第20話「初めての地方出張――『頭取の彼氏』ではなく、青嶺中央銀行員として行ってきます」
第20話です。
今回は、第11話から続いてきた「研修・配属・法人営業編」の一区切りとなる回です。
約三か月のキャリア採用研修。
東都共栄銀行時代の約四年間の支店経験。
法人営業第一部での取り組み。
慎重な確認力。
顧客を見る姿勢。
そして若手としての将来性。
それらが正式に評価され、創は地域銀行合同プロジェクトの第一陣として地方出張へ派遣されることになります。
もちろん、璟瑶の推薦ではありません。
頭取の彼氏だからでもありません。
宮嶋創という一人の銀行員として、自分で掴んだ仕事です。
一方、42階では璟瑶のもとにも通常の経営・人事資料として創の派遣情報が上がってきます。
それでも彼女は何も口を出さない。
仕事では頭取。
地下5階では恋人。
そしてその夜、創は璟瑶へ、
「頭取の彼氏としてじゃなく、青嶺中央銀行員として行ってくる」
と告げます。
さらに今回は、二人の関係をいつか創の家族へ紹介したいという、新しい約束も生まれます。
第11話から積み重ねてきた創の成長と、二人の秘密の恋。
その両方が次の物語へつながっていく節目の回をお楽しみください。
午前九時四十分。
青嶺中央銀行本店、法人営業第一部。
「宮嶋君、入って」
「はい」
チームリーダー・桐生雅人に呼ばれた宮嶋創は、昨日から気になっていた小会議室の扉を開いた。
室内には、桐生雅人・四十二歳と、教育担当の相沢拓也・三十三歳。
さらに、人事部人材開発課の森下奈々・二十八歳と、昨日三十八階で会った地域銀行人材交流室主任・水原香澄・三十二歳が待っていた。
森下奈々は、若手行員の研修や育成制度を担当する人事部員である。親しみやすい性格だが、評価記録や人事情報の扱いには厳格。趣味はパン屋巡りと観劇で、休日には都内の小劇場へ足を運ぶことが多い。
「失礼します」
創が席へ着く。
テーブルの中央には、一冊の資料が置かれていた。
『地域銀行合同プロジェクト』
その表紙を見た瞬間、創にも話の内容が分かった。
昨日、若手派遣候補者十名の中に、自分の名前を見つけた。
しかし、第一陣として選ばれるのは一名だけ。
昨日の時点では、あくまで候補にすぎなかった。
「宮嶋さん」
水原が口を開く。
「昨日ご説明した地域銀行合同プロジェクトについて、正式な選考結果が決まりました」
「……はい」
創の背筋が自然と伸びる。
水原は一枚の書類を創の前へ置いた。
「宮嶋創さん。第一陣の若手派遣行員として、プロジェクトへ参加していただきます」
「…………」
一秒。
二秒。
創は書類へ目を落とした。
『青嶺中央銀行株式会社』
『地域銀行合同プロジェクト派遣通知』
『所属 法人営業第一部・若手法人担当チーム』
『氏名 宮嶋創』
間違いなく、自分の名前だった。
「……俺ですか?」
「はい」
「本当に?」
「正式決定です」
創は、もう一度通知書を確認した。
「……選ばれた」
思わず、小さく声が漏れた。
「おめでとう、宮嶋」
相沢が笑う。
「ありがとうございます」
「いい経験になるよ」
桐生も穏やかに頷いた。
「はい」
嬉しい。
素直に、そう思った。
だが、その直後に緊張が押し寄せてきた。
「水原さん。本当に俺でいいんですか?」
「どういう意味でしょう?」
「俺はまだ二十一歳です。それに、法人営業第一部へ配属されてから、それほど長くありません。候補者の中には、もっと経験のある人もいましたよね?」
「いました」
「だったら、どうして俺が……」
「選定理由を順番にご説明します」
◇◇◇
最初に説明を始めたのは、人事部人材開発課の森下だった。
「一つ目は、約三か月間のキャリア採用研修における総合評価です」
預金。
振込。
諸届。
本人確認。
後方事務。
法人融資基礎。
財務分析。
AML・CFT。
コンプライアンス。
創は、いずれの分野でも安定した成績を残していた。
「特に評価されたのは、実務演習での確認能力です」
「やっぱり確認ですか」
