第22話「初めての地域銀行――東京の常識が、そのまま通用するわけじゃない」
第22話です。
いよいよ創が最初の派遣先・瑞央銀行へ現地入りします。
青嶺中央銀行本店とは違う建物、違うシステム、違う仕事の進め方。
さらに、瑞央銀行の頭取や役員、法人営業担当者たちと出会い、創は地域銀行ならではの「企業との距離の近さ」を初日から実感することになります。
特に今回は、創と同じく高校卒業後すぐ銀行員になった二十三歳の藤堂蓮も登場。
東京の常識が、そのまま地方でも正解とは限らない。
青嶺中央銀行とは違う地域金融の世界へ足を踏み入れる、出張初日の物語をお楽しみください。
第22話「瑞央銀行で知った距離――地域に近い銀行の営業」
日曜日の午後。
宮嶋創は翌日から始まる地域銀行合同プロジェクトに参加するため、東京を離れた。
派遣先は、瑞央銀行。
青嶺FGが全国四十七都道府県に築く金融ネットワークへ参加する、有力地域銀行の一つである。
「……本当に来たんだな」
駅へ降り立った創は、キャリーケースの取っ手を握りながら周囲を見渡した。
駅前にはホテルや商業施設が並んでいる。しかし、大手町のように高層ビルが途切れなく続いているわけではない。
少し離れれば住宅地があり、その先には山並みも見えた。
創はスマートフォンを開き、瑞央銀行本店までの経路、宿泊先、翌朝の集合時刻、緊急連絡先を確認する。
「ホテルへ行くか」
これから五営業日。
創にとって初めてとなる、地域銀行での実地研修が始まる。
◇◇◇
その夜。
ホテルの部屋で、創は翌日の予定を確認していた。
『午前八時三十分 瑞央銀行本店集合』
『午前九時 受入式・役員挨拶』
『午前十時 地域経済・主要産業説明』
『午前十一時 法人営業部説明』
『午後 法人営業同行・現地担当者顔合わせ』
「初日から、かなり入ってるな……」
社給端末。
青嶺中央銀行の社員証。
名刺入れ。
筆記具。
派遣関係資料。
一つずつ鞄へ入れ、もう一度確認する。
その時、私用のスマートフォンが震えた。
欧陽璟瑶からのメッセージだった。
『着いた?』
『着いた』
『もうホテル?』
『今ホテルにいる』
『夕食は?』
『食べた』
『明日の準備は?』
『今してる』
『忘れ物は?』
『たぶんない』
すぐに返信が届く。
『「たぶん」は駄目』
「……」
創は思わず笑った。
もう一度、鞄の中を見る。
『確認しました。忘れ物はありません』
『よろしい』
「頭取みたいだな……」
いや、実際に青嶺中央銀行頭取である。
しかし、今は仕事上の連絡ではない。離れた場所にいる恋人を心配しているだけだった。
『明日から頑張ってくる』
数秒後。
『うん。頑張ってきて、創』
創はしばらく画面を見つめた。
『行ってきます』
◇◇◇
翌朝、午前七時。
創はホテルで目を覚ました。
シャワーを浴び、白いワイシャツと濃紺のスーツへ着替える。ネクタイを締め、革靴の汚れを確認した。
社員証。
名刺入れ。
社給端末。
筆記具。
派遣資料。
「……よし」
午前八時十五分。
創は瑞央銀行本店の前に立っていた。
青嶺中央銀行本店とは、建物の印象からして違う。
青嶺中央銀行本店は、地上四十二階、地下五階。約二万五千人の行員を抱える巨大銀行の中枢である。
一方、瑞央銀行本店も地域を代表する金融機関として十分に大きいが、青嶺中央銀行ほど圧倒的な規模ではない。
正面玄関付近では、地元企業の経営者らしい男性や個人客、出勤してきた行員が次々と建物へ入っていく。
腕時計は午前八時二十二分。
「少し早いかな……」
それでも、初日に遅れるよりはいい。
創は受付へ進んだ。
「おはようございます。青嶺中央銀行法人営業第一部の宮嶋創と申します。本日から地域銀行合同プロジェクトでお世話になります」
「宮嶋様ですね。お待ちしておりました」
受付で本人確認を済ませ、来客証を受け取る。
案内を待っていると、奥から明るい声が聞こえた。
「宮嶋さん!」
振り向くと、三十代の男性行員が笑顔で近づいてきた。
「初めまして。瑞央銀行法人営業部の小野寺修平です」
「あ……初めまして。宮嶋創です」
小野寺修平、三十四歳。
