第36話「ただいま……とは言わない――青嶺中央銀行員として、もう一度城東支店の扉を開く」
第36話です。
ついに創が、約四年間働いた東都共栄銀行・城東支店へ戻ります。
ただし今度は、
「ただいま」
ではありません。
青嶺中央銀行の派遣行員として。
神崎支店長、牧野副支店長、倉持課長、岸本課長、三谷、そして松岡たちとの再会。
懐かしさの中でも、創は「今日は青嶺中央銀行の宮嶋創として来ました」と自分の立場をはっきり示します。
その一方。
青嶺中央銀行では、重役会議中の璟瑶へ恵美子から一本の電話が。
「午後から、二人でお茶しませんか?」
頭取と創の母。
二人だけのスターバックス、そしてスーパーでの買い物。
創の知らないところでも、新しい家族の距離が少しずつ縮まっていく第36話です。
月曜日。
午前七時四十二分。
宮嶋創・二十一歳は、いつもの大手町ではなく、かつて毎日のように通った道を歩いていた。
見覚えのある交差点。
駅前のコンビニ。
朝の会社員たち。
そして、道路の向こうに見える看板。
『東都共栄銀行 城東支店』
「……」
十八歳で高校を卒業し、初めて社会人になった場所。
電話一本にも緊張し、伝票の書き方から教わった。
振込。諸届。預金。融資。法人営業。決算書。顧客訪問。
そして、何度も聞いた言葉。
『宮嶋、確認したか』
三谷雅臣。
創に銀行員としての「確認」を叩き込んだ元上司。
「……帰ってきた」
そう呟きかけて、創は首を振った。
「違う」
胸元の行員証に記されているのは、東都共栄銀行ではない。
『青嶺中央銀行株式会社』
『法人営業第一部』
『宮嶋創』
その隣には、今回の派遣者証。
『地域金融機関連携・相互派遣者』
「……よし」
創は一度息を整え、城東支店へ向かった。
◇◇◇
午前七時五十五分。
職員用入口。
以前なら自分の行員証で入れたが、今は違う。
創はインターホンを押した。
『はい』
「青嶺中央銀行から派遣で参りました、宮嶋創です」
一瞬の沈黙。
『……宮嶋?』
聞き覚えのある声だった。
間もなく扉が開き、融資営業課長の倉持俊介が現れる。
「宮嶋」
「お久しぶりです」
「お前……本当に青嶺の行員になったんだな」
「本当ですよ」
「知ってはいたが、実際に見ると変な感じだ」
「俺もです」
「入れ」
「ありがとうございます」
一歩、中へ入る。
空調と紙の匂い。コピー機の音。営業開始前の事務室。
何もかも懐かしい。
しかし、かつての自分の机はもうなかった。
「今回のお前の席はそこだ」
倉持が示したのは、派遣者用の仮設デスクだった。
「端末は派遣専用。閲覧権限も限定されている。昔のIDや知識で勝手に触るなよ」
「承知しています」
「そこは、お前なら大丈夫か」
「絶対に触りません」
午前八時を過ぎると、行員たちが次々に出勤してきた。
「おはようござい――」
最初に立ち止まったのは、窓口営業担当の佐伯美咲・二十七歳。
「……宮嶋君!?」
「お久しぶりです」
「何でいるの!?」
「今日から五日間、派遣です」
「聞いてたけど、本当に来ると思わなかった!」
続いて、小野寺奈緒・二十六歳。
「宮嶋?」
「はい」
「青嶺の人になって帰ってきた!」
「帰ってきたというより、派遣です」
騒ぎはすぐに窓口全体へ広がった。
高瀬真由・二十五歳。
「本物?」
「偽物がいるんですか?」
窓口主任の柴崎玲奈・三十歳。
「青嶺の行員証、見せて」
「何でですか?」
「確認」
「……その言葉に弱いんですよ」
創が行員証を見せると、資産運用担当の河合美穂・二十八歳が目を丸くする。
「本当に大手町本店の法人営業第一部」
「普通の若手です」
田所杏奈・二十四歳と、創の退職直前に配属された橋本七海・二十三歳も駆け寄ってくる。
「宮嶋さん、覚えてます?」
「もちろん」
「本当に戻ってきたんですね」
「五日間だけだけどね」
佐伯、小野寺、高瀬、柴崎、河合、田所、橋本。