「はい。振込依頼書と入力金額の相違、本人確認記録の日付間違い、通常の取引傾向とは異なる海外送金。宮嶋さんは、細かな異常を見逃しませんでした」
創の頭に、東都共栄銀行・城東支店で指導を受けた三谷雅臣主任の言葉が蘇る。
『確認を怠るな』
『九十九回正しくても、一回の間違いで信用を失うことがある』
『確認は地味な仕事じゃない。銀行の信用を守る仕事だ』
(……三谷さん)
前の銀行を離れても、その教えは創の中に残っている。
「二つ目は、東都共栄銀行での実務経験です」
森下が続けた。
「宮嶋さんは高校卒業後、十八歳で城東支店へ入行しました。約四年間、預金、振込、諸届、顧客対応、法人営業補助、後輩指導まで経験しています」
「はい」
「年齢だけを見れば二十一歳と若いですが、銀行員としては約四年の経験があります」
「年齢のことは、本当によく言われます」
創が苦笑すると、相沢も小さく笑った。
「また、一つの銀行しか知らない行員ではありません。東都共栄銀行から青嶺中央銀行へ転職し、異なるシステムや規程、組織文化に適応した経験もあります」
今度は水原が説明を引き継ぐ。
「地域銀行合同プロジェクトで重要なのは、青嶺中央銀行の方法を地域銀行へ押しつけないことです」
「昨日も聞きました」
「東都共栄銀行と青嶺中央銀行では、業務手順がかなり違ったでしょう?」
「全然違いました」
「それでも宮嶋さんは、『前の銀行ではこうだった』と拒絶せず、青嶺中央銀行のルールを一から学び直した。その適応力が評価されています」
「ありがとうございます」
三つ目について話したのは桐生だった。
「法人営業第一部へ配属されてからの取り組みも評価対象になっている。特に、株式会社東央精密製作所の設備融資案件だ」
創の表情が引き締まる。
正式な業務会議であり、必要な権限を持つ関係者だけが参加している。ここなら案件について話しても問題はない。
「最初の宮嶋君は、一億円という金額に引っ張られていたね」
「はい。貸した一億円が返ってくるのか、そればかり考えていました」
「だが、企業を訪問し、工場を見て、東条信之社長や従業員の話を聞いた」
「はい」
「数字の向こうに人がいることを理解した。一方で、人情だけでも融資できないと気づいた」
「はい」
「返済能力、売掛金、在庫、キャッシュフロー、運転資金、受注計画の下振れ。そのすべてを確認しようとした」
桐生が創を見る。
「そして、分からないことを一人で抱え込まず、相沢君、長谷川君、藤崎君、審査部門へ相談した。そこも評価されている」
「分からないと認めたことも、ですか?」
「当然だ」
相沢が答えた。
「若手に求められているのは、最初から全部一人でできることじゃない。どこまで自分で考え、どの段階で上司や専門部署へ相談するか。それを判断することだ」
「はい」
「分からないまま勝手に進める方が、銀行員としては危険だからな」
創は真剣に頷いた。
「四つ目は、顧客を見る姿勢です」
水原が言った。
「地域企業支援では、数字だけで企業を判断しない姿勢が必要です」
「数字の先にいる人を見る……」
「はい。ただし、人だけでなく数字も見る。宮嶋さんは、その両方を学び始めています」
雨の日、まだ欧陽璟瑶の正体を知らなかった頃。
創は彼女へ言った。
『銀行はお金を扱っているように見えますけど、そのお金の向こうには人の生活がありますから』
青嶺中央銀行の入行式では、頭取として壇上に立った璟瑶が語った。
『私たちは数字を扱います。しかし、その数字の先には必ず人がいます』
そして東央精密製作所の工場で、創はその意味を初めて仕事として実感した。
一億円の先にいる社長。
八十六人の従業員。
取引先。
その家族。
会社と地域の未来。
「最後は、若手行員としての将来性です」
「将来性……」
「まだ完成していないことも、選定理由です」
「それは褒められているんですか?」
「もちろんです」
水原は笑った。
「完成していないからこそ、本店のやり方が固まり切る前に地域銀行の現場を経験する意味があります」
「……」
「本店の仕事だけが銀行ではありません。青嶺中央銀行だけが銀行でもありません。地域銀行には、その地域に根差した金融があります」