法人営業十一年目で、製造業、卸売業、建設業を中心に担当している。明るく面倒見がよく、取引先との距離が近い。企業経営者だけでなく、工場長や経理担当者、従業員の名前までよく覚えている。
趣味はランニング。早朝に川沿いを走ることが日課で、年に数回は市民マラソンへ出場している。
今回の派遣で、創が最も長く行動を共にする現地担当者だった。
「本日から五日間、よろしくお願いいたします」
「よろしく。だけど、少し硬いなあ」
「初日ですから」
「まだ八時半にもなってないよ?」
「初日だからこそです」
「真面目だね」
「よく言われます」
「緊張してる?」
「かなりしています」
「大丈夫。うちは青嶺中央銀行ほど怖くないから」
「青嶺も怖くありませんよ!」
「でも、頭取とかすごそうじゃない?」
「……」
創の動きが、一瞬だけ止まった。
「宮嶋君?」
「いえ、何でもありません」
「欧陽頭取とは会ったことある?」
「最終面接で」
「それは緊張するな」
「……しました」
その女性と三年近く交際しており、出張前には地下五階の秘密基地で何度も抱き締められた。
当然、そんなことは言えない。
「まず法人営業部へ行こう。荷物を置いて、みんなに紹介するよ」
「はい」
◇◇◇
小野寺に案内されながら本店内を歩く。
部署の配置。
入退室方法。
事務端末。
書類の保管設備。
青嶺中央銀行とは、あらゆる部分が少しずつ違っていた。
「やっぱり違う?」
創が周囲を見ていることに気づき、小野寺が尋ねた。
「はい。端末も青嶺とは違いますね」
「青嶺中央銀行のシステムと一部連携しているけど、全部が同じではないからね」
「グループ内でも統一されていないんですか?」
「地域銀行には、それぞれの歴史がある。昔から使っているシステムを、ある日突然すべて青嶺方式へ変えるのは簡単じゃない」
「導入費用もかかりますね」
「それもあるし、長年使ってきた職員への影響もある。共同化した方がいい部分と、それぞれ残した方がいい部分を分けているんだ」
「なるほど……」
全国ネットワークに参加しているからといって、すべてを青嶺中央銀行へ合わせるわけではない。
それは昨日まで何度も説明されたことだった。
しかし、実際に異なる設備や端末を見ると、その意味を強く実感できた。
◇◇◇
「おはようございます」
小野寺が法人営業部へ入る。
「おはようございます」
「小野寺さん、おはようございます」
フロアにいた行員たちの視線が、隣にいる創へ向けられた。
「紹介します。今日から五日間、青嶺中央銀行から来てくれた宮嶋創君です」
創は姿勢を正し、深く頭を下げた。
「青嶺中央銀行法人営業第一部の宮嶋創です。本日から五日間、お世話になります。よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします」
温かい拍手が起こり、創の緊張が少しだけ和らいだ。
「宮嶋君、二十一歳だっけ?」
女性行員から尋ねられる。
「はい」
「若いね」
「……また言われた」
「何か言った?」
「いえ、何でもありません!」
小野寺が笑う。
「五日間で何回『若い』って言われるか、数えておけば?」
「今ので一回目です」
「俺は資料を見た時に一回言ったから、二回目」
「本人がいないところで言った分は数えません」
その時、落ち着いた声が聞こえた。
「小野寺君。そちらが宮嶋さんですか?」
「はい」
創はすぐに姿勢を正した。
「初めまして。青嶺中央銀行の宮嶋創です」
「瑞央銀行法人営業部・地域企業支援チームの宮坂隆司です」
宮坂隆司、四十四歳。
法人営業経験二十年以上。企業融資だけでなく、事業承継、経営改善、企業再生支援にも携わってきたベテランで、今回の現地責任者を務める。
穏やかで口数は多くないが、経営者との面談では相手の言葉を遮らず、本音が出てくるまで丁寧に聞く。趣味は登山で、休日には地元の山を歩き、季節ごとの景色を写真に収めている。
「五日間という短い期間ですが、青嶺中央銀行との違いをたくさん見ていってください」
「はい」
「ただし、瑞央銀行の方法がすべて正しいわけでもありません」
「……はい」
「青嶺中央銀行には、青嶺中央銀行の強みがある。だから、一方的に学ぶのではなく、お互いに教え合いましょう」
