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第25話「一つの数字が合わない――確認することが、また会社を救いました」


第25話です。


今回は、創が瑞央銀行で資料確認をしている中、一つの小さな数字の違いに気づきます。


設備投資総額。


一億六千万円。


しかし、最新見積書を足してみると一億六千六百万円。


差額は六百万円。


決して巨大な金額ではありません。


ですが、その六百万円を見落としたまま進めば、設備導入後の運転資金や返済計画へ影響する可能性があります。


東都共栄銀行時代に三谷から何度も教えられた「確認」。


その基本が、銀行も地域も変わった今、再び創を助けます。


そして昼は、宮坂・小野寺・白石・藤堂と五人で少し賑やかな昼食へ。


一方、東京では璟瑶が頭取として各部署を回り、普段なかなか聞けない現場行員の声に触れていきます。


さらに仕事終わり。


創のいない地下5階の秘密基地へ、一人で向かった璟瑶は――。


地域銀行合同プロジェクト四日目をお楽しみください。



 地域銀行合同プロジェクト、四日目。


 午前八時十二分。


 瑞央銀行本店、法人営業部。


「おはようございます」


「おはよう、宮嶋君」


 宮嶋創がフロアへ入ると、昨日訪問した株式会社新城テクノの資料が机の上に積まれていた。


 設備投資総額、約一億六千万円。


 自己資金、約四千万円。


 希望借入額、約一億二千万円。


 老朽設備の更新。


 省人化。


 技能承継。


 地域雇用の維持。


 昨日現地を訪問したことで、決算書だけでは分からなかった事情が数多く見えてきた。


 しかし、企業に事情があることと、融資してよいことは別問題である。


 今日は、現場で聞いた話をもう一度数字へ戻し、返済可能性や資金計画を検証する日だった。


「宮嶋君。最初に資料照合をお願いします」


 声をかけたのは、白石結衣・二十八歳。


 法人営業五年目。創業企業や若手経営者の支援を担当し、数字の僅かな不一致を発見することを得意としている。冷静で慎重だが、後輩には丁寧に理由を説明する。趣味はカフェ巡りと写真だった。