「はい」
「それを二十一歳の今から知ることは、将来の宮嶋さんにとって大きな財産になります」
創はしばらく通知書を見つめた。
そして、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
◇◇◇
だが、創にはどうしても確認しておきたいことがあった。
「水原さん。一つ、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「今回の選定に、特定の役員からの推薦や意向は入っていませんよね?」
桐生と相沢が僅かに創を見る。
創だけが知っている。
自分の恋人は、青嶺中央銀行頭取・欧陽璟瑶。
彼女が一言口にすれば、人事へ強い影響を与えられる立場にいる。
もちろん、水原も森下も二人の関係を知らない。
だからこそ、何の疑問も持たずに答えた。
「ありません」
「本当に?」
「候補者十名を、研修評価、過去の実務経験、配属後評価、コンプライアンス理解、環境適応力、派遣目的との適合性などに基づいて比較しました」
「はい」
「頭取を含め、特定の役員から『宮嶋さんを選びなさい』という指示は一切ありません」
「……そうですか」
「むしろ頭取からは、通常の評価基準だけで選定するよう、明確に確認されています」
創の口元が、ほんの少し緩んだ。
「宮嶋さん?」
「いえ。安心しました」
桐生が穏やかに言う。
「宮嶋君。これは自分で取った仕事だよ」
「……はい」
その一言を、創は胸へ刻んだ。
頭取の恋人だからではない。
欧陽璟瑶に選んでもらったのでもない。
十八歳から積み重ねてきた銀行実務。
三か月間の研修。
法人営業第一部で向き合った仕事。
宮嶋創という一人の銀行員としての評価。
それによって掴んだ仕事だった。
◇◇◇
水原は次の資料を開いた。
「続いて、プロジェクトの概要をご説明します。派遣期間中は、地域銀行の法人営業担当者と合同で、地域企業支援案件へ参加していただきます」
企業訪問。
経営者面談。
地域産業の調査。
資金需要の確認。
事業承継。
海外展開。
デジタル金融。
大規模融資。
必要に応じて、青嶺中央銀行の専門部署とも連携する。
「かなり幅広いですね」
「全部を一人で担当するわけではありません。地域銀行側の担当者、全国地域銀行連携本部、法人営業第一部、その他の専門部署とチームで動きます」
「分かりました」
水原の表情が真剣なものへ変わる。
「宮嶋さんに求めているのは、専門家として答えを教えに行くことではありません」
「はい」
「学びに行くことです。ただし、お客様から見れば、宮嶋さんは青嶺中央銀行の行員です」
「……はい」
「二十一歳でも、派遣されたばかりでも、その点は変わりません」
創も真っすぐ水原を見る。
「青嶺中央銀行の名前を背負って行きます」
「その意識を忘れないでください」
説明を終え、創は資料を持って立ち上がった。
扉へ向かおうとした時、桐生に呼び止められる。
「宮嶋君。緊張してる?」
「めちゃくちゃしています」
「初めての地方出張?」
「県外の研修はありましたけど、地域銀行との合同案件は初めてです」
「なら、四つだけ覚えておきなさい」
「はい」
「分からないことは、分からないと言う」
「はい」
「必ず確認する」
「はい」
「権限のないことを勝手に約束しない」
「はい」
「顧客情報の持ち出しルールを守る」
「はい」
「それを守ったうえで、本店では見えないものを見てきなさい」
創は深く頭を下げた。
「はい。行ってきます」
出張はまだ少し先。
それでも、その言葉が自然と口から出た。
◇◇◇
昼休み。
本店二十一階、行員専用社員食堂。
「宮嶋!」
「声が大きい」
中小企業金融部の黒瀬颯真・二十七歳が、トレーを置くなり身を乗り出した。
法人融資経験が豊富で、誰とでもすぐに打ち解ける明るい性格。同期の創をからかうことが多いが、仕事上の相談には真剣に応じる。趣味はサッカー観戦と食べ歩きで、社員食堂でも毎日の献立をよく覚えている。
