第31話「二十一歳の息子の彼女――父さん、母さん、紹介したい人がいる」
第31話です。
今回は、かなり重要な回になります。
土曜日は、創の一人暮らしの家で二人きり。
銀行では「頭取」と「宮嶋さん」ですが、休日はただの恋人同士。
一日中外へ出ず、映画を見たり、料理をしたり、一緒にお風呂へ入ったり、創が璟瑶の髪を乾かしたり。
そして翌日の日曜日。
いよいよ、創の父・和久と母・恵美子へ璟瑶を紹介します。
普段なら海外の金融関係者を前にしても動じない璟瑶が、この日ばかりは何度も服装や手土産を確認。
創から何度も言われるのは、
「今日は頭取じゃなくて、俺の彼女」
という言葉です。
ついに始まる、宮嶋家への初挨拶。
二人にとって大きな一歩となる第31話をお楽しみください。
第31話「初めての家族紹介――今日は頭取ではなく、俺の彼女」
土曜日。
午前七時十二分。
宮嶋創の一人暮らしの部屋。
一LDKの寝室へ、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
平日なら、二人とも銀行へ向かう準備を始めている時間だ。
宮嶋創、二十一歳。
青嶺中央銀行法人営業第一部・若手法人担当チームの若手行員。
欧陽璟瑶、四十五歳。
青嶺中央銀行頭取兼青嶺FG副CEO、東アジア金融戦略統括。
銀行では、「宮嶋さん」と「頭取」。
恋人として接することは許されない。
璟瑶は創の採用、配属、評価、昇進、給与、担当案件に私情を挟まない。創も、恋人が頭取だからという理由で、何かを求めることはなかった。
だが今日は休日。
ここは銀行でも、地下五階の秘密基地でもない。
二人きりの、創の家だった。
「……創」
「ん……?」
「朝よ」
「何時?」
「七時十二分」
「早い。土曜日だから寝る」
「待って。私だけ起きるの?」
「璟瑶も寝れば?」
「もう目が覚めた」
「じゃあ起きればいいじゃん」
「創も起きて」
「嫌」
「お願い」
「嫌」
「……では、こうします」
「え――」
璟瑶が、布団の中で創へ抱きついた。
「重い」
「失礼ね!」
「体重じゃなくて、抱きつき方」
「離れません」
「俺は寝たいんだけど」
「私も、創にくっついて寝ます」
「だったら最初から寝ればいいだろ」
「一人で寝るのと、創にくっついて寝るのは違うの」
「……四十五歳」
「年齢は関係ないでしょう?」
「昨日、自分で言ってたよ。俺の母さんと五歳しか違わないって」
璟瑶の動きが止まった。
「それは言わないで」
「明日会うけど」
「今だけは現実逃避させて!」
翌日の日曜日。
創は初めて、恋人を両親へ紹介する。
父・宮嶋和久、五十二歳。
母・宮嶋恵美子、五十歳。
そこへ連れていくのは、二十四歳年上の中国人女性。
しかも、創が勤務する青嶺中央銀行の頭取である。
「明日、本当に行くのよね?」
「もちろん」
「一週間延期しない?」
「しません」
「三日」
「意味がない」
「では一日だけ」
「それだと明日だろ」
創は思わず笑った。
「そんなに緊張する?」
「します」
「海外金融機関のトップとの会談は?」
「仕事です」
「中国の大企業経営者は?」
「仕事」
「役員会は?」
「仕事」
「何万人もの行員への挨拶は?」
「それも仕事」
「俺の父さんと母さんは?」
「……一番怖い」
「何でだよ」
璟瑶は創の胸へ顔を埋めた。
「明日評価されるのは、銀行家としての私ではないでしょう?」
「うん。俺の彼女として」
「だから怖いの」
頭取という肩書き。
金融の知識。
語学力。
国内外で積み重ねてきた経歴。
そのどれも、明日の家族紹介では決定的な意味を持たない。
「それでいいんだよ」
創は璟瑶の背中へ腕を回した。
「明日は仕事をしに行くわけじゃない。俺の彼女として、父さんと母さんに会う。それだけ」
「簡単に言うのね」
「俺だって緊張してるよ。二十一年間、彼女を家族に紹介したことなんてないから」
「……私が初めて?」
「そう」
璟瑶が顔を上げる。
「嬉しい」
「そこ?」
「そこです」
◇◇◇
午前九時二十五分。
二人はようやく起き、簡単な朝食を作った。
スクランブルエッグ、トースト、サラダ、スープ。
「冷蔵庫、きちんとしてるのね」
「一人暮らし四年目だから」
「私より生活力が高いかも」
「頭取は料理しないの?」
「できます。中国料理なら」
「じゃあ作って」