七人全員が朝の準備を止め、創を見ている。
「皆さん、仕事してください!」
「あなたに言われたくない!」
「何でですか!」
そこへ低い声が飛んだ。
「何を騒いでいる」
副支店長、牧野浩明だった。
「宮嶋。久しぶりだな」
「ご無沙汰しております」
牧野は創の行員証を見て、淡々と言う。
「似合わんな」
「ひどい!」
「冗談だ。突っ込み方は変わってないな」
「そこは変わりません」
個人営業課長の岸本理沙も出勤し、創を見た瞬間に足を止めた。
「宮嶋? 何で普通に立ってるのよ!」
「今日から派遣です!」
「聞いてたけど!」
「皆さん、それしか言わないですね!」
懐かしい声と笑いが、朝の支店内に広がった。
◇◇◇
午前八時三十分。
支店長の神崎隆之・五十三歳が姿を見せると、創は自然に背筋を伸ばした。
「宮嶋」
「はい」
「久しぶりだな。青嶺では元気にやっているか」
「はい。毎日、かなり勉強させてもらっています」
「そうか」
神崎が差し出した手を、創は握り返す。
「五日間、よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
創は深く頭を下げた。
「本日より五営業日、青嶺中央銀行からの派遣行員としてお世話になります」
その直後、入口から慌ただしい足音が響く。
「すみません、遅れました!」
「松岡、遅いぞ」
「申し訳ありませ――」
十九歳の松岡海斗が顔を上げ、完全に停止した。
「……宮嶋先輩?」
「久しぶり」
「宮嶋先輩!?」
「声が大きい!」
「本当に青嶺中央銀行から来たんですか!?」
「本当!」
松岡は嬉しさを隠そうともせず、創へ詰め寄った。
「先輩、俺、まだ持ってます!」
「何を?」
「退職の日にもらった業務確認メモです!」
創の表情が止まる。
「まだ持ってるの?」
「捨てるわけないですよ!」
「……そっか」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「あとで見せて」
「もちろんです!」
◇◇◇
午前八時四十五分。
朝礼。
城東支店の全行員を前に、神崎が創を紹介した。
「本日から五営業日、青嶺中央銀行との若手相互派遣実証枠として派遣行員を受け入れる。紹介する必要のない者も多いだろうが――宮嶋創さんだ」
小さな笑いが起きる。
「元・当行城東支店勤務。現在は青嶺中央銀行本店、法人営業第一部所属」
創は一歩前へ出た。
「宮嶋創です。以前は城東支店の行員として、皆さんに大変お世話になりました」
一度、深く頭を下げる。
「ですが今日は、東都共栄銀行へ戻ってきた元行員としてではなく、青嶺中央銀行から派遣された宮嶋創として参りました」
全員の視線が集まる。
「以前知ったこと。青嶺中央銀行で知ったこと。そして、この派遣で新しく知ること。その三つを混同せず、情報管理を徹底します」
そして、顔を上げる。
「そのうえで、今の自分だからこそ東都共栄銀行から学び直せるものを、できるだけ多く吸収したいと思います。五日間、よろしくお願いいたします」
拍手が起きた。
続いて神崎が、支店全体へ厳しい声で告げる。
「宮嶋さんは昔の同僚だが、現在は青嶺中央銀行の派遣者だ。過去の顧客情報や内部情報を安易に尋ねないこと。当然、青嶺中央銀行の内部情報を聞き出す行為も認めない」
室内の空気が引き締まる。
「昔の仲間だからこそ、線を引く。五日間、全員で守ってほしい」
「はい」
創も静かに頷いた。
午前九時。
派遣者専用端末へログインする。
見覚えのあるシステムだったが、細部は以前と変わっていた。
「宮嶋」
「はい」
「昔の記憶で操作するな」
倉持が言う。
「全部、今の手順で確認しろ」
創は思わず笑った。
「懐かしいです」
「まだ初日の朝だぞ」
その時、背後から声がした。
「おはようございます」
創の指が止まる。
三谷雅臣・三十四歳。