「よろしくお願いいたします」
続いて、若い男性行員が近づいてきた。
「宮嶋君、初めまして」
「初めまして」
「藤堂蓮、二十三歳です」
「藤堂さん……」
創の顔が僅かに明るくなる。
藤堂蓮は高校卒業後、十八歳で瑞央銀行へ入行した五年目の行員である。
最初の二年間は預金、為替、後方事務を経験。法人営業へ異動してから三年目となり、現在は地域の中小企業を担当している。
真面目で負けず嫌いだが、困っている同僚を放っておけない。初対面では少し無愛想に見えるものの、親しくなると冗談も言う。趣味は野球観戦と自動車で、休日には愛車で県内を走っている。
「高校卒業後から瑞央銀行なんですよね?」
「そう。宮嶋君も高卒で銀行へ?」
「はい。東都共栄銀行で四年ほど勤務していました」
「じゃあ、高卒銀行員同士だな」
藤堂が右手を差し出す。
「五日間、よろしく」
「よろしくお願いします」
二人は握手を交わした。
「二十三歳で法人営業三年目って、早いですね」
「最初は窓口と後方事務だったよ」
「俺も同じです。振込や諸届も?」
「やった。相続受付も補助なら」
「俺もです」
二人は会ったばかりとは思えないほど自然に話し始めた。
「初日から同期みたいになってるな」
小野寺が笑う。
「高卒で銀行へ入る人は、最近それほど多くないですから」
藤堂の言葉に創も頷いた。
「青嶺中央銀行は、特に大学卒の行員が多いです」
「瑞央も最近は大卒が増えてるよ」
「二人とも、朝から盛り上がりすぎ」
女性行員が会話へ入ってきた。
「こちらは白石結衣さん。二十八歳」
「初めまして。宮嶋創です」
「白石です。よろしくお願いします」
白石結衣は法人営業五年目。若手経営者、創業企業、スタートアップ支援を担当している。
冷静で数字に細かく、融資資料や財務データの僅かな不一致を見つけることが得意。趣味はカフェ巡りと写真で、休日には古民家を改装した店や町並みを撮影している。
「宮嶋君も確認が得意なんでしょう?」
「もう知られているんですか?」
「受入資料に書いてあったから」
「何でも書いてありますね……」
「私も確認作業は好きよ」
「では、勝負しますか?」
「しません」
「即答ですね」
「ミスを見つけるのは競技じゃないから」
「確かに、その通りです」
◇◇◇
午前九時。
創は役員への挨拶のため、瑞央銀行の役員フロアへ案内された。
会議室中央に座っていたのは、瑞央銀行頭取・鷹取隆臣・五十八歳。
瑞央銀行一筋三十六年。支店営業、法人融資、融資審査、地域企業支援を経験して頭取へ就任した。
温厚で話しやすい雰囲気を持つ一方、企業の将来性や融資判断には厳しい。地域金融とは数字だけでなく、人と町を長く見続ける仕事だと考えている。趣味は囲碁と地元の祭り巡りで、休日には家族と各地の伝統行事を訪れている。
「青嶺中央銀行から来られた宮嶋さんですね」
「はい。宮嶋創と申します。五日間、お世話になります」
「二十一歳と聞きました。若いですね」
「……本日三回目です」
「何がですか?」
「いえ、失礼しました」
周囲から小さな笑いが漏れ、鷹取頭取も口元を緩めた。
「それほど緊張しなくても大丈夫です。ただし、ここでは青嶺中央銀行の常識を一度横へ置いてください」
「はい」
「青嶺中央銀行は、瑞央銀行より遥かに規模が大きい。海外拠点、専門部署、扱う案件の金額も違います」
「はい」
「しかし、私たちはこの地域を長く見てきました。企業だけでなく、人、町、産業、その変化を見ています」
「……はい」
「その違いを学んでください。同時に、青嶺中央銀行で学んだことも遠慮なく話してほしい」
「分かりました」
「上下ではありません。同じ銀行員ですから」
「よろしくお願いいたします」
創は深く頭を下げた。
次に挨拶したのは、副頭取・榊田隆彦・五十五歳。
法人融資と審査部門を長く経験し、地域企業の経営改善や再生支援に強い。冷静かつ慎重で、将棋のように数手先まで考えて判断する人物だった。趣味も将棋で、休日には地元の将棋教室で子どもたちを指導することがある。
「法人営業第一部へ正式配属されてから、まだ間もないそうですね」
「はい」