「昨日、新城テクノから追加資料が届いています」


 白石は、資料を種類別に並べた。


「設備の最新見積書、資金計画表、導入後の損益計画、既存借入一覧です」


「分かりました」


 そこへ小野寺修平・三十四歳もやってきた。


「昨日までは現場を見た。今日は数字へ戻る」


「はい」


「資料を見て疑問を持ち、現場で確認し、もう一度資料を見る。宮坂さんが言っていたでしょう?」


「現場と資料の間を何度も行き来する」


「そういうこと」


 藤堂蓮・二十三歳も隣へ来た。


「俺も一緒に確認する」


「高卒銀行員確認チームですね」


「何だよ、そのチーム」


「今作りました」


「勝手に作るな」


「私が責任者なら認めてもいいですよ」


 白石が真顔で加わった。


「白石さんも確認が好きですからね」


「ええ」


「なら三人で。小野寺さんは監督」


「宮坂さんは総監督か?」


「銀行の資料確認なのに、野球チームみたいになってきたな」


 少し笑ったあと、全員の表情が仕事のものへ戻った。


◇◇◇


 午前八時三十五分。


 創は、瑞央銀行がこれまで作成した案件管理資料と、新城テクノから届いた最新資料を並べた。


 銀行内部の案件管理資料には、


『設備投資総額 一億六千万円』


『自己資金 四千万円』


『借入希望額 一億二千万円』


 と記載されている。


 一方、最新の見積書には、設備本体だけでなく、関連するすべての費用が細かく記載されていた。


 高性能複合加工機二台、一億一千八百万円。


 自動搬送装置、一千六百万円。


 検査システム、一千百万円。


 据付・搬入費、六百万円。


 電源及び工場内配線工事、七百二十万円。


 システム改修費、三百八十万円。


 社員研修その他、四百万円。


 創は電卓で合計する。


「……」


 もう一度、最初から入力する。


 結果は変わらない。


 念のため、Excelにも数字を入力した。


「宮嶋?」


 藤堂が創の手が止まったことに気づいた。


「何かあった?」


「少し待ってください」


 三度目。


 合計は、やはり同じだった。


「……一億六千六百万円」


「え?」


「最新の見積額です。一億六千万円ではなく、一億六千六百万円あります」


「六百万円違う?」


「はい」


 白石がすぐに振り向いた。


「どこが違うの?」


「最新版の合計です。銀行内部の案件管理資料では一億六千万円ですが、見積書の各項目を合計すると一億六千六百万円になります」


「見せてください」


 白石も、電卓とExcelの両方で確認する。


「確かに六百万円合いませんね」


 小野寺も近づいてきた。


「何が増えた?」


「まだ分かりません。過去の見積書と照合します」


 創は新旧の見積書を左右に並べ、一項目ずつ確認した。


 複合加工機は同額。


 自動搬送装置も同額。


 検査システムも同額。


 据付費、研修費、システム改修費にも違いはない。


「……電源工事」


 創の指が止まった。


 以前の見積書。


『電源・付帯工事 百二十万円』


 最新の見積書。


『電源・付帯工事 七百二十万円』


「ここです。六百万円、ちょうど増えています」


「見積もりが変更された?」


「おそらく」


 小野寺がすぐに注意した。


「『おそらく』のまま進めない」


「はい。新城テクノへ確認します」


◇◇◇


 小野寺が柴田美紀経理部長へ電話をかけた。


「いつもお世話になっております。瑞央銀行の小野寺です。昨日いただいた最新見積書について確認があります」


 創たちは黙って電話の内容を待つ。


「電源・付帯工事が七百二十万円になっています。以前は百二十万円でしたよね?」


 しばらく説明を聞いていた小野寺の表情が変わった。


「追加工事ですか。分かりました。柴田部長にも、資金計画との整合を改めて確認していただけますか?」


 電話を終える。


「新設備を設置するには、工場の受電設備を一部更新する必要があると、後から分かったらしい」


「追加工事費が六百万円」


「そういうこと」


 白石は資金計画表を確認した。


「最新の設備見積書は更新されていますが、資金計画表は古いままかもしれません」


 資金計画表の数字は、以前と変わっていない。


 設備投資総額、一億六千万円。


 自己資金、四千万円。


 借入希望額、一億二千万円。


 しかし、最新の総投資額は一億六千六百万円である。


「不足する六百万円を、どこから出す予定だったんでしょう」


 創が呟く。


「手元資金から出す可能性もある」


 藤堂が答えた。


「それが一番怖いところです」


 白石の表情が厳しくなる。


「六百万円を自己資金から追加で出すこと自体は可能かもしれません。ただ、その結果、設備導入後の運転資金が減ります」


「新設備を導入した直後は、むしろ資金が必要になることがありますよね」


 創が続けた。


「試運転、材料の先行仕入れ、従業員研修、売掛金を回収するまでの資金」


「その通りです」


 創は、新城テクノの月次資金繰り表を開いた。


 設備導入後、最も現預金が減少する月。


 計画上の最低残高は、約二千三百万円。


「ここから六百万円を追加で使えば、最低残高は一千七百万円程度になります」


「受注が計画どおり立ち上がれば、直ちに問題になるとは限らない」


 小野寺が言った。


「でも、売上計上や入金が一か月遅れたら?」


「さらに運転資金が必要になります」


「原材料を先に仕入れる場合も同じですね」


 藤堂が小さく息を吐いた。


「……早く気づいてよかったな」


「まだ『危なかった』と決めるのも早い」


 小野寺は冷静だった。


「六百万円なら、会社自身で十分吸収できる可能性もある。大切なのは、先に結論を決めることではない」


「会社の資金状況を確認する」


「そういうこと」


◇◇◇


 午前九時十八分。


 新城テクノから折り返しの連絡が入った。


 小野寺が柴田経理部長から詳しい事情を確認する。


「分かりました。それでは、最新版の資金計画表を改めて提出してください。借入希望額を変更するかどうかも含め、こちらで一緒に検討しましょう」


 電話を終えたあと、小野寺が説明した。


「新城テクノ側でも、資料の不一致に気づいていなかったそうだ」


「どうしてですか?」


「設備担当者は、受電設備の追加工事を反映した最新見積書を受け取っていた。一方、経理部は以前の見積書をもとに資金計画を作成していた」


「部門間で、更新情報が十分共有されていなかった……」


「そういうことだね」


 新城テクノから提出された資料同士で、前提となる数字が食い違っていた。


 一億六千万円と一億六千六百万円。


 総投資額から見れば、数パーセントの違いにすぎない。


 しかし、資金繰りへ与える影響は決して小さくない。


「もし一億六千万円のまま審査が進み、借入一億二千万円と自己資金四千万円で設備を発注したら……」


「不足する六百万円を、運転資金から出すことになった可能性がある」


「その直後に受注の立ち上がりが遅れたり、原材料価格が上昇したら、資金繰りは想定より悪化する」


「そうだね」


 創は、新城社長が昨日言った言葉を思い出した。


『設備を入れて、返せなくなったら困るのは、うちだからね』


「確認してよかった……」


 小野寺が頷いた。


「宮嶋君が発見しなければ、誰も気づかなかったとは言わない。審査部門で見つかったかもしれない。白石さんや藤堂が、あとで気づいた可能性もある。会社側が発注前に修正したかもしれない」