「聞いたぞ。地方出張、決まったんだって?」
「どうしてもう知ってるの?」
「お前が社内チャットで送ってきただろ」
「……自分で送ったんだった」
「忘れるなよ!」
そこへ、個人営業企画部の水無瀬琴葉・二十六歳も座った。
冷静で観察力が高く、資産運用、相続、資産承継の知識に強い。普段は淡々としているが、同期二人のやり取りを楽しんでいることも多い。趣味は読書と美術館巡りで、休日には資格の勉強も続けている。
「正式に決まったんですね。おめでとうございます」
「ありがとう」
黒瀬が腕を組む。
「二十一歳で、もう地域銀行との合同案件か。早いな」
「だから緊張してるんだよ」
「何言ってんだ。青嶺中央銀行の頭取を相手に最終面接を受けた男だろ?」
「それとこれとは全然違うから!」
創の心の中では。
(その頭取と付き合ってるなんて、絶対に言えない)
まして、地下五階の秘密基地で「創」と呼ばれ、抱き締められていることなど、話せるはずがない。
「研修評価と配属後の仕事が認められたんでしょう」
琴葉が言った。
「そう説明された」
「なら、自信を持っていいと思います」
「でも俺、まだ経験が浅いし」
「学ぶための派遣なのでしょう?」
「そうだけど」
黒瀬が創を見る。
「派遣先はどこだ?」
「正式な派遣先と旅程は、別途説明だって」
「北海道なら?」
「行く」
「沖縄なら?」
「行く」
「海外なら?」
「地域銀行合同プロジェクトだって言ってるだろ!」
「緊張をほぐしてやってるんだよ」
「絶対に楽しんでるよね?」
「半分くらい」
「半分は認めるんだ……」
「黒瀬さん。宮嶋君で遊ばないでください」
琴葉が注意する。
「水無瀬は興味ないのか?」
「あります。地域銀行には個人金融や資産承継の案件もありますから、将来機会があれば参加したいです」
「黒瀬は?」
「呼ばれたらすぐ行く」
「二人なら、普通に活躍しそうだな」
「宮嶋も選ばれたんだから、頑張れよ」
「うん」
入行式から三か月間、ずっと一緒に研修を受けた三人。
宮嶋創、二十一歳。
水無瀬琴葉、二十六歳。
黒瀬颯真、二十七歳。
配属先は別々になった。
それでも時間が合えば社員食堂に集まり、仕事の機密を守りながら一般的な悩みを相談する。
三人は同期として、それぞれの道を歩き始めていた。
◇◇◇
同じ頃。
本店四十二階、頭取フロア。
欧陽璟瑶の一日は、朝から途切れることなく続いていた。
午前八時。
第一秘書・劉川景仁・三十八歳がタブレットを開く。
予定管理と国内外の役員調整を担う、冷静沈着な第一秘書。記憶力と調整能力に優れ、急な日程変更にも表情を変えない。趣味はクラシック音楽と腕時計の収集。
その隣には、第二秘書・水城絢乃・三十一歳。
資料確認と頭取室内の実務を支える、細やかで観察力の高い人物。柔らかな口調だが、書類の誤りには厳しい。趣味は茶道と小説で、休日には静かな喫茶店で読書をしている。
「本日のスケジュールです」
劉川が説明を始めた。
「八時十五分、前営業日の主要指標確認。八時四十五分、経営企画部及び財務企画部との月次進捗報告。九時四十分、久世副頭取、御子柴専務との役員会事前協議」
「はい」
「十時三十分、全国地域銀行連携本部から、地域企業支援プロジェクトの報告です」
璟瑶の視線が、ほんの一瞬だけ止まった。
「続けて」
「十一時十五分、中国事業部及び東アジア事業部との協議です」
水城が午後の予定を引き継ぐ。
「十三時から海外拠点統括部とのオンライン会議。十四時三十分、信用リスク管理部。十五時十五分、デジタル金融推進部。十六時十分、青嶺FGグループ経営管理部。十七時二十分から、来週の役員会資料を確認していただきます」
「分かりました」
午前八時十五分。
璟瑶は前営業日の主要指標に目を通した。
預金。
法人貸出。
個人貸出。
市場部門収益。
海外部門収益。
信用コスト。
流動性。
金利。
為替。
国内主要拠点で発生した事務事故や顧客苦情、コンプライアンス報告も確認する。
「この事務ミスについて、顧客への説明は終わっていますか?」