「なら、完成した答えを持ってこなくていい」
「……はい」
「むしろ、疑問を持って帰ってください」
「疑問ですか?」
「五日間で地域金融のすべてを理解できる人はいません。分からないことが増えれば、それも一つの成果です」
「なるほど……」
専務取締役・高岡征一・五十三歳。
営業部門を統括し、現在も地元企業の経営者と直接話す機会を大切にしている。豪快で声が大きく、部下にも気さくに接する。趣味はゴルフと地元スポーツチームの応援。
「宮嶋君!」
「はい!」
「もっと楽にして!」
「はい!」
「それでは全然楽になってない!」
「すみません!」
会議室に笑い声が広がる。
「青嶺中央銀行の若手は、みんなそんなに硬いのか?」
「たぶん、俺だけです」
「正直でいい!」
続いて、常務取締役・西条真理子・五十歳。
個人金融と地域創生を担当し、法人取引でも、その会社で働く従業員や家族の暮らしまで見ることを重視している。穏やかで聞き上手だが、顧客目線を欠いた企画には厳しい。趣味は園芸と料理で、自宅では季節の野菜を育てている。
「宮嶋さん。法人営業だからといって、企業だけを見てはいけませんよ」
「どういうことでしょう?」
「その会社で働く人は、この地域で暮らしています。家を買い、子どもを学校へ通わせ、地元のお店で買い物をする」
「……はい」
「企業金融と個人金融は、地域ではつながっています。五日間で、そこも見てください」
「分かりました」
最後は、取締役兼法人営業部長・伏見浩平・四十八歳。
法人営業部門全体を統括し、企業訪問と現場確認を非常に重視している。机上の数字だけで結論を出すことを嫌う行動派で、趣味はドライブ。休日には目的地を決めずに郊外を走ることもある。
「宮嶋君のことは聞いているよ」
「何をでしょう?」
「製造業の設備融資案件で、工場を見て考え方が変わったそうだね」
「そこまで資料に書いてあるんですか?」
「派遣候補者の評価記録にね」
「少し恥ずかしいです」
「恥ずかしがる必要はない。今回も資料だけで分かった気にならないことだ」
「はい」
「企業へ行く。工場を見る。経営者と話す。可能なら従業員とも話す。そして地域を歩く」
「はい」
「そのうえで、もう一度数字を見る」
創は少し首を傾げた。
「青嶺中央銀行とは順番が逆に感じます」
「順番の問題ではないよ」
伏見は答えた。
「資料を見て疑問を持つ。人へ聞く。現場を見る。そして、また資料へ戻る」
「……」
「その間を何度も行き来する。それが法人営業だ」
「分かりました」
◇◇◇
午前十時。
地域経済と主要産業の説明を担当したのは、瑞央銀行地域経済調査部主任調査役・牧瀬修吾・四十歳だった。
十五年以上にわたり地域産業の分析を担当する几帳面な人物で、数字の背景にある人口動態や交通網、歴史まで調べる。趣味は郷土史研究で、休日には古い地図や地域史料を読むことが多い。
大型モニターには、地域の産業構成が表示された。
製造業。
農業。
観光。
物流。
建設。
医療。
小売業。
「宮嶋さん。青嶺中央銀行で企業を見る時、最初に何を確認しますか?」
「業種、売上高、利益、財務内容、借入状況、主要取引先などです」
「そうですね。しかし地域銀行では、企業の所在地も重要な情報になります」
「場所ですか?」
画面へ地図が映る。
工業団地。
幹線道路。
駅。
住宅地。
港。
「物流網が変われば、企業へ影響します。人口が減れば、小売業やサービス業の売上にも影響する」
「はい」
「学校が統合されれば、人の流れが変わる。大きな工場が撤退すれば、下請企業や従業員だけでなく、住宅ローンや地域商店にも影響します」
「企業一社だけの問題ではない……」
「それが地域経済です」
青嶺中央銀行は、全国と海外を巨大な視点から見る。
瑞央銀行は、町、住民、地元企業を近い距離で見る。
同じ銀行でも、見える景色はまったく違っていた。
◇◇◇
午前十一時。
宮坂から法人営業部の業務内容を説明された。
「瑞央銀行の法人営業は、融資だけを扱うわけではありません」
経営改善。
事業承継。
販路開拓。
人材紹介。
補助金申請支援。
設備投資。
海外展開。
大型融資。
M&A。