かつての直属上司だった。
「三谷さん」
「……宮嶋」
「お久しぶりです」
三谷は近づくなり手を出した。
「青嶺の行員証、見せろ」
「皆さんそれを言いますね!」
「確認だ」
「やっぱり!」
行員証を確認した三谷は、しばらく創の顔を見つめた。
「本当に青嶺へ行ったんだな」
「はい」
「少し顔が変わった」
「太りました?」
「違う。銀行員の顔になった」
「……」
創が黙ると、三谷はすぐ普段の調子へ戻る。
「明日は俺と法人先を回る。甘やかさないからな」
「お願いします」
「昔の宮嶋としても扱わない。今のお前が何を見て、何を聞くのか見せてもらう」
「はい」
「青嶺で何を学んだか、明日には分かるな」
「相変わらず厳しいですね」
「確認不足なら、もっと厳しくする」
「それは困ります」
「なら確認しろ」
「はい」
懐かしい。
けれど、昔と同じではない。
創は早くも、その違いを感じ始めていた。
◇◇◇
同じ頃。
午前十時二十分。
青嶺中央銀行本店、四十階役員会議室。
欧陽璟瑶・四十五歳は、頭取として重役会議を進めていた。
国内法人営業、地域金融機関連携、システム更新、中国・東アジア事業。
副頭取の久世宗一郎・五十七歳が報告する。
「本日より、東都共栄銀行との相互派遣実証も開始しています」
「情報遮断措置は?」
「双方確認済みです」
リスク統括担当が続ける。
「派遣者は元行員という特殊事情があるため、旧ID、旧端末権限、旧共有領域へのアクセスは完全遮断。派遣専用権限のみ付与しています」
「前職だから便利なのではなく、前職だからこそ増えるリスクがあります。制度評価にも必ず記録してください」
「承知しました」
表情は変えない。
派遣者が誰なのか、璟瑶は知っている。
宮嶋創。
自分の恋人。
しかし、ここでは候補者の一人として通常選考を通過した派遣行員。それ以上でも以下でもない。
その時、私用携帯が震えた。
一度。
そして、もう一度。
普段なら会議中には見ない。
だが、表示された名前に璟瑶の目が止まった。
『宮嶋恵美子さん』
「……!」
昨日、創の母と交換したばかりの連絡先だった。
「申し訳ありません。五分休憩にしましょう」
璟瑶は隣の小応接室へ移り、電話に出た。
「もしもし」
『あっ、璟瑶さん?』
「はい。恵美子さん」
『ごめんなさい。お仕事中でした?』
「少し会議中でした」
『ええっ!?』
「大丈夫です。五分休憩にしました」
『青嶺中央銀行の重役会議を、私の電話で止めたの!?』
「ふふっ」
『笑い事じゃないですよ! すぐ切ります!』
「待ってください。何かありましたか?」
恵美子は少しためらってから答えた。
『昨日、きちんと話せなかったこともあって……もし午後に時間があれば、二人でお茶しませんか?』
「……」
『もちろん、お忙しければ別の日で』
「頭取ではなく」
『え?』
「創さんの彼女を誘ってくださっているんですよね?」
『……はい』
「でしたら、行きたいです」
璟瑶の胸が、静かに温かくなる。
「予定を確認して、折り返します」
『仕事を優先してくださいね。絶対ですよ』
「分かりました」
通話を終え、会議室へ戻る。
「緊急でしたか?」
久世に尋ねられたが、璟瑶は平静に答えた。
「私用です。続けましょう」
誰も、それ以上は聞かなかった。
午前十一時五十二分。
会議終了後、璟瑶は秘書の劉川景仁と水城絢乃に予定調整を依頼した。
「十四時前後から一時間半、本店を外せますか?」
二人は一瞬だけ驚いた。
頭取が平日の午後に私用で外出するのは珍しい。
「十五時四十五分まで、出席必須の会議はありません」
「資料確認は十七時以降へ移せます」
「では、そのようにしてください。随行も車も不要です」
「承知しました」
緊急時の決裁権限を久世へ預け、必要な引き継ぎも済ませる。
誰も知らない。
青嶺中央銀行頭取が会いに行くのは、自行で働く二十一歳の若手行員――その母親だった。