「昨日夕方、支店長から説明しております」
「再発防止策は?」
「ダブルチェック項目を追加します」
「確認項目を増やすだけで終わらせないでください」
璟瑶は静かな声で指摘した。
「なぜ発生したのか。業務量、手順、システム、人員配置。原因を特定したうえで、対策を考えてください」
「承知しました」
午前八時四十五分。
経営企画部と財務企画部による月次報告。
「法人貸出残高は、計画を上回っています」
「残高を増やすこと自体が目的ではありません」
璟瑶は資料から目を上げた。
「採算、信用リスク、そして企業にとって本当に必要な資金なのか。そのすべてを確認してください」
「はい」
午前九時四十分。
副頭取・久世宗一郎・五十七歳と、専務取締役兼人事担当・御子柴泰成・五十五歳との役員会事前協議。
議題は、人員配置、来年度採用、地域銀行との人材交流だった。
「地域銀行への若手派遣ですが、第一陣の人選は終了しています」
御子柴が報告する。
「本人への通知は?」
「本日実施します」
「所属長の了承は?」
「すでに得ています」
「受入先との調整は?」
「全国地域銀行連携本部が進めています」
「それなら結構です」
宮嶋創という名前は出さない。
知っていても、特別な反応は見せない。
それが、この場での璟瑶だった。
◇◇◇
午前十時三十分。
全国地域銀行連携本部長・黒崎貴臣・五十一歳から、地域銀行合同プロジェクトの正式報告を受けた。
資料には、第一陣派遣行員として創の名前が記載されている。
『青嶺中央銀行』
『法人営業第一部・若手法人担当チーム』
『宮嶋創』
璟瑶の視線が、その文字の上で僅かに止まる。
昨夜まで隣で笑っていた恋人。
しかし今の彼女は、青嶺中央銀行頭取であり、青嶺FG副CEO、東アジア金融戦略統括である。
「派遣理由を説明してください」
黒崎が答える。
「キャリア採用研修評価、前職での約四年間の支店実務、法人営業第一部配属後の取り組み、確認能力、顧客志向、環境適応力、将来的な育成効果を総合しました」
「分かりました」
それ以上、個人的な質問はしない。
派遣先を近くしてほしいとも言わない。
危険な地域を避けてほしいとも言わない。
もっと経験を積ませてからにしてほしいとも言わない。
創自身が掴んだ仕事へ、恋人としての私情を入れるわけにはいかなかった。
「一点だけ」
「はい」
「若手だからといって、単なる見学者にはしないでください」
「承知しました」
「ただし、権限を超える判断もさせない」
「はい」
「地域銀行側の担当者と一緒に動き、本店の方法を押しつけず、現地の文化と実務を学ばせる。それが今回の目的です」
「承知しました」
これは創だけへの指示ではない。
地域銀行合同プロジェクト全体へ向けた、頭取としての方針だった。
その後も璟瑶の仕事は続いた。
午前十一時十五分、中国事業部及び東アジア事業部。
上海、北京、深圳、香港における日系企業支援。人民元建て融資、為替、海外子会社の資金管理。
「現地法人だけでなく、日本の親会社との資金フローも確認してください」
「はい」
「競合金融機関が先行している案件については?」
「土地使用権を現在確認中です」
「では、確認が取れるまで判断を急がないこと。競合が急いでいることと、私たちが確認を省略することは別問題です」
「承知しました」
午後一時には、ニューヨーク、ロンドン、シンガポール、上海の海外拠点をオンラインでつなぐ会議。
璟瑶は日本語、中国語、英語を自然に切り替えながら指示を出した。
午後二時三十分、信用リスク管理部。
業種別の貸出集中、海外リスク、不動産向け貸出、製造業向け設備資金。
「製造業向け設備資金は増加しています」
「金利上昇、原材料高、輸出需要減少を想定したストレスケースは?」
「作成済みです」
「地域銀行との共同融資分も含めて確認してください」
「はい」
午後三時十五分、デジタル金融推進部。
地域銀行共同システム、法人向け決済、モバイルアプリ、顧客認証、サイバーセキュリティ。
午後四時十分、青嶺FGグループ経営管理部。
各地域銀行の経営指標、人材交流、システム投資。
