第21話「最初の派遣先決定――二十一歳、初めて青嶺中央銀行本店を離れます」
第21話です。
今回は、いよいよ創の最初の地方出張先が正式に決まります。
派遣先は、青嶺FGの47都道府県ネットワークに所属する地域銀行・瑞央銀行。
5営業日の派遣期間中、創は現地の法人営業担当者と一緒に企業訪問や案件検討へ参加することになります。
青嶺中央銀行から「教えに行く」のではなく、地域銀行だからこそ分かる金融の仕事を「学びに行く」。
二十一歳の創にとって、初めて本店の外へ飛び出す大きな一歩です。
そして銀行では何も話せない璟瑶とも、夜の地下5階でだけ恋人同士へ戻ります。
不安と楽しみが入り混じる、初出張直前の回をお楽しみください。
翌日、午前九時三十分。
青嶺中央銀行本店、法人営業第一部・若手法人担当チーム。
「宮嶋君。十時から派遣説明会だから、九時五十分には三十八階へ上がって」
「地域銀行人材交流室ですね」
「そう。社員証は?」
「持っています」
「社給端末」
「あります」
「筆記具」
「あります」
「緊張は?」
「あります」
「それはいらないな」
「置いていけるなら、昨日のうちに置いてきていますよ!」
チームリーダー・桐生雅人・四十二歳は、創の返事に笑った。
桐生は法人営業一筋約二十年。数字には厳しいが、若手を必要以上に追い込むことはない。緊張している創を冗談で和ませるのも、彼なりの配慮だった。
隣では教育担当の相沢拓也・三十三歳が、出張中に創から引き継ぐ業務を確認している。
「宮嶋。昨日から派遣通知を何回見た?」
「……五回くらいです」
「見すぎだろ」
「本当に俺の名前なのか確認していました」
「得意の確認能力を、そこに使うな」
「十人の候補者から一人ですよ? まだ実感がないんです」
「選ばれた以上、堂々としてろ。派遣先だって、二十一歳の若手に完成された銀行員を求めているわけじゃない」
「それは安心していいんですか?」
「何でも知っているふりをするよりはいい。分からなかったら?」
「確認します」
「よし」
相沢は満足そうに頷いた。
「それから、一番大切なこと」
「青嶺中央銀行のやり方が絶対だと思わないこと」
「分かってるじゃないか」
「昨日から何度も言われましたから」
「何度も言われるくらい大切なんだ。今回は教えに行くんじゃない」
「地域銀行から学びに行く」
「その姿勢を忘れるな」
「はい」
地域銀行合同プロジェクト、第一陣派遣行員。
宮嶋創、二十一歳。
約三か月間のキャリア採用研修。
東都共栄銀行で積み重ねた約四年間の支店実務。
青嶺中央銀行へ転職してからの環境適応力。
法人営業第一部配属後の取り組み。
顧客を見る姿勢と、確認を徹底する習慣。
それらを評価され、十名の候補者から一人だけ選ばれた。
(本当に行くんだな……)
時計は午前九時四十八分。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。説明、しっかり聞いてきなさい」
「はい」
創は社員証と社給端末、メモ帳をもう一度確認し、法人営業第一部を出た。
◇◇◇
午前九時五十五分。
本店三十八階、地域銀行人材交流室。
「失礼します」
「宮嶋さん、おはようございます」
会議室で待っていたのは、地域銀行人材交流室主任・水原香澄・三十二歳だった。
柔らかな話し方で、誰に対しても丁寧に接する。しかし、派遣者の選定や情報管理には非常に厳しく、能力だけでなく派遣先との相性まで慎重に確認する。趣味はカメラで、出張先の駅舎や町並みを撮影するのが好きだった。
その隣には、全国地域銀行連携本部・連携企画チーム長の瀬戸口陽介・三十九歳。
明るく社交的で、全国各地の地域銀行担当者の名前と所属を驚くほど正確に記憶している。趣味は鉄道旅行で、地方の路線や駅弁にも詳しい。
「おはよう、宮嶋君。緊張してる?」
「めちゃくちゃしています」
「顔に出てるよ」
「そんなにですか?」
「少しだけです」
水原も僅かに笑った。