「はい」


「でも、間違いは早く見つける方がいい」


「はい」


「それが、銀行における確認の意味だよ」


 創の頭に、東都共栄銀行時代の上司・三谷雅臣の顔が浮かんだ。


 十八歳で入行したばかりの創へ、何度も確認の重要性を教えた人物。


『確認しろ』


『一つのミスで信用を失う』


『分からないまま進めるな』


「……三谷さん」


「誰?」


 藤堂が尋ねる。


「前の銀行で、俺を指導してくれた主任です」


「確認の大切さを教えた人?」


「はい」


「今回も、その教えが役に立ったな」


「……そうですね」


◇◇◇


 午前十時。


 宮坂隆司も加わり、案件検討が始まった。


「六百万円の差異について、改めて説明してください」


「以前の見積書では、電源及び付帯工事が百二十万円でした」


 創は新旧の資料を並べる。


「最新見積書では七百二十万円へ増えています。新設備の設置に伴い、工場側の受電設備更新が追加されたことが原因です」


「資金計画表は?」


「以前の見積額を前提としたままです。借入希望額も一億二千万円から変更されていません」


「分かりました。では、対応方法を整理しましょう」


 宮坂はホワイトボードへ選択肢を書き出した。


 一、借入希望額を一億二千六百万円へ増額する。


 二、自己資金を四千六百万円へ増額する。


 三、設備構成を見直し、投資総額を抑える。


 四、補助金や支援制度の適用可能性を確認する。


 五、設備導入時期または支払条件を調整する。


 六、設備資金と運転資金を含む総合的な資金計画へ組み直す。


「単純に借入額を六百万円増やして終わりではありません」


 宮坂が創たちを見る。


「借入を増やせば、返済負担も増える」


「はい」


「自己資金を増やせば?」


「手元の運転資金が減ります」


「設備構成を変えれば?」


「生産性向上や省人化の効果が弱くなる可能性があります」


「だから、どの方法が企業にとって最も安全なのかを考える必要がある」


「はい」


 白石も確認事項を挙げた。


「最新見積書の有効期限も確認します。設備納期が長いため、今後さらに価格が改定される可能性があります」


「支払時期と価格改定条項も必要ですね」


 藤堂が続ける。


「そうだね」


 小野寺は創を見た。


「今日の午後、新城テクノの柴田経理部長、新城雄大専務と資金計画を組み直す。宮嶋君も参加して」


「はい」


「差異の発見者だから」


「その呼び方はやめてください」


◇◇◇


 午前十一時四十五分。


 午前の案件検討を終えた五人は、瑞央銀行本店から徒歩五分ほどの定食店へ向かった。


 宮坂隆司。


 小野寺修平。


 白石結衣。


 藤堂蓮。


 宮嶋創。


 古い暖簾をくぐると、店主がすぐに小野寺へ声をかけた。


「あ、小野寺さん。いらっしゃい」


「こんにちは」


「また知り合いですか?」


 創が尋ねる。


「この店は取引先じゃないよ。普通に昼食を食べに来ているだけ」


「本当ですか?」


「何で疑うんだよ」


 五人は奥の六人掛けテーブルへ座った。


 宮坂は焼き魚定食。


 小野寺は生姜焼き定食。


 白石は野菜炒め定食。


 藤堂は唐揚げ定食の大盛り。


 創は日替わり定食。


「藤堂さん、大盛りですか?」


「二十三歳だから」


「俺は二十一歳ですけど、普通盛りですよ」


「地方出張中なんだから、もっと食え」


「年齢も出張も関係ないでしょう」


「午後、眠くなりますよ」


 白石の注意にも、藤堂は動じない。


「大丈夫です」


「昨日もそう言っていましたよね」


「昨日は眠くなりませんでした」


 宮坂が笑う。


「二人とも、本当に同期みたいですね」


「二歳違いますけど、高卒銀行員会の仲間です」


「会員二名の?」


「はい」


「少ないなあ」


 料理が運ばれ、五人は箸を取った。


 しばらく仕事の話を止め、出張中の食事や町の話をする。


「宮嶋君。夜はきちんと食べていますか?」


 白石が尋ねる。


「食べていますよ」


「コンビニだけではない?」


「昨日はホテル近くの店へ行きました」


「一人で?」


「一人です」


 そこで藤堂が何気なく尋ねた。


「彼女には連絡してる?」


「ぶっ……!」


 創は危うく味噌汁でむせそうになった。


「宮嶋君、大丈夫?」


「な、何で急に彼女の話になるんですか!」


「彼女がいるって聞いたから」


「誰から?」


「昨日の昼に自分で話してなかった?」


「俺、言ったっけ……」