◇◇◇
午後一時五十五分。
大手町から少し離れたカフェ。
「璟瑶さん」
「恵美子さん」
璟瑶はジャケットを脱ぎ、シンプルなブラウスとカーディガン姿だった。
「本当に来てもらって、ごめんなさい」
「私が来たかったんです」
「でも、重役会議を止めたって……」
「五分だけです」
「五分でも重いです」
「今日は、その話はやめましょう」
璟瑶は柔らかく笑う。
「私は創さんの彼女として来ました」
「じゃあ、普通にお茶しましょう」
二人で注文を済ませ、向かい合う。
昨日は四人。
今日は、母と恋人の二人きり。
年齢差は、わずか五歳だった。
「昨日、帰ってから和久とかなり話しました」
璟瑶の背筋が伸びる。
「反対ではないです」
「……本当ですか?」
「はい。ただ、心配はします。母親だから」
二十四歳差。
創は二十一歳。璟瑶は四十五歳。
さらに、勤務先の頭取と行員。
「何も考えずに『いいじゃない』とは言えません」
「当然だと思います」
「でも、昨日一日見て、あなたが創を遊びで見ているとは思わなかった」
「ありがとうございます」
「だから今日は、母親としてもう少し聞きたかったの」
「何でも聞いてください」
恵美子はまっすぐに尋ねた。
「結婚は考えていますか?」
「はい」
即答だった。
「迷わないのね」
「昨日の夜、創さんとも将来について話しました。私は、いつか創さんと結婚したいと思っています」
「創も和久にそう言ったみたい」
「聞きました」
「でも、急がせないでください」
母親としての声だった。
璟瑶は真剣に頷く。
「そのつもりはありません。私が四十五歳で、時間を意識する部分がないとは言えません」
それでも。
「私の時間だけを理由に、創さんの人生を急がせるつもりはありません。仕事も、成長も、本人の希望も、全部二人で話して決めます」
「それなら、いいです」
少し間を置き、恵美子はもう一つ尋ねた。
「子どもは?」
璟瑶の手が、カップの周りで止まった。
「希望はあります。もし結婚して、可能なら、創さんとの子どもが欲しいです」
「……」
「一人。身体的にも環境的にも可能なら二人。ただ、高齢出産になることも、簡単な話ではないことも理解しています」
「創には?」
「昨日、話しました」
「何て?」
璟瑶の目が柔らかくなる。
「子どもが授かるかどうかで、結婚したい気持ちは変わらないと言ってくれました」
恵美子は小さく笑った。
「創らしい」
「はい」
「頑固でしょう?」
「かなり」
「一度決めたら、簡単には変えない子です」
そして、恵美子の表情が再び真剣になる。
「だから、璟瑶さん。一つだけ母親としてお願いがあります」
「はい」
「頭取だからといって、創を守りすぎないで」
璟瑶は少し驚いた。
「仕事でも人生でも、あの子は失敗すると思います。転ぶこともある。まだ二十一歳だから」
「はい」
「でも、何でも先回りして防いだら、あの子のためにならない」
「約束します」
璟瑶は迷わず答えた。
「銀行では、頭取の恋人だからという理由で創さんを守りません。評価も失敗も結果も、本人のものです」
「……」
「不当な扱いを受けるなら別ですが、通常の失敗や厳しい指導を私が取り除くことはしません」
「そうですか」
「ただし、銀行を出たら」
璟瑶は少し笑う。
「恋人として、帰ってこられる場所ではいたいです」
恵美子の表情が柔らかくなった。
「それなら、お願いします」
「はい」
◇◇◇
会話は、やがて重慶にいる璟瑶の両親へ移った。
「お母様には、まだ創のことを話してないのよね?」
「はい。ただ、かなり疑われています」
「母親は分かるのよ」
「恵美子さんも?」
「最近、創の電話の声が少し違ったから。恋人ができたなって」
「創さん、家では分かりやすいんですね」
「とても分かりやすいです」
「銀行では全然分かりません」