「今日は出張内容の説明です。緊張するのは現地へ着いてからでも間に合いますよ」
「緊張する時間を変更できますか?」
「残念ですが、できません」
「ですよね……」
創は指定された席へ腰を下ろした。
テーブルには一冊の資料。
『地域銀行合同プロジェクト 第一陣派遣説明資料』
表紙をめくると、今回の目的が記されていた。
一、地域企業支援。
二、青嶺中央銀行と地域銀行の実務連携。
三、若手行員の育成。
四、地域金融への理解。
五、地域銀行と本店専門部署との接続強化。
午前十時。
水原が正式な説明を始めた。
「今回の派遣は、研修旅行ではありません。地域銀行を見学して帰ってくるだけでもありません」
「はい」
「現地の法人営業担当者と行動し、実際の地域企業支援へ参加していただきます」
「企業訪問もありますか?」
「あります」
「経営者との面談も?」
「予定されています」
「俺も発言するんですか?」
「当然です」
「……端でメモを取るだけでは駄目ですか?」
「それだけなら、十名の中から宮嶋さんを選ぶ必要はありません」
「ですよね……」
瀬戸口が笑ったあと、少し真剣な表情になった。
「ただし、いきなり一人で融資判断をするわけじゃない。現地銀行の担当者がいるし、青嶺中央銀行側の支援体制もある」
「はい」
「でも、お客様から見れば宮嶋君も一人の銀行員だ。二十一歳だから間違っても仕方がない、とはならない」
「はい」
「分からなければ確認する。その場で答えられないことは持ち帰る。権限のない約束はしない」
「分かりました」
「そこは必ず守って」
「はい」
◇◇◇
「それでは、第一陣の派遣先を発表します」
創の背筋が伸びた。
大型スクリーンへ、銀行名が表示される。
『第一陣派遣先』
『瑞央銀行株式会社』
「……瑞央銀行」
「はい」
瑞央銀行は、青嶺FGが全国四十七都道府県に築く金融ネットワークを構成する有力地域銀行の一つだった。
長年、地域住民や地元企業との取引基盤を築き、預金、住宅ローン、中小企業金融だけでなく、事業承継、農業、観光、製造業、地域再生にも力を入れている。
「第一陣の派遣先を瑞央銀行とした理由は、主に三つあります」
水原が説明する。
「一つ目は、青嶺中央銀行との共同支援を検討している法人案件が複数あること」
「はい」
「二つ目は、瑞央銀行側も若手行員同士の交流を希望していること」
「はい」
「三つ目は、対象企業に製造業が含まれていることです」
「製造業……」
「宮嶋さんは現在、法人営業第一部で製造業の設備投資案件へ関わっています。その経験ともつながります」
「なるほど」
瀬戸口が念を押す。
「もちろん、東央精密製作所の情報を現地で話す必要はないからね」
「話しません」
「案件情報ではなく、そこで身につけた視点を持っていく」
「はい。企業を数字だけで見ず、現場も見る。ただし、人情だけで判断もしない」
「いいね。その考え方で行って」
次のページには派遣期間が記載されていた。
『翌週月曜日から金曜日まで 五営業日』
「一週間ですか?」
「第一陣は五営業日です。原則として前日の日曜日に現地入りしていただきます」
「移動時間は?」
「社内の出張規程に従って処理します。金曜日は現地スケジュール次第で当日帰京、またはもう一泊して翌朝帰京となります」
「まだ確定していないんですね」
「最終日に企業訪問が入る可能性があります。無理な移動は組みません」
「分かりました」
五日間の予定も、すでに大枠が決まっていた。
一日目。
瑞央銀行本店でのオリエンテーション。役員及び法人営業部への挨拶。地域経済と主要産業の説明。現地担当者との顔合わせ。
二日目。
地域企業訪問と法人営業同行。
三日目。
企業財務分析と案件検討。
四日目。
青嶺中央銀行との共同支援検討。専門部署とのオンライン連携。
五日目。
企業訪問、振り返り、成果報告。
「……かなり詰まっていますね」
「五日間しかありませんから」
「観光する時間はなさそうですね」
「仕事です」
「分かっていますって」
「ただし」