「それで、彼女は東京?」


「まあ……」


「年上?」


「……」


 白石が顔を上げた。


「今、間がありましたね」


「どうして銀行員は、返事の間まで確認するんですか!」


「職業病でしょうね」


 宮坂まで真顔で答えた。


「宮坂さんまで……」


「何歳上?」


 小野寺が面白そうに尋ねる。


「秘密です」


「五歳?」


「秘密」


「十歳?」


「秘密です!」


「二十歳?」


「……」


 今度は全員が黙った。


「どうしてそこで全員黙るんですか!」


「まさか、本当に……」


「何もありません!」


「まだ何も言ってないぞ」


「とにかく秘密です!」


 実際は二十四歳年上。


 中国人。


 そして青嶺中央銀行頭取。


 そのすべてを言えば、昼食どころではなくなる。


「大切な人なら、それでいいんじゃないですか」


 白石が穏やかに言った。


「……はい」


 創は少しだけ安心した。


「地方出張中は、仕事に集中しろよ」


 小野寺が言う。


「しています!」


「日報も丁寧に書けているから、そこは大丈夫そうだけどね」


「日報も全部見てるんですか?」


「現地の受入担当だから当然だろ」


「本当に全部見られる……」


 宮坂が、午前中の件へ話を戻した。


「今日の六百万円の差異を日報へ書く時、『自分が企業を救った』とは書かないでくださいね」


「そんなことは書きません」


「大切な点です。今回の修正は、宮嶋さん一人の成果ではありません」


 新城テクノから最新資料が届いた。


 創が資料を照合した。


 白石と藤堂が再確認した。


 小野寺が企業へ連絡した。


 宮坂を含むチームで資金計画を見直した。


「銀行の仕事は、一人のファインプレーだけで成り立つものではありません」


「はい」


「でも、最初に差異へ気づいたことは、きちんと評価するから」


 小野寺が付け加えた。


「ありがとうございます」


「今日の宮嶋、少し格好よかったよ」


 藤堂が言う。


「男に言われてもなあ」


「なら彼女に言ってもらえ」


「顧客情報だから話せない!」


「そうだった」


「そこを分けられるのは、大切なことです」


 白石が微笑む。


「はい。顧客情報は絶対に話しません」


 仕事の話。


 地域の話。


 時々、恋人や趣味の話。


 四十分ほどの昼休みは、創が瑞央銀行へ来てから、最も肩の力を抜いて過ごせた時間になった。


◇◇◇


 午後一時二十分。


 新城テクノとの再打ち合わせ。


 企業側からは、新城雄大専務と柴田美紀経理部長。


 瑞央銀行側からは、小野寺、白石、創が参加した。


「こちらの確認不足でした」


 柴田が頭を下げる。


「早い段階で確認できましたから、今から修正できます」


 小野寺が答えた。


 創も頷く。


「まだ融資判断前です。正しい数字を前提に、資金計画を組み直せます」


「もし、このまま進んでいたら……」


 新城専務が不安そうに尋ねる。


「最終審査や設備発注の段階で、発見された可能性はあります」


 白石が慎重に説明した。


「ただし、発注後まで気づかなければ、手元資金から六百万円を追加で出す必要がありました」


「それだけで、すぐ危険になるという意味ではありません」


 創も続ける。


「しかし、設備導入後は材料費や研修費、売掛金回収までの運転資金も必要です。そこまで含めて計画し直す方が安全だと思います」


 新城専務は深く頷いた。


「お願いします」


 最新の見積書。


 現在の預金残高。


 月次資金繰り。


 受注予定。


 設備代金の支払時期。


 補助制度。


 創たちは一項目ずつ確認していった。


 一億二千万円。


 一億二千六百万円。


 差額は六百万円。


 しかし、銀行員にとって「だいたい合っている」では済まされない。


 午後三時四十五分。


 修正後の設備投資総額は、正式に一億六千六百万円となった。


 自己資金を増額するか。


 借入額を増やすか。


 支払条件を調整するか。


 補助金を利用できるか。


 最終的な資金調達方法は、まだ決まっていない。


 それでも、間違った一億六千万円を前提に審査が進むことはなくなった。


「宮嶋さん、ありがとうございました」


 柴田が言った。


「いえ。前の銀行で、確認だけは何度も教えられましたから」


「よい上司だったんですね」


「はい」


 創は迷わず答えた。


「本当に、よい上司でした」


◇◇◇


 同じ日の午前八時二十分。


 東京、大手町。