「それは仕事だからでしょうね」
二人は顔を見合わせて笑った。
「いつか、創を重慶へ連れていくんでしょう?」
「はい。両親に紹介したいと思っています」
「緊張するでしょうね」
「創さんが?」
「あなたも」
元頭取の父と、日本人の母。
そこへ向かう二十一歳の創。
「昨日から、今度は創さんが少し可哀想に思えてきました」
「ふふっ」
午後三時。
そろそろ仕事へ戻る時間が近づく。
「まだ少し時間はある?」
「はい。十五時四十五分までに戻れば大丈夫です」
「じゃあ、スーパーへ寄りません?」
「スーパー?」
「創、今日が城東支店派遣の初日でしょう。疲れて帰ると思うの」
「……」
「冷蔵庫、何が入ってました?」
「卵と牛乳。野菜が少し。肉はほとんどありません」
「やっぱり」
恵美子は立ち上がった。
「創、買い物を後回しにするから。行きましょう」
「はい」
青嶺中央銀行頭取と、創の母。
二人は並んでスーパーへ向かった。
◇◇◇
「ヨーグルト、創は食べます?」
「食べます」
「じゃあ二つ」
「はい」
「鶏肉も」
「何を作るんですか?」
「創、子どもの頃からクリームシチューが好きなの」
璟瑶の顔が少し明るくなる。
「本当ですか?」
「知らなかった?」
「知りませんでした」
「今日、作ってあげたら?」
「作ります」
じゃがいも、玉ねぎ、にんじん、ブロッコリー、鶏肉、牛乳。
「あと、コーン」
「コーン?」
「シチューに入れるのが好きなの。子どもの頃から」
璟瑶は迷わずコーン缶をかごへ入れた。
「ふふっ」
「何ですか?」
「完全に彼女の顔」
「今は頭取ではありません」
「じゃあ?」
「創さんの夕食を作る人です」
「それなら合格」
「何の試験ですか?」
「母親面接」
「頭取面接より緊張しました」
「そんなに?」
「はい」
果物売り場では、璟瑶がりんごの値段を見比べた。
「少し高いですね」
「……」
「何ですか?」
「青嶺中央銀行の頭取も、りんごの値段を気にするのね」
「気にします!」
「何だか安心しました」
「私を何だと思っているんですか?」
「昨日まで遠い人だったから。でも、スーパーで卵やじゃがいもを選んでいると普通ですね」
「普通です」
少しためらってから、恵美子が尋ねる。
「創の家には、よく行く?」
「……はい」
「泊まることも?」
璟瑶は視線を逸らした。
「……あります」
「そう」
「怒りませんか?」
「二人とも大人でしょう。ただし、仕事に響かせないこと。体調を崩さないこと」
「分かりました」
「創にも言って。夜更かししすぎないように」
「……はい」
璟瑶の頬が赤くなる。
「どうして赤くなるの?」
「何でもありません!」
「ふふっ」
会計を終えると、璟瑶は二つの袋を持とうとした。
「一つ持つわよ」
「大丈夫です」
「璟瑶さん。こういう時まで一人で全部持たない」
「……」
「二人で持てばいいでしょう?」
その言葉に、璟瑶は静かに頷いた。
「……はい」
店を出たところで、恵美子が言う。
「次から家に来る時、手土産をそんなに持ってこなくていいですよ」
「でも」
「普通に遊びに来てって言ったでしょう? 普通の人は毎回、高級な箱を持ってきません」
「……努力します」
「また努力なの?」
二人は笑う。
「それから」
「はい」
「私のことは、宮嶋さんではなく、恵美子さんでいいです」
璟瑶の目が少し大きくなる。
「いいんですか?」
「だって、五歳しか違わないのよ?」
昨日は衝撃だった数字が、今日は少し違う意味を持つ。
「では――恵美子さん」
「はい」
「これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
午後三時三十五分。
二人はそこで別れた。
璟瑶は食材を創の家へ運び、預かっている合鍵で中へ入る。
冷蔵庫へ食材を収めた後、再び頭取へ戻るため本店へ向かった。
午後三時四十五分。
四十二階。