「瑞央銀行だけで対応できないことは、青嶺中央銀行や青嶺FGの専門部署へつなぎます」
「反対に、青嶺中央銀行だけでは分からないこともある」
「その通りです」
「例えば、どんなことですか?」
「今日の午後、実際に見てもらいましょう」
小野寺が笑った。
「予定している企業を訪問する前に、一社寄るよ」
「もう一社、面談があるんですか?」
「いや、正式なアポイントは取ってない」
「……アポイントなしで行くんですか?」
「近くを通るから、顔を出すだけ」
青嶺中央銀行本店の法人営業では、経営者との面談前に日程、議題、参加者、必要資料を細かく調整する。
創にとって、アポイントなしの訪問は意外だった。
「大丈夫なんですか?」
「重要な商談を突然始めるわけじゃない。社長がいれば挨拶する。それだけだよ」
「それも地域営業ですか?」
「行けば分かる」
◇◇◇
午後一時。
小野寺修平、白石結衣、藤堂蓮、宮嶋創の四人は、営業車で本店を出発した。
市街地を走りながら、創が尋ねる。
「小野寺さんは、担当企業が何社くらいあるんですか?」
「主担当と副担当を合わせれば、かなりあるよ」
「全部の決算内容を覚えているんですか?」
「すべての数字は無理だね。でも、社長の顔、後継者、工場長、主要取引先、最近何に困っているか。その辺りは大体覚えている」
「すごいですね」
「小野寺さん、取引先の社長が飼っている犬の名前まで覚えてるから」
藤堂が横から言った。
「犬の名前?」
「大福」
小野寺が即答する。
「本当に覚えてる!」
「柴犬だよ」
「種類まで?」
白石が笑う。
「奥様の誕生日は忘れたのに、取引先の犬は覚えていましたよね」
「それは言うな」
「奥様の誕生日の方が大事じゃないですか!」
車内に笑い声が広がった。
◇◇◇
十五分後。
四人は地元の建設資材会社へ到着した。
「こんにちは。瑞央銀行です」
小野寺が自然に建物へ入る。
「あ、小野寺さん」
「社長、います?」
「今は倉庫にいますよ」
「顔だけ出してもいいですか?」
「どうぞ」
(本当にアポイントなしなんだ……)
倉庫へ向かうと、五十代の社長が小野寺に気づいた。
「おお、小野寺君。今日はどうした?」
「近くを通ったので、顔を見に来ました」
「それだけ?」
「それだけです」
「暇なのか?」
「忙しいですよ!」
親しげな会話に、創は驚いた。
「あ、今日は青嶺中央銀行から若い行員が来ています」
「青嶺中央銀行?」
「宮嶋君です」
「初めまして。青嶺中央銀行の宮嶋創です」
「若いな!」
「本日四回目です」
「何が?」
「いえ、こちらの話です」
また笑いが起きた。
「東京から来たのか?」
「はい。五日間、瑞央銀行で勉強させていただきます」
「うちを見ても勉強にはならないぞ」
「社長、先月入れた設備の調子はどうです?」
小野寺の一言で、雑談が自然に仕事の話へ移った。
「設備はいいよ。納期もかなり短くなった」
「人手は足りています?」
「それがな。若い人がなかなか来ない」
「高卒採用は?」
「学校を回ってるところだ」
「以前ご案内した人材紹介の担当者と、もう一度つなぎましょうか?」
「頼めるか?」
「分かりました」
滞在時間はわずか十分ほど。
正式な商談ではない。
金融商品の提案もしていない。
それでも、設備の稼働状況、人手不足、採用という経営課題を把握していた。
車へ戻ったあと、創は尋ねた。
「小野寺さん。今の訪問も営業なんですか?」
「もちろん」
「融資や預金の話は一切していませんでした」
「しなくても営業だよ。会社が何に困っているか知ることが先だから」
「人手不足なら、人材紹介につなぐ」
「必要ならね」
「銀行員だからといって、毎回資金需要を探すわけではない?」
「お客様が困っていることが、お金とは限らないから」
創はメモ帳を開いた。
『融資需要だけを探さない』
青嶺中央銀行で学んできた法人営業とは、少し違う。
だが、企業を支えるという目的は同じだった。
◇◇◇
次に訪問したのは、事前にアポイントを取っていた製造会社だった。
面談には、社長、工場長、経理責任者が出席する。
ところが小野寺は、事業の話へ入る前に尋ねた。
「社長、腰の具合はどうですか?」
(腰?)