午後五時二十分、翌週の役員会資料確認。
主要予定が終わったのは、午後六時三十分だった。
「本日の主要予定は以上です」
劉川がタブレットを閉じる。
「お疲れさまでした」
「ありがとう。二人もお疲れさま」
「明日は午前八時三十分から役員会です」
水城の確認に璟瑶が頷く。
「分かりました」
二人の秘書が退室し、頭取室に一人きりになる。
璟瑶は、地域銀行合同プロジェクトの資料をもう一度開いた。
『宮嶋創』
「……頑張ったわね」
誰もいないからこそ。
ようやく恋人として、小さく呟くことができた。
◇◇◇
その日の夜。
青嶺中央銀行本店、地下五階。
創は認証装置へ、二人だけが知る六桁の番号を入力した。
452114。
緑色のランプが点灯し、扉が開く。
「璟瑶」
秘密基地のソファに座っていた璟瑶が振り返った。
「お疲れさま、創」
「お疲れ」
創はジャケットを脱ぎ、自分用の収納へ掛けた。
ソファ。
テーブル。
テレビ。
本棚。
小型冷蔵庫。
二人分の私物。
そして、並べられた二つのマグカップ。
すでにこの場所での動作は、二人にとって自然なものになっていた。
創は水を取り出し、璟瑶の隣へ腰を下ろす。
「出張、正式に決まった」
「知ってる」
「やっぱり頭取は何でも知ってるな」
「仕事ですから」
「いつ知ったの?」
「昨日」
「昨日!?」
「選定会議へ出席していたもの」
「俺は昨日、自分が候補だと思ってたのに」
「そうでしょうね」
「教えてくれてもよかったのに」
「駄目」
「即答だなあ」
「正式通知前の人事情報よ。恋人だからといって漏らすわけにはいきません」
「分かってるけど」
「創」
「うん?」
「一つ、はっきり言っておきます」
璟瑶は創を見つめた。
「私はあなたを推薦していません」
「うん」
「選ぶよう指示もしていない」
「うん」
「逆に、候補から外すようにも言っていない」
「うん」
「創が選ばれたのは、十八歳から積み重ねた銀行実務、キャリア採用研修、法人営業第一部での仕事、確認力、顧客への姿勢。そのすべてを評価されたからよ」
「……うん」
「宮嶋創自身が選ばれたの」
創は少し笑った。
「人事からも言われた。自分で取った仕事だって」
「そう」
「嬉しかった」
「私も嬉しい」
「口出ししてないのに?」
「口出ししていないからこそよ。創自身の力が認められたんだから」
静かな時間が流れた。
やがて璟瑶は姿勢を正す。
表情が恋人から頭取へ切り替わった。
「宮嶋さん」
「……はい」
創も銀行員の表情へ戻る。
「青嶺中央銀行の名前を背負って行くのよ」
「はい、頭取」
「地域銀行へ教えに行くのではありません」
「学びに行きます」
「若手であっても、あなたの言動は青嶺中央銀行全体の評価につながります」
「はい」
「分からないことを独断で判断しない」
「はい」
「顧客情報を守る」
「はい」
「現地の担当者を尊重する」
「はい」
「本店の常識を押しつけない」
「はい」
「企業を数字だけで見ない」
「はい」
「しかし、人情だけでも見ない」
「はい」
「確認を怠らない」
「はい」
創は真っすぐ答えた。
「青嶺中央銀行員として、行ってきます」
璟瑶が満足そうに頷く。
「よろしい」
「はい、頭取」
「……」
「どうしたの?」
璟瑶の表情が、急に恋人のものへ戻った。
「ここでは頭取じゃない」
「今まで完全に頭取だったじゃん」
「もう終わったの」
「切り替えが早すぎる」
「創」
「はいはい。璟瑶」
「よろしい」
「また採点された……」
次の瞬間。
璟瑶が創の胸へ身体を寄せ、背中へ両腕を回した。
ぎゅっ。
思っていた以上に強く抱き締められる。
「璟瑶?」
「少し、このままでいて」
「……うん」
創も彼女の背中へ腕を回した。
四十五歳。
青嶺中央銀行頭取。
青嶺FG副CEO。
東アジア金融戦略統括。
何万人もの行員と、国内外の巨大な金融事業を背負う女性。
けれど今、自分の胸に抱きついているのは、二十四歳年上の恋人だった。
「創」
「何?」
「少し寂しい」
「まだ出張へ行ってないよ?」
「分かってる」
