お世話になった人とのつながりまで消えるわけではありません。
そして次回。
元同僚、元上司、昔から知る取引先。
親しい相手だからこそ難しい「情報の線引き」が、創に本格的に突きつけられます。
第39話へ続きます。