創は思わず小野寺を見た。
「だいぶよくなったよ」
「先月、痛めていましたよね」
「よく覚えているな」
「もちろんです」
その後、会話は自然に経営課題へ移った。
売上。
受注状況。
設備更新。
人材確保。
資金繰り。
「以前お話しされていた取引先は、最近どうですか?」
「あそこは発注量が少し戻ってきた」
「それならよかったです」
小野寺は、決算書に書かれている数字だけでなく、その前後の出来事まで覚えていた。
帰りの車内。
「小野寺さん、企業のことを知りすぎじゃないですか?」
「そうかな?」
「社長の腰のことまで覚えていました」
「あれは雑談だよ」
「でも、その雑談から自然に仕事の話へつながっていました」
「青嶺中央銀行では違う?」
「少なくとも俺の部署では、訪問前に議題を決めて、資料と質問事項を準備することが多いです」
「それも大切だよ。瑞央銀行でも、重要案件なら同じように準備する」
「はい」
「ただ、毎回それだけではない。地域銀行は企業との物理的な距離も、心理的な距離も近いからね」
「突然呼ばれることもありますか?」
「あるよ。社長から『小野寺君、ちょっと来て』って」
「用件は?」
「聞いても、『来れば分かる』と言われることがある」
「怖くないですか?」
「慣れるよ」
藤堂も笑う。
「俺も以前呼ばれて行ったら、社長の息子さんを紹介されました」
「どうして?」
「次期社長候補としてね」
「ああ……それなら重要ですね」
白石が続けた。
「地域銀行では、企業の決算書が出る前に変化を感じることがあります」
「どのように?」
「経営者との会話、日常的な訪問、地域のつながりです。もちろん、噂だけで判断はしません」
「はい」
「でも、社長の表情が以前と違う。工場へ出入りする車が減った。求人が増えた。新しい倉庫を借りた。そういう変化は、数字になる前に見えることがあります」
創は黙って聞いていた。
青嶺中央銀行本店には、巨大なデータ、高度なシステム、数多くの専門部署がある。
それは大きな強みだ。
一方、瑞央銀行には別の強みがある。
人との距離。
企業との距離。
地域との距離。
その近さだった。
◇◇◇
午後五時。
瑞央銀行本店へ戻り、初日の振り返りが行われた。
「初日はどうでしたか?」
宮坂が尋ねる。
「驚きました」
「何に?」
「企業との距離の近さです。小野寺さんが、あれほど自然に社長と話しているとは思いませんでした」
「青嶺中央銀行でも、企業と近い担当者はいるでしょう」
「はい。ただ、銀行全体の規模と、地域で積み重ねてきた年月が違うと感じました」
「瑞央銀行には、親の代、場合によっては祖父の代から取引している企業もあります」
「それだけ長い関係があるんですね」
「銀行と企業というだけでなく、地域の仲間として付き合っているところもあります」
そこで宮坂の表情が引き締まった。
「ただし、距離が近いことには危険もあります」
「危険?」
「親しい経営者だから融資する。長年の取引先だから審査を甘くする。それは許されません」
「はい」
「近いからこそ、駄目なことは駄目と言わなければならない」
「……難しいですね」
「難しいですよ。青嶺中央銀行とは、また違う難しさです」
瑞央銀行と青嶺中央銀行。
規模も、システムも、仕事の進め方も違う。
しかし、どちらが上で、どちらが下という話ではない。
それぞれに、異なる強さと難しさがある。
「宮嶋君、今日はここまで」
小野寺が声をかけた。
「ありがとうございました」
「明日は朝から企業を二社訪問する。午後は製造業の工場見学だ」
「はい」
「歩きやすい革靴で来て」
「分かりました」
藤堂も近づいてくる。
「明日の昼、一緒に食べよう」
「いいんですか?」
「高卒銀行員会」
「二人しかいませんよ」
「会員二名で始めればいい」
「少なすぎません?」
「私も入れてよ」
白石が言った。
「白石さんは大卒でしょう?」
「なら加入できないの?」