「朝から?」
「言ったからには」
「……中国料理は夜にします」
「逃げた」
「逃げてません」
朝食後、璟瑶は持参した服を何着も並べた。
「これ、派手すぎない?」
「大丈夫」
「若作りに見えない?」
「見えない」
「頭取らしくない?」
「少し頭取らしい」
「やっぱり!」
「璟瑶が着たら、何でも少し頭取らしくなるんじゃない?」
「どうすれば消せる?」
「無理だと思う」
「創!」
ワンピース、靴、バッグ、髪形、化粧。
璟瑶は一つずつ創へ確認した。
「どちらの服がいい?」
「どちらも似合う」
「一番困る答え!」
「では最初の方」
「本当に?」
「本当」
「靴は?」
「好きな方」
「バッグは?」
「好きな方」
「髪は?」
「いつも通り」
「化粧は?」
「いつもより少し薄め?」
璟瑶が創をじっと見る。
「何?」
「意外と注文が多いわね」
「聞いたのは璟瑶だろ!」
◇◇◇
午前十一時。
二人は、地下五階で途中まで見た恋愛映画を最初から再生した。
しかし、二十分ほどすると璟瑶が創の肩へ寄り、重なった手へ指を絡める。
「近くない?」
「創が寄ってきたんでしょう?」
「璟瑶だから」
「映画を見て」
「見ています」
「今、どんな場面?」
「主人公が……」
「ほら、見てない」
「創のせいです」
「俺、何もしてない!」
璟瑶は楽しそうに笑い、創の肩へ頭を乗せた。
「こうして見たかったの」
「地下五階で?」
「うん。でも今日は銀行じゃなくて、創の家ね」
「だから何も気にしなくていい」
「ずっとくっついていても?」
「いいよ」
「抱きついても?」
「いい」
「キスしても?」
創が一瞬黙る。
「どうして止まるの?」
「……いいよ」
璟瑶は微笑み、創へ顔を近づけた。
「んっ……」
一度離れ、互いの目を見る。
そして、もう一度。
「ん……」
今度は少し長く唇を重ねた。
創は璟瑶の背中へ腕を回し、璟瑶も創の肩を抱く。離れては重なり、また離れる。
映画は進み続けていたが、二人とも画面を見ていなかった。
「……創。映画、どこまで進んだ?」
「知らない」
「やっぱり見てない」
「璟瑶もだろ」
「創が悪い」
「俺がここにいるだけで!?」
「そこにいるのが悪いの」
「理不尽だ!」
◇◇◇
昼食は、二人で焼きそばを作った。
「キャベツが少し大きい」
「細かいな」
「料理にも確認は必要です」
「今日は仕事を持ち込まない約束だろ」
「料理は仕事ではありません」
「三谷さんが聞いたら喜びそう」
「東都共栄銀行時代の上司?」
「うん。次の派遣候補になってるところ」
一瞬だけ仕事の話になりかけたが、創は首を振った。
「今日はやめよう」
「そうね。今日は仕事なし」
午後は映画、ゲーム、昼寝、お茶。
特別な予定は何もない。
それでも二人にとっては、貴重な一日だった。
同じ銀行で働いていても、勤務中は名前すら自由に呼べない。
隣にいても触れられない。
だからこそ、何もせず一緒に過ごせる休日が特別だった。
◇◇◇
午後四時二十分。
璟瑶は創の膝へ頭を乗せていた。
「髪を触って」
「どうして?」
「創に触ってもらうのが好きだから」
創は長い黒髪を、ゆっくり撫でた。
「璟瑶の髪、綺麗だよね」
「ありがとう」
しばらく静かな時間が続く。
やがて璟瑶が、不安を口にした。
「明日、お母様に嫌だと言われたら?」
創の手が止まる。
「お父様に、二十四歳差は認められないと言われたら?」
「……」
「勤務先の頭取との交際は駄目だと言われたら?」
創は少し考えてから答えた。
「話すよ」
「何を?」
「俺が、どうして璟瑶を好きなのか。どうして付き合っているのか」
「それでも認めてもらえなかったら?」
「何度でも話す」
「……」
「すぐに認めてもらえなくても、俺は璟瑶と別れない」
「簡単に言わないで」
「簡単に決めたことじゃない」
創は真っすぐ璟瑶を見る。
「だから明日、二人で行く。逃げない」
璟瑶は創の頬へ触れた。
「……ありがとう」
◇◇◇
夕方。
二人は狭い浴室で一緒に湯船へ入った。
「地下五階より狭い」
「一人暮らし用だから」
「でも、こういうのも好き」
「普通の家?」
「普通の休日。創と何もせずに過ごす時間」
「映画を二本とも途中から見てないけどね」
「それは創のせい」
「また俺?」
入浴後、創は璟瑶の長い髪をドライヤーで乾かした。
「熱くない?」