 青嶺中央銀行本店四十二階。


「おはようございます、頭取」


 第一秘書・劉川景仁と第二秘書・水城絢乃が頭取室へ入った。


「おはようございます」


「本日は午前中に決裁と二件の面談。午後は本店内の複数部署を視察する予定です」


「予定どおり進めてください」


 青嶺中央銀行頭取・欧陽璟瑶、四十五歳。


 青嶺FG副CEO。


 東アジア金融戦略統括。


 創が一億六千六百万円の設備投資案件へ向き合っている頃、璟瑶は銀行全体を見ていた。


 午前八時三十分、前日の経営会議で残された確認事項。


 午前九時、大型与信案件の最終決裁。


 午前九時四十五分、経営企画部による地方製造業向け設備支援制度の修正案。


「一律の財務基準だけで判断しないこと」


「はい」


「ただし、例外を増やしすぎれば、制度としての公平性が失われます」


「承知しました」


「地域銀行側の定性的な情報と、青嶺中央銀行側の財務分析。その両方が必要です」


「はい」


 午前十時三十分、中国事業部。


 午前十一時十五分、信用リスク管理部。


 昼食は頭取室で簡単に済ませた。


◇◇◇


 午後一時。


「現場を見に行きます」


 璟瑶は席を立った。


 最初に訪れたのは、本店二十九階のデジタル金融推進部。


 頭取がフロアへ姿を現すと、行員たちの空気が一瞬で変わった。


「そのままで結構です。仕事を止めないでください」


 最初に応対したのは、法人DX担当・河合美月・三十歳。


 法人顧客向けのデジタル化支援と新サービスの企画を担当する、明るく行動力のある行員。顧客から聞いた要望をその日のうちに開発側へ共有する。趣味は陶芸と雑貨店巡り。


「お疲れさまです、頭取」


「お疲れさまです、河合さん」


「……名前を覚えていらしたんですか?」


「前回の報告会に出席していましたよね」


「はい。ありがとうございます」


 続いて、システム企画主任・高橋玲奈・三十二歳。


 慎重で調整力が高く、営業部門とシステム部門の意見をまとめる役割を担っている。趣味は料理とパズル。


「高橋さん。法人向け新画面の試験状況は?」


「支店側から意見を集めています」


「使いにくいという意見もありますか?」


「……はい」


「それも報告してください。よい意見だけを上げる必要はありません」


「承知しました」


 少し離れた席には、若手行員・石田蓮・二十四歳がいた。


 入行二年目。真面目で責任感が強いが、役員を前にすると極端に緊張する。趣味はゲームと動画編集。


「石田さん」


「は、はい!」


「それほど緊張しなくても大丈夫ですよ」


「すみません!」


「謝らなくて結構です」


「はい!」


「……やはり緊張していますね」


 周囲から小さな笑いが漏れた。


「入行何年目ですか?」


「二年目です」


「仕事は?」


「難しいです」


「それで正常です」


「え?」


「二年目ですべて分かるなら、私たち役員の仕事がなくなります」


 再び笑いが起こり、石田の表情も少し和らいだ。


「困っていることはありますか?」


「法人決済の新システムですが、承認画面の項目が少し多いと感じています」


「見せてもらえますか?」


「はい」


 璟瑶は若手行員の端末画面を数分間確認した。


「なるほど。現場で使うと、このように見えるのですね」


「改善案を出してもよろしいでしょうか?」


「そのために来ました。お願いします」


「はい!」


◇◇◇


 午後一時五十分。


 璟瑶はIT戦略部へ移動した。


 対応したのは、IT戦略課長・風間悠介・四十一歳。


 障害対応やシステム継続計画を担当する冷静な管理職で、緊急時ほど声を荒らげない。趣味は登山と天体観測。


 主任・西川翔太・二十八歳。


 クラウド基盤と社内ネットワークを担当する技術者で、慎重だが新技術への好奇心が強い。趣味は自作パソコンと音楽鑑賞。


 若手行員・森川莉奈・二十五歳。


 入行三年目。疑問を率直に口にできる性格で、若手目線から業務改善案を出すことが多い。趣味はイラストとカフェ巡り。


「障害対応訓練の結果は?」


 璟瑶が尋ねる。


「復旧目標時間は達成しました。ただし、連絡系統に一部遅れがありました」


 風間が答える。


「ならば、そこを改善しましょう」


「はい」


「頭取、一つ聞いてもよろしいですか?」


 森川莉奈が恐る恐る手を挙げた。


「どうぞ」


「現場の小さな改善案でも、上げてよいのでしょうか? 役員会へ提出するほどの内容でなくても……」


「すべてを役員会へ持っていく必要はありません」