「お帰りなさいませ」
「戻りました」
「十六時より海外法人営業部です」
「準備してください」
「承知しました」
誰も聞かない。
午後、頭取が誰とコーヒーを飲み、誰とじゃがいもを選んだのか。
それは銀行とは関係のない、璟瑶自身の私生活だった。
◇◇◇
午後五時十二分。
東都共栄銀行・城東支店。
「宮嶋先輩。初日はどうでした?」
松岡に聞かれ、創は支店内を見渡した。
「……懐かしい」
「ですよね」
「でも、やっぱり違う」
「何がですか?」
「俺がもう、ここの行員じゃない」
松岡は少し寂しそうに目を伏せた。
「そうですね」
「でも、それでいい」
「……」
「今、青嶺にいるからこそ、ここから見えるものがあると思う」
その時、三谷が声をかける。
「宮嶋。明日は八時四十分に出るぞ」
「法人先ですね」
「そうだ。資料は?」
「確認します」
「昔のお前なら、俺が言うまで確認しなかった」
「今は違います」
「本当か?」
「明日、見てください」
三谷はわずかに笑った。
「楽しみにしてる」
「はい」
午後五時四十分。
創は城東支店を出た。
玄関前で一度振り返る。
『東都共栄銀行 城東支店』
朝は、帰ってきたと思った。
けれど、違った。
「また明日」
今の自分には、その言葉がちょうどよかった。
◇◇◇
午後六時三十五分。
創の一人暮らしの家。
「ただいま」
「おかえり」
「……」
創は玄関で止まった。
「璟瑶?」
「何?」
「どうしているの?」
「合鍵」
「それは知ってる。何、この匂い」
「シチュー」
キッチンには、エプロン姿の璟瑶が立っていた。
「仕事は?」
「全部終わらせました」
「何でシチュー?」
璟瑶は意味ありげに笑う。
「秘密」
「絶対、何かある」
「食べる?」
「食べる」
「コーンも入ってる」
創の動きが止まった。
「……何で知ってるの?」
「秘密」
「俺、璟瑶に言った?」
「言ってない」
「じゃあ、誰から――」
数秒。
創は一つの可能性にたどり着く。
「……母さん?」
「どうでしょう」
「今日、会った?」
「内緒」
「顔に書いてる!」
「ふふっ」
創はまだ知らない。
自分が青嶺中央銀行員として城東支店へ向かった同じ日に、母と恋人が二人きりで会っていたことを。
結婚。
将来。
子ども。
仕事。
そして、創自身のこと。
二人が深い話を交わし、その後、並んでスーパーを歩いたことを。
母しか知らなかった小さな思い出が、恋人へ手渡されたことを。
「創はコーン入りのシチューが好き」
東都共栄銀行。
青嶺中央銀行。
元上司。元同僚。後輩。
父。母。恋人。
創を囲むいくつもの関係が、それぞれの場所で静かに動き始めていた。
そして翌日。
三谷雅臣と宮嶋創。
かつての上司と部下は、今度は別々の銀行に所属する二人の銀行員として、再び同じ法人先へ向かう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は二つの「再会」と「新しい関係」が同時に進みました。
創は、かつて自分を育ててくれた城東支店へ。
しかし今の所属は青嶺中央銀行。
元同僚たちとの再会を喜びながらも、昔と今の情報を混ぜないことを最初から明確にしました。
そして松岡の、
「宮嶋先輩!?」
という再会。
さらに三谷からは、さっそく翌日の法人同行を告げられます。
一方その頃。
璟瑶は重役会議を一時止めるほど意外な相手――創の母・恵美子から連絡を受けました。
二人だけでお茶をし、結婚や将来、子ども、創との向き合い方まで話し、その後はスーパーで創の夕食の材料を一緒に買うことに。
「頭取」ではなく、少しずつ「創の彼女」として。
そして恵美子もまた、「息子の恋人」として璟瑶を見始めています。
次回は、創に銀行員としての基礎を叩き込んだ元上司・三谷との法人同行。
今の創は、昔の創からどこまで成長したのか。
第37話へ続きます。