「ずっと行くわけでもない」
「それも分かってる」
「じゃあ、どうして?」
「分かっていても寂しいの」
創は思わず笑った。
「かわいい」
「四十五歳の女性に言う?」
「言う」
「頭取に?」
「ここでは頭取じゃないんでしょう?」
「……そうだけど」
「だったら、かわいい」
璟瑶は創の胸へ顔を埋めた。
「もう一回」
「かわいい」
「もう一回」
「調子に乗るから嫌」
「創」
「はいはい。璟瑶はかわいいです」
ようやく満足したのか、璟瑶は少しだけ身体を離した。
「創。頑張ってきて」
「うん」
「地域銀行のことも、企業のことも、その土地のことも、しっかり見てきて」
「うん」
「青嶺中央銀行本店にいるだけでは分からないものを、見つけてきて」
「約束する」
「本当に?」
「本当」
璟瑶は創の頬へ手を添えた。
二人の顔が近づいていく。
「んっ……」
最初は静かに、唇を触れ合わせるだけの口づけ。
一度離れたあと、璟瑶は創の首へ腕を回した。
「んっ……」
二度目は、先ほどよりも長く、深い。
創も璟瑶の腰へ腕を回し、引き寄せる。
誰もいない地下五階。
ここだけは、頭取と行員ではない。
創と璟瑶。
二十四歳差の恋人同士だった。
ようやく唇が離れると、璟瑶の頬は少し赤くなっていた。
「出張前の応援」
「応援にしては濃くない?」
「足りなかった?」
「そういう意味じゃない」
「なら、もう一回」
「話を聞いてた?」
璟瑶は楽しそうに笑い、もう一度だけ短く唇を重ねた。
「んっ……」
「頑張ってきて、創」
「うん」
「それから、必ず帰ってきてね」
「もちろん」
「約束よ」
「約束」
二人は小指を絡めた。
秘密基地で交わす、何度目かの約束だった。
◇◇◇
しばらくして、創はもう一つ伝えたいことを思い出した。
「璟瑶」
「なに?」
「出張とは別の話なんだけど」
「うん」
「前に母さんから、彼女のことを聞かれたの覚えてる?」
「覚えてるわ」
「その時は、ほとんど何も話せなかった。年上だってことも、曖昧にしたし」
「そうだったわね」
「だから……」
創は少し迷ったあと、璟瑶を見つめた。
「今回の出張が終わって落ち着いたら、俺たちのことを家族へ話してもいい?」
璟瑶の瞳が僅かに大きくなった。
「家族って……」
「父さんと母さん」
「私を?」
「うん。俺の彼女ですって、ちゃんと紹介したい」
璟瑶はすぐには答えなかった。
「創。本当に?」
「うん」
「私よ?」
「知ってる」
「四十五歳」
「知ってる」
「中国人」
「知ってる」
「創より二十四歳上」
「それも知ってる」
「しかも、青嶺中央銀行頭取」
「そこが一番説明大変そう」
「でしょう?」
それでも創は笑った。
「仕事では言えない。同期にも、会社の人にも簡単には言えない。でも、家族にはいつか紹介したい」
璟瑶は少し目を伏せた。
「嫌だった?」
「違うの」
「なら?」
「……嬉しい」
璟瑶は創の手を握った。
「とても嬉しい。ただ、タイミングは一緒に考えたい」
「もちろん」
「二十一歳の息子が、四十五歳の中国人女性を連れてくるのよ?」
「うん」
「しかも、『青嶺中央銀行の頭取です』って」
二人は、創の両親の反応を想像した。
父・宮嶋和久。
母・宮嶋恵美子。
しばらく言葉を失う二人の姿が、簡単に浮かんでくる。
「父さんは固まりそう」
「お母様も驚くでしょう?」
「母さんは三回くらい聞き返すと思う」
「『頭取って、あの頭取?』って?」
「絶対言う」
「私、何て挨拶すればいいの?」
「普通でいいよ。『初めまして、欧陽璟瑶です。創とお付き合いしています』って」
「そのあとに、『青嶺中央銀行頭取です』?」
「それは俺から言う」
「どうして?」
「璟瑶が自分で言ったら、会社の挨拶みたいになるから」
「失礼ね」
二人は顔を見合わせ、笑った。
「出張が終わったら、少しずつ考えよう」
「うん」
「いつか必ず紹介する」
「……待ってる」
璟瑶は創の肩へ頭を預けた。
「今日は嬉しいことが多いわ」
「何が?」
「創が自分の力で派遣に選ばれたこと」
「うん」
「家族に紹介したいと言ってくれたこと」