「ですよね」


「でも、小さな不便を毎日千人が感じていたら、それは本当に小さい問題でしょうか?」


「……違います」


「改善案を出してください」


「はい!」


◇◇◇


 午後二時三十分。


 本店三十六階、地方創生金融部。


 地域企業支援課長代理・三枝佳奈・三十五歳が、地方派遣プロジェクトの資料をまとめていた。


「お疲れさまです、頭取」


「お疲れさま、三枝さん」


「第一陣派遣の資料を整理しています」


「個別行員の評価は、派遣終了後にしてください」


「承知しています。瑞央銀行側の担当者からも評価を受ける予定です」


「お願いします」


 同じ部署には、地域企業支援担当・早坂航平・二十九歳がいた。


 三つの地域を担当し、産業構造や人口動態を比較しながら支援策を考える実務派。穏やかだが、現地へ足を運ぶことを重視する。趣味はサッカーと道の駅巡り。


「早坂さん。担当している三地域に、どのような違いがありますか?」


「同じ製造業中心でも、一つは輸出比率が高く、別の地域は域内企業同士の取引が中心です」


「同じ業種という言葉だけで、一括りにしないでください」


「はい」


 若手行員・野々村紗耶・二十七歳も質問した。


 地方創生金融部へ異動して二年目。人当たりがよく、地域銀行の行員ともすぐに関係を築く。趣味は旅行と郷土料理作り。


「頭取。来月、地域銀行から一名、こちらへ出向されます。受入側として何を最も意識すべきでしょうか?」


「青嶺中央銀行の方法を教えることより先に、その人が何を知っているか聞いてください」


「……はい」


「地域銀行から来る行員は、私たちが知らないものを持ってきます」


「分かりました」


 璟瑶は急がずにフロアを歩いた。


 机。


 モニター。


 書類。


 そこで働く一人一人の行員。


「お疲れさまです」


「お疲れさまです、頭取」


「忙しいですか?」


「少しだけ」


「無理をしすぎないでください」


「ありがとうございます」


 頭取は、四十二階から巨大な数字だけを見ている存在ではない。


 必要であれば、自分の足で現場へ下りる。


◇◇◇


 午後三時十五分。


 璟瑶は別件を終えた二十八階から四十二階へ戻るため、珍しく一般行員用エレベーターへ乗った。


 後方に一人で立つ。


 途中から乗り込んできた三人の行員は、話に夢中で頭取の存在に気づかなかった。


 法人営業第二部・加賀谷翔・三十一歳。


 若手経営者との交渉を得意とする明るい法人営業担当。趣味はフットサルと食べ歩き。


 総務部・村上奈央・二十九歳。


 福利厚生と本店施設管理を担当し、現場からの要望を細かく記録する几帳面な人物。趣味はヨガとパン作り。


 IT戦略部・浜田雄介・三十歳。


 システム運用を担当する率直な性格の技術者。使いにくいものは役職に関係なく使いにくいと言う。趣味は映画鑑賞とボードゲーム。


「今日、社員食堂が混みすぎじゃない?」


 加賀谷が言う。


「十二時十五分に行ったら席がなかった」


「新メニューの日だったからね」


 村上が答える。


「あの麺類?」


 浜田が反応する。


「俺、食べ損ねた」


 後方にいる璟瑶は黙って聞いていた。


「最近、地域銀行への派遣が増えてるじゃん」


「うん」


「俺も少し行ってみたいんだよな」


「地方へ?」


「本店だけにいると、会社の数字しか見えなくなる時があるから」


 璟瑶の目元が僅かに柔らかくなる。


「でも派遣って大変そう」


「仕事だから、そりゃ大変だろ」


「頭取が力を入れてるらしいよ」


「頭取って四十二階で、ずっと会議してるイメージだけど」


「今日、二十九階へ来たらしい」


「本当に?」


「うちへ来たら緊張するな」


 村上が笑う。


「でも頭取って、私たちの名前までは知らないでしょう。単体で二万五千人もいるんだから」


「それは無理だよな」


「それより、システムの承認画面をもう少し減らしてほしい」


「分かる。クリックが多い」


「あと食堂の席を増やしてほしい」


「二十一階の広さには限界があるだろ」


「なら昼休憩を分散させる制度」


「それは総務部へ言ってよ」


「村上さんが総務部だろ」


「私一人へ言われても困る!」


 三人は笑った。


 その時、加賀谷が何気なく後ろを振り返った。


「……」


 完全に固まる。


「どうしたの?」


 村上も振り向く。


「……」


 浜田も二人の視線を追った。


「まさか……」


 璟瑶は穏やかに微笑んだ。


「続きをどうぞ」


「「「頭取!?」」」