水原は少し表情を和らげた。
「現地の町を見ることは、地域金融を学ぶうえで大切です」
「町を見る?」
「地域銀行の建物だけを見ても、地域銀行の役割は分かりません」
駅前。
商店街。
住宅地。
工場。
農地。
観光地。
そこで、どのような人が暮らし、どの産業で働き、どのようにお金が動いているのか。
「地域金融は、その土地で暮らす人々の生活とつながっています」
「……地域そのものを見るんですね」
「そういうことです」
創は、株式会社東央精密製作所の工場を初めて訪れた日を思い出した。
決算書だけでは分からなかったこと。
工場の音。
古い設備。
働く従業員。
将来を語る東条信之社長。
一億円という数字の意味は、現場を見ることで変わった。
地域についても、同じなのだろう。
「時間があれば、自分の足で町を歩くといい」
瀬戸口が言った。
「鉄道旅行が趣味の瀬戸口さんに言われると、説得力がありますね」
「それは関係ないよ」
「かなり関係あると思います」
三人は少し笑った。
◇◇◇
続いて説明されたのは、瑞央銀行側の受入体制だった。
現地責任者は、瑞央銀行法人営業部・地域企業支援チーム長の宮坂隆司・四十四歳。
法人営業経験は二十年以上。企業融資に加え、事業承継や経営改善支援にも数多く携わってきたベテランである。
穏やかで口数は多くないが、経営者との面談では相手の話を遮らず、何に困っているのかを徹底的に聞く。趣味は登山で、休日には地元の山を歩きながら季節の写真を撮っている。
「宮坂さんが、今回の現地責任者です」
「経験二十年以上……緊張しますね」
「厳しい方ではありません。ただし、曖昧な報告はすぐに見抜かれます」
「余計に緊張してきました」
創と主に行動するのは、小野寺修平・三十四歳。
法人営業十一年目で、地元の製造業、卸売業、建設業を中心に担当している。明るく面倒見がよく、取引先との距離が近い。企業を訪問した際には、社長だけでなく従業員にも自然に声をかける人物だった。
趣味はランニング。早朝に川沿いを走ることを日課としており、地元の市民マラソンにも出場している。
「基本的には、小野寺さんと一緒に企業を回っていただきます」
「分かりました」
案件によって同行するのが、白石結衣・二十八歳。
法人営業五年目で、若手経営者や創業企業の支援を担当。慎重で数字に細かく、財務資料や申込書の小さな不一致を発見するのが得意である。
趣味はカフェ巡りと写真。休日には古民家を改装した店を探し、料理や町並みを撮影している。
「確認が得意なんですね」
「宮嶋さんと少し似ているかもしれません」
「負けないようにしないと」
「競うための派遣ではありません」
「冗談です」
そして、もう一人。
地域銀行側の若手行員として記載されていたのが、藤堂蓮・二十三歳だった。
瑞央銀行入行五年目。
高校卒業後、十八歳で入行し、預金・為替・後方事務を経験。現在は法人営業部に所属している。
真面目で負けず嫌いだが、困っている同僚を放っておけない性格。初対面では少し無愛想に見えるものの、親しくなれば冗談も言う。趣味は野球観戦と自動車で、休日には愛車で県内を走ることが多い。
「……高校卒業後に入行?」
「はい」
「二十三歳?」
「そうです」
「俺と似てる……」
創は資料から目を離せなくなった。
高校卒業後、十八歳で銀行へ入行。
年齢も近い。
ただし、藤堂は地域銀行で五年間働き、すでに法人営業を経験している。
「会ってみたいな……」
思わず、声が漏れた。
「それも、今回宮嶋さんを派遣する理由の一つです」
「俺と藤堂さんを?」
「青嶺中央銀行の若手と、地域銀行の若手。同じように高校卒業後から銀行員として働いてきた二人が、異なる銀行で何を経験したのか。互いに学んでほしいと考えています」
「分かりました」
不安ばかりだった創の中へ、少しずつ楽しみが生まれていた。
同じ高卒銀行員。
だが、違う銀行、違う地域、違う顧客と向き合ってきた人物。
藤堂蓮は、どのような銀行員なのだろう。
◇◇◇