「大丈夫」
「引っ張ってない?」
「大丈夫です」
「さっきから鏡越しに見てるけど、何?」
「幸せだと思って」
「髪を乾かしてるだけだよ?」
「そういうことが嬉しいの」
大銀行の頭取ではなく、一人の恋人として髪を乾かしてもらう。
璟瑶にとっては、それが何より穏やかな時間だった。
◇◇◇
夜。
璟瑶は約束どおり、創へ中国料理を作った。
「うまい」
「当然でしょう?」
「疑ってすみませんでした、璟瑶様」
「違う」
「欧陽頭取」
「もっと違う!」
「じゃあ?」
「創の彼女」
創は少し照れながら笑った。
「うん。俺の彼女」
午後十時。
璟瑶は翌日の挨拶を練習し始めた。
「初めまして。欧陽璟瑶と申します。中国出身で、青嶺中央銀行頭取兼――」
「肩書きは要らない!」
「正式な自己紹介よ?」
「家族訪問だって!」
「では、どう言えばいいの?」
「初めまして。創さんとお付き合いしています。欧陽璟瑶です」
「……それだけ?」
「それで十分」
璟瑶は何度か小さく繰り返す。
「初めまして。創さんとお付き合いしております、欧陽璟瑶です」
「完璧」
「緊張する」
「明日は俺が隣にいる」
「席も絶対に隣」
「分かった」
「途中でどこかへ行かないで」
「トイレは?」
「……それは仕方ありません」
「そこまで不安なのかよ!」
土曜日。
二人は最後まで外へ出なかった。
頭取と行員ではなく、ただの恋人同士として一日を過ごした。
◇◇◇
翌朝。
日曜日、午前七時。
「創、起きて」
「……早い」
「今日よ」
「知ってる」
「服、髪、化粧、手土産を確認しないと」
「昨日確認しただろ」
「もう一度」
「大丈夫だから」
午前九時。
準備を終えた璟瑶は、何度も鏡を確認していた。
「変じゃない?」
「変じゃない」
「派手すぎない?」
「大丈夫」
「頭取らしく見えない?」
「それは少し」
「やっぱり!」
「雰囲気までは消せないって」
創は璟瑶の両肩へ手を置いた。
「今日は頭取じゃない」
「……うん」
「欧陽璟瑶。俺の彼女」
「うん」
◇◇◇
午前十時三十五分。
二人は宮嶋家へ向けて出発した。
移動中も、璟瑶は手土産、包装、賞味期限、服装、髪、化粧を繰り返し確認する。
「もう何回目?」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫。今の璟瑶は、銀行の頭取じゃなくて普通の彼女に見える」
「本当?」
「うん。四十五歳には見えるけど」
「創!」
「冗談!」
少しだけ、璟瑶の緊張が和らいだ。
「父さんも母さんも普通だから。質問されたら、普通に答えればいい」
「でも、年齢や仕事は?」
「玄関で全部話さなくていい。まず会って、落ち着いてから話そう」
「そうね」
「いきなり『青嶺中央銀行頭取兼青嶺FG副CEO、東アジア金融戦略統括の欧陽璟瑶です』とは言わないでね」
「言いません!」
宮嶋家が近づくにつれ、璟瑶の言葉が少なくなっていった。
「まだ引き返せる?」
「引き返しません」
「お父様は怖い?」
「普通」
「怒る?」
「分からない」
「創!」
「嘘はつけないだろ」
到着まで、あと五分。
璟瑶が小さく手を差し出した。
「創、手」
創が握る。
「冷たい」
「緊張しているから」
創は少し強く握り返した。
「大丈夫。俺がいる」
「……うん」
「今日は頭取じゃない。中国の金融界の偉い人でも、青嶺FG副CEOでもない」
「うん」
「俺の彼女。それだけ覚えていればいい」
璟瑶は目を閉じ、深呼吸した。
「分かった」
◇◇◇
車が宮嶋家の前へ止まった。
「着いたよ」
「……一分だけ待って」
「分かった」
巨大銀行を率い、海外金融機関や大企業の経営者とも対等に話す女性が、一軒の家を前に動けなくなっていた。
理由は一つ。
大切な恋人の両親に、初めて会うから。
六十秒後。
「……行きます」
「行ける?」
「行く」
二人は車を降り、玄関へ向かった。
璟瑶が再び立ち止まる。
「創。最後にもう一度」
「何を?」
「今日は、私は誰?」
創は笑った。
「俺の彼女。欧陽璟瑶」
「……うん」
創がインターホンを押す。
やがて、母・恵美子が扉を開けた。
「創、おかえ――」
恵美子の視線が、創の隣に立つ璟瑶で止まる。
「……その方が?」
「うん。前に話した、俺の彼女」
奥から父・和久も出てきた。