「はい」


「いつから乗っていたんですか?」


「皆さんが入る前からです」


「どこから聞いていました?」


「社員食堂が混んでいるという話から」


「全部じゃないですか!」


 村上の顔が赤くなる。


「申し訳ありません。頭取が四十二階で、ずっと会議していると……」


「だいたい合っています」


「え?」


「実際、会議は多いので」


「承認画面の話も聞きました?」


 浜田が恐る恐る尋ねる。


「聞きました」


「すみません」


「なぜ謝るのですか? 使いにくいなら、改善した方がよいでしょう」


「はい」


「社員食堂の混雑についても、総務部で時間分散の余地があるか検討してください」


「本当に検討するんですか?」


「村上さんは総務部でしょう?」


「は、はい!」


「地域銀行派遣に興味があるのですか?」


 璟瑶は加賀谷へ尋ねた。


「……あります」


「なら上司へ相談し、次回以降の制度募集があれば、通常の手続きで応募してください」


「応募してもいいんですか?」


「制度として募集するのですから、当然です」


「ありがとうございます」


 四十階で扉が開いた。


「では、お疲れさまです」


「お、お疲れさまです!」


 璟瑶が降り、扉が閉まる。


 三秒ほどの沈黙。


「……終わった」


 加賀谷が呟く。


「死ぬかと思った」


 村上も胸を押さえた。


「でも、普通だったな」


 浜田が言う。


「頭取が?」


「うん。食堂の話まで拾われたけど」


「それが一番恥ずかしいんだけど」


 三人は顔を見合わせ、また小さく笑った。


◇◇◇


 午後六時四十八分。


 主要業務を終え、劉川と水城が退室すると、頭取室は静かになった。


 創の瑞央銀行派遣は四日目。


 残りは、明日の一日だけ。


「あと少し……」


 午後七時五分。


 璟瑶は専用側のエレベーターで地下五階へ下りた。


 六桁の番号を入力する。


 4。


 5。


 2。


 1。


 1。


 4。


 452114。


 認証後、社員証で第二扉を解錠する。


 その先には、二人だけの秘密基地があった。


「ただいま」


 口にしてから、璟瑶は一人で少し笑った。


「……誰もいないのに」


 普段なら、創から「お疲れ」と返ってくる。


 今日は何も聞こえない。


 大きなソファ。


 低いテーブル。


 テレビ。


 小型冷蔵庫。


 簡易キッチン。


 本棚。


 デイベッド。


 二人のマグカップ。


 創と璟瑶、それぞれの私物を収める収納。


 何も変わっていない。


 創がいないことだけが、いつもと違った。


「……静かね」


 璟瑶はジャケットを脱ぎ、いつもの場所へ座った。


 少しして、創が普段座る側へ移動する。


「何をしてるの、私……」


 自分で呆れながらも、そのままソファへ身体を預けた。


 テレビをつけ、以前二人で見た恋愛映画を再生する。


 十分。


 二十分。


「……つまらない」


 映画がつまらないわけではない。


 隣に創がいないからだった。


「創と見た方がいい」


 再生を止め、クッションを抱く。


「四十五歳で何をしてるんだろう……」


 青嶺中央銀行頭取。


 青嶺FG副CEO。


 約二万五千人の行員、グループ全体で約六万七千人に関わる責任を負う女性。


 その人物が、誰もいない地下五階で、恋人のいない寂しさからクッションを抱いている。


「……誰にも見せられない」


 もちろん、秘密基地そのものも知られてはいけない。


◇◇◇


 午後七時二十八分。


 私用スマートフォンが震えた。


『今日の仕事、終わった』


 創からだった。


 璟瑶はすぐに端末を手に取る。


『お疲れさま』


『今日、少しいいことがあった』


『仕事?』


『うん』


『なら、具体的な内容は聞かない』


『分かってる』


『前の銀行で教わった確認が役に立った』


 璟瑶は微笑んだ。


『三谷さん?』


『そう。覚えてたんだ』


『創が何度も話していたから』


『顧客名や案件情報は話してないよ』


『分かってる』


 少し間を置いて。


『きちんと確認できたのね』


『うん』


『偉い』


『また子ども扱いしてる』


『二十一歳だから』


『年齢は関係ない』


 璟瑶は一人で笑った。


 写真は送らない。


 地下五階の秘密基地は、二人だけの場所だから。


『今どこ?』


 創から尋ねられる。


『秘密基地』


『一人で?』


『うん』