「続いて、情報管理について説明します」
水原の声が厳しくなる。
創も表情を引き締めた。
スクリーンへ十項目の規則が表示された。
顧客資料を私物端末へ保存しない。
個人メールへ転送しない。
許可されていない記録媒体を使用しない。
社給端末を常時適切に管理する。
公共の場所で顧客名や案件内容を話さない。
ホテルでも資料と端末の管理を徹底する。
瑞央銀行と青嶺中央銀行、それぞれの情報を必要以上に共有しない。
権限外の資料を閲覧しない。
紛失や誤送信があれば、即座に報告する。
不明点は自己判断せず、必ず確認する。
「新幹線の中で資料を開く場合にも注意してください。隣席や通路から画面を見られる可能性があります」
「はい」
「顧客情報を含む資料は、公共空間で不用意に表示しないこと」
「分かりました」
「ホテルの部屋から離れる時、社給端末を放置しない」
「はい」
「飲食店で企業名や案件内容を話さない」
「はい」
「同期へ『面白い案件があった』などと送らない」
「絶対に送りません」
「頭取を含め、役員にも同じです」
「……はい」
創の反応が一瞬だけ遅れた。
当然、水原は二人の関係など知らない。
「役員であっても、業務上必要のない相手へ個別案件を報告する必要はありません。必要な報告は正式なルートを通してください」
「承知しました」
創は内心、少しだけ安堵した。
璟瑶には、これまでも顧客情報を話していない。
自宅でも地下五階の秘密基地でも、企業名、融資金額、財務情報、内部資料は一切持ち込まない。
それは、出張中も変わらない。
「現地でもう一つ、絶対にしてはいけないことがあります」
瀬戸口が言った。
「青嶺中央銀行の看板を振り回すことです」
「……はい」
「本店から来た。青嶺中央銀行は総資産九十八・五兆円の巨大銀行だ。だから自分たちの方法が正しい――そういう態度を取る人が、ごく稀にいる」
「俺はそんな自己紹介しませんよ」
「言葉にしなくても、態度へ出ることがある」
「気をつけます」
「今回は『教えてください』という気持ちで行く。ただし、青嶺中央銀行の意見を求められた時は、黙っていてはいけない」
「出しゃばらない。でも、何も発言しないだけでも駄目」
「その通り」
「難しいですね」
「だから宮嶋君が選ばれたんだ」
「余計に緊張します」
「大丈夫。君は確認できるから」
「また確認ですか」
「立派な強みだよ」
「……はい」
◇◇◇
説明は一時間半ほど続いた。
交通手段。
宿泊先。
出張精算。
社給端末。
名刺。
緊急連絡先。
服装。
事故や災害発生時の対応。
体調不良時の連絡。
瑞央銀行本店への入館方法。
青嶺中央銀行への日次報告。
そして、最終日の成果報告。
「以上です。質問はありますか?」
「あります」
「どうぞ」
「最終日の成果報告は、俺がするんですか?」
「はい。十五分程度を予定しています」
「……今から緊張してきました」
「まだ現地へ行ってすらいません」
「先のことまで考えてしまうタイプなので」
「まずは初日のことを考えてください」
「はい……」
水原は少し微笑んだ。
「それから、宮嶋さん」
「はい」
「今回の派遣を、楽しんできてください」
「……仕事ですよね?」
「もちろん仕事です」
「観光旅行ではないとも言われました」
「その通りです。ただ、新しい銀行、新しい企業、新しい人、今まで知らなかった仕事と出会うことは、楽しいことでもあると思います」
創は少し考えたあと、笑った。
「そうですね」
「はい」
「行ってきます」
◇◇◇
説明会を終え、創は法人営業第一部へ戻った。
「戻りました」
「おかえり。派遣先は?」
相沢に尋ねられ、創は答えた。
「瑞央銀行です」
「瑞央か」
桐生も反応する。
「桐生さん、行ったことありますか?」
「一度だけね」
「どんなところでした?」
「それは自分の目で見てきなさい。私の印象を先に伝えると、余計な先入観を持つかもしれない」
「なるほど……」
「期間は?」
「翌週月曜日から金曜日まで五営業日。日曜日に現地入りします」