「うん」
「それから、今こうして創が隣にいること」
「それは、ほとんど毎日じゃん」
「毎日でも嬉しいの」
「……そういうことを言うの、ずるい」
「恋人だから」
「便利だな、その言葉」
創は小さく笑った。
◇◇◇
入行式。
黒瀬颯真、水無瀬琴葉との出会い。
三か月間のキャリア採用研修。
東都共栄銀行で身につけた、確認という武器。
自分の力で掴んだ、法人営業第一部への配属。
本店地下五階、六桁の番号452114の先に作った秘密基地。
社員食堂のテーブルの下で交わした、誰にも見せられない恋人繋ぎ。
一億円の融資案件を通して知った、数字の先にいる人々。
頭取の恋人だからこそ、仕事の答えを聞いてはいけないという一線。
そして、四十七都道府県すべてへ広がる地域銀行ネットワーク。
宮嶋創は、ただ「頭取の恋人」として過ごしてきたのではない。
研修を受け。
同期と支え合い。
企業へ足を運び。
数字と人の両方を見ることを学び。
分からないことを上司へ相談し。
一人の銀行員として、少しずつ前へ進んできた。
今度は東京を出る。
青嶺中央銀行本店を離れ、地域銀行と地域企業、そこで暮らす人々と実際に向き合う。
「璟瑶」
「なに?」
「行ってくる」
「まだ少し先でしょう?」
「気持ちの話」
「そう」
「頭取の恋人としてじゃなく、青嶺中央銀行の行員として、ちゃんと行ってくる」
璟瑶はゆっくり微笑んだ。
「行ってらっしゃい、創」
そして、もう一度創を抱き締める。
「必ず帰ってきてね」
「もちろん」
銀行では、頭取と行員。
地下五階では、創と璟瑶。
そして、これから向かう地域では。
欧陽璟瑶の恋人ではなく。
青嶺中央銀行法人営業第一部、二十一歳の若手行員。
宮嶋創として。
初めての地方へ向かう。
北海道から沖縄まで。
四十七都道府県すべてにつながる、青嶺FGの地域銀行ネットワーク。
青嶺中央銀行本店の中だけでは決して見ることのできない、新しい銀行員生活が――。
今、始まろうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、第11話から第20話までの集大成として、創に初めての地方出張命令が正式に出ました。
選ばれた理由は、
約三か月の研修評価。
十八歳から積み重ねてきた支店実務。
法人営業第一部での取り組み。
慎重な確認能力。
顧客を見る姿勢。
環境への適応力。
そして二十一歳という若さと将来性。
誰かに与えられた仕事ではなく、創自身が積み重ねてきた経験によって掴んだ仕事です。
そして何より重要なのは、璟瑶が選考へ一切介入していないこと。
創を推薦しない。
落とすようにも言わない。
派遣先を近くしてほしいとも言わない。
頭取として、ただ通常の人事手続きに任せる。
だからこそ、
「宮嶋創自身が評価された」
という結果を、璟瑶自身も素直に喜ぶことができました。
一方、地下5階へ戻れば二人はいつもの恋人同士。
「青嶺中央銀行の名前を背負って行くのよ、宮嶋さん」
「はい、頭取」
と仕事の顔を見せた直後に、
「……ここでは頭取じゃない」
「じゃあ……璟瑶」
へ戻る二人らしいやり取りもありました。
そして最後には、
「ちゃんと帰ってきてね、創」
「もちろん」
「約束よ」
「約束」
という出張前の新しい約束。
さらに創から、
「いつか俺たちのことを家族に紹介してもいい?」
という一歩踏み込んだ言葉も出ました。
秘密の恋を続けている二人にとって、「家族へ紹介する」という約束は、これまでとはまた違う意味を持つ大きな前進です。
ここで、第11話から第20話までの章はいったん一区切り。
次からはいよいよ、青嶺中央銀行本店を飛び出し、47都道府県ネットワークの中へ。
地域銀行。
地域企業。
地方の産業。
そこで働く人たち。
創が実際に現地へ足を運び、「東京の本店からでは見えない銀行の仕事」を学んでいく新章が始まります。
宮嶋創、二十一歳。
「頭取の彼氏」ではなく、一人の青嶺中央銀行員として。
ここから全国を巡る、新しい物語のスタートです。