『寂しい?』


 璟瑶は数秒迷った。


『全然』


『嘘』


『少し』


『本当に少し?』


『……かなり』


 今度は正直に送った。


『明日で終わり』


『うん』


『必ず帰る』


 璟瑶は、創がいつも座っている場所を手で撫でた。


『待ってる』


『帰ったら、また地下へ行こう』


『うん』


『一緒に夕食を食べる?』


『食べる』


『映画も見る?』


『見る』


『抱き締める?』


『それは必須』


『必須なんだ』


『頭取命令』


『私用で頭取権限を使わないでください』


『なら、彼女からのお願い』


『それなら承認』


 璟瑶は声を出して笑った。


『キスも』


 少しして。


『承認します』


「……ふふ」


 午後八時。


 璟瑶はグラスを洗い、元の位置へ戻した。


 二つ並んだマグカップは、今日は一つも使っていない。


「次は二つね」


 照明。


 冷蔵庫。


 忘れ物。


 一つずつ確認する。


 部屋を出る前、もう一度振り返った。


「……明日で終わり」


 創の出張は、残り一日だった。


◇◇◇


 同じ頃。


 瑞央銀行近くのホテル。


 創は四日目の出張日報を作成していた。


『新城テクノから提出された最新設備見積書と、瑞央銀行内部資料に記載された投資総額の差異を確認した。』


『差異の原因は、追加の受電設備工事費である。設備担当部門は最新見積書を受領していたが、経理部門が作成した資金計画には反映されていなかった。』


『早期に差異を確認したことで、正しい投資総額に基づき、借入額、自己資金、支払条件、設備導入後の運転資金を再検討することとなった。』


『今回、金額が概ね一致しているという理由で確認を省略してはいけないと、改めて実感した。』


 最後に二行を加える。


『一つの数字にも、必ず理由がある。』


『数字が合わないなら、合わない理由を確認する。東都共栄銀行で教わった基本を、これからも忘れない。』


 創は文章を読み直した。


 誤字。


 数字。


 送信先。


 顧客情報の範囲。


「……確認」


 問題がないことを確かめ、日報を送信する。


 一億六千万円。


 一億六千六百万円。


 差額は六百万円。


 それを「これくらい」と流さなかった。


 創一人が企業を救ったわけではない。


 小野寺。


 白石。


 藤堂。


 宮坂。


 新城テクノの新城専務と柴田経理部長。


 全員で確認し、正しい資金計画へ戻した。


 しかし、最初の数字で誰も立ち止まらなければ、未来は少し違っていたかもしれない。


 十八歳の頃。


 東都共栄銀行で、三谷雅臣から何度も教えられた確認。


 その基本は、銀行が変わっても、地域が変わっても、会社と顧客、そして銀行自身を守る力になっていた。


 宮嶋創、二十一歳。


 地域銀行合同プロジェクト、四日目。


 派遣期間は、残り一日。


 翌日、創は瑞央銀行での最終日を迎える。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、創の強みである「確認」が再び大きな意味を持つ回となりました。


一億六千万円。


一億六千六百万円。


差は六百万円。


設備投資全体から見れば小さく見える数字でも、資金計画の中では決して小さくありません。


会社側では最新見積書へ追加工事費が反映されていた一方、資金計画は旧見積もりのまま。


そのまま進めば、会社の運転資金から不足分を補う可能性もありました。


創が一人で会社を救ったわけではありません。


創が違和感に気づき。


白石や藤堂と確認し。


小野寺が会社へ問い合わせ。


宮坂たちと資金計画を組み直す。


銀行の仕事は、こうしたチームでの確認の積み重ねです。


そして東京では、璟瑶も頭取として各部署をゆっくり回りました。


デジタル金融。

IT戦略。

地方創生金融。


役員室だけではなく、若手行員や現場担当者から直接話を聞く璟瑶。


さらにエレベーターでは、頭取がいるとは知らずに銀行の制度や社員食堂について話していた行員たちと、少しラブコメならぬ職場コメディのような一幕もありました。


最後は地下5階。


いつもなら創がいるソファに、一人で座る璟瑶。


仕事では巨大銀行を動かす頭取でも、秘密基地ではただ創を待つ一人の恋人です。


次回はいよいよ瑞央銀行での派遣最終日。


創はこの五日間で学んだことを、自分の言葉でまとめることになります。


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