「一週間か」
「主に法人営業部の小野寺修平さんと動くそうです。それから、二十三歳で、高校卒業後から銀行員をしている藤堂蓮さんもいます」
「宮嶋と経歴が近いな」
「はい。会ってみたいと思っています」
「その気持ちがあれば十分だ。違いを比べるだけじゃなく、共通するものも見つけてこい」
「分かりました」
派遣が決まっても、通常業務が消えるわけではない。
創は法人顧客から届いた資料を確認し、面談記録を作成し、財務分析を進め、相沢へ報告した。
出張前だからこそ、現在の業務を曖昧なまま残すことはできない。
◇◇◇
昼休み。
本店二十一階、行員専用社員食堂。
「派遣先、瑞央銀行なんだって?」
黒瀬颯真・二十七歳が尋ねた。
「うん。五営業日」
「企業訪問もあるのか?」
「ある。案件検討にも参加する予定」
「いい経験になるじゃん」
「説明会だけで一時間半あったけどね」
水無瀬琴葉・二十六歳が、焼き魚を丁寧にほぐしながら言った。
「情報管理についても、かなり細かく説明されたのでしょう?」
「そこが一番厳しかったかも」
「当然です。他行の情報と青嶺中央銀行の情報、両方を扱う可能性がありますから」
「その通り」
黒瀬は唐揚げを口へ運んだ。
「それにしても、二十一歳で他行の法人担当者と仕事か。緊張するな」
「だから昨日からずっと言ってる」
「青嶺中央銀行頭取の正面で最終面接を受けた時より?」
「……」
創の箸が止まった。
「宮嶋君」
「何?」
「また箸が止まりました」
琴葉の指摘に、創は慌てて動かす。
「止まってない」
「十秒ほど止まっていました」
「十秒なら短いでしょ!」
「頭取の話になると、やっぱりお前は変だよな」
黒瀬が首を傾げる。
「社員食堂で頭取の隣になった時も変だった」
「普通だった!」
「普通ではありませんでした」
「琴葉さんまで……」
創の心の中では。
(その頭取が、今夜俺を抱き締める予定だなんて言えるわけがない)
そんな言葉が浮かんでいた。
交際してから、もう三年近い。
地下五階には、二人だけの秘密基地まである。
もちろん、同期にも話せない。
「宮嶋君。今、また何か考えていました?」
「何も考えてない」
「少し顔に出ています」
「そんなに?」
「私には少し」
創は誤魔化すように食事を進めた。
黒瀬が笑いながらも、最後には真面目な声で言う。
「とにかく、頑張ってこい。帰ってきたら、話せる範囲で何を学んだか教えてくれ」
「分かった」
「私も聞きたいです」
琴葉も頷いた。
「地域銀行における個人金融や資産承継にも興味がありますから」
「琴葉さんも、そのうち派遣候補になるかもしれないね」
「機会があれば参加します」
「即答だな」
「よい経験になるでしょうから」
「俺も行きたいな」
黒瀬が言う。
「黒瀬なら、初日で現地に友達を十人くらい作りそう」
「作る」
「否定しないんだ……」
三人の笑い声が食堂に響いた。
◇◇◇
同じ頃。
本店四十二階。
青嶺中央銀行頭取・欧陽璟瑶は、朝から通常業務を続けていた。
午前九時、経営企画部からの月次報告。
融資残高。
業種別動向。
地域別の資金需要。
海外貸出。
預金。
市場環境。
「中小企業向けの設備資金が増加しています」
「案件数だけを見ないでください」
璟瑶は資料へ目を落とした。
「設備投資後の資金繰りまで確認すること。設備を購入した結果、増産に必要な運転資金が不足する事態は避けなければなりません」
「承知しました」
午前十時。
専務取締役兼人事担当・御子柴泰成・五十五歳と、人事部による来期の人材交流計画。
青嶺中央銀行から地域銀行へ。
地域銀行から青嶺中央銀行へ。
若手、管理職、専門人材。
短期研修と長期出向。
「人材交流を一方向にしないでください」
「はい」
「こちらが教えるだけでは意味がありません。地域銀行から本店へ来た行員にも、遠慮なく意見を出してもらう」
「承知しました」
「組織の違いを消すのではなく、理解するための交流にしてください」
「はい」