「そこで諦めるんですか?」
創たちは笑った。
「お疲れさまでした」
創は瑞央銀行本店を出た。
◇◇◇
ホテルへ戻る途中。
創は昨日までとは違う目で町を見た。
銀行。
商店。
飲食店。
工場。
住宅。
自転車で走る学生。
仕事帰りの人々。
『地域銀行を理解するには、銀行の建物だけを見ても分かりません』
水原の言葉を思い出す。
駅前。
町。
企業。
そこで暮らす人。
「こういうことか……」
ホテルへ戻ると、創は社給端末で出張日報を作成した。
『第一日目』
『瑞央銀行本店での受入説明』
『役員及び法人営業部への挨拶』
『地域経済説明』
『法人営業同行』
続いて所感を記入する。
『青嶺中央銀行との大きな違いとして、地域企業との距離の近さを感じた。』
『担当者は財務情報だけでなく、経営者本人、後継者、従業員、地域環境などを、日常的な接点から把握している。』
『一方で、関係が近いからこそ、融資判断の客観性を失ってはいけないことも学んだ。』
『青嶺中央銀行の方法をそのまま当てはめるのではなく、瑞央銀行の強みを理解したうえで、自行の機能とどのように組み合わせるべきか考えたい。』
「……よし」
誤字。
記載内容。
送信先。
顧客情報が含まれていないこと。
すべてを確認する。
「確認完了」
日報を送信したあと、私用スマートフォンを手に取った。
欧陽璟瑶からメッセージが届いている。
『初日、終わった?』
『終わった』
『どうだった?』
創は少し考えた。
顧客名、案件情報、財務情報は伝えない。
『青嶺中央銀行とは全然違った』
『嫌だった?』
『逆。面白かった』
少し間を置いて返信が届く。
『そう。よかった』
『企業との距離が近い』
『地域銀行の強みね』
『うん。東京の常識をそのまま持ち込んじゃ駄目だって分かった』
『初日にそれへ気づけたなら十分よ』
『頭取評価?』
『違います』
『彼女評価』
創はホテルのベッドに腰を下ろし、笑った。
『なら満点?』
『今日は九十点』
『どうして十点減点?』
『私が寂しいから』
「それ、俺の評価じゃないだろ……」
『帰ったら埋め合わせします』
すぐに返信が届く。
『約束ね』
『約束』
最後に。
『明日も頑張ってきて、創』
『うん。おやすみ、璟瑶』
『おやすみ、創』
スマートフォンを置き、創は瑞央銀行から受け取った資料へ目を向けた。
青嶺中央銀行。
全国と海外に巨大な機能を持つ銀行。
瑞央銀行。
地域に根差し、企業や人々の小さな変化を近くで見続ける銀行。
規模も、システムも、営業方法も、企業との距離も違う。
東京の常識が、そのまま通用するわけではない。
それでも、目指しているものは同じなのかもしれない。
企業を支える。
人を支える。
地域の未来を支える。
銀行員として、何ができるのか。
地域銀行合同プロジェクトは、まだ初日を終えたばかりだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、創が初めて瑞央銀行本店を訪れ、地域銀行で働く人たちと出会いました。
鷹取頭取をはじめとした役員陣。
現地責任者の宮坂。
主に同行する小野寺。
確認を得意とする白石。
そして創と同じく、高校卒業後から銀行員として働いてきた藤堂蓮。
青嶺中央銀行とは規模もシステムも違いますが、創が何より驚いたのは、銀行員と地域企業との距離の近さでした。
社長の体調。
後継者。
従業員。
採用。
地域の変化。
日常的な会話の中から企業の課題を知っていく地域銀行の営業。
一方で、距離が近いからこそ融資判断を甘くしてはいけないという難しさもあります。
「青嶺中央銀行が正解」でも、「瑞央銀行が正解」でもない。
それぞれに違う強みがある。
創は初日から、そのことを少しずつ学び始めました。
次回は、さらに本格的な地域企業への法人営業へ。
社長だけではなく、町そのものまで知っている地域銀行員の仕事を、創がより深く体験していきます。