二人とも、落ち着いた雰囲気を持つ璟瑶が、創よりかなり年上であることにはすぐ気づいた。
璟瑶が不安そうに創を見る。
創は小さく頷いた。
大丈夫。
その合図を受け、璟瑶は手土産を両手に持って深く頭を下げた。
「初めまして。創さんとお付き合いしております、欧陽璟瑶と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
玄関に短い沈黙が流れる。
最初に我に返ったのは恵美子だった。
「こちらこそ。初めまして、創の母の宮嶋恵美子です」
「父の和久です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
恵美子は璟瑶の手土産を受け取った。
「創、あなた、ちゃんと持ってあげたの?」
「璟瑶が自分で持つって言ったんだよ」
「創」
「本当だって!」
璟瑶が思わず笑う。
その表情を見た恵美子の顔も、少し柔らかくなった。
「あら。笑った方が素敵ね」
「え?」
「さっきから、とても緊張していらっしゃるでしょう?」
「……はい」
完全に見抜かれていた。
創が笑いを堪える。
「創、笑わないで」
「はい」
「あら。創に普通に怒るのね」
「母さん!」
和久も小さく笑った。
「玄関で立ち話も何ですから、どうぞ」
「お邪魔いたします」
靴を脱いだ璟瑶は、創を呼び止める。
「創、待って」
「隣にいてほしい?」
「……うん」
「分かった」
二人は並んでリビングへ向かった。
◇◇◇
テーブルには、四人分とは思えないほど多くの料理が用意されていた。
「母さん、普通でいいって言ったよね?」
「これが普通よ」
「多くない?」
「息子が初めて恋人を連れてきたのよ。いいでしょう」
璟瑶は並べられた料理を見つめた。
接待でも、交渉でもない。
肩書きも取引も関係なく、恋人の母親が自分のために作ってくれた料理。
「ありがとうございます。私のために、ここまで……」
「お口に合えばいいんですけど」
「とても嬉しいです」
四人が席へ着く。
創と璟瑶が隣。
向かいに和久と恵美子。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「何か話そうよ」
創が沈黙を破る。
「あなたが言うの?」
「だって、このままだと……」
「創」
和久が真剣な表情になる。
「まず、お前の口からきちんと紹介してくれ」
「玄関で紹介したけど」
「そうではない。この方が、お前にとってどういう人なのかを聞きたい」
創は隣の璟瑶を見る。
璟瑶も創を見つめ返す。
頭取ではない。
中国の著名な銀行家でもない。
二十四歳年上という数字でもない。
まず伝えるべきなのは、たった一つだった。
「父さん、母さん。紹介します」
創はテーブルの下で、璟瑶の手を握った。
「この人が、俺の彼女。欧陽璟瑶さんです」
璟瑶も、その手を握り返す。
「俺が、本気で付き合っている人です」
和久と恵美子は黙って聞いている。
「だから今日は、二人にちゃんと会ってほしくて連れてきました」
璟瑶の目が、わずかに揺れた。
宮嶋夫妻は、まだ彼女のすべてを知らない。
四十五歳であること。
創と二十四歳差であること。
中国人であること。
創の勤務先である青嶺中央銀行の頭取であること。
二人がどのように出会い、なぜ交際を始めたのか。
尋ねたいことは、いくらでもあるだろう。
それでも、創が最初に伝えたかったことは一つだけだった。
この人は、肩書きでも年齢でもない。
自分が本気で大切にしている恋人である。
その言葉から。
宮嶋家の長く、そして大切な日曜日が始まった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、創と璟瑶にとって大きな節目となる一日でした。
土曜日は完全に仕事を忘れ、二人だけの休日。
そして日曜日。
璟瑶はついに創の実家を訪れます。
四十五歳。
中国人。
二十四歳差。
青嶺中央銀行頭取。
まだ宮嶋夫妻には、そのすべてを明かしていません。
まず創が伝えたかったのは、肩書きではなく、
「この人が俺の彼女です」
ということでした。
そして次回。
いよいよ年齢が明かされます。
創二十一歳。
璟瑶四十五歳。
母・恵美子五十歳。
「母さんと五歳しか違わない」
その事実を知った宮嶋夫妻は、どんな反応を見せるのでしょうか。
第32話へ続きます。