午前十一時。
副頭取・久世宗一郎・五十七歳との大型融資案件及び信用リスク協議。
午後一時。
中国事業部から、上海拠点や中国企業との連携、日系企業支援、人民元、外国為替に関する報告。
午後二時三十分。
全国地域銀行連携本部から、地域銀行合同プロジェクト第一陣の最終日程が報告された。
『第一陣派遣先 瑞央銀行』
『派遣者 法人営業第一部 宮嶋創』
『派遣期間 五営業日』
璟瑶は、すでに選定結果を知っている。
だが、正式日程が確定したのは、この報告を受けた時だった。
「受入体制は?」
全国地域銀行連携本部長・黒崎貴臣・五十一歳が答える。
「瑞央銀行法人営業部と調整済みです。地域企業支援チーム長の宮坂隆司さんが現地責任者を務めます」
「派遣行員の権限範囲は?」
「企業訪問、財務分析補助、案件検討へ参加させます。ただし、単独判断はさせません」
「情報管理教育は?」
「本日、地域銀行人材交流室で実施しました」
「緊急連絡系統は?」
「設定済みです」
「分かりました」
それだけだった。
「宮嶋さんは大丈夫でしょうか」
「負担を軽くしてください」
「近い地域に変更してください」
そのような言葉は、一切口にしない。
恋人として心配していても、頭取として一行員だけを特別扱いすることはできない。
午後四時、信用リスク管理部。
午後五時、海外拠点報告。
最後の決裁を終えたのは、午後六時十五分だった。
「本日の主要予定は以上です」
第一秘書・劉川景仁が報告する。
「ありがとう」
「明日は午前八時三十分から役員会です」
第二秘書・水城絢乃の確認に、璟瑶は頷いた。
「分かりました。二人もお疲れさま」
秘書たちが退室する。
一人になった頭取室で、璟瑶は午後の資料を思い出した。
『宮嶋創』
『瑞央銀行』
『五営業日』
「……一週間か」
今度は頭取ではなく、恋人として呟いた。
創が初めて本店を離れ、自分の目が届かない地域へ行く。
仕事中の創を恋人として監視するつもりなどない。それでも、しばらく会えなくなることを考えると、少し寂しかった。
まだ勤務時間中。
私的な連絡はしない。
創からメッセージが届いたのは、午後六時四十八分だった。
『仕事終わった』
『私も』
『地下行く?』
『行く』
◇◇◇
十分後。
本店地下五階。
創が六桁の番号を入力する。
452114。
認証を終えると、二人だけの秘密基地へ続く扉が開いた。
「璟瑶」
「お疲れさま、創」
ここでは、頭取でも宮嶋さんでもない。
創と璟瑶。
ただの恋人同士だった。
創はジャケットを自分用の収納へ掛け、ソファへ座る。璟瑶もその隣へ腰を下ろした。
「今日、説明会だったんでしょう?」
「知ってるじゃん」
「知ってるわ」
「頭取だから?」
「仕事ですから」
「俺が何も言わなくても、全部知ってるんだな」
「全部ではありません」
「派遣先は?」
「知ってる」
「期間は?」
「知ってる」
「日程は?」
「知ってる」
「受入担当者は?」
「資料には記載されていたわね」
「やっぱり全部知ってるじゃん」
璟瑶は楽しそうに笑った。
「でも、知っていても創から聞きたかった」
「……じゃあ、改めて報告します」
「うん」
「瑞央銀行へ行く」
「うん」
「翌週月曜日から金曜日まで。日曜日に現地入り」
「うん」
「現地の法人営業担当者と企業を訪問して、案件検討にも参加する」
「うん」
「最終日には十五分の成果報告」
「うん」
「めちゃくちゃ緊張しています」
「それは顔を見れば分かる」
「そんなに出てる?」
「私には分かる。銀行では隠せているから大丈夫よ」
「ならいいけど」
創はソファの背もたれへ身体を預けた。
「でも、正直に言うと、楽しみでもある」
「そう」
「最初は不安の方が大きかった。でも現地の担当者や日程を聞いたら、少し楽しみになってきた」
「どんな人がいるの?」
「同じように高校卒業後から銀行員をしている、二十三歳の人がいるらしい」
「そこまでは知らなかったわ」
「やっと俺の方が知ってる情報があった」
「競争してるの?」
「少しだけ」
「子どもね」
「二十一歳です」
「知っています」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのあと、璟瑶は創の手を握った。
「たくさん見てきて」
「うん」
「青嶺中央銀行と違うところ」
「うん」
「同じところ」
「うん」
「地域銀行だからできること」
「うん」
「青嶺中央銀行だからできること」
「全部、自分の目で見てくる」
「それから、分からなかったら必ず確認する」
「はい」
「勝手な約束をしない」
「はい」
「顧客情報を守る」
「はい」
「現地の方を尊重する」
「はい」
「体調管理」
「はい」
「睡眠」
「はい」
「食事」
「……途中から頭取ではなく、彼女になってない?」
「恋人ですから」
「切り替わったな」
「当然でしょう?」
璟瑶は創との距離を少し縮めた。
「五営業日」
「前日を含めても、一週間くらいだよ」
「長いわ」
「短期出張だけど?」
「私にとっては長いの」
「家にも来られない」
「そうだね」
「地下五階にも来ない」
「出張中だからね」
「社員食堂でも隣に座れない」
「俺がいないから」
「手もつなげない」
「社員食堂のテーブルの下でつなぐのは、もう禁止です」
「……」
「何で黙るの?」
「努力します」
「禁止だから!」
二人は笑った。
しかし、しばらくすると璟瑶の表情が真剣なものへ変わった。
「創」
「うん」
「本当に頑張ってきてね」
それは頭取からの訓示ではない。
二十四歳年上の恋人、欧陽璟瑶からの言葉だった。
「創が自分の力で選ばれたこと、私はとても嬉しい」
「……ありがとう」
「頭取の恋人だからじゃない。宮嶋創自身が評価されたの」
「うん」
「だから、胸を張って行ってきて」
璟瑶は創の身体を抱き締めた。
ぎゅっ。
創も、その背中へ腕を回す。
「行ってきます」
「まだ早いわ」
「予行演習」
「それなら……行ってらっしゃい、創」
「うん」
「必ず帰ってきてね」
「帰ってくるよ」
「約束」
「約束」
璟瑶が顔を上げる。
二人の唇が静かに重なった。
「んっ……」
数秒後、ゆっくりと離れる。
「出張前の応援」
「これなら頑張れそう」
「単純ね」
「いいじゃん」
創は笑い、璟瑶の手を握り返した。
翌週までに、法人営業第一部での引継ぎ、派遣準備、資料確認、出張手続き、社給端末や名刺の確認を終えなければならない。
そして日曜日。
宮嶋創は、青嶺中央銀行へ入行してから初めて、東京の本店を離れる。
派遣先は、瑞央銀行。
地域企業。
地域の産業。
そこで働き、暮らす人々。
同じように高校卒業後から銀行員として働いてきた、二十三歳の藤堂蓮。
東京の本店にいるだけでは分からないものが、そこにはある。
頭取の恋人としてではない。
欧陽璟瑶の彼氏としてでもない。
青嶺中央銀行法人営業第一部、宮嶋創。
二十一歳。
一人の銀行員として向かう、初めての地域銀行。
初めての地方出張の日が、少しずつ近づいていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、創の最初の派遣先が瑞央銀行に正式決定しました。
期間は5営業日。
現地では法人営業担当者とともに、
企業訪問。
経営者面談。
財務分析。
地域企業支援。
青嶺中央銀行との共同案件検討。
などへ実際に参加していきます。
特に今回大切なのは、創が「青嶺中央銀行のやり方を教えに行く」のではないということ。
地域銀行には、地域企業や住民との長年のつながりがあります。
創は一人の若手銀行員として、その土地、その銀行、その企業から学ぶために向かいます。
そして夜。
地下5階では璟瑶から、
「頑張ってきて」
「ちゃんと帰ってきてね」
と恋人として送り出されました。
銀行では頭取と行員。
ここでは創と璟瑶。
次回はいよいよ創が現地へ。
瑞央銀行の行員たちと出会い、青嶺中央銀行とは違う「地域銀行の仕事」を初めて目の当たりにすることになります。